Dominance&Submission

雨とみかん飴とあれ

 

 

 

 

 

「雨、降ってるな」

 キッチンの小窓から見える外をうかがい、桜井僚は傍にいる男に声をかけた。
 僚と並んで朝食の後片付けをしていた神取鷹久は、振り返って軽く肩を竦め、今日は一日雨だそうだ…返した。

「止みそうに見えるんだけどな」

 小窓から見える範囲では、空は白く眩しい。もう間もなく晴れるようである。どんよりと重たい灰色の雲が分厚く空を覆っているなら諦めもつくが、と、僚は軽くため息をついた。

「仕方がない。今日は、家でゆっくり遊ぶとしよう」
「なに、大人の悪い遊び?」

 いたずらっ子の顔で笑う僚に、神取はとんでもないと首を振った。

「自分のような気弱な一般人に、そんな事はとてもとても」
「……よく言うよ」

 僚は目を見張り、どの口が言うのかと大げさにため息をついてみせた。そしてすぐに笑顔に切り替え、男にある事をせがんだ。

「チケット、見てもいい?」
「ああ、どうぞ」

 神取は笑顔で目を瞬き、いよいよ来週に迫ったクリスマスコンサートのチケットを保管場所の棚から取り出す。手渡すと、僚はひどく真面目ぶった顔でじっくりとチケットの表面を眺めた。少しおっかないほど真剣な眼差しだが、そこには間違いなく喜びが煌いていた。独特の美しさを放つ横顔に、神取はしばし見惚れた。いつまでも残しておきたいと心に焼き付ける。
 すでに一度当日の予定を細かく打ち合わせしているが、確認を兼ねて僚は聞いた。

「用意して、アパートで待ってればいいんだよな」
「そう。マンションを出る時に、一度連絡を入れるよ」
「わかった」

 頷き、僚はむず痒そうに口を噤んだ。見ているこちらまで心が弾みそうな、愛くるしい微笑。
 神取は元通りチケットをしまうと、玄関の方、僚のコートと斜め掛けを預かっているクローゼットへちらりと目を向け、ソファーにくつろぐ僚に口を開いた。

「ところで、僚」
「なに」
「君の荷物にあるノートと筆記用具、出さなくていいのかい」
「……ああ」

 笑いの余韻をわずかに引き攣らせ、僚は唸るようにして応えた。もし時間があれば、例えば夜にお互いくつろぐ時にでも、勉強の時間に充てようと思って詰め込んできたものだ。

「よくわかるな」
「まあね」

 何故わかったのかと一瞬疑問が浮かぶが、男の目はあらゆるところに配られ決して見落とす事はない。それは、勝手に荷物を暴いたという意味ではない。常に目と心を配っているからこそ、差異に気付き、的確に答えを見出す事が出来るのだ。
 さすがだと、目を瞬く。嬉しく、また誇らしく感じられた。

「そんなにすごく切羽詰まってる訳じゃなくて、ちょっと補強出来たらと思って、持ってきたんだ」

 神取は軽く頷いて言った。今日が雨の空模様なのはわかっていたので、雨の日でも楽しめる外出先をいくつか考えていた。雑誌から専門書から絵本から、なんでも取り揃えている大きな書店をそぞろ歩きする。君の興味を引きそうな博物館をめぐる。外出が億劫ならば、午前も午後もたっぷりチェロの練習に費やす。

「色々と用意していたが、よし、午前中は勉強会といこう。荷物を持って書斎においで」

 決まりだと指示を出し、書斎に向かう男の背中に、僚は目を瞬いた。まだ何とも返事をしていないのに強引だと面食らう一方で、当然とばかりに動く様は爽快に感じた。僚は早足で玄関に向かった。
 書斎にはデスクが二つあった。一つは、窓を背にして置かれた大きめのもの、もう一つは、書棚の一角のスペース。
 どちらが使いやすいか聞かれ、普段は壁を向いているので、同じ方がはかどるだろうと僚は書棚の一角を選んだ。

「承知した」

 神取は頷き、広げていた書類や本を手早く片付け明け渡した。僚は端の方に恐る恐る荷物を置き、勉強道具を取り出した。揃えながら、さりげなく男の様子をうかがう。メインのデスクに書類を広げ、何やら確認しているようだった。ここで、同じ室内で一緒に勉強なり仕事なりをするのかと思うと、心がむずむず落ち着きを失っていくのがわかった。その時、斜め掛けから一冊の文庫本が滑り落ちた。ノートを取り出す際引っかかってしまったようだ。よそ見するから…僚は慌てて手を伸ばした。それより一歩早く、神取の手が本を拾う。

「ありがと。それも、時間があったらちょっと読もうかなと思って、入れてたんだ」

 神取は一度渡してから、見せてくれと要求した。僚は素直に手渡し、結構気に入っている作家の短編集だと紹介した。神取は表紙をめくった。名の知れた出版社の書籍で、有名な作家のものだ。おぼろげな記憶だが、アパートの本棚にこの作家の本が何冊か並んでいるのを見た覚えがある。

