Dominance&Submission

いい勝負

 

 

 

 

 

 音楽室に向かう前、五階の窓から見た時は積もっているというにはほど遠い様相だったが、チェロの練習を終えて五階に戻ると、はっきりわかるほど雪は降り積もっていた。
 部屋からの明かりを頼りに外に目を凝らすと、綿を細かく千切ったような雪が途切れる事無く降り続いているのが見えた。 
 ますます明日が楽しみである。桜井僚は、キッチンで反省会の準備をしている男に顔を向け、同意を求めた。
 キッチンの窓から外の様子をうかがい、同じ気持ちであると神取鷹久は笑いかけた。用意出来た二人分の紅茶と、クリームを挟んだクッキーをテーブルに運び、反省会に取り掛かる。
 先月、年の初めに、機会があったら三重奏をしてみないかと持ち掛けたのをきっかけに、僚は意欲的に貪欲に技能を磨くようになった。話をした時はとんでもないと青くなって首を振ったが、やはり興味があるのだろう。心構えが変わり、驚くほど豊かな音を紡ぐようになった。その一方で、ところどころ気が抜ける事があった。安定感に欠けるのだが、一歩ずつ上達は感じられた。今後が非常に楽しみである。
 口に詰め込んだクッキーをもぐもぐと噛みしめながら怖い顔で五線譜を睨む僚にそっと笑い、神取は紅茶のカップを傾けた。問題点と戦っている真剣な眼差しに、自然と頬が緩む。自分もかつてあのようだっただろうかと遠く思い出す。
 やがて僚は納得のいった顔で手にした筆記用具を置き、ありがとうございましたといつものように頭を下げた。相変わらず礼儀を欠かさない彼が気持ちいい。
 僚はそれまでの怖い顔をすぐさまほどくと、手早く五線譜をしまい、ほっとした様子でクッキーに手を伸ばした。くつろぐ時間に切り替えた僚に安心して、神取も同じようにクッキーをつまんだ。

「チェロは、楽しい?」

 問いかけると、僚は大きく目を見開きもちろんだと力強く頷いた。やればやるほど楽しくなってたまらない、その一方で自分の未熟ぶりがわかり、しかしどう埋めればいいのか悩んでもわからなくて悔しくなって、そこがまた楽しいとにこにこと答えた。

「いつも、弦と弓が触れる瞬間に、なんというかこう、静電気みたいなものを感じるんだ」

 実際にびりっとくるわけではなく、感覚的なものだが、触れた瞬間に何かが身体を走り抜ける感触があるのだ。

「上手く説明出来ないんだけど。とにかくそういうのがあってさ、それがとりわけ好きなんだ」

 これから弾くぞ、って武者震いかもしれない。
 彼独自の世界を、神取は興味深く聞いた。語る顔は生き生きとした輝きに包まれ、頬は少し紅潮していて、全身から楽しんでいる気持ちが発散しているのが見て取れた。

「どんどん楽しくなっていく」

 それが嬉しくてたまらないという表情で、僚はにっこり笑った。
 菓子皿のクッキーは残り二枚だ。僚は一枚つまむと、もう一枚はそちらの分だと男に目配せし、椅子から立ち上がった。窓に近付き、雪がどのくらい積もったか確かめる。部屋は暖かいが、窓際に来ると冷気がひんやりと足元にまとわりついた。我慢して外をのぞく。目が暗がりに慣れ、ようやく見えてきた。明日の朝が楽しみだと喜ぶ一方で、足元から這い上ってくる寒気に小さな身震いを一つ。するとタイミングよく、男が後ろから抱きしめてきた。

「寒くはないか」
「今あったかくなった」

 特に背中があったかいと、僚はくすくす笑いをもらした。
 神取も笑いながら、耳朶に軽くキスをした。
 ほっぺたに押し付けられる唇の柔らかさがむず痒く、僚は片目をつむった。回された腕を掴み、また笑う。
 捕まえたようで捕まった事に神取は頬を緩め、さらにしっかり抱きしめた。腕の中で楽しげに笑う少年につられ、一緒に笑う。彼の少し癖のある黒髪が揺れ、ふわりと蜂蜜の匂いが鼻先をかすめたように思えた。途端に、昼に彼から贈られた素晴らしい一枚が思い出された。貰った絵はしっかりファイルに挟み、保管してある。

「今日は素敵な絵をありがとう」

 僚は振り返るようにして斜め上に顔を持ち上げ、気に入ったか、と聞いた。男は何度も大きく頷き、大事にすると答えた。僚は唇を引き結ぶようにして笑った。自分ではあと一歩納得のいかない出来なので、その悔しさもあって素直に受け取れないのだ。
 でも。

「鷹久が気に入ってくれたなら、嬉しい」

 絵を渡した時、男はしみじみと感激し額に入れて飾っておきたいと言った。そこまでされるのはさすがに恥ずかしく、一人でこっそり楽しんでくれと念を押して渡した。男は渋々承知し、保管した。

「さて、どうやったらお返し出来るだろう」
「そんなのいいよ」

 背後で真剣に悩み始めた男に、僚はもがくようにして振り返る。それでは気が済まないと頑固な男の声がする。そんな事を言われても、本当に何もいらないし何も思い付かない。喜んでもらえただけで十分だ。
 神取は渋い顔で片眉を上げ、少年のしなやかな身体を撫でた。

「私がしつこいくらいに義理堅いのは、もう知っているだろう」
「っ……」

 僚は小さく息を飲んだ。たったひと振りの動きであっけなくとらわれる己が腹立たしく、その一方でもっと深く沈んでいきたいとも思ってしまう。
 すんでのところで僚は首を振った。あの絵は、いつかの励ましのお礼を込めてのもの、しかし納得のいく出来に仕上がらなかった。だから、その分を埋める為に自分こそ男に与えねば。でなければ自分が承知しない。
 僚は窮屈な腕の中で向き合う体勢になると、己のものを男のそれに擦り付けた。ほんのわずかだが、男の眼差しがぴくりと反応する。

「俺だって、負けてないつもりだ」

 勝気な瞳が挑むように見つめてくるのを、神取は眩しいものを見るように目を細めた。

 

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