Dominance&Submission

柔らかいもの好きなとこ

 

 

 

 

 

 今日はありがとうと、桜井僚は窓越しに男に告げた。
 今日はここで大丈夫だと、アパート近くのいつもの待ち合わせ場所で車を降り、開けた助手席の窓から顔を覗かせて笑いかける。
 部屋の前まで送るという申し出を辞退して、ここでも大丈夫と声を張り出せたのは、夜の時間帯だがまだ充分辺りが明るいせいもあった。
 街灯は灯っているがそれよりまだ空は明るく、すれ違う人をむやみに警戒しなくてもいい。
 そして何より、明日もまた会う約束を取り付けたからだ。
 時間は短い、けれど明日も一緒に並んでチェロを練習し、言葉とそれ以外を交わす時間を共に過ごせるのだ。
 だからいつもほどの寂しさ切なさでしっかり立っていられたし、顔も変に歪む事もない。端までしっかり行き渡らせた笑顔で、また明日と男に手を振る事が出来る。

「本当に楽しかったよ、また行こうな」
「ああ、ぜひ。今度はどこに案内しようか、今から楽しみだよ」
「ほんとか、今度はどこだろ、楽しみにしてる」

 それからいくつか言葉を交わし、ではお休み、またメールでと締めくくり、男は車を発進させた。
 走り去ってゆく深紅の車を見送り、僚は信号を渡り緩い坂道を歩いてアパートへの帰路を辿った。左右の足で一歩ずつ踏みしめながら、アパートに帰ってやるべき事を頭の中で順序立てる。
 夜の時間帯だがまだそう遅くはない、明るい事も手伝って、億劫な気持ちは湧かない。むしろ身体は生き生きとしている。昼間、あんなに石段を上り下りしたのに、さして身体に残っていないのは嬉しい。
 もしかしたら明日の朝、ひどい筋肉痛に見舞われてベッドから起きられないかもしれないが。
 今のところはそんな気配もない両脚を見下ろして、僚は小さく笑う。
 右、左、少し早めに交互に出して確かめ、そうこうしている内にアパートの敷地に入り込む。早い歩みのまま、僚は一番奥の自分の部屋に向かった。

 

 

 

 朝起きて、昨夜の内に考えていた通りの段取りで朝食から片付けまでを済ませ、トイレや風呂場の減った消耗品やらの買い足し品をメモに書き出しているところで、僚は筋肉痛もなく健在な両脚にはたと思い至った。
 そういえば寝る前、朝起きたら一番に確認しようとか思っていたのだった。しかし起きてみれば頭は男の事で一杯、今日も男と一緒に過ごせる嬉しさで胸が一杯に膨らんでしまい、何の異変もない脚はすっかり忘れ去っていた。
 まあよかった。昨日はみっともないほどの息切れを晒したが、少しは自分も鍛えられたという事だ。
 よかった。これでちゃんと階段も上れる。次にはきっと、もっと休みが少なくて済むだろう。
 男に会ってから、部屋は一度も乱れた事がない。何が散らかっているのか記憶が混乱するほどのゴミの山に埋もれ、脱ぎ散らかした服で乱れ、ほこりまみれになるような事は、もうないはずだ。
 今現在でまったく順調とはいかないが、ああいった寄り道や足を止める事は、もうしない。する必要がない。出来ない。
 一歩ずつ、右と左と交互に出して、見ている方へと進むのだ。
 何度か休みを挟むだろうが、以前のように大きく道を外れるなんてない。
 絶対にないとは言えない、でも戻り方はわかったから、もし万一そうなったとしても、自分は帰れる。もとの道に帰って、また一歩ずつ進むのだ。
 そしていつか男に追い付きたい。並んで一緒に歩きたい。当分は無理だが、今にきっと追い付いてみせる。
 本の波をかき分けて、海の底から、夜の底からまっすぐに男に向かってやる。
 まだまだ子供だと侮って、庇護する対象だと思っている間に、出来るだけ差を縮めてやる、その時どんな顔をするか楽しみだ。
 思った通りの顔を男にさせる為、僚は机に向かい、約束の時間が来るまで、一つでも多く知識を蓄えようと躍起になった。

 

 

 

「昨日の今日だが、調子はどうかね」

 神取鷹久は貰い物の冷たいジュースをソファーに座る僚に渡しながら、身体の調子はどうかと尋ねた。
 僚はありがとうと受け取り、平気だと笑顔を向けてから、手にしたグラスを傾けた。ひんやり喉を過ぎていく桃の膨らみある香りが身体中に行き渡り心地良い。うっとりするような甘さと冷たさは目が覚めるようで、僚は一旦口を離して美味いとため息をもらし、また傾けた。
 神取はその様子をにこにこと見守る。彼が夢中で飲んでいるそれはどこでも売っているような品ではなく、某地域でのみ取り扱いのある、その地方ではちょっと名の知れた逸品だった。大量生産出来ないのでそのようになっており、現地へ赴いて買い求める、買った人から贈答される、といった具合に少々特別な品だ。
 悪友のはとこからの貰い物で、自分と同じくらい僚の好みを把握し、まるで競うかのようにあれやこれやにやにやしながら寄越してくるのは正直気に食わない。奴めが自信をもって渡してきたものが、僚の口に合わなかった事は今のところ一度もない。いつも彼の顔を輝かせ、喜ばせる。それがますます気に食わないが、輝きほころぶ顔を見られるのは自分だけと思えば、いくらか胸は落ち着く。
 そして、仕方なく奴めに感謝する。
 胸中の渋面を隠して眺めていると、グラスのジュースをあと少し残して僚は口を開いた。

