Dominance&Submission

夜を貪る

 

 

 

 

 

 片手鍋の中で、リンゴがぐつぐつと煮えている。
 手にしたヘラで上下を返すと、桜井僚は屈んで火加減を調整した。
 隣のコンロには水を張った両手鍋があり、そろそろぬるま湯を越える頃だ。鍋の底から、ぽつりぽつりと泡粒が立っているのが見える。こちらも火加減を見る。
 片手鍋の中身を、時々ヘラで潰しながらかき混ぜ、じっくりと煮詰めていく。
 焦げ付かないように火加減に注意し、丁度よいとろみになるまで煮れば完成だ。
 それほど神経を張る繊細な作業ではないせいか、鍋の中を見つめていると色々な事が頭に浮かんでくる。
 先ほど、一時間ほど前、準備の為に三個のリンゴを薄くスライスしていた時も同じだった。
 一番は、もちろん、このジャム作りが上手くいきますように、という事。
 甘さもとろみも歯応えも、全部ぴったり男の好みに合う仕上がりになるといいな…ひたすらリンゴを切りながら思った。美味いと言ってもらえるだろうか、上手くいくだろうか。期待と不安が交互に頭に浮かんだ。
 作るのは初めてではない。家にいた頃も、このアパートでも、何度か作った事がある。中々好評で、自分でも悪からぬ出来だと思っているが、こうして誰かに作るのは初めてだ。誰かを思って作るのは初めてで、そのせいか自信がある事なのに時々不安が突き刺すようにやってきた。
 砂糖の分量を量り間違えているなんて事は…と、冷や汗が浮かぶ。背中が冷えると同時に、脳裏にくっきりと計量した時の事が蘇り、僚は一人苦笑いを浮かべた。
 凍えた背中が元に戻ると、今度は男との楽しいひと時が蘇ってきた。連休中、一緒に過ごした様々な場面が、ぱらぱらとページをめくるように蘇る。
 昨日は一緒にフルーツ狩りに出かけた。この、ジャムに使ったリンゴを始め、柿にミカン、特技を生かし大満足だった。男に喜んでもらえて、本当に嬉しかった。
 このジャムも、喜んでもらえると嬉しいのだが。
 隣でぶくぶく沸き立つ鍋の中、ジャムを詰める小瓶が躍る。
 朝も楽しかった。のんびり朝風呂に浸かって、向かい合って朝食を取って、それからフルーツ狩りに出かけた。大きな窓のある風呂は本当に気持ち良かった。
 お揃いの石鹸にはしゃいだ自分を思い出した途端、笑いが込み上げてきた。恥ずかしさも交えて、僚は声をもらした。
 一旦鍋を火から外し、とろみの具合を確かめる。あともう少しだと、コンロの火を心持ち弱める。覗き込んでいた姿勢をまっすぐに戻したところで、今度は男に初めて手料理を振る舞った時の事が脳裏で強烈に閃いた。
 まず思い出されたのは、男のマンションのガスコンロが強力であった事、だった。
 いつもの、このアパートの火加減の感覚では少々強くて、危うく焦がしてしまうところだった。その瞬間の、ひやりとした感触が背中を過ぎった。僚は小さく息を飲み、次は気を付けねばと肝に銘じる。
 メニュー自体は大成功だった。食べ始めにひと言もらしたきり、しばらくは何も言わず黙々と口に運ぶだけだったが、輝いたあの眼差しは忘れられない。
 思い浮かべるにつけ、顔がにやけて仕方ない。
 誰も見ていないからと遠慮なく頬を緩め、僚はぐらぐら沸き立つ鍋の中から小瓶をすくい上げた。顔と同時に気も緩んだのか、瓶を挟む箸から熱湯が伝い、熱い思いをする。いつもなら絶対に箸を持つ手は下にしないのに。どれだけ浮かれているのだと自分に呆れる。怒りも湧くが、自分自身が悪い為に向ける先がない事に情けなさを味わう。僚はせめてもの抵抗に喉の奥で唸った。
 片手鍋の火を止める。心持ち緩めの方が、綺麗に仕上がるのだ。瓶に詰める前に、僚はほんの舌先に乗るくらい味見をした。頷き、首をひねり、また頷く。中々の出来ではないだろうか。瓶に一杯詰めながら、これも男の誕生日プレゼントの足しにしようと、心弾ませる。
 三個分のリンゴジャムは、二つの瓶に丁度ぴったり収まった。蓋をしっかり締め、これでよしと僚は頷いた。
 透明な小瓶一杯に、美味そうな色に仕上がったジャムが詰まっている。喜んでもらえるだろうか。このくらいの甘さで気に入ってもらえるだろうか。期待に沿える出来栄え…は自画自賛が行き過ぎかもしれない。
 並んだ小瓶を前に、僚はくるくると表情を変えた。男は優しくて褒め上手だから、多少届かなくても細やかに言葉をかけてくれる。だから難しい。だからこそ本当に感激させたい。考えれば考えるほど不安に見舞われる。けれどふっと、生来の楽天さが舞い降りて心を軽くさせた。
 間違いない、大丈夫。僚は爪の先で軽く瓶の蓋を小突いた。熱くてまだ直接触れない。ほんの爪の先でも、熱気を感じるほどだ。風呂に入っている間に、丁度よく冷めるだろう。
 僚はかっぽう着を脱ぎながら、キッチンを見回した。明日の準備でもれはないか、冷蔵庫から炊飯器から確認する。いつも通り揃っているのを確かめた後、いつも通り、かっぽう着を棚にしまう。
 そこで僚は壁のカレンダーに忙しなく目をやった。次に男に『調理実習の成果』を披露する際、もう一つのかっぽう着を見せると約束していたのを思い出したのだ。忘れないようにしなければと頭に叩き込み、果たして男はどんな反応をするだろうか、あれこれ想像を巡らせ一人楽しむ。
 そうこうしている内に風呂が沸いた。

 

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