Dominance&Submission

一晩中

 

 

 

 

 

 前に作った時よりも今日の方が美味しい気がする…自作のつまみを前に、桜井僚は思った。
 レシピ本から引用して、アパートで一度試しに作った事があるのだ。中々の美味で、これなら男も気に入ってくれるだろうと一人にんまりとした。
 その時と同じ材料を使用したが、それだけ素材が上質なのだろう。やはり伊達に高いわけではないのだ。ちらりと隣の様子をうかがう。つまみを片手にワイングラスを傾け、男はくつろいでいた。
 美味いな、と零れた呟きに、僚は心の中でそうだろ、と応える。

「よかった」
「いや、本当に美味いよ。ありがとう」
「よし、どんどん食べろ」

 安心してソファーにもたれ、今一度男の様子を眺める。身体は、肩も膝も程よく力が抜けてリラックスしているのが見て取れるが、顔付きはいささか険しく、あと一歩で判明出来る違和感に悩まされているように見えた。そんな顔で美味いと言うのだからおかしい。見方によってはまずいのを我慢しているようにも受け取れるが本人いわく、あまりの美味さに言葉を失っている状態なのだそうだ。
 始めは少々戸惑ったが、いつもしかめっ面というわけではないし、口から出る言葉の響きで聞き分ける事が出来るくらいにも馴染んで、色々わかるようになった。自分だって喜び方は一種類ではないし、言葉だけ切り取れば正反対に受け取れるものもある。考えれば難しい事はない。
 男は今、心から喜んでいる状態なのだ。
 それを自分がもたらしたのだと思うと、たまらなく嬉しかった。今日の楽しい一日に、少しでもお返しが出来たなら最高だ。僚は手に持っていた残りの半分を口に放り込んだ。ひと口目より更に美味しくなった気がした。
 同じようにいやそれ以上に幸せを噛みしめて、神取鷹久はワイングラスを傾けた。テーブルに置くと同時に僚が口を開き、楽しかった今日一日の感想、主に映画の感想を、賑やかに語り始めた。実は自分もまだ語り足りない部分があって、むずむずしていたところなのだ。長い夜に感謝して、思う存分言葉を紡ぐ。
 彼から溢れ出る瑞々しい感性はとても心地良く、身体の芯まで沁み込んで満たしてくれるようだった。
 僚もまた、言葉に出す事で新たに疑問が生じたり気付いたりと発見があり、自分とは違ったものの見方をする男からの発信を受け取って考える事で多くのなるほどが弾けて、どこまでも視野が広がってゆく心地良さを味わっていた。
 神取は、楽しくそして熱く言葉を交わす片隅で、僚の様子をじっと観察していた。どうにも朝の様子が頭から離れていかないのだ。何が彼の言葉を躓かせたのか、どうにも気になる。
 今日は本当に楽しかった。こんな風に語り合い、刺激を与え合えるなんて実に楽しい。

「また今度、面白そうな作品があったら、一緒に行かないかい」

 ぜひ行こうと、僚は目を見開いてきらきらと輝かせた。
 丁度良くやってきたひと息つく静寂の機会に、神取は疑問を口に乗せた。

「よかった、一緒に映画を見に行くのはあまり好きではないのかと……勘違いだったね」
「……え? なんで」

 僚は困惑気味に男の顔を見やった。そんな誤解を与えるようなおかしな態度を取ってしまったかと、今日一日の自分の行動を振り返る。

「いや、私の勘違いだ。朝、少し気になる部分を目にしたので勝手にそう思っただけだ。済まない」

 自分が悪いのではなく男が勝手に思い込んだだけだとわかり、僚はほっとした顔で肩を落とした。そこにいくらか不機嫌さを混ぜた後、突如はっとなって小さく息を飲んだ。どうやら思い当たる過去があるのは間違いないようだ。神取は自分からは言い出さず、彼が話してくれるに任せた。そのまま飲み込むならそれもいい。表情の移り変わりに注意深く目を凝らす。
 しばしの逡巡の後、僚は口を開いた。

「鷹久が初めてアパート来た時、ちょっと前までゴミだらけだった時期があったって、話したよな」

 覚えているかと目線を寄越され、神取は口を噤んだまま頷いた。

「その頃の事なんだけどさ」

 以前一度だけ、もう死のうかなって思った事があるんだ、そう続けられ、息も止まる衝撃を味わう。神取は心持ち開いた目に今にも感情が上りそうになるのを慌てて引き止め、彼が話しやすい空気を作る事に努めた。

「金曜日の夜だった、はっきり覚えてる」

 僚の声には思いつめたところはなく、完全に過ぎ去った、決着のついた事だと云う落ち着きが含まれていた。神取は小さな動きで頷いた。
 僚はへの字に唇を引き結び、続きを放した。
 その何日か前、クラスの人間に映画に行こうって誘われたんだ。メンバーはよく遊ぶいつもの数人で、特に予定もないからとオッケーした。そして金曜の夜、確認の電話が来た。明日、遅れるなよって内容の電話。そっちこそ遅刻するなよなんて、いつものように少し喋って、電話を切った後…本当に唐突に「もう死のう」って思ったんだ。

