Dominance&Submission

早く来い来い

 

 

 

 

 

 十二月も終わりに近付いた頃にしては、その日は穏やかな陽気であった。
 朝、目覚めた時も、昨日ほど顔が冷たく感じない…そんな事をぼんやり思いながら、桜井僚はエアコンのリモコンに手を伸ばした。天井近くでピッと鳴ったのを確認し、部屋が暖まるまでしばし待つ。
 たまに時計を確認しながらうとうとして過ごし、充分部屋が暖まった頃、僚は寝床から抜け出した。冬用の分厚い掛布団を足元の方に折りやって、朝の支度に取り掛かる。
 昨夜の内に揃えておいたものを冷蔵庫から取り出し並べ、トースターでちょうどよく焼けたパンをかじっていてふと、顔がにやけているのに気付く。
 時報代わりにつけたテレビはすっかり年末一色で、いつにも増して賑やかだ。しかし、顔がにやけたのはそれらが触れたからではない。
 今日は、今年最後のチェロ練習日。
 それでこんなに胸が高鳴り顔が緩んでそわそわするなんて我ながらおかしいと、僚は口をへの字に曲げた。
 そうはいっても落ち着かないのだ。
 曲げた端からまた緩んでくる。
 緩んでは戻し、戻しては緩んでを繰り返しながら、僚は朝食を済ませた。
 食器を洗い、棚にしまうまで済ませて、流し全体を見回す。次いで部屋全体を見回す。
 去年からは想像もつかない、綺麗に片付いた部屋。
 これが当たり前で、見慣れたように思うが、手のつけようがないくらい雑然と散らかっていた頃も強烈に記憶に残っているので、ふとした瞬間に、見違えたなと驚きもする。
 大掃除でやり残した事はないか、僚は右へ左へ目を走らせた。
 本棚の並びを少し変えた。ごちゃ混ぜという事はないが少し気になっていたところがあったので、いい機会だと大々的に入れ替えをした。並び順に合わせて棚の位置も替え、すっかり見やすくなった。
 机の引き出しも、毎日整頓しているつもりでも届かないところはあるもので、消し屑払いもかねて徹底的に取り組んだ。
 クローゼットは思っていたよりも簡単で、毎日少しずつやってきた自分に感謝する。整理整頓が行き届いて使いやすく、掃除も簡単に済んだ。
 処分する本や衣類は少々出たが、去年のような呆れるような分量ではなかった。
 納得のいく仕上がりだと、僚は一人頷いた。
 これ、男に会ったらちょっと自慢しよう。
 そう思っていた僚だが、いざ迎えに来た車に乗り込み男の顔を見た途端、綺麗に頭から吹き飛んでしまった。
 男に逢えた嬉しさの方が勝り、さあ今年最後のチェロの練習だと意気込むあまり、どこかへ行ってしまったのだ。
 ようやく口に出せたのは、反省会の時だった。
 今年最後という事でいつにもまして身を入れて練習に励み、満足…まではいかなくとも、納得のいく時間を過ごせたと昂っていた気持ちが少しずつ落ち着いて、五線譜に思った事を書き付けたところで、朝のあの高揚が舞い戻ってきた。
 早速口に乗せようとしたところで、僚は思いとどまった。そのまま素直に告げたのではなんだか幼稚に思え、気が引けたのだ。それと、男の掃除事情もいささか興味があった。
 そこで、まずはさりげなく話題に入ろうと、ひと言目を口にした。
 そういえば――。
 偶然にも、男の口からも同じ言葉が飛び出した。
 二人は同時に口を噤み、一拍間を置いてから笑った。

「鷹久、どうぞ」
「君からどうぞ」
「いいよ、まず鷹久から言って」

 まず、とは言ったが、自分の話は取るに足らない自慢だ、わざわざ聞かせるものでもないので、僚は引っ込める気でいた。自分のつまらん話より、男の話を聞いていたい。練習で気になる箇所があったか、はたまた別の話題か。僚は耳を傾けた。
 相手の話を優先したいと思っていたのは、男も同じであった。この時期ならではの話題だが、わざわざ遮ってまで話すほどのものではなく、だったら彼の話を聞いて楽しみたい、そう思っていた。
 神取鷹久はひと呼吸おいてから、申し訳ないと思いつつ口を開いた。
 わくわくしながら待っていた僚は、驚きに目を見開いた。出された話題は、自分が出そうと思っていたそれと同じものだったからだ。
 大掃除は大変だったかい、と尋ねられ、こんな偶然があるのかと僚はびっくりした面で男をまじまじと見つめた。
 その表情から察するものがあった神取は、考える事は同じかと嬉しさに頬を緩めた。

「……こんなこともあるんだな」込み上げてくるおかしさのまま、白い歯を零れさせる「俺もね、そう、ちょうどその事言おうと思ってたんだ。厳しい指導係がいるから、ちゃんと済ませたよって」

 いたずらっ子のように笑う僚に神取は軽く片眉を上げ、にやりとする。それから首を振った。

「大したものだね君は。全部をしっかりと自分でこなして、本当に偉い」

 感情のこもった男の声に、頭の芯がほてり熱くなる。僚は複雑な顔で笑い、気持ちを落ち着かせようとした。ちょっとの自慢のつもりが、こんなに絶賛されるとむず痒くて仕方ない。誇らしい気持ちもあるし、調子に乗り過ぎたと縮み上がるようでもある。

「いやほらそれは、だから、誰かさんの指導が厳しいからさ」口の中でもごもごと答える「毎日、目についたとこその場でちょこちょこやってるから、大掃除だって気合入れる事もなくて、楽に済んだ」

 照れ隠しに少し早口になる僚を、神取は心から労った。

「自分で自分の面倒を見て、住まいの管理もして、本当に頭が下がるよ」

 嗚呼泣きたくなってきた。嬉しいからか、恥ずかしさの余りか。
 僚は瞬きを繰り返して追い払おうとした。

「そんな事。いいから」
「そんな事ではないさ。君は凄い人だ。尊敬する」

 いよいよ涙が迫り、どうしたらよいかおろおろしていると、男がティーポットを持ち上げ二杯目を聞いてきた。僚は小刻みに頷きカップを差し向ける。
 神取は立ち上がって注ぐと、沈黙から逃げるようにカップに口をつける僚にそっと微笑み、そのままじっくりと視線を注いだ。温かい飲み物でいくらか落ち着きを取り戻したのか、僚は目を上げて言った。

「じゃあさ、なんか、ご褒美くれよ」
「いいとも。私が用意出来る、君にぴったりのものをあげよう」

 なんて可愛い人だろうと、神取は目を細めた。
 対して僚は息を飲んだ。小さく、密かに喉を鳴らす。甘く微笑む支配者の口元に、目が釘付けになった。
 僚は瞬きも忘れて見惚れ続けた。
 神取はゆっくり屈んで顔を近付けると、小さく開かれた唇に接吻した。
 優しく抱き寄せ、唇を吸う。応える僚の舌を舐る内に気持ちが高ぶり、徐々に激しく貪り出す。
 僚は懸命に応え、夢中で男の舌を求めた。
 離れた時にはすっかりのぼせてしまい、目が潤んでいた。
 僚は瞬きも忘れた様子で、ひたすらに男を見つめ続けた。
 熱心に向かってくる眼差しに胸がはち切れそうで、神取はそっと伸ばした手で頬を撫でた。僚が心地よさそうに目を閉じる。
 神取はもう一度撫で、抱きしめると、腕に抱え寝室へと向かった。

 

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