Dominance&Submission

ひと口足りない

 

 

 

 

 

 昼寝というには少々遅いが、丁度よいひと眠りをはさんで目覚めた桜井僚は、窓から差し込む夕暮れの光を浴びながら大きく伸びをした。
 激しい雨を降らせた黒雲はすっかり遠ざかり、そこかしこの切れ間から光が降り注いでいる。
 夕日が雲を照らし、不思議な立体感を際立たせているのを、僚はしばし感動の眼差しで眺めた。
 先ほどまで横になっていたソファーを振り返り、読んでいた本を膝に笑いかける男…神取鷹久を見やった。
 自分が眠りこけていた間に何を読んでいたのだろうと目を凝らすが、上手くタイトルが読み取れない。どうやら日本のものではないようだ。
 すると、目線と表情で察したのだろう、男はにこりと笑って言った。

「次はどんな風に君と遊ぼうか、勉強していたんだ」

 とてもそんな本には見えないが、男ならばありうるかもしれない。僚は笑うようなしかめっ面で肩を竦めた。
 神取は閉じた本を脇に置くとゆっくり立ち上がり、傍までいって僚と同じく夕焼け空を見渡した後、小腹が空かないか、と顔を向けた。

「よかったらおやつにしようか」

 買ってきたあの地域限定のチョコレート菓子を食べてみようとの提案に、僚は喜んで飛び付き、準備を手伝った。

 

 二人で取り掛かればあっという間に支度が整う。
 それぞれの前には、薄めに入れたカフェオレのカップがほのかに湯気を立ち上らせており、カップの横には、ちょっとした槍のようなチョコレート菓子が数本ずつ並んでいた。
 昼間に寄った土産物屋で入手したものだ。少しばかり悩んで僚が買った巨峰味と、男が選んだ抹茶味。
 生ものでないので日保ちもするし、もってこいだと二人は買って帰る事を即断した。
 ただその際、何味にするかという事で僚が少々時間を食った。それほど長くという訳ではないが、あまりの真剣さに男は危うく笑いそうになった。
 では、それでは。
 二人は目を見合わせ、にこにこ笑い合っておやつの時間を過ごす。
 ゆっくりじっくり、好きな味を楽しむ。

 

 短いとはいえあれだけ悩んで決めた代物だ、僚はそれはそれはとろけんばかりの笑顔でひと口ずつ噛みしめて楽しんだ。

「本当に美味しそうに食べるね」

 微笑ましさに、神取は感心まじりに言った。
 僚は、一拍息を飲み込んだ後、恥ずかしそうにへへえと笑顔を見せた。
 その表情もまた格別で、これまで見た事のないような気楽さで、近付く距離に神取は何とも言えぬ嬉しさを感じていた。

「果物なんでも好きだから」
 とりわけ柑橘類が好き

 僚は、半分ほどかじった巨大なチョコレート菓子をくるくると返して眺めながら言った。

「だからこういうブドウ味とかイチゴ味とかは、つい顔がだらしなくなる」

 素直な事はいいと、神取は微笑んだ。
 果物はなんでも好きだが、さまざまな種類が一度にのっているのはどうにも弱い。苺なら苺、洋梨なら洋梨だけと、一種類ずつじっくり楽しみたいので、たとえばあれもこれも贅沢にのっているフルーツタルトの類はあまり惹かれない。
 そう付け足すと、男はなるほどと頷き、また一つ君を知れたと笑顔を見せた。
 目を奪われる穏やかな微笑に、僚はしばし見惚れた。
 気を取り直し、残りの巨峰にかじりつく。

 

