Dominance&Submission

ベビーカステラ

 

 

 

 

 

 見事に咲きそろった紅白の梅の花がどこまでも続く庭園を、一組の男女が仲睦まじく寄り添って歩いていた。
 それを見て、桜井僚はきつく眉を寄せた。
 片方は、黒のロングコートが似合う長身の男…神取鷹久。
 その彼にエスコートされているのは、肩まで届くまっすぐでつややかな黒髪に、こげ茶の帽子を品良く被り、深みのある赤のロングコートに白いマフラーを合わせた、やや背の高い女性。
 腕を組み、時折見つめ合って微笑む様は、見ている方まで幸せな気持ちになる。
 しかし僚はならなかった。
 ごうごうと渦巻く炎のような怒りと、また正反対の寒々しい寂しさとが心の中で荒れ狂い、冷たい熱さに頭も身体もどうにかなってしまいそうだった。

――ひどい。鷹久ひどい。女の人と浮気するなんて

 ひどい吐き気のように強烈な感情が浮かんできたが、どういう訳か自分はけらけらと楽しげに笑っていた。怒りと寂しさのあまり、おかしくなってしまったのだろうか。
 気付くと、男の腕にしがみついていた。先程の女性のような優雅さからは程遠い有様に、なんて情けないのだと自分が嫌になる。しかし気持ちは、幸せに満ちて軽く弾んでいた。
 本当に、どうしたというのだ自分は。
 その時、男の声がした。

「浮気なんて、しないよ」

 知ってるよ。誠実そのものの男の声に、自信たっぷりに頷く。そう、そうだ、自分は知っている。
 男と腕を組んで歩く背の高い女性の事も、ちぐはぐな感情も。そして自分の今の格好も。
 へらへらとにやけていると、唇に柔らかいものが触れてきた。じわっと優しさが沁み込んでくるこれは、男の唇だ。
 優しいキスの感触がたまらなく嬉しい。もっとしてほしいと待つが、中々二度目はやってこなかった。
 そこで僚ははっと目を覚ました。
 つい、今しがた、車に乗り込んだはずだった。助手席に座って、男から優しく甘いキスを受けた。たった今、そうしたはずだ。しかし気付けばいつの間にか、寝室のベッドに横になっていた。時間を飛び越えた事に、僚は軽い混乱に見舞われた。
 唇にも、こんなにはっきりと感触が残っているのに。軽い混乱と軽い腹立ちと、僚は不満げに唇を引き結んだ。段々と意識がはっきりして記憶が蘇るにつれ、また失敗をやらかしたと血の気が引く思いに見舞われる。
 僚は起き上がって、ため息とともに額を押さえた。
 カーテンが引かれた外は。すでに夕暮れ色に染まっていた。
 休むのに十分な時間ぐっすり眠って、身体も頭も休まって、具合の悪いところはないけど…気分は最悪だ。
 恥ずかしくて男の顔がまともに見られない。合わせる顔が無い。
 見ればいつの間にか、服も変わっていた。マンションを出る際、男のはとこに貸してもらった厚手のワンピースではなく、マンションに置かせてもらっている部屋着を着ていた。
 きっと、男が着せてくれたのだろう。
 唇や頬を触って確認する。触った限りでは、化粧も落ちていた。ますますため息が出る。どこまで、男に甘えてしまったのか。
 目を覚ます為に、顔でも洗いにいこう。
 かけられた毛布の下からのろのろと足を引っ張り出し、床に着く。
 失敗、後悔に身体が重く感じる。実際は十分休んだ後なので手足は軽い。落差に目が眩む。
 またしてもため息。
 ……でも。
 僚はそっと唇に手を当てた。
 あの幻のような男とのキスは、本当に甘かった。思い出し、僚はうっとりと目を細めた。
 まてよ…と血の気が下がる。
 キスされたのは夢じゃないよな、ちゃんとはっきり思い出せるし――いやでも――大丈夫、夢じゃない。
 僚は、いつの間にか緩んでいた唇を引き結び、辿った記憶を視線の先にしっかりと映し出した。
 男と一緒に腕を組んで歩いて、梅の花見をした。ちょっと他には見せられない格好だったけど、それも結構スリルがあって楽しかった。
 楽しかった。
 ゆっくりと唇がほころぶ。
 一緒に花見をして、屋台を楽しんで、甘酒で失敗して…優しいキスをして。
 そうやって順繰りに記憶をめくっていると、下半身が浅ましく反応し始めた。

