Dominance&Submission

禁断症状

 

 

 

 

 

 七月に入り、むわっと蒸し暑い日が増えた。
 少し前までは日陰は涼しく過ごしやすかったが、じわじわと近付く夏は日陰という避難場所も奪いつつあった。
 毎週のチェロの練習後、冷房の効いた部屋で反省会を進めていた神取鷹久は、正面で難しい顔をして五線譜に見入る少年…桜井僚を見やり、もう夏か、と口の中で呟いた。
 五線譜とにらめっこしたまま、僚はそうだねと相槌を打つ。男の声には、どこかうんざりした響きが乗っていた。間もなくじめじめと暑い夏がやってくるのを、覚悟してはいるものの勘弁してくれと言うような、そんな響きだ。だから、その感情に沿うようによくわかると気持ちを込めて頷き、男に目を上げる。

「君は、そろそろ夏休みだね」
「うん」

 僚はもう一度頭を動かし、どうしても緩んでしまう頬を片手で擦った。今年の夏休みはこれまでのように気楽には過ごせない、受験生であるという重しに追い立てられ手放しでは喜べないが、浮き立つ気持ちは抑えられない。
 僚のむず痒そうな笑顔に、神取もまた微笑を浮かべる。男の穏やかな表情に今度は照れくさそうに笑い、それから僚ははっと何かを思い出した顔になって、すぐまた五線譜に向かった。
 僚は一心不乱で、何やら書き綴っていた。改善点を思い付いた、といったところか。
 神取はその様を静かに見守っていた。
 テーブルに開いた五線譜に向かっていた僚だが、男からの視線は気付いていた。自分を見ながら何か考えているようだったので、途中で顔を上げて尋ねる。

「去年の夏休みをね、思い出していたんだ」暑さも気にせず、一生懸命チェロに取り組んでいた君を思い出していた「君があまり一生懸命だから、夏バテする暇もなかったくらいだ」

 そう言って静かに笑う男に、そこまで自分は猛烈になっていたかと僚は苦笑いを浮かべた。
 神取は組んだ手をテーブルに乗せると、更に続けた。

「実はね、今だから言えるが、暑さに弱いんだ」
「え……へえ。じゃあ、寒いのは?」
「暑いのも寒いのも、めっぽう弱い」

 意外だと、僚はまじまじと男の顔を見つめた。
 真夏も真冬も特に変わらず見えたし、二月の頃に一度体調を崩した事があったが、それも『十年に一度』と思ってしまうほど頑丈に見えるのに。
 とんでもないと神取は首を振り、テーブルのコーヒーカップを手にソファーへと移動した。座らず、背もたれに軽く寄り掛かる男を目で追い、僚は身体をそちらへ向けた。

「弱いのがわかっているから、それなりに対策をしてね、まあなんとか過ごしているわけさ」
「……大変だな」

 それがね、と神取は嬉しそうに声を弾ませた。

「去年は、それまでのような体調不良がなかったんだ」

 いくら対策をしても限度はあるもので、数日は不調に悩まされ、不快な気分を味わうのが毎年の馴染みだったのだが、去年はそういった日は一日もなかった。
 それはよかったと顔付きを明るくした僚だが、すぐにはっとなって口を噤む。少しして、口の中でむにゃむにゃと喋る。

「もしかして……俺のチェロの練習見るので忙しくて、それどこじゃなかった、とか……」

 神取は軽く首を傾け、いくつもの意味を含んだ笑みを投げかけた。手に持っていたカップを傾けてひと口啜り、ソファーのローテーブルに置くと、自分に身体を向ける僚の傍に歩み寄り軽く頭を撫でた。

「当たらずとも遠からずといったところか。だがそんな顔をしないでくれ、君には感謝してもしきれないのだ」

 一番の薬なのだから。
 僚はおずおずと目を向け、自分の癖髪で遊んでいるらしい男の手を軽く掴んだ。

「……そうか?」
「そう。君は唯一無二の薬であり、毒でもある」
「ああ……それ知ってる、薬も毒も一緒だとか、なんとか」

 テレビの何かの番組か、雑誌の記事だったか、とにかく見聞きした事がある。僚は記憶を手繰り寄せ、何度か頷いた。

「じゃあさ、鷹久、つまり――俺中毒?」
「ああ、そうだね。そうだ、君中毒だよ」

 その単語が一番当てはまると、神取は目を瞬いた。どんな麻薬よりも強烈で、切れると大変な事になるしろもの。
 去年の夏――神取は当時を思い出し、少し苦みの混じった記憶をたどった。彼ともっと絆を深めたいがそれは叶わぬ願い。せめてもの慰めにチェロ仲間と自分をごまかしたが、ごまかしきれず身を焦がす日々だった。
 絆を深めた今はまた違った意味で身を焦がされ、おかしな禁断症状が出る事さえあった。たとえばそれは出先で起こる。出張で訪れた先で、目にする人物を片っ端から僚に置き換えて寂しさを紛らしたり。
 そんな苦しい禁断症状に陥らない為にも。
 神取は掴まれていた手を掴み返すと、軽く引いて僚を立たせた。
 引かれるまま素直に立ち上がった僚は、するりと腰に回される腕にくすぐったそうに笑い、自らも男の背中に手を伸ばした。

「今日も、たっぷりと君を――」

 囁き、神取は間近に目を覗き込んだ。
 僚も見つめ返す。少し口を開けて、触れてくるのを今か今かと待ちわびる。ついに重なった時、頭の後ろがとろけそうなほど甘く痺れた。
 僚は口付けを交わしながら、中毒なのは男だけじゃないと心の中で呟く。男だけじゃない。自分だって、いつも男の事が頭を占めている。どうしたらいいかわからなくなって、いい加減じれったくなって、無理やりキスするほど追い詰められたし、願いが叶って付き合うようになってからは、また別の事が頭を悩ませるようになった。いるはずのない場所で、男の声を耳にしてしまうのがそれだ。街角や、買い物中、聞こえるはずのない呼び声を聞いてしまう。ただの勘違い、幻聴だ。上手く頭を切り替えられる日は極まれで、いつだって、何をしても何を見ても、男が思い浮かぶ。
 次に会える日まで待ち遠しくてたまらなくて、泣きたくなる。会えたら嬉しくてたまらなくて、泣きたくなる。
 閉じた瞼の内側がじわっと熱くなるのを感じ、僚は密かにため息を吐いた。

 

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