 嗚呼美味しかったと、僚は晴れやかな声をため息とともに上げた。

「そういう割には、顔は不満そうだね」

 男の言う通り、声ほど満足そうではない。
 僚は一旦口を噤み、開いて、実はと続けた。

「もうちょっと食べたいなって。でもこれくらいでいい」
 あとひと口ってとこがまたいいんだな

 笑いながら、僚はちょっとだけ肩を竦める。

「君は意志が強いんだね」

 その他愛ない仕草に男がつられて笑い、僚は更に口端を緩めた。それからすぐに首を振る。意志が強いなんてとんでもない、とんでもない過大評価だ。恐縮してしまう。
 けれど、男のゆったりとした微笑に気分は徐々にほぐれ、同じくらいゆったりとした心持ちになる。
 舌の上には、甘酸っぱく瑞々しい巨峰の香りがまだ残っている。スティック状のビスケットに巨峰味のチョコレートが被った菓子は歯応え充分で、これがまた後を引く。もっともっと、喉に詰まるほど食べまくりたいが、あとひと口というところで次のお楽しみに取っておくのが良いのだ。
 甘さを抑えたカフェオレで喉を潤しながら、僚は余韻に浸った。
 そんな折、ふと過ぎるものがあった。
 あとひと口。
 物足りない。
 その言葉で思い出されるものがあった。
 それまでの、のんびりほのぼのとした空気から一転、僚の頭の中はどぎつい色に染まる。
 ぎらぎらとした鮮明な赤や迸るオレンジが駆け巡り、やがて黒に支配される。
 全て、男のイメージだ。
 男と過ごしたこれまでの時間が、頭の中を縦横に駆け巡る。
 僚は知らず裡に留めていた息を短く吐き出し、更に没頭した。
 呼応するように、じわりと股間が熱くなる。
 男に色々と教え込まれた身体は、自分でする時、いくにはいくがあと一歩足りない事があった。
 出せばすっきりするし、それなりに満足感もあるが、まるで違うのだ。
 笑うように、ひゅっと息を吸う。
 まあ、毎度限界を超える強烈な交合をしてるのだから、自分で擦るだけじゃそりゃ駄目だろう。
 後ろをいくらいじったところで、指の届く範囲では物足りないのも当然だ。
 毎度、これっきりにしたい、もう二度とこりごりだという思いをしているのに、また味わいたいと手を伸ばすほどのあの瞬間。
 二人でないとたどりつけないあの真っ白な瞬間。
 そんな身体になった…された身からすれば、一人で出来る事などたかが知れてる。
 誰にそんな身体にされたって、そりゃ――。
 気付けば僚は、瞬きも忘れて男に見入っていた。
 はっと気を取り直し、残り少ないカフェオレを一気に飲み干す。

「ごちそうさま」

 いつもと同じ声音を務め、笑顔を向ける。

 

「私は、少々我慢が足りないところがあってね」

 男は肩を上下させおどけてみせた。
 我慢が足りない。
 我が強い。
 でもそれは、必ずしも悪いものではない。
 そんな思いから、僚は曖昧に笑った。
 神取はわずかに目を細めた。

「今のように、君の甘ったるい眼差しを見たりすると、抱きたくてたまらなくなる」

 え、と僚が目を瞬かせる。予想していた通りの反応にますます頬が緩む。神取はじっくりと表情を眺めた。
 視線がかち合うと、僚は気まずさに慌てて目を伏せちらりちらりと見やってきた。
 テーブルの表面と自分とを行き来する中で、彼が何を考えているか手に取るようにわかった。
 僚は二度、三度男をかすめ見たあと、完全に視線を落とした。じっと、あめ色のテーブルの表面を凝視し続ける。
 自分が見ていたのと同じだけ、向こうもこちらを見ていた。
 見抜かれていた。
 潤んだ、物欲しそうな目をしていた自分を見て、男は――。
 静まり返った空気がしんと鼓膜に染みる。
 神取は無言のまま立ち上がると、不意の行動にびくりと身を強張らせる僚にこっそり笑い、テーブルを回り込んで真横に立った。
 彼から、見たいけれど顔を向けられないと葛藤がありありと伝わってくる。
 もうしばしこの空気を楽しもうか、すぐにも行動に移ろうか逡巡し、神取はカップの取っ手を掴んだまま動かせなくなった僚の手を取り、少しずつ引いて立つよう誘導した。
 手の甲を握った瞬間、面白い程肩が跳ねた。宥めるように一拍置いて、ゆっくり引き上げる。
 束の間抵抗した僚だが、すぐに力を抜いて従った。
 立ち上がり、寄り掛かるように身体を預ける僚を抱き寄せ、唇が触れ合うほどに顔を近付けた。

「!…」

 間近に寄せられ僚は息を飲んだ。全身が一気に熱くなるのを感じ、どうしてよいやらわからなくなる。
 互いの吐息がひどく近い。自分の葡萄の匂い、相手の抹茶の匂い、どちらも甘ったるくて、なんだかひどくどきどきする。
 目を閉じてキスの瞬間を待つ、が、男の意向は違った。

「……あっ」

 やんわりと下腹を包み込まれ、僚はうろたえたように目を瞬いた。逃げようとするも、腰を抱いた男の腕が許さない。
 どうしてこんなに硬くしているのかと、男が問う。

「何を想像して、ここをこんなにしている?」
「あ、あ…の……」

 僚はもごもごと言い淀んだ。男との行為を思い出していた…明け透けに、はっきり口に出来る仲だが、やはり羞恥心はある。
 何といえばよいやら、言葉を選んでいると、男の手がジーンズのホックを外して緩め、下着の奥へ潜り込んできた。

「え、あ、あっ……!」

 直接握り込まれ、腰の奥がずくりと痛くなる。

「また硬くなった」

 楽しげな声。僚は頬を朱に染め、腰を引き気味に見やった。もっと弄って欲しい気持ちと、逃れたい気持ちとがせめぎ合う。
 男と目が合って、どちらが欲しいか気持ちが固まる。
 僚は自ら腰を押しやり、息を乱し、男にねだった。
 これじゃ足りない、全然足りない。自分だけではたどり着けないあの瞬間へ行きたい。
 その為には、男と二人でなければ駄目だ。
 もっと強い密着を求めて、僚は抱き付いた。

 

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