Dominance&Submission

よしよし

 

 

 

 

 

 ソファーに座り二人、互いに見つめ合っていた。
 熱く、燃え上がる寸前のひと時ではない。
 片方はひどく強張り、もう一方はそんな緊張を面白そうに眺めていた。
 よく晴れた日曜日の昼下がり、神取鷹久と桜井僚の二人は、たった今楽しく過ごしたお茶会の余韻も遠く、片方は深く悩み、もう一方は探る眼差しで向かい合っていた。

 

 

 

 冷蔵庫の中に並ぶいくつもの器の中には、重たくしつこく、感謝してもしきれない愛情がいっぱいに詰まっていた。昨夜僚が作り置きしてくれたものだ。
 神取は朝食に一つ二つ取り出して加え、口に運んだ。一体いつの間に作ったのかと、手際の良さに感心する。刻んで和えた物が主でどれもそれほど手間がかからず作れるが、これだけの数となると別だ。どれもそれぞれ味が違って楽しく、美味い。箸が進む。
 一人の食卓だが、向かいに彼が座り、にこにこしながら見守ってくれているような錯覚に陥る。にこにこして、しかしどこか不安げで、口にあうかどうか心配している顔が脳裏に浮かんだ。だから神取は、食べる度心の中で美味いと感謝した。すると瞼の裏の彼は、ほっとしたのと得意げなのが混じった格別の笑顔で、だろう、と言った。
 そうやって、想像の中の彼と戯れながら朝食を済ませる。後片付けをしていてふと、たまらなく彼に逢いたくなった。一人でいるのがどうにも我慢ならなくなってしまった。
 握り拳を額に押し当て鎮静を試みるが、そうすればするほど衝動はうるさく体内で響き渡り、とても押し込めておけそうになかった。
 神取は携帯電話を取りに書斎に向かった。これで彼と連絡が取れると心が弾むが、すぐに思い直してまたデスクに置く。その端からまた掴み、今度はしばし考えてから手放す。
 三度目、発信寸前まで指を進めてから、神取は時計を見やった。一刻も早く連絡を取りたくて頭が上手く働かないのを叱責しながら、アパートでの彼の行動を思い浮かべる。
 今の時刻、彼は何をしているだろうか。
 連絡を取る事はもう決定したので、そうとなれば今度は、出来るだけ忙しい時間帯は外したいと考えを巡らす。また自分も、来てもらうまでに面倒な雑事は済ませておきたい。一切の心配事を片付け、彼だけに心を傾ける時間にしたい。
 彼になりきって、いつもするだろう行動を思い浮かべ、手の空いた時間を狙って電話をかける。
 僚が電話を受けたのは、ちょうど掃除機を片付けている時であった。
 休日という事で、遅めの朝食をのんびり…だらだらと取ろうとして結局いつも通りの時間に済ませ、後が楽になるからとせかせか動いて後片付けから続いて部屋の掃除に取り掛かった。
 嫌な時期を超えてからずっと、何をするにもすいすい身体が動き、軽いお陰で気分もよかった。だからこまめに掃除が出来るし、だからいつも部屋はそれほど汚れず、短時間で済んだ。
 ようし今日も完璧だと自画自賛し、クローゼットのいつもの隙間にごとごと押し込んでいると、机に置いた携帯電話が着信音を響かせた。
 ついさっきまで掃除機の音が部屋を満たしていて、それがぴたりとやみ落差で静かすぎると感じていたところにきての明るい着信音に、僚は弾むように顔を上げた。
 出ると男からで、たちまち自分の声が気持ち悪いほど浮かれたものになった。頭の片隅で苦笑いを零す。
 おはようと交わし、昨夜の礼を受けた後、今日の予定を聞かれた。まさかと思いながら特に出かける用事はないと答えると、午後のお茶会に招きたいのだがと言葉が続けられた。
 美味いケーキと紅茶を用意するので、一緒にどうかという誘いだ。
 そういう事なら、そちらがいいなら是非お邪魔したいと、僚は喜んで返事をした。
 では昼食の後に迎えに行くと、約束が取り付けられた。通話を切った後、僚はだらしなく緩む顔を苦労して元に戻し、睨むように時計を見やった。男が迎えに来るまでにやっておくべき事を、頭の中で大急ぎで組み立てる。
 仕事の都合でしばらく会えない日が続くと倦んでいた心が、隅々まで晴れ渡っていくようであった。
 そうなると、たった数時間も我慢出来ないほどじれったくなり、何度も落ち着け、鎮まれと言い聞かせ過ごした。
 今日は、クローゼットの中をより使いやすいように片付けると予定していた。何度も時計に目をやりながら、床に広げた衣服を分類し、位置を変えたケースに収めていく。途中何度も、この程度でいいだろうといい加減な気持ちがやってきて作業を邪魔するが、それを許さぬ性分が元に正し、どうにか満足のゆく結果になった。
 最中は時間が進むのが遅く感じられたが、直前になるとあっという間に過ぎていた。
 そしてとうとう玄関のチャイムが鳴った。
 マンションに招かれ、綺麗にセッティングされたお茶会の席に僚は小さく感嘆の声をもらした。
 席に着いた僚のもとへ、神取は用意していたケーキを運んだ。そっと皿を配する。

