Dominance&Submission
鍵の行方
どこからか心地良いクラシックが流れてくるのを、僚は夢うつつで聞いていた。気持ちがわくわく弾んで、身体が軽やかになって、飛び跳ねたくなるような曲。 この曲はよく知っている、よおく知っている。 ビバルディの『春』として世に広く知られている曲。 弾む、弾む。ああ、なんて気持ちいいメロディだろう。春が来たーと全身で喜んでいるような、この旋律がたまらない。 春の到来を喜ぶ鳥たちのさえずりを、僚は目を閉じたままうっとりと聞き惚れていた。そして嵐に見舞われたところでふと、どこから聞こえてくるのかがまず気になり、なんで聞こえるのだろう、そもそも自分はどこにいるのだったか、あれこれと気になりだし、昨日の記憶を掘り起こす作業に取り掛かった。 いい心持ちで漂っていた意識は一瞬で覚醒し、ホテルのベッドだと理解すると同時に僚ははっと目を覚ました。目覚めた勢いで身体を起こしたかったが、昨夜の行為が思いのほか身体に堪え、起き上がるのに苦労する。 身体はいくらか重かったが、ぐっすり眠れたお陰か目覚まし代わりのクラシックが効いたか、嫌な気分はちっともしなかった。 「おはよう」 やや離れた場所からそう声を掛けられ、僚はそちらを見やった。窓辺の椅子に腰かけ、すでに着替えを済ませた男が、にこやかに挨拶してきた。 僚はにやりと口端を歪め、おはようと返した。 嫌な気分はちっともしないが、男に文句の一つ二つ、ぶつけたい気分ではあった。具合いはどうだとか聞いてきたら、はっきり口にしてやろう。そう思って用意するが、そういう時に限って望んだ質問は来ないもので、こちらの顔色やらで判断したのか、男は「よく眠れたようでよかった」とにこやかに言った。 「……ああ、おかげさまでね」 だから、そう返すのが精一杯だった。ため息を一つついて立ち上がる。脚の関節が少し軋むようであったが、それはいつもの事で、いつも以上にひどいと感じる箇所は一つもなかった。 顔を洗いバスルームから戻った僚は、開口一番先ほどの曲について訊いた。 時計についている目覚ましだと、神取は答える。基本のアラーム音の他に数種類の中から選べるので、朝にふさわしい曲でセットしたのだと説明を聞き、僚は軽く頷いた。 「中々ない気分だったろう」 「うん、朝からすごく爽やかになった」けど、ちょっと問題もある「これで起きるには難しいかも」 曲に聞き惚れて、また眠ってしまいそうだ。 確かにそうだと神取も頷く。 「そうだね。起きた後に聞くにはいいが、目覚ましには少々物足りないかな」 「鷹久はこれで起きたの?」 「いや、その前に目を覚ましたよ。着替えて、そこに座って、君の寝顔を楽しみながら曲を聞いていた」 「へえ、良い趣味で」 僚はのろのろと身支度を整えながら、朝はどこで食べるのだろうかと気になった。もしこのまま解散だとして、アパートに何があったかな…記憶を掘り起こす。 もしレストランに行くとしても、こんなふらふらで行ったら、わかる人にはわかってしまうのではないか、昨日みたいに視線が気になってしょうがないんじゃないか、もう恥ずかしいのはこりごりだと、いささか憂鬱になる。 そうは言っても腹は減る。しかし行くのは気が滅入る、いっそ辞退して、冷蔵庫の残り物で済まそうか。 考え込んでいると、心を読み取ったのか、男が腹具合を聞いてきた。 「今朝は、何がどれだけ入りそうかな」 「ああ……もうなんでも、見た物片っ端から入りそうだよ」 「そいつはよかった。間もなく到着するから、楽しみにしておいで」 「……は?」 腹に力の入らぬ声を落とし、男の顔を凝視する。 神取は軽く首を傾け、ルームサービスを頼んだと続けた。 「……え、すごい、つまりそれ、部屋で」 「そうだ」 頷く男に、たちまち僚は顔を輝かせた。 |
