Dominance&Submission

試食会

 

 

 

 

 

『やらねば』と思う時ほど、別の事に気持ちを持っていかれてしまうものだ。
 掃除に取り組んだはずなのに、処分予定の雑誌に読みふけって時間を浪費してしまったり、よくある事。
 こんな事をしている場合ではないという時ほど、より夢中になってしまうものだ。
 火にかけた鍋からいい匂いを立ち上らせながら、桜井僚はしみじみと実感していた。
 机に残してきたノートがちらちら気になるが、そういう時ほど違う事に熱中してしまう。
 いやこれは、合間の息抜きだ…そう言い聞かせて開き直って、美味そうに味の染みた鍋の里芋に無理やり集中する。
 実はこれで二皿目になるのだが、もう一品作るつもりでいた。
 すでに準備は整っている、この煮っころがしが完成したら、すぐに取り掛かるつもりだ。
 こいつはまずい、よくない、机に戻らないと、と思えば思う程引き込まれてしまう。
 もう準備は出来ているのだ、面倒な下ごしらえは済んでいる、調理に入ればそれほど時間も食わずに済む、ほんの数十分の息抜きで何時間も無駄にしたわけじゃない、ああいい匂いだ、いい色、じゅうじゅう音もいいしこの照りも中々のもの、ああ最高…。
 使ったフライパンを綺麗に洗い、いつもの場所にしまったところで、それまでの高揚感がみるみるしぼんでいった。
 見るのがいささか怖い時計を確認すると、少しとは言えない時間を息抜きに費やしていた。
 何も形に残らない事に消費したわけではないので落ち込みもそう激しいものではないが、いざ出来上がったものを見渡して、冷静に考える。
 作ったのは三品、いずれも日保ちの利くもので、これらは自分用ではなく明日男に持っていこうと思って、思い立って、息抜きついでに取り組んだものだ。
 特に約束はしていないが、すぐに消費しなければ無駄になるというものでもない、来週いっぱいかけて食べきってもらえればいい。しばらくの間冷蔵庫を占領して、朝や晩の足しにしてもらえたら嬉しい。
 そこからしばらく僚は自分に都合の良い妄想に耽り、明日訪れるであろう甘い時間に浸った。引き締めていた唇がいつの間にか緩み、呼吸も疎かになったところではたと我に返る。僚は急いでキッチンを後にして、机に戻った。

 

 

 

 恥ずかしい妄想は、おおむね現実となって展開された。
 どれもとてもいい味だと、三つの小皿を前に男は言った。

「……よかった」

 むず痒さの中安堵して、僚は白い歯を零れさせた。
 愛くるしいその表情を目の端で楽しみながら、神取鷹久は順に味わった三つの皿を全て平らげ、身も心も満たした。彼からの驚きの贈り物はこれで終わりではなく、それぞれ三つの容器にぎっしり詰められて今は冷蔵庫に収まってる。今はちょっとの味見だけで少々物足りなさを感じるが、これから数日にかけて楽しみは待ち構えている。そう思うと、むしろちょっとだけでいいと思える。
 ああ、実に素晴らしい。
 彼の振る舞う料理は、いつだって何の変哲もないものだが、心からほっとさせるあたたかみがあった。特に凝った香辛料も何も無いありふれたものが、深い安心感をくれる。
 それをどう褒め称えればいいか、どんな感謝を伸べればいいか、ただ美味い美味いと同じ言葉を垂れるしかないのが非常に悔しい。

「そりゃ褒め過ぎ」

 満更でもないが、過ぎた称賛だと僚は首を竦めた。ごまかす為に、そそくさと洗い物をキッチンに運ぶ。
 空になった皿を重ねてキッチンへと持っていくのを見て、神取は自分がやると申し出た。

「いや、すぐ済ませるよ」
 座ってて

 柔らかい声で僚は引き受け、洗い物に取り掛かった。
 いつもながらてきぱき動く子だと、神取は椅子から立ち上がった。近付きながら、申し訳ないと感謝する。こんなに美味いものを貰った上に、後片付けの面倒まで押し付けて、本当に申し訳ない。

「そんなの。勝手に好きでやって、俺のワガママ押し付けたようなもんなんだから、喜んで受け取ってもらえただけで充分だよ」

 特に約束もしていない予告もしていない、突然の思い付き…勉強に詰まった鬱憤晴らし、ストレス解消のようなものに付き合わせた、付き合ってもらえた、それだけで充分だ。
 美味いという男の言葉と喜ぶ笑顔に充分満たされた。自分の想像したものよりずっと綺麗で優しくて、胸が熱くなる。

「――で」

 僚が洗い物を終えたタイミングで、神取は口を開いた。背後に回り、肩に手を添えて身を寄せる。

「――次は、君を食べていいのかな」
「!…」

 背面のある部分に押し付けられるそれは普段よりも硬さを帯びて、僚は一瞬息を詰まらせた。再開した呼吸と共に全身が特に脳天が熱く燃え滾り、とりわけ、男と強く触れ合う部分が焼けるようであった。
 僚の左手は、三枚目の小皿をカゴに置いた直後で硬直していた。右手は水栓の上で停止していて、その他の部分もピクリとも動きそうになかった。
 神取はまず左手を取ると、次いで右手もそれぞれ添えて、ゆっくり正面へと移動させた。温かい湯で洗い物を終えた直後で、どちらもほかほかと熱を持っていた。濡れるのも構わず、手の甲から指を滑り込ませて軽く握る。
 僚はされるがまま身を任せ、男の手に掴まれた自分の手と、背後とにそれぞれ意識を配った。
 束の間の沈黙の後、僚はばっと手を振り払うと弾く勢いで身体ごと振り返り、今度は俺が食べる番だと男を強気に見つめた。

「――」

 なんて目だろう。
 男は悦びに頭が眩むのを感じた。目を見合わせ、背筋に走るぞくぞくとした疼きに酔う。
 挑むような瞳…獲物を前に舌なめずりする獰猛な獣のようでもあり、そんな血なまぐささとは正反対の優美さもあり、身体全体がぼうっと熱くなるほどの幸福感に包まれる。

「……いいよ。どちらでほしい?」

 抱きすくめ、片手を尻の奥へ伸ばす。周りを撫でさすり、もう一方の手で唇に触れる。親指で唇をなぞり、めくるように動かすと、僚は小さく口を開け、指先を軽く歯に挟んだ。
 彼の柔らかい息遣いが指先をくすぐる。神取は腹の底にじわりと滲み出すものを感じた。

「両方……!」

 声は震えていた。熱を帯び、しっとりと濡れた声が鼓膜を犯す。
 神取は薄く笑うと唇を重ね、抱き合った。
 しばし一つの影になった後、神取は腕に少年を抱き上げ、寝室へと向かった。

 

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