「そっちこそ、筋肉痛ひどいんじゃない?」

 思ってもいない反撃だが、彼らしいとも思った。神取はにやりと口端を緩めた。

「おかげさまで大丈夫だ。心配には及ばんよ」

 俺だって平気だ、へっちゃらだと、僚が勝気に笑う。そして、思いがけない事を言い出す。

「今なら、鷹久も抱っこ出来そう」

 そりゃすごいと神取は目を見張った。

「……いや、どうかな」

 鍛え上げた男の身体を改めて見渡してさすがに調子に乗り過ぎたと、僚は飲み切ったグラスをごちそうさまと差し出した。

「まあ、物は試しだ。一度やってみるのもいいと思うがね」

 そう言って立ち上がる男に僚は歯を噛みしめるようにして笑った。両手を擦り合わせながら立ち上がり、男の前に立つ。そして即座に理解する。言い過ぎだった、調子に乗った、前言撤回だ。向かい合って立つ男は自分より明らかに背が高く、体格だって堂々としたもので、それをどうして自分が腕に軽く抱けるというのだろうか。
 だが、やる前に無理だと放り投げるのも癪だ。そこで僚は、ソファーに寝そべるようにして座ってみてくれと男に注文した。立っているのをすくうように抱き上げるのは無理だとしても、腕に抱えるのは無理じゃないかもしれない。
 了解したと神取は従い、膝を折り曲げソファーに横に座った。
 よし、と一度気合を入れ、僚はまず膝裏に腕を差し込んだ。しっかりと向こう側を掴み、次いで肩を抱き寄せる。
 神取の方も、最小の力で安全に試せるよう、しっかりと僚の首に腕を回して掴まった。
 そこまでは、双方物の試しの無為であった。片方は、足腰や背中にしっかり力が入るよう注意を払い、もう一方も、出来るだけ上手く腕に身体が乗るようにと構えた。
 重量挙げに挑む選手と、それを応援する観客然としていた。
 先にいたずら心を沸かせたのは、男の方だった。
 ふと見た目と鼻の先にある、彼の白い喉元が、とても綺麗だなと思ったのだ。そう思った時にはもう、唇が寄っていた。奥から舌を伸ばし、ぺろりと舐める。

「うわぁっ」

 僚はすぐさま首を押さえ、慌てて離れた。熱くぬめる舌の感触が生々しい。それにどきどきし、おかしな声を出してしまった自分の恥ずかしさにもどきどきしてまいる。
 そうさせた張本人は、ソファーの上で悠然と笑っていた。実に楽しそうに。

「……ったく。おい、こら。人が張り切ろうって時に」

 僚は眼にありったけの力を込めて睨み付けた。
 神取はそれをかわし、舌先に感じた彼の白い首筋にますます笑みを深めた。

「さて、何の事やら」

 とぼける態度に僚の顔が更に険しくなる。

「そういう事言うならな、持ち上げたとこで手を離すぞ」
「そりゃ困る」
「じゃあいたずらすんな」
「もうしないよ」
「ほんとだな」

 男は軽く両手を上げた。僚は疑わしげに見やり、一秒置いてから再び腕を伸ばした。あらためて抱っこに挑戦する。
 足の位置、腕の角度、それぞれ調整し万全の体勢で少しでも負担を減らそうとするが、無理だった。
 僚は口の中でかすかに唸り、腹立ちまぎれに男にのしかかって寝っ転がった。

「重たいし、どこもかしこも硬いんだよ、鍛えすぎ」

 柔らかいのは耳たぶくらいだと、がぶりと歯を立てる。
 痛い、いたいと、くすぐったいのを訴える口調で神取は笑った。それから、不機嫌そうに見やってくる僚の頭をそっと撫でる。

「昨日の今日だからね、疲れが残って力が出ないのも無理はない」
「ああ、そうだよ。それそれ」

 実際のところは違うのだ、自分の明らかな力不足、鍛え方が足りない、軟弱で貧弱。悔しさに声をまき散らし、僚はわざと肘や膝の硬い骨を当てるようにごろごろと身体を動かした。それでも、ちっとも男は堪えない。まったくもって悔しいが、微笑で受け止めてくれる大きさに誇らしささえ感じていた。
 神取はしばらく彼の好きにさせた後、肩をそっと包み込んだ。

「では、ねぎらってあげよう」

 声の色が変わった事に、僚は小さく息を飲んだ。出来るだけ何でもない風を装い男を見つめるが、見るほどに引き込まれてしまう。見合わせる目の奥から、何か熱いものが滲み出しそうだ。

「ところで――」

 男の片手が頭の後ろにかかる。僚は逆らわず、引かれるまま唇を寄せた。同じように男の頭を抱き、柔らかい唇同士を重ね合わせる。

「――ここは、柔らかくはないかな?」

 僚はしばしぽーっと潤んだ目をさまよわせ、はっとなり、まあまあ柔らかいと投げるように言った。

「……でも一度じゃわかんないから、もう一回な」

 よそへ逸らした目を戻し、熱心に男を見つめる。

 

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