テーブルには二人分の豪華な朝食が並び、窓からは良い眺めが広がっていた。朝日を浴びる街並みはより清々しく感じられ、目の前に並ぶご馳走とあいまって、僚はうきうきと心が湧きたつのを抑えられなかった。 朝食は和と洋をそれぞれ予約した。僚はどちら側に座ろうかしばし悩み、テーブルの前に立って唸った。 真っ白なプレートに盛り付けられた黄色いオムレツはぶるんと形良く、カリカリのベーコンは色よく焼けて、添えられた野菜の緑やトマトの赤が目に鮮やかで食欲をそそる。カップに注がれたスープの湯気もたまらない。 飯椀によそわれたつやつや炊き立てのご飯、汁椀の味噌汁はわかめと豆腐が具合よく浮かび、深緑の皿にのった焼き魚、玉子焼き、煮物にお浸しにちょっとの漬物と、ごくありふれた朝食の風景が実にたまらない。 バスケットのパンは食べ放題、ご飯もお替りし放題。 どちらでも好きな方をと言う男に、心躍るが難しい選択にしばし悩む僚。 「……よし」 その末に小さく力強く頷き、僚は和食の側に座った。向かいに神取も腰かける。心が決まってすっきりしたのか、僚はひとしきり朝の食卓風景を見回すと、今度は窓の外へ顔を向けた。 僚はじっくり見渡し、こんなに眺めが良かったのか、と小さく呟いた。 神取は笑いかけ、窓の外へ軽く手を差し伸べた。 「昨日は余り楽しめなかった景色を、心行くまで堪能してくれ」 「ああ、うん。昨日は誰かさんが大張り切りで苛めてくるから、見る余裕もなかったよね」 ちら、ちらと二度ほど男へ顔を向けた後、僚は窓へ背けて、唇をひん曲げた。 「そうだね、誰かさんはひどいね」 「ほんとにね」 嫌味をたっぷり乗せたのだが、男には通用しなかった。いつも通りふてぶてしい奴だと、大きなため息とともに頷く。 「だが、それもまた良かったろう?」 僚は一瞬動きを止め、ひと睨みくれてから、あえて答えず料理を口に運んだ。一杯に頬張って、大げさに噛みしめながら、また横目に睨む。 神取はわざとらしく肩を竦め、自分も料理に手を付けた。 「どうやらお気に召さなかったらしい」 当然だ、と、僚は頬張った隙間から零した。 「次こそは満足してもらえるよう、よく勉強しておくよ」 「……もういいから、黙って食べろ」 男は殊勝な顔で「はい」と頷き、しばらく食事に集中する。 始めは無視の手段で目一杯口に詰め込んだ僚だが、朝食のメニューはどれも舌が躍るほど美味で、胃袋にしみた。 本格的に食事に集中する。 しばらくして神取は口を開いた。 「機嫌は直ったようだね」 男の言葉にむっと唇を引き結ぶが、美味い料理で優しく胃袋を満たしている時に本当に機嫌の悪い顔など出来ないもので、僚は渋々ながら頷いた。 「今度から君と沢山遊んだ後は、ここの朝食をご馳走する事にしよう」 「次もこう上手くいくとは限らないからな」 「では次は、さらにフルーツの手土産も用意しよう」 このホテルのほど近くにあるフルーツ専門店で、よく吟味して買い求めよう、神取はそう続けた。 「おや、今、目が光ったね」 「……別に。鷹久の見間違いだよ」 「旬のフルーツを選んでくるから、期待してくれ」 僚はあえて答えず、わかりやすい角度で顔をそむけた。 「まあそうむくれずに。今日はこの後、君を送ったその足で出社する予定なんだ、楽しい顔で別れたい」 僚ははっとなって目を見開いた。 そうだ、今日は平日なのだ。食事が終わったらお別れ、そう思った途端胸がきゅうっと締め付けられた。気を抜くとつまらない顔になりそうなのを、僚は急いで引き締め、それから笑った。 「お仕事お疲れ様」 少し勝気な、惚れ惚れするほど美しい微笑に、神取は満足げに頬を緩めた。 食事の後、僚はそのまま窓辺の椅子で休憩した。 満腹のいい気分で、朝日を浴びる街並みを眺めていると、男が何やら小さな鍵を差し出してきた。 どこの鍵か、僚は即座に理解した。自然と目付きが険しくなる。 昨日と一昨日と、えらく自分を苦しめてくれたあるものの鍵。 「……なに」 「もしまた付けてほしくなったら、私にこの鍵を差し出す、というのはどうかと思って」 いやだ、絶対いやだ。 僚はぞんざいに首を振った。 「もう二度と、あれはしたくない?」 そんなに気に入らなかったかと、神取はどこかがっかりした声で言った。残念だが仕方ない、素直に鍵をしまう。 僚は鍵の行方を見送りながら、早口で言った。 「鷹久が好きな時に使えばいい」 使いたい時に使え、自分を自由にしていいのだから。 「承知した」 恥ずかしさからそっぽを向いた少年の頬に口付け、神取は微笑んだ。 |