Dominance&Submission

溢れて仕方ない

 

 

 

 

 

 アパートのキッチンは決して広くはなく、始めの頃はどう工夫すればよいやら悪戦苦闘したが、暮らすリズムが掴めれば自然と使いこなせるようになっていった。希望はもちろん、もっと余裕が欲しいところだが、まだまだ改善の余地はあり、それらを考えるのもまた楽しい。
 去年の今頃とは大違いだと、弁当箱を洗いながら桜井僚はぼんやり思い返した。
 今となっては、自分一人でどうしてあそこまで部屋を汚す事が出来たのか不思議なくらいだ。それだけゴミや物が散乱していたのだが、それらが一体何だったのか、ぼんやりして上手く思い出せない。
 本や服や生活ゴミ…そういったものだろうが、それらが至る所に散らばって山となり、床を覆い尽くしていた。
 実家にいた時は、そんな生活はしていなかった。隅々まで埃一つなくとまではいかないが、何でもかんでも床に放って平気な性分ではなかった。現在もそうだ。ただあの一時期、自分はおかしくなっていた。
 明らかに汚い状態なのに、何も気にせず生活していた。時折発狂したように一掃するのだが、いくらもしないでまただらしない状態に戻っていた。
 それが、ある男と出会った事で一変した。
 神取鷹久。
 愚かな行為にのめり込みぐずぐずといじけていた自分を、彼は一切軽蔑する事なくまっすぐ見てくれた。たちまち自分は虜になって、彼の傍にずっといたいと熱望した。あの目でずっと見ていてもらえたらと願った。
 決して叶わない大それた望みだとわかっていたが、諦めきれなかった。
 彼に触れて生じたそれらの心の動きが、自分を変えた。
 彼が変えてくれた。
 大げさでなく、彼は命の恩人だ。
 僚は流しの横にある白い冷蔵庫の中身を透かし見た。丁度目の高さの棚に、小瓶が二つ並べて置いてある。冷蔵庫を開ける度すぐ目に入る場所に置いたそれは、昨夜彼を思って作った特製のリンゴジャムだ。
 特製といっても、何の変哲もないが…あえて言えば、気持ちだけはたっぷり込めた。
 今夜、間もなく、これを取りに男がやってくる。都合の良い日に自分が届けるつもりでいたが、今日の何時に取りに行くと告げられ、嬉しさと喜びで胸が弾んだ。
 男は時間に正確だから、もう間もなくに迫った時刻に気持ちが急いて仕方ない。
 迎える準備は整っているが、何か抜け落ちているように思えてそわそわとする。僚は今一度部屋をぐるりと確認した。
 そうこうしている内に、約束の時間となった。
 無意識にピアスをいじっていた僚は、訪れた男をいらっしゃいと迎え入れた。

 

 

 

「お邪魔するよ」
「どうぞ」

 招く声に従い神取はまっすぐ部屋に入った。よかったらと差し出されたハンガーをありがたく受け取る。前回のような胸にぎゅっと迫る緊張感はなかったが、代わりにふわふわと浮ついた気持ちが胸の内で踊っていた。
 浮かれ気分なのは僚も同じであった。男と目を見合わせ、微笑む。自然と頬が緩んだのだが、不意に気恥ずかしくなり、くつろぐよう促してお茶の準備に取り掛かった。

「今日はもう、仕事は終わり?」
「ああ。あとは自由時間だ。君とのお茶会をたっぷり楽しめる」
「大したお茶菓子ないけど」

 僚は苦笑いしながら、用意していたビスケットを軽く掲げた。大好物の一つだと、男は目を輝かせた。ぱっと明るい表情になった男を見て、僚もまた微笑んだ。

「ところで……僚」

 声と同時に真面目ぶった顔付きになった男に、僚は背中がぞくりと冷えるのを感じた。今日彼がここに来た理由がほんの一瞬脳裏を過ぎるが、声の調子からすると、それよりずっと深刻な何かを告げようとする前触れにしか聞こえない。今日の約束が遠く霞む。僚はなんと切り出されるのかとごくりとつばを飲み込んだ。じりじりする緊張感の中、続いて出された「例のブツは」という言葉に一気に緩み、思わず声に出して笑う。もったいぶった演技をするものだと怒りたくなったが、おかしさの方が上回った。
 僚は肩を揺すりながら冷蔵庫を指差した。

