Dominance&Submission

月が昇るまで

 

 

 

 

 

 テーブルの上に、コーヒーカップが二つ。
 片方は並々と注がれ、白い湯気と共にふくよかな香りを立ち上らせている。
 もう片方は空のまま、コーヒーが注がれるのを待ちわびていた。
 しかしコーヒーポットを持った男…神取鷹久は、片方にだけコーヒーを注ぐとポットを置き、携帯電話片手に玄関ホールへと歩き去った。
 その背中を、桜井僚は頬に手を当て振り返った。頬に触れたのは半ば無意識だった。

――すぐに戻る

 去り際唇だけでそう囁き、男は頬にキスをした。その部分を覆うように、手が自然とそこに向かう。
 なんか……気障な事してまったく。
 僚は身体を正面に戻した。
 男の唇が触れた部分から顔全体に、ぼうっと火照る熱が広がっていくようだった。
 ぽかんとだらしなく空いていた口を慌てて引き結ぶ。
 僚はもう一度振り返り、戻して、カップを手にソファーに移った。
 ついさっきまで、二人で楽しく朝食を取っていた。
 気ままな会話を楽しみながら、ゆっくり味わう。
 お喋りはあちこちに飛んだ。
 音量を絞ったテレビの一場面について感想を出し合ったり、そこから連想の話題を膨らませたり、飛び跳ねるがごとく奔放に言葉を交わした。
 メインは、今日出かける先の、早春の海の事と美味い物の話。
 それを軸に、食べたり飲んだり話したり。
 休日の朝をのんびり消化した。
 そして食後のコーヒーをというタイミングで、男の携帯電話が鳴った。
 電話を取りに行く男に合わせ、僚はすぐにテレビを消した。音声を小さくしていたが、それでもひっきりなしに聞こえていた賑やかな語りがなくなると部屋はしんとするもので、そのせいで入れ替わりに放たれる男の声がより際立った。明らかにいつもと異なる響きが、僚の心臓を直撃した。
 聞く限り、仕事の話ではないようだ。億劫そうに応答するところから推測するに、電話の相手ははとこのようである。
 男は一度通話を手で押さえ、すぐに戻る、そう唇で伝え、頬に口付けを残して歩き去った。
 僚はソファーに身を沈めると、カップを落とさないよう両手で支え、ちびりちびりとひと口ずつ啜った。
 だいぶ火照りが鎮まってきた頬を、やや乱暴にこする。
 情けないやら腹が立つやら。
 胸いっぱいにコーヒーの香りを吸い込み、深呼吸する。
 一人で飲んでも味気ない。男が選んでくれた、自分にぴったりの銘柄なのに。十分美味しいのに。
 盗み聞きはよくないと思いつつも、耳が勝手に澄み渡る。
 僚はわざと「ふー」と声に出して息を吐いた。
 声は聞こえるが、内容まではわからない距離の通話。
 ちょっとずつ男の声が聞こえてくるのが、かえってもやもやとした気持ちにさせた。
 これは何だろう。
 この感情は何に分類されるのだろう。
 早く、戻ってきてほしいな。
 これ、これは……。
 嗚呼もっと独占出来たらいいのに。
 自分との時間だけで生きていけたら、いいのに。
 無理だし、馬鹿馬鹿しいのはわかっている。
 でも。

「でもさ……」

 むずむずと落ち着かない身体を揺すり、振り返ってリビングのドアを睨むと同時に、通話を終えた男が入ってきた。
 僚は慌てて目を瞬き、表情を変えた。睨んでいたのに気付かれただろうかと、冷や汗が伝う。
 出来るだけ自然に笑顔を浮かべ、それで乗り切ろうと内心うろたえていると、男は先ほどと同じように頬に口付けた。

「待たせたね」

 ごく自然に、優雅な動作でやってのける男に、束の間見惚れる。たった今まで胸の内に渦巻いていたもやもやとした嫌な感情は、一つのキスであっという間に飛び散った。どんよりと曇っていた薄暗い空が晴れ渡り、眩しい青空に変わったようだった。
 気持ちがすっきりとして、冷たい汗は一気に熱へと豹変した。

「隣、ご一緒させてもらえるかな」

 男は自分のカップにコーヒーを注ぎながら、ちらりと目をやった。

「どうぞ、一人分ならなんとか空いてるよ」

 僚はにっこり笑って応え、隣を手で示した。
 では失礼して、と、男は膝を揃え窮屈な隙間に座る仕草で腰を下ろした。更には、架空の隣人に会釈までするものだから、相変わらずの演技力に僚はくすくすと声をもらした。
 男も笑ってコーヒーをひと口啜り、誰からの電話か口にした。僚の推測通り、はとこからであった。

