Dominance&Submission

特別席

 

 

 

 

 

 今日、こうして車のシートにもたれるのは何度目だと、身体を預けながら神取鷹久は思った。きちんとした椅子に腰かけたのは朝出社して一回、ミーティングを兼ねた昼食会の一回。
 それ以外は、座る間もなくあちらへこちらへと移動を重ねた。それぞれに出向いて、どこで誰と何を喋った事やら。一つひとつ辿り、順序良く整頓する気にもならない。後で、優秀な秘書にこっそり教えてもらうとしよう。
 今日の仕事はもう終わった。頭を切り替え、彼と楽しむ時間に思いを馳せよう。最悪の座り心地だったランチミーティングのあの椅子は忘れて、これから彼と向かい合って座る椅子の快適さに心躍らせよう。
 そういえば、今週頭で試験は終わりだと言っていた。さて結果はどうだっただろう。彼の顔色で結果を占ってみようか。
 あれこれと思い浮かべるがしかし、思うように頭は切り替わらなかった。そうそう上手くいかないものだ。神取自身も己の性分をよくわかっていた。腹立たしいが、それが自分というものだと、半ば諦め受け入れていた。
 だがたった一つだけ、効果抜群の方法があった。
 それは、ここで…いつも彼を迎える学園の正門近くで待つ事。
 その日の出来事や行事などでいつも時間ぴったりという訳ではないが、大きくずれる事もなく、ほぼ決まった時間に彼は校舎を出てくる。
 靴に履き替えて玄関を抜けた彼が、正門近くに止まる車を見つけてぱっと表情を変えた瞬間、自分の気持ちもぱっと切り替わる。
 どんなに疲れていても、頭の中が仕事に関する事で一杯になっていても、まるで魔法のように、一瞬にしてすっきりと色が塗り替えられるのだ。
 自分の中に、よくもこんなメルヘンチックな色彩があったものだと感心するほどだ。それほど明るく鮮やかなのだ。
 彼の持つ力は不思議だ、本当に魔法のようだ。
 彼の顔を見ると疲れが吹き飛ぶ。身体まで軽くなり、ちょっとの事で楽しくなって、笑いが込み上げてくる。
 彼と過ごす時間はいつも楽しい。
 もう間もなくだと、正面から玄関へと目を向けたまさにその瞬間、一人の生徒が現れた。足取りも軽やかに近付いてくる彼に、神取は微笑を浮かべた。

 

 

 

 今夜予約した店は、十二月に寄って以来お気に入りの一つになっている老舗の洋食屋だった。グラタンを始めどこか懐かしい味のメニューが豊富に揃っており、今日はは何を食べようかといつも心が弾む。
 また旬のフルーツを使ったデザートも絶品だった。僚はそこを熱烈に称賛した。さすが、人一倍好きなだけの事はあると、神取は熱心に耳を傾けた。
 何より良いのは店内の雰囲気で、暖かな色の照明が絶妙に配され、テーブルクロスや淡く色付いた壁紙と相まって、とても安らいだ気持ちになるのだ。飾ってある絵のセンスも好ましく、ゆったりくつろげる空間にすっかり魅了されていた。
 今日は一日曇りがちで、ほんのちらりとしか日が射さなかった。風もなく穏やかであったがうすら寒く、こんな日はシチューが恋しくなる。
 メニューにもおすすめとして載っているビーフシチューを注文し、二人はゆっくり味わいながらお喋りに花を咲かせた。
 まずは、過日騒がせた足の怪我も、どこにあざが出来たかもうわからない、完全に癒えたと、僚は経過を報告した。それを聞き、よかったと神取は肩を落とした。

「脛をぶつけなかったのは、不幸中の幸いだったよ」

 何度も重ねて言うが、もし骨をぶつけていたらと思うとぞっとすると、あの程度で済んで良かったと、僚は右足をさすりながら言った。
 全くその通りだと神取は頷く。
 一番気になっているであろう試験の結果は、上々であると、僚はいくらか得意げな顔で言った。聞く前から目の輝きでわかっていたと、神取は笑った。僚も笑い、何でもお見通しになるから今度からサングラスで隠さないと、と続けた。

「そんなに俺ってわかりやすいかな」

 ならばこうしてやると、僚は手で目を覆い隠しおどけた。

「無駄な抵抗だよ。身体から滲み出ている」

 神取は緩く首を振った。そして、今何を考えているか、当ててみせようと笑う。

「へえ、どうぞ」

 やれるものならやってみろと、目を隠したまま僚は言った。

「早くデザート来ないかな、だろう」
「……違うね」
「いや、当たりだ」

 ほんのわずか、息を飲むような沈黙があった。それが全てを語っている。

「今のはちょっと、ずるいと思う」

 僚は手を下ろし、尖らせた唇で抗議した。そこへ待ちかねた食後のデザートが運ばれ、表情がぱっと切り替わった。弾けるような笑みとまではいかないが、きらりと輝きを放った瞳に、神取は口端を緩めた。
 早速とデザートスプーンを手にしたところで、僚ははっとなって男に顔を上げた。案の定、にやにや見つめてくる視線がそこにあった。

「……鷹久の勝ちだよ」

 渋々といった物言いがおかしくて、堪えきれず神取は肩を揺すった。

「まあ、食べよう」

 自身もスプーンを持ち、促す。
 不機嫌からご機嫌へ。滑らかに表情を切り替えて待ちかねたデザートを口に運ぶ僚に、神取はしみじみと視線を注いだ。
 最高の座り心地を提供してくれる椅子に感謝し、神取はお喋りを続けた。美味い物を素直に美味いと身体中で表現して、僚は会話を楽しんだ。
 神取にとっても、最高に楽しい時間であった。ただ、考え過ぎ、気のせいだろうが、ところどころで引っ掛かりを覚える箇所があった。明確に言葉が途切れる、どもるといったものではないが、何か云って寄越す目線を感じる事が時々あった。
 何でも観察し過ぎるきらいのある自分の、悪い癖が、そう思わせているのだろう。神取は気にするのを止め、お喋りに没頭した。

 

 

 

 絶品のビーフシチューで身体が芯まで温まった効果か、僚の奏でる音色は今週も男の涙腺を刺激した。練習を重ねるごとに音は深みを増し、滑らかに紡がれるようになった。苦手とする箇所はまだまだあるが、安心して聞いていられるくらい、安定感が出てきた。
 反省会の席で神取はその部分を特に褒めちぎり、来週が今から待ち遠しいと、そわそわした仕草で僚に笑いかけた。

「そんなに言われたら俺のが泣きそうになるよ」

 僚はおどけて、涙を拭う仕草をしてみせた。そうやって、実際少し滲んだ涙をごまかす。たまらなく嬉しくて、目の奥が痛い。

「いいや、本当に君は素晴らしい。君と縁があって良かった」
 神取はやや興奮気味に、お茶菓子を齧った。言葉はまたも涙腺を攻撃し、いよいよごまかしきれないぎりぎりに迫る。
 僚は慌てて言葉を紡いだ。

「じゃあ、ご褒美くれよ」

 冗談めかしたひと言に、男はにっと口端を持ち上げた。

「もちろん、そのつもりだ」

 現れた支配者の微笑に、僚は小さく息を飲む。冴え冴えとした美しい双眸に射貫かれ、瞬きも忘れる。
「私なりのやり方で、君が喜ぶやり方で、ご褒美をあげよう」
 始まりに僚は細く息を吐き出した。

 

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