「よし、見せてもらおうか」

 芝居がかった声を出す男に調子を合わせ、僚はこちらにと大げさに演じた。必死に笑いを堪えるせいで、腹が痛いほど引き攣った。しようもなく馬鹿馬鹿しいのだが、中々笑いは収まらなかった。腹いせに男の肩を軽くたたく。
 そこで神取もとうとう演じきれなくなり、口端を震わせた。一旦笑ってしまうと溢れて仕方なく、二人は互いの笑い声さえおかしいと腹を抱えた。
 僚はふうふうと息を零しながら眦を拭った。言葉はごく短いのだが、理屈抜きで笑えた。呼吸や間合いが絶妙なのだろう、そして顔。そこまでわざとらしいものではないが目線や目の開き具合といったものが、むせるほどの笑いを誘うのだ。
 ようやく呼吸が戻ってきたところで、僚は冷蔵庫を開いた。小瓶を示すと、男の目がまたきらりと光った。控えめな表現だがとても好感が持てるもので、そういうのを見るにつけ男に惹かれていった。

「ああ、とても美味そうな色だね」

 柔らかな口調が耳に心地良い。自然と浮かぶ笑みに僚は頬を緩め、これはリンゴの皮の赤い部分で色付けしたものだと説明した。

「なるほど。それに実の黄金色が混ざり合って、実に綺麗だ。見ていると喉が鳴るよ」
「口に合うといいんだけど」
「自信のほどは?」

 小瓶から僚へと目を移し、神取は尋ねた。軽く肩を竦め、結構あると微笑む僚に目を細める。

「楽しみだ」
 さて、どうやって食べようかと神取はいくつか候補を口に出した。ならば、こんな料理に使っても結構合うと、僚はアイデアを出した。ぜひ試してみようと神取は微笑んだ。

「帰る時まで、冷やしておいてくれるかい」
「うん」

 僚は笑顔で頷き、ゆっくりしていってくれとテーブルに誘う。神取は前回と同じ位置に腰を据え、出されたカップに口をつけた。ひと口啜り、落ち着くとため息交じりに吐き出す。身体の中に行き渡る熱と香りの感触を楽しみながら、正面に見える机や本棚を何気なく見渡す。相変わらず綺麗に整頓されており、それは今日自分が来る事でより気を付けた部分もあるだろう…次も厳しくチェックすると冗談交じりに予告した…それを抜きにしても彼の部屋は綺麗に片付いていて、しかし窮屈ではない程よい空気が漂っていた。とても居心地が良い。

「君は片付けが上手いね」
「ああ、指導係がすごく厳しくてさ」

 誰とは言わないけど、とわかりやすい横目を寄越され、神取は軽く肩を揺すった。

「それに、ここは静かでいいね」
「うん、だろ」

 僚は嬉しげに目を細め、隣でくつろいだ様子の男を見つめた。昼間、男がどんな忙しさに身を置いているか想像も及ばないが、ここで少しでも気が休まるといいと、皿に並べたビスケットをすすめる。
 男が齧るのに合わせて、僚は自分もビスケットを口に運んだ。
 しばし静寂の後、神取は口を開いた。
 ところで、最近学校の方はどうだい、と、他愛ないお喋りが自然に始まる。
 聞き上手の男に巧みに乗せられ、また引き止める気持ちもあって、僚は少し早口で最近の出来事を男に言って聞かせた。
 次々紡がれる日常の楽しい場面の数々に、神取は熱心に耳を傾けた。語りを聞いていると、まるで自分が本当にそこに、教室やグラウンドに存在しているかのように思えた。自分もクラスの一員になり、実際に体験したかのように思えるほど、引き込まれた。それほど彼の語りは巧みであった。
 僚自身、この出来事はそれほど面白いとは思わないと感じていたものも、男の前に出すと途端にきらきらとした記憶に変わり、自分でも驚くほど滑らかに口が動いた。
 二人は互いに、相手の才能に驚いていた。上手く合致していた。
 交互に、あるいは同時に菓子を摘みカップを傾けながら、楽しいお喋りは続いた。
 いくらか落ち着いたところで、僚は切り出した。

「あのジャム、鷹久の誕生日プレゼントの一つ……のつもりなんだけど」

 もらってくれるかと、心配から心持ち上目遣いになる僚に神取は微笑んだ。思いがけない心遣いに喉が詰まって、微笑むのが精一杯なのだ。こんな初心な反応を自分がするなどと笑いたくなり、代わりに涙が押し寄せる。

「ありがとう、嬉しいよ僚」
「喜んでもらえて俺も嬉しい」

 ほっとしたと僚は肩の力を抜いた。

「是非お礼をさせてくれ」
「え、そんなの」
「溢れて仕方ないんだ、受け取ってくれるかい」

 間近に見つめ、頬を撫でる男の手に僚は口を噤んだ。
 更に男の顔が近付く。

「ああ……うん」

 ぼやける男の顔を見つめ、僚は吐息ほどにもらした。

 

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