「……りんご」

 たちまちぱっと輝く僚の顔に、予想していたよりずっといい笑顔だと、神取は紅茶を注いだ。やはり本物が一番だ。一番気持ちがいい。

「そう、リンゴのタルト」

 電話で伝えてはいたが、実物はより心が躍るのだろう。僚はむずむずするような可愛らしい笑顔で、リンゴがたっぷり乗ったタルトを見つめた。
 見ていると喉が鳴って仕方ないと、僚は目を輝かせた。
 あめ色に煮詰めたものや、香ばしい焼き色をつけたもの、黄金色のつやを見せるもの…様々な工夫がなされるリンゴだが、男が選んだこのタルトは、リンゴの果肉のほのかな色をそのまま残しており、しっとりと柔らかく仕上がっているのが見た目にも表れていた。
 タルトの生地と、白いクリーム、そしてリンゴの重なりが、この上なく心を躍らせる。

「鷹久のはそれ、チョコレート…ああ」

 波打つチョコレートクリームの合間に見えるものに気付き、栗のタルトだと僚は正解を伺った。当たりだと、神取は自分の前に置いたタルトを指差した。

「モンブランのタルトだそうだ」

 洋菓子店で見かけるモンブランのケーキはあの独特の形状のマロンクリームが主で、山のてっぺんに一つマロンが乗っているのを思い浮かべる。このタルトはそのイメージを大きく離れ、一見するとチョコレートクリームが贅沢に乗ったケーキのようであった。

「生地がココア味だというので、私はこれにした」

 納得だと、僚は笑顔で頷いた。早速いただこうと進める男に従い、フォークを手に取る。そこで僚は、ひと口ずつ交換しようと提案した。

「いいね。では私は、このひと口を君に譲るよ」
「あ、嬉しい。俺はじゃあ、ここからこうしてこう、な」

 僚はフォークの先端でリンゴの下を差し、横切るように移動させた後タルトを切り取る真似をした。

「つまり、リンゴなしだね」
「そう」
「君らしい」
「だろ」

 得意げに顎を上向ける僚に、神取は堪えきれぬといった様子で肩を揺すった。果物に目がない彼ならではのひと口交換に、笑いが止まらない。僚は、冗談だよとフォークを刺した。そしてすぐに動きを止めた。分けるのが嫌だから、という事ではない。

「これは……」

 ほんの少しフォークを動かしてみる。ひと口分を切り取る事は出来たが、下手に動かすとせっかく綺麗に盛り付けられたリンゴを崩してしまいかねない。タルト生地も粉々になってしまうだろう。
 そこで僚は皿ごと持ち上げ、男の口の近くまで寄せると、ひと口分差し出した。崩れない内に食べてもらうには、これが最善だ。
 綺麗なまま食べさせたいと集中しているからだろう、僚の顔付きは妙に真剣で、およそデザートを食べるそれでないのが可笑しく、また照れくささも相まって、神取は遠慮がちに口を開いた。

「もっと大きくないと」

 そういって僚は見本にと自分も口を開けた。神取は倣い、フォークをくわえた。僚の手がするりとフォークを引き抜く。神取はゆっくり味わいながら、評判と聞いていた店だけの事はあると感心した。これならきっと、彼も気に入ってくれるだろう。
 お返しに、同じようにひと口分を食べさせる。相手にするのもしてもらうのも、何ともむず痒い愉快な気分にさせてくれるものだ。
 マロンクリームの味わいは好みに合ったようで、すごいと言うように僚は唸り声を上げた。