「顔に似合わず、心配性なところがあってね」

 そう言って大げさに肩を竦める男に、僚は曖昧な笑みで頷いた。男からすれば一つ下の彼は弟分のようなものだが、自分から見ればずっと年上である。親しみやすい性格で気負ったところのない人物だが、男と同じようにあっけらかんと笑うのは気が引けた。
 二人の付き合いは幼少期にまで遡る。遠縁ではあるが互いの家が近く、同じ音楽講師に習ったのがきっかけで交流が始まった。須賀には二つ年上の兄がおり、男を間に年齢が一つずつ並ぶせいもあってより付き合いは密になった。
 須賀の両親…特に母親は面倒見がよく、男の父親が家を空けがちなのを気遣って、しょっちゅう家に招いては夕飯を共にした。
 これまで何かの折に語られた男と須賀家との繋がりをぼんやり思い返しながら、僚は幾分ぬるくなったコーヒーをひと口またひと口と流し込んだ。ほのかな苦みがすっきりと喉を通っていく。隣では男が同じように、食後のコーヒーを楽しんでいた。

「ほんとに美味いな」

 しみじみと味わう男の顔を眺めていたら、頭に浮かんだそのひと言が零れ出た。頭の中で響かせるつもりだったが、気付いたら口にしていた。妙に恥ずかしくなり、僚はぱちぱちと慌てて目を瞬いた。

「同感だ」

 微笑んで頷く男に僚も合わせて笑い、空になったカップをごちそうさまと軽く掲げる。
 今日は、海までドライブして美味いもの食べて楽しんで、のプラン。

「さあ出かけよう」

 

 

 

 ドライブの最中や食事の合間に、僚の視線が何か云いたげにちらちらと過ぎるのを、神取は視界の端で感じていた。

 いい天気だね
 道が空いててよかった
 これ、すっごく……美味い

 目が合うと僚はそのように言っては笑顔を見せた。
 それらの感想が上辺だけの、取ってつけた間に合わせのものでないのは顔を見ればわかる通りだが、もう一つ含んでいるのを隠し切れない彼の素直さに、微笑ましく思うと同時に心配であった。
 どうしても足りないのだろうな。
 それを、今すぐどうにか出来る術はない。
 一つずつ積み重ねる以外道がない事が、たまらなくもどかしかった。僚はよくこちらを、何でも知っていると、何でも出来ると褒めちぎるが、実際のところ出来る事はとても少ない。
 ただ一日ずつを、特別なものとして慎重に積み重ねていくだけだ。

「なあ鷹久、勝負しない?」
「なにで、かね?」

 ランチの後、腹ごなしを兼ねて散策しようと浜辺に到着した途端、僚はそう言って目を光らせた。
 一歩前に立ち、肩越しに振り返って何やら勝負を持ちかける僚を見つめ返し、神取は尋ねた。
 僚は手にした何か小さなものを差し出して言った。

「どっちがより綺麗な貝殻探せるか、勝負しよう」

 僚の手にあるのは小さな薄い貝殻だった。砂浜から拾い上げたそれは一部が欠けているものの白く輝き、中々美しい。僚はそれを見つけた時、もっとよく探せば欠けのない綺麗な貝殻が見つかるだろうと、勝負を持ちかけてきたのだ。

「なるほど、よし、受けて立とう」

 神取は大きく頷いた。それで朝が紛れてくれるなら、どんな勝負も受けよう。

「鷹久はこっから向こう、俺はこっからこっち。じゃ後でな」

 くるりと背を向け、探索を始めた僚にしばし視線を注いだ後、神取は砂浜に目を落とした。

 

 

 

 貝殻探しは引き分けという結果に終わった。
 僚は自信たっぷりに大きめの白い貝殻を差し出し、勝負あったと不敵に笑った。この整った扇形と大きさ、よく誰にも踏まれずに残っていたものだ。
 対して神取は数で勝負した。制限時間一杯まで使い、見つかるだけの桜貝を拾い集めた。手のひらにざらざらと溢れるほどの桜貝の小山を、見せつける。
 それを見て互いに、相手が優勝だと潔く負けを認めた。
 そして、ならばどちらも優勝だと笑い合う。
 拾った貝殻は、今日という日の思い出として持ち帰る事にした。
 帰りの車中、僚は貝殻一枚ずつを日に透かして眺めては、満足そうに微笑んだ。何度かに一回は男に顔を向け、楽しかった、美味しかったと感想を放つ。
 神取は一回ずつ丁寧に頷きつつ、どうやって貝殻を飾ろうか思案した。僚にもアイデアを求め、白い小皿に入れるといいんじゃないか、ガラスの小瓶に詰めるのも綺麗だ、お互い首をひねる。
 そうしてお喋りを楽しんでいる内に、マンションに帰り着いた。
 ちょうどおやつの時間という事で、神取はコーヒーに合うお茶菓子を用意し、濃厚なチョコレートかおる焼き菓子を頬張りながらコーヒーを啜った。
 今日は最高に面白かった。
 言った後、すぐに『今日も』と言い換え、僚はソファーにもたれかかった。
 大満足だと心を込めてため息をもらす僚に、神取は微笑み視線を向けた。
 にこにこと、屈託のない笑顔を見ているとこちらまで嬉しくなる。次はどこへ行こうか、何を見ようか。次に積み重ねる新たな一回は大いなる悩みだが、彼のこんなに眩しい笑顔が見られるならいくらでも悩んでいい。たやすいものだ。