「今となっては、なんでそう思ったかはわからない。もう全然思い出せない」

 ゴミだらけの部屋が嫌になったのか覚えてないけれどとにかく、いいや、もう死のうって思ったんだ。

「で、ここからがおかしいんだけど」

 僚は笑い、神取はまた目を凝らした。

「どうせ死ぬんだから後の事なんてどうでもいいのに、少しでも後始末がしやすい死に方って何だろうなとか、考え始めちゃってさ」

 首吊り、手首を切る、薬はないからだめで、後なんかあるかな…あれも大変だ、これも厄介だろうな。
 それに部屋中のゴミ、これだって片付けるのにひと苦労だ。こんなだらしない奴だったって思われるのは嫌だなあ。なんて事をぐるぐる考えてる内に、すっかり薄れてどうでもよくなって、風呂入って寝た。

「あれ以降、意味のわからない衝動が込み上げた事は一度もない」

 本当だと、僚の顔が男に向けられる。神取は小さくしかしはっきりと頷き、受け取った。ほっとしたと云うように、僚の目が穏やかになる。

「後にも先にもあの時だけ、本当にものすごい勢いで…なんだったんだろうな」

 僚はしばし考え込み、やはりわからないと首を振った。

「翌日の映画は楽しかったよ」

 声の様子から読み取り、神取は微笑した。僚はその時に見た映画のジャンルと、あらすじを軽く言って聞かせ、もし映画のようなゾンビだらけの町になってしまったらどうするかを、見に行ったメンバーでバカ真面目に話し合ったと付け加えた。

「つまり、映画に関連してそんな記憶が残ってるものだから、ちょっと声が濁ったんだ」ごめん、こんな話「もちろん、今はそんなもの全然考える事ないよ。毎日楽しいし、鷹久の世話で大変だし」

 最後のひと言を冗談めかして笑う僚に神取も合わせて小さく笑い、その陰で隅まで観察する。作り笑いでなく、その場しのぎの上辺の言葉でなく、本心からリラックスして言っているのは間違いなかった。

「そうだったのか」
「うん…だから、映画見に行く事自体は全然嫌じゃないし、好きだよ。今日もほんとに楽しかった。また行きたいって思ってるから――」
「もちろん、また一緒に行こう、私もとても楽しかった」

 次は何を見ようか今から楽しみだと続けると、不安げだった僚の瞳がいくらか和んだ。神取は微笑みかけた。
 あの頃の彼は様々な悩みを抱えていた。様々なものに蝕まれ、疲れ、知らず知らず追い込まれてしまっていた。彼の部屋がひどく乱れてしまったのは心が反映されたものだと、大方の想像はつく。
 彼が、そこまで追い詰められるほど疲れたのは、好きでもないものに無理やり身を投じたせいだ。
 では、何故彼はそのようにしたのか。話したがらない部分に答えがあると神取は推測した。家族…両親。考えていると、僚が恐る恐るといった様子で見つめてきた。先の言葉では、彼を安心させるには足りなかっただろうか。

「どうした」

 何か云おうとする唇を見て取り、神取は尋ねた。

「軽蔑したかなと思って」
「いいや、まさか」
「……そう?」

 完全には晴れないと、僚は探るように見つめ続けた。
 軽蔑するなど断じてないと、神取は硬い顔で首を振った。
 少なからず衝撃的ではあったが、彼の身になって順を追い考えれば、まるであり得ない選択肢とは言えない。そちらへ逃げたくなるのも、無理はないと思えるものだ。
 別の逃げ道を選ばす本当に進んでしまうのは愚かだが、彼は思いとどまり、自分の歩むべき道を進む事にした。驚きと尊敬の念が浮かびやまない。
 でも、だって。僚はもごもごと口の中で言った。

「……顔が怖い」

 神取は思わず笑いそうになった。もちろん、すぐさま飲み込む。黙っていると他人に威圧感を与えるこの面は、仕事の際には役に立つ事も多いが、恥ずかしい過去を洗いざらい話し、軽蔑されやしないかと不安になっている子供には害にしかならなかった。
 彼はひどく傷付きやすい顔になり、今にも泣きたいのを堪える表情で見つめてきた。

「もしほんとに軽蔑してないっていうなら……にこっとするくらいしてよ」

 今すぐ、彼の望む通りにしたかった。
 しかし。

「そうしたいのはやまやまだが……それだけでは止まりそうにないんだ」
「……は?」
「生き残る方を選んだ君が、たまらなく愛しい」

 しかし込み上げてくるのは邪な欲望で、自分の汚さにほとほと呆れてこんな顔になっている。

「なに……つまり?」
「いや。言ったら君はきっと軽蔑する」
「……それはずるいだろ」

 僚は半眼になって睨み付けた。自分は言ったのに、隠すとかないよ。鷹久を軽蔑なんてない、ありえない。
 大きく首を振る。
 そうだ、何が出てきたって驚かない。こんなに変態仲間なのに、今更何をびびっているというのだ。

「さっさと言え」

 僚は勢いに乗って男の胸ぐらを掴み、ソファーに押し倒して馬乗りになった。
 神取は真上からまっすぐ向かってくる僚の目を見つめたまま、彼の下腹に手を伸ばした。僚の目がぴくりと反応する。

「つまりこういう事だ」

 僚は強張った眼差しで下を見やった。男の手が、明らかにその目的で自分の下腹を掴もうとしている。息が乱れた。

「一晩中君を抱きたい。君が生きている証が欲しい」
「……一晩中?」
「そうだ」

 神取は起き上がり、顔を寄せた。胸元にある僚の手を自分の首に回させ、自分からも腕を回し、抱き合う形で唇を重ねた。
 直前、僚の口からいいよと呟きが零れる。
 神取は口付けたまま頬を緩めた。

 

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