「鷹久の選ぶものって、いつも本当に美味いな」

 びっくりすると、僚は笑顔を弾けさせた。

「いつも君から特別なものをもらっているから、そのお返しだよ」
「え、俺は、何も……」

 とんでもないと僚は首を振る。神取こそ首を振る。何もないなんてそんな事はない、昨夜だって今朝だって、格別を味わったと心から感謝を込めて告げた。

「ああ…まあ、美味かったろ」
「それはもう」

 力を込めて頷くと、想像したよりはるかに眩しい笑顔で僚は喜んだ。形良い唇に浮かぶ微笑みは小憎らしいほど愛らしく、すぐにでも触れたい衝動に見舞われる。よかった、と僚は刻み、待ちかねたリンゴのタルトを口に運んだ。
 それからしばらくは、無言が続いた。僚はひと口ごとにゆっくり噛みしめ、染み渡る甘さに身体の内側で感激する。
 気難しい顔でケーキをつつく少年が何を考えているか、神取には手に取るようにわかった。
 神取はその様子をじっくり眺めながら、自分のケーキを味わった。舌に広がる美味さと目に映る愛しさの両方が、心を満たす。
 皿にひとかけらも残さず食べきって、紅茶を啜ると、僚は小さくため息をついた。夢見心地のひと時、といった雰囲気に、神取はあらためてお茶会に招待してよかったと思った。

「……ほんとに美味かった」

 ごちそうさまでした。丁寧なあいさつに、神取も合わせて頭を下げる。
 僚はもうひと口紅茶を喉に滑らせ、丁寧にカップを置くと、深々とソファーにもたれた。こんなに美味いリンゴのケーキは初めてで、最高に幸せだと、男に笑いかける。
 ああ、食べちゃった…ひどくがっかりしたと含む声音に、神取は笑いを堪えきれなかった。

「そんなに喜んでもらえて、私も嬉しいよ」
「俺こそ嬉しいよ」
「ところで僚は」
「なに?」

 僚は軽く身体を起こし、次の言葉を待った。

「私とケーキと、どちらが好き?」
「……は?」

 小さく眉根を寄せる。思いもよらぬ質問に一瞬時が止まり、再び動き出した頭で、僚は懸命に思考を巡らせた。みるみる強張り、固まった僚の顔を、神取は面白そうに眺めた。こんなに悩ませるつもりはなく、いつもの他愛ないやりとりの一つくらいに思っていたが、彼の意外な反応にがぜん興味が湧く。
 さあ、果たして彼はなんと答えるだろうか。
 やがて僚は、小さく開けていた口を噤むと、きつく眉根を寄せ俯いた。

「ごめん……一生懸命考えたんだけど」

 答えが出せないと、僚は今にも泣きそうに顔を歪ませた。神取は小さく目を瞬き、時折うかがうように目配せしてくる僚を凝視した。
 俯いてはちらりと目を上げ、様子をうかがっていた僚は、何度繰り返しても無言のままでいる男に降参し、白旗を上げた。

「全然引っかからないのな」

 嘘泣きであると素直に白状する。聞かれた瞬間は、間髪を入れずケーキと答えようと喉元まで込み上げたが、それでは面白くないと思った僚は、嘘泣きでうろたえさせる作戦に出た。しかし結果は、ご覧のとおりである。
 神取は口の端でにやりと笑い、僚は、失敗したと苦笑いした。

「騙そうとするとは、悪い子だね」
「なんだよ……そういう鷹久は、俺とケーキとどっちが好き?」

 テーブルの皿と自分とを順繰りに指差し、僚は詰め寄った。
 ずいと寄った顔に神取は小さく目を見開き、さて、確かめてみようかと緩く笑った。

「いつも確かめてるじゃん。昨日もおとといもさ」
「君はいつも味わいが変わるからね」

 男の手が頬に添えられ、僚は目の端でそれを見やった。途端に、真っ昼間から何という話をしているのだと焦りのような落ち着かない感情に揺さぶられる。

「……で。どうやって確かめる?」
「味見をして」
「……味見するだけ?」

 眼を眇める僚に無言で笑い、神取はもう片方の手も頬に添えた。
 その、もったいぶった微笑が妙に癇に障る。僚は唇を尖らせ「毒が入ってるかもしれないぞ」と脅した。
 神取はそこにそっと人差し指を当て宥めると、ゆっくりキスをした。
 手を上げて拒んでやろうと思った僚だが、動かず、重なってくる唇を受け入れた。

 

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