「!…」

 そんな場合ではないだろうと自身にうろたえるが、兆してしまったものはしょうがない。
 下がったり上がったりする血の気に僚は肩で大きく息をついた。
 男の寄越したキス一つから、記憶はどんどん広がっていった。だっていつも優しいのだ、あの唇は。自分の唇に触れる時、身体に触れる時…傷に触れる時も。
 背中に意識を向ける。決して綺麗なものじゃないのに、いつも優しく触れてくれる。馬鹿だった自分を、それごと包み込んでくれる。
 記憶は段々と、むき出しの欲望へと進んでいった。いっそう昂る。
 はっきり主張しだした下半身を目の端でちらりと確かめ、僚は軽く唇を噛んだ、手を伸ばしかけては遠ざける。少し触っては離す。続けたい誘惑が猛烈に込み上げてくるが、ここじゃ駄目だと首を振る。
 でも止められない、鎮まらない。
 思い浮かべたキスの一つからこんなになるなんて…それほど男にどっぷりはまっている。身体がそう作り替えられた。
 何気ないささやかな記憶でも、男に触れたらこうなってしまうのだ。
 自分は、男のものだから。
 僚は淡く笑みを浮かべ、すぐに引き締めた。
 さっさとトイレに行って、情けない自分を流してこよう。
 そう思って立ち上がると同時に寝室の扉が開き、人影が顔をのぞかせた。

「っ――!」

 僚は弾かれたように目を上げ、全身を硬直させた。
 いつにもまして強い視線を寄越す僚に、神取は「起きたのか」という言葉を飲み込んだ。彼の視線はいつも力強くて綺麗で、整った容貌と相まって心を魅了してくるが、この時は少し様子が違って見えた。
 実際にアルコールを摂取したわけではなく、思い込みで酔っ払い眠ってしまっただけなので、身体の不調はそれほど心配してはいなかった。
 ごく普通の昼寝と同じ。
 ただ今日は、慣れぬ恰好と振る舞いで気疲れして、エネルギーが尽きてしまったようなもの。温かい日差しの中を歩いたが、二月の気候はまだまだ厳しい。その辺りから、体調を崩してはいないかと気がかりではあった。
 しかし見たところ、その心配も無用のようだ。
 起き上がれる元気があって嬉しいと思うのだが、漂う妙な空気に、気軽に声をかけられない。
 僚はベッドに腰かけたまま、歩み寄ってくる男をひたすら凝視した。もう一秒早くトイレに向かっていれば、気付かれる事もなかったのにと、内心冷や汗を垂らす。
 実際に神取が異変に気付いたのは、傍まで歩み寄り顔を見た時だった。
 心持ち火照った顔と、潤んだ目。
 風邪を引いたからではない。
 念の為体温を確かめようと額に手を伸ばすと、僚はますます身体を強張らせた。
 僚は不自然な動きで、腹をかばう仕草をして見せた。その行動と、唇から零れた息遣いが、男にはっきりと確信を抱かせる。

「ああ、そう……具合が悪いのか」

 神取は手を引っ込めた。視線の先で、僚は面白いくらいにうろたえた、

「いや、これは……トイレに行けば、なおる」

 引き攣る喉から何とか声を絞り出し、僚は慌てて立ち上がった。そのままトイレに駆け込もうとするが、男の手にしっかり腕を掴まれる。ひゅっと息を飲み、一秒遅れて男に顔を向ける。
「心配してきてみれば、そんな事になっていようとはね」
 神取は目を見開き、ことさら驚いた顔をしてみせた。そっと手を離す。
 僚は掴まれた部分を半ば無意識に押さえて俯き、本当にそうだと力なく呟いた。

「……ほんとに、トイレだ――!」

 神取は言葉をしまいまで聞かず僚を背後から抱きしめると、無造作に下腹に手をやった。腕の中で、少年の身体がぎくりと強張る。
 思った通りの硬い感触に、神取は口端をいやらしく歪めた。

「トイレで、何をするつもりだった?」

 ゆっくりさすりながら訪ね、頬に接吻する。

「っ……」

 今の僚にはそんな軽い接触さえも十分堪えた。短いながらも恥ずかしい声が零れる。慌てて口を噤むが、手遅れだった。男の手に、今にも自ら腰を押し付けたくなる。
 神取は拘束めいた抱擁を解くと、自分の方に顔を向けさせ、唇を塞いだ。

「ん……んっ!」

 咄嗟にもがいた僚だが、卑猥なキスに背筋がびりびりと痺れるのを感じた。諦め悪く抵抗するが、長いキスが終わる頃には、すっかり脱力していた。
 神取は静かに顔を離した。先程よりも、目がとろんと潤んで熱を帯びている。そっと頬をさすると、小さくほどけた唇から熱い吐息が零れた。

「人を心配させておいて、いけない子だね」
 ここに、よく教えてあげよう

 服越しに下腹を擦り、神取は楽しげな声で囁いた。

 

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