「今日は楽しかったね」
「うん、もう最高だね。鷹久といると何見ても食べても飲んでも、最高だよ」

 それは良かったと、神取はひと呼吸置いてから続けた。

「朝は、少しは晴れたかな」
「……え」

 笑いの余韻を貼り付けて、僚の顔がわずかに強張る。自分の言葉をきっかけに僚の内面がどのように変化したか、言葉はなくとも息遣いと目の動きで読み取る事が出来た。

「君にあんな顔をさせて、済まなかったね」

 僚は喉に詰まって出せない声の代わりに、険しい顔付きで何度も首を振った。
 言われた瞬間は、気付かれていた事にさっと血の気の引く思いを味わい、すぐに頭全体が熱く火照ったようになって、何と弁解してよいやら言葉の一つも出ない自分がたまらなく情けなくなった。

「なんで鷹久が謝るんだ」

 悪いのは俺なのに。

「いいや、私だよ。君を寂しくさせた私が悪い」
「違う、そんな事ないから」

 僚はむきになって立ち上がり否定する。自分が勝手に下向いて、ぐずぐずしてただけだ。
 上手く伝えられないもどかしさに、僚は奥歯を噛みしめた。
 朝に感じたいのは、つまらないいじけや嫉妬といったもの。
 下らない、幼稚な独占欲。
 情けない自分を認めたくなくて、深く掘り下げ触れる事はせず、断じて嫉妬ではないと否定するが、胸に渦巻いているのは間違いなく醜い感情であった。
 知られたらきっと軽蔑される、知られてしまったから、きっと男は呆れ返っている。
 朝に感じたよりも更に寒々しい寂しさに襲われ、僚は力なくうなだれた。
 対して神取は微笑を浮かべ、僚の腰に腕を回して抱き寄せた。

「君はとても、わがままだね」
「!…うん」

 一瞬きつくなった眼差しはすぐにまた力を失い、か細い声の通りの弱々しい表情になった。
 すっかり気落ちして、しょげ返って、あまりの可愛さに神取は込み上げる笑いを堪えるのに苦労した。
 嗚呼本当に、彼はなんて魅力的なのだろう。素直で傲慢で、どこを取っても眩しいったらない。

「私もとんでもなくわがままなんだ。気が合うね」

 僚は恐る恐る目を上げ、間近の微笑みを見つめた。

「もうすっかり、私を知ってくれたと思っていたが」

 昨日もここに、泣くほど刻んだというのに。
 神取は手を下にずらし、昨夜何度も鞭をくれた肌を布越しにさすった。

「あ……!」

 僚は小さく息を飲んだ。痛みを感じたからではない。いつだって跡を残さない力加減だから、一晩で回復している。息を飲んだのは、そのせいではない。
 間近にある支配者の貌が、あまりに美しく優しいからだ。
 僚はほんのわずか眉根を寄せた。気付けば目に涙が潤んでいた。ぞくっと背筋を駆け抜ける恐怖…いや喜びに震えながら、支配者の眼をじっと見つめる。
 いっそ冴え冴えと、美しい微笑が浮かぶ。
 熱に浮かされたように、脳天が甘ったるく痺れるのを僚は感じた。痺れは手や足にまで広がり、果たして自分はちゃんと立っているのか、わからなくなるほど何もかもがぼんやりと霞むが、一点だけはっきりと鋭く研ぎ澄まされる箇所があった。
 そこ…唇に、男の薄い皮膚が重なる。触れ合い、ほんの少し舐めてついばんで離れていった熱い唇に、僚はひたすら視線を注いだ。

「伝え方が悪かったようだね。今日はたっぷり、教えてあげよう」

 穏やかな動きで伝えられ、僚は熱いため息を吐いた。

 

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