「これ、読ませてもらってもいいかい」
「いいよ。結構面白いよ」

 おすすめだと、僚は目を輝かせた。一篇ずつが短く、気軽にさっと読めるが、内容はとても濃くて読み応えがある。短編集だからどこから読んでもいいし、休み休み読めるけど、次も、次もと手が止まらない事請け合いだ。
 神取はますます興味が湧くのを感じた。普段自分が選ぶものとは全く違う分野で、こういう機会でもなければ中々手にする事もない。いい巡り会わせに心が弾む。その一方で、こういった本が彼の興味を引くのかと、うっすらと嫉妬めいたものが込み上げる自分を情けなくも思った。

「じゃあ、机借りるね」
「ああ。思う存分頭を使ってくれ」

 頑張ると返事をした僚だが、背後の男をいないものと一切無視して作業出来るだろうかと、こっそり苦笑いを零す。
 僚が座ったのに続いて、神取も椅子に身を預けた。散らかしていた書類を整理し、目を通し、出来るだけ物音を立てぬよう処理する。急を要するものだけ片付け、他は後回しにして、借りた本を手に取る。薄茶色のカバーには、書店名が控えめに印刷されていた。僚のアパートのほど近く、駅前にある書店のものだ。
 神取は椅子にもたれ、表紙を開いた。
 読み始めは、ちらちらと僚の様子をうかがっていたが、やがて独特の世界に引き込まれ、時間を忘れて読みふけった。ふと戻り時計を見ると、昼まで一時間もない。もうそんなに経ったかと小さく驚く。
 神取は少し目を休める為、静かに本を置いた。僚の方は変わらず凄まじい集中力を見せていた。たまに、深いため息が聞こえてくる。呼吸も忘れるほど没頭しているようだ。黙々と勉強する背中を見ていると、自然と笑みが浮かんできた。
 それからしばらくして、ふっと僚が手を止めた。詰まった時、考え込む時、幾度も繰り返された動作だが、この時は様子が違った。頭の傾きがノートではなく自分の身体に向いている。何か心配事があるような…見守っていた神取は、何が原因で彼が硬直したのかすぐに答えに行き着いた。机の上にあった左手が腹を押さえるのを見て、確信する。
 一心不乱に問題に向かってエネルギーを使い果たし、いつもより早く空腹がやってきたのだ。それを知らせようと、腹の虫が鳴いて彼を悩ませたという次第だ。今にも鳴る予兆を感じて、僚は腹を押さえたのだ。

「……聞こえた?」

 恐る恐るといった様子で、僚は肩越しに振り返った。ほんの囁くような声と、幾分赤くなった顔に、神取は笑いを堪えきれなかった。たちまち僚は唇を尖らせた。

「……笑ってろ」
「済まん。こちらまでは聞こえなかった。本当だよ」
「そうかよ……」
「よければそろそろ切り上げて、ランチはいかが」

 ある程度の空腹状態は集中するのにいいが、過ぎては身体に毒だ。自分も腹が減ってきたので、と神取は誘った。
 しばしの静止の後、僚はごく小さく頷いた。

「すぐ用意する」

 苦笑いを向け、片付けに取り掛かる。腹が鳴った事で、途端に猛烈な空腹を自覚した。やりたいと思っていた範囲には到達していたので、がっくりと力が抜けたようになったが気分は良かった。ノートと参考書をまとめていると、右側からオレンジ色の小さな何かが差し出された。みかんの文字にはっと目を見開く。

「本当はもっと早く、中頃に渡すつもりでいたんだ」

 遅くなって済まないと男が差し出してきたのは、個包装されたみかんのキャンディーだった。手に乗せ、僚はぱちぱちと目を瞬いた。つい先日秘書の女性におやつの一つとしてもらったのが気に入り、君にも是非にと思って取り寄せたのだと、男は説明した。

「忘れた訳では、ないのだがね」
「……ふうん」
「まあ、味わってみてくれ」

 どうも信じられないなあとからかう目付きで、僚は包みから取り出したキャンディーを口に放り込んだ。たちまち、小さな事はどうでもよくなった。果物全般が好き、特に柑橘類が好き、もっと言えばみかんに魅了されているといっても大げさでないほど、大好きな一つ。そのみかんそのままの味が口いっぱいに広がり、僚は満面の笑みで男を見た。

「ああ、よかった――」

 ほどけた空気にほっとすると同時に、デスクに置いていた携帯電話が鳴った。二人は揃ってそちらを見た。

「すぐに戻るから、しばらくはそれで空腹を耐え忍んでいてくれ」

 そう言って携帯電話片手に書斎を出ていく男に頷いて応え、僚は戻ってきたらすぐ出かけられるよう片付けに取り掛かった。忘れ物がないか確認を済ませ、男のデスクに置かれた文庫本を見やる。書店で購入した際付けてもらったしおりが、ぴょこんと頭をのぞかせている。割と後ろの方だ。楽しんでもらえただろうか。面白いと、気に入ってくれたら嬉しいのだが。
 甘酸っぱいみかん味にほっぺたがにっこり緩む。しばらく右に左に転がして味わっていると、男が戻ってきた。

「待たせたね」
「ううん。急ぎの、何か出かける用でも?」
「いいや、ちょっとした確認の電話だ。もう済んだから大丈夫だ」

 何も変更はない、出かけようと男は続けた。
 僚は一つ頷いた。

「さて、駐車場まで歩けるかい」
「なんとか頑張る」

 ホールでコートに袖を通しながら、僚はわざとふにゃふにゃとした声を出した。もう一歩も動けそうになかったが、このみかん味のお陰でなんとか駐車場まではもつ…息も絶え絶えといった演技に、神取は笑いながら乗っかり、美味いピザが待っているぞと励ました。

「よし、早く行こう」

 僚は背筋を伸ばした。今日の昼は、ピザレストランを予定していると男は言っていた。思い浮かべるとそれだけでよだれが出そうになる。これ以上情けない姿を晒してなるものかと、駐車場へ向かう。
 車に乗り込み、シートベルトをしたところで神取は口を開いた。

「勉強の方は、はかどったかい」
「うん、なんだかすごく集中出来た」
「そのようだね、よかったよ」

 神取は車を発進させた。地下の駐車場を出ると、ぽつぽつと雨粒が降りかかりあっという間にフロントを覆った。ワイパーに拭われる雨粒をしばし見つめ、僚は続けた。

「何とも言えない、妙な感じだったんだ。すぐそこに鷹久がいるから、すごくこううきうきするんだけど、それが全部集中に向かう感じで、いつもよりずっと気が逸れないで出来た。そわそわしてるのに、集中してた。あれは今までない、不思議な感覚」
「ただ隣にいただけだが」
「ううん、すごく助かった。どんどん頭に入ってきて、気持ちよかった」

 弾んだ声で褒められ、神取は笑顔で肩を竦めた。
 五分ほどで、件のレストランに到着した。店の向かいにある指定の駐車場に車を止め、二人は揃って店内に入った。
 貫禄のあるピザ窯を取り囲むようにぐるりとカウンターがあり、大きく明るい窓に沿っていくつかテーブル席があった。
 二人はカウンターに着席し、店自慢のピザを含むランチセットを注文した。
 前菜のサラダをつつきながら、神取は借りた本の感想を口にした。僚は目を輝かせて応え、自分もその一篇が好きだとか、どこに唸ったとか、熱く感情をぶつけた。
 お喋りを交わしていると、お待ちかねのメインが二人の前に運ばれた。
 トマトの赤、バジルの緑、チーズの白。美味そうな匂いが骨身に沁みる。もう一秒も我慢出来ないと、僚はナイフとフォークを構えた。

 

 

 

 ピザを平らげた時は満面の笑みで、店を出る時は感謝の顔で、そして今車に乗り込んだところでは少し夢見心地の顔で、僚はご馳走様と呟いた。
 見るからに幸せいっぱいととろけた表情に、この店を選んでよかったと神取は喜んだ。
 車を発進させ、帰路につく。
 道中、僚は店で味わったもの全部が最高だったと絶賛した。明るくはつらつとした声が車内を満たす。外は相変わらずの雨模様だが、眩しい陽光を浴びているように思え、神取は心まで満たされるのを感じた。
 マンションの裏手から地下の駐車場に滑り込み、神取は車を止めた。その少し前から、僚の視線は男の顔に注がれていた。エンジンを切り、神取も顔を向けた。
 視線を受け止め、僚は曖昧に笑った。途端に腹の底が痛いほど疼いた。昨日あんなにしたのに、また…ほしくなったのだ。
 シートベルトから抜け出し男に覆いかぶさるようにして口付ける。神取は抱きとめ、キスに応えた。そのまま深く溺れてしまいたいのを堪え、車を降りて五階に向かう。
 五階に戻り、玄関の鍵を閉めたところで二人は待ちかねたように抱き合い、唇を重ねた。柔らかく湿った唇の感触にうっとりして、僚はくすくすと笑みをもらした。何が可笑しいと明確なものはないが、笑いが込み上げてくる。強いて言えば、こんなところでせっかちな自分たちが、可笑しい。厚手のコートをごそごそさせながら背中をまさぐって、少しむきになってコートの中に手を潜り込ませて、ちっともスマートでない自分たちが本当に可笑しい。
 しかし今しばらくは、止められそうになかった。
 外の空気にさらされたのはほんの少しだが、十二月の雨は凍えるようで、身体が冷えた。もう少しここで互いに温まりたい。
 神取も同じような気持ちを抱え、ぬくもりを求めて僚の身体を撫でさすった。その手がある一点を過ぎった途端、僚の口から「痛い」と声が飛び出した。
 神取ははっと目を見開いた。

 

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