Dominance&Submission

かなり重症

 

 

 

 

 

 男のマンションにたどり着いた時、五階でエレベーターを降りた時、桜井僚はそれぞれ時計を見た。丁度午後の一時、約束の時間ぴったりだ。アパートを出る時からせかせかと落ち着きのなかった足を更に速めて、扉の前でチャイムを押す。
 嗚呼待ち遠しかった、ようやく男に会える…といってもいつもと変わらぬ間隔で、何ヶ月も離れていたわけではない。先週の土曜日から丁度一週間、いつもと同じく一週間ぶりだ。だが、いつだって次に会える日が待ち遠しい。その日まで指折り数えて、たまには一日くらい飛び越してもいいのにと苛立ちに見舞われる。どんなに奇想天外を願っても、結局は一日ずつ過ごして待つしかないのだが。
 チャイムから程なく、鍵の開く音がした。
 頭の中で何べんも思い浮かべていたよりずっといい笑顔で、男は迎えてくれた。

「いらっしゃい」

 声に招かれ、僚は玄関に足を踏み入れた。靴を脱いだと同時に男に腕を掴まれ、かなり強引に抱き寄せられる。足がついていかないほどに。

「!…」

 倒れ掛かってくる少年をしっかり抱きとめ、神取鷹久は唇を重ねた。一瞬びっくりした顔になり、すぐに僚は理解して自分からも腕を回した。口内に入り込んでくる男の熱を喜んでしゃぶり、舐め、絡め合う。静かな玄関先で、しばし湿った音が続く。
 全力で走っているのか、それとも水の中を泳いでいるのか。満足に息もつけない僚は、そんな錯覚に陥った。いや違う、男とキスをしているのだ。そうだったと理解すると同時に、ようやく男の唇から解放される。しかしまだ腕の中だった。男が離さないのだ。自分も離したくないが、それ以上にどこか必死の感じで、男は額に口付け、頬をすり寄せるようにして抱きしめた。
 全力で愛情をぶつけられ、照れ臭いようなむず痒いような…顔がにやにやと緩むほど嬉しさが込み上げてくる。
 僚は遠慮がちに男の背中をさすった。

「……なんだよ」
「会いたかった」
「……俺も」

 自分も今日が、この瞬間が待ち遠しかったと腕に力を込める。お返しというように男の手が頭を撫でる。大好きな手と、熱と、声に、僚は目を細めた。抱きしめてくる腕は遠慮も何もなく身体を締め上げ、啜るようにしか息が出来ないのだが、何故だか頬がにやけた。
 それからもうしばらくして、ようやく解放される。キスか抱擁かどちらかで息が止まりそうだったが、一週間ぶりのさびしさはすっかり薄れた。僚は顔一杯に笑みを上らせた。男の顔を見ると自然と込み上げてくるのだ。どこまでも心が弾み、今なら数歩くらいは宙を歩けそうな気がする。
 意識して床を踏みしめ、僚は案内する肩の手に従ってリビングに入った。ソファーの、いつもの場所に身体を沈める。

「今回は、ちょっとしたチョコレート菓子だ」

 気に入ってもらえると嬉しいが、と男は冷蔵庫からなにやら取り出した。恒例の出張先の土産の品に、僚は振り返って目を瞬かせた。
 小さな白い皿を手に戻り、男はどうぞとテーブルに置いた。
 キャンディーだろうか、