Dominance&Submission

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 高校生活最後の一年が始まり、休み明けの寝ぼけた調子も元に戻って数日、金曜日の訪れに、桜井僚は朝からどことなく浮ついた気分でいた。
 そわそわと浮ついて、落ち着かなくて、気もそぞろで日中を過ごす。
 何故こんなに腹の底がむずむず騒ぐのかと、自分のことながら不思議に思う。今日は男に会える日だから浮かれている、それは間違いないがしかしいつもと変わりない。長の出張となれば崩れる事もあるが、そうでなければ毎週必ず男に会っている。
 それでもやはり、会える日は嬉しくて気持ちが弾む。
 だが、少し違うのだ。
 何かしらに追い立てられているような、焦りに似たものが、腹の底の方で静かに渦巻いている。
 曖昧で掴みにくいそれの正体を一生懸命追いかけて、ようやくわかった。今日最後の授業の、終わり頃になってようやく、僚は原因を突き止めた。
 そうか…今日からしばらくは、自分の進路が落ち着くまでは、一緒に過ごせる時間が短くなる。その事に落ち込みより男が恋しくなって、こんな気分になっていたのだ。
 自分で決めて目標を立てたのに、実行する前からこんなに気弱になって果たして乗り切れるのかと、いささか呆れる。
 そんな沈んだ気持ちも、待ち合わせの時間が来て、約束通り校門傍で待つ車の中の男と顔を合わせた途端、始めからなかったかのように綺麗さっぱり吹き飛んだ。
 気持ちは上向いて、楽しむ事だけに心が弾む。
 楽天的で単純な自分に感謝だ。
 車に乗り込んであいさつを交わし、予約したレストランに向かう車中、先日の礼から始まり、葉桜に移り行く街並みや今日の授業の様子などを僚は口にした。
 レストランの個室に落ち着き、乾杯のドリンクに口を付けたところで、神取鷹久は改めて僚の姿を眺め、微笑んだ。
 より頼もしくなった気がする、と言って笑う男に、僚は困ったように笑い首を振った。頼もしいどころか、言うのも恥ずかしくなるような情けない悩みで朝からうじうじと落ち込んでいた。男の顔を見たら簡単に吹き飛んでしまうような小さな事で、いちいち思い悩む自分には、もったいない評価だ。
 恥を忍んで正直に告げる。これからはもっと男にふさわしい人間になると宣言を兼ねて、朝からの自分を包み隠さずさらけ出す。

「私も負けていられないな」

 追い付かれないよう頑張らねばとますます笑顔になる男に、僚は苦笑いで首を振った。どれだけ頑張っても追い付くなんて無理だろう、それでも、すぐ後ろを走りたい。並ぶのは無理でも、いつまでもずっと遠い背中を追う自分ではいたくない。男の為に、自分の為に、一歩でも前に進みたい。
 情けなくて笑ってしまう自分を白状したら、気持ちが軽くなってより空腹感が増した。僚は運ばれた料理をもりもりと口に運んだ。
 食事を進めながら、この後の予定について話し合う。
 これまでのように気楽に泊まる事はなくなるが、チェロの練習時間を短縮するといったことはなし、毎週金曜日の食事会もこれまでどおりと、互いに確認して頭に書き込む。
 それは、試験期間も変わりない。まだ先の事だが、気を抜くとあっという間に目前に迫る。今から意識して気を引き締め、その上でいつも通りに過ごす。

「むしろ鷹久の顔見ないと調子崩す」
 チェロに触れないと寝込む

 口調は冗談めかしているが、顔はいたって真剣そのものの僚に、神取はおかしそうに肩を揺すった。

「まあ、君は時間の使い方や頭の切り替えがとりわけ上手いから、その点は心配ないね」

 家族に頼るのは最低限に留め、基本は自分一人で生活する、自分で自分の面倒を見る僚を、神取は心から尊敬していた。限られた時間を上手く配分し、快適な環境に整え日々暮らす。大人でも、中々出来るものではない。
 僚は困った顔で頭を傾けた。切り替えが上手いなんて、そんな事ない。いつも男の事で頭がいっぱいだ。自分には過ぎた称賛に、わざと歯を見せて笑う。
 メインの肉料理が運ばれてきた。
 塩胡椒で焼いただけのシンプルなもので、別の皿にどっさり盛られた付け合わせの野菜とよく合った。
 僚は張り切って口に運んだ。目にした時はこんなにたくさん食べきれるだろうかと思うほどであったが、実際味わうと手が止まらなくなり、皿を綺麗にする頃にはもう少し入る腹具合であった。つまり、大満足だ。
 そして、僚にとってもう一つのメイン、特製シャーベットを味わう時間がやってきた。
 シンプルなシャーベットを引き立てるガラスの器が運ばれると、僚はきりと口を引き結び、心持ち目を見開いた。
 神取はその様子を正面からじっくり眺めた。彼との食事会で、一番好きな瞬間である。どの場面も好きで甲乙つけがたい。彼はいつも実に美味そうに食べ、喜びを素直に表現するし、食事の合間のお喋りも楽しくて、全ての瞬間が一番であるが、とりわけこの瞬間が好きだ。
 ほのかな緊張感を漂わせ、感激する僚を目にするこの時が、何より面白い。
 彼は果物が大好きで、そのものも、こうしてデザートに姿を変えたものも大好物だ。文字通り目を輝かせる。そんな姿を見ると、本当に好きなのだなと、愛しくなる。
 だから、デザートにあれば自分も注文し、彼が少しでも沢山味わえるよう交換する事にしている。
 この時もそうして、まずはお互い相手のデザートにスプーンを伸ばした。

「君のレモン、これはまさに君好みの味だ。酸味がいいね」
「鷹久のも美味い、この甘酸っぱいのがいい」

 僚はきらきらと目を輝かせ、無邪気に喜んだ。その顔で、神取は心までも満腹になるのを感じた。連れてきた甲斐がある。ここを選んでよかった。
 神取はひと口ずつ味わいながら、また近い内に来る事を約束した。

「その時は、こちらのデザートを心行くまで味わってほしい」
「ほんと、ありがとう」

 僚は花のように可愛らしい笑顔を咲かせ、残り僅かになったシャーベットを口に運んだ。

 

 

 

 学年が上がって始めてのチェロ練習日という事で、僚は気合を入れて臨んだ。ただ楽しむのではなく意識をしっかり保ち、チェロに向き合う。弾き始めて間もなく一年が経つ、いつまでも初心者だからと逃げずに、甘えずに、一つひとつの音に責任をもって挑んだ。
 そんな僚の様子を、神取はしっかり見守り導いた。弓を構えるといくらか顔付きが変わって、特有の空気を纏う。どれほど好きかうかがえる横顔を見守り、持てるすべての技術を伝えようと、神取は励んだ。
 集中していると時間はあっという間に過ぎ去る。
 気付けばもう終了時間がやってきていた。音楽室を片付けて五階に戻り、反省会に移る。
 神取は準備していた茶菓子をテーブルに運んだ。
 僚は開いたノートを険しい顔付きで見つめ、大きくため息を吐いた。
 物事が思うように運ばぬ不安のそれではなく、満足しきった末の息遣いに、神取は微笑を浮かべた。
 やっぱり、いいなと、僚は独り言のように呟いた。しかし同意が欲しくなり、男にちらりと目を向ける。微笑み頷く顔にほっとして、僚は言葉を続けた。
 チェロを奏でている時間は特別だ。気持ちが、不思議な世界へ行く。
 色々と細かな悩みや不安があるが、チェロを奏で、身体を包み込む独特の音色を聞いていると、その間は、心を悩ます心配事がすっかり薄れてくれる。
 薄れて軽やかになって、何とかなるものだ、という気持ちになる。
 そういう効果があるから、練習の時間は欠かせない。
 そう語り、僚は改めて感謝を表した。出会えた事、チェロを教えてもらえる時間、男の存在…それらに感謝する。

「私こそ感謝している。君はとても教え甲斐のある生徒だし、そうやって伝える事で、自分の勉強にもなっている」

 いや、俺の方こそ、いやいや私こそと、笑いながら小気味よくキャッチボールする。お喋りはそこからあちこちへ飛び交い、混ざり、ゆるゆると続いた。
 ひと息ついたところで僚がまた、食事会の時間に戻り、今日のデザートを絶賛する。
 まだほんのりレモンが口の中に残ってる感じ、と僚。
 次に行く日が楽しみだよ、と神取。

「俺も。……ねえ」

 僚は抑えきれない喜びに目を輝かせ、それからふっと伏し目がちになった。何か云いたげに唇を震わせ、ゆっくり目を上げながら囁きをもらした。

「別のデザート…ほしくない?」
 俺とか

 声もなく綴る僚に、神取はしばし目を奪われた。僚はすぐにぱっと笑顔に切り替え「なんてな」と白い歯を見せた。彼のいつものおふざけ…それでも神取は背筋がぞくりとした。そっと唾を飲み込む。
 僚は立ち上がると、片付けに取り掛かった。神取も後に続く。
 流しにカップを置く僚の肩に手を乗せ、神取は作業を中断させた。それについて僚は不満そうにするでなく、素直に従い、背後に立つ男へと頭を傾けた。
 今のが全くの冗談でないのは、お互いにわかっていた。ただ、ああいった挑発は自分には似合わない、らしくないからと、僚は茶化したのだ。
 本当に可愛い人だと、神取の胸に愛しさが込み上げる。

「もらおうか」
「……ん」

 ごく小さな囁きに喉の奥で応え、僚はおずおずと顔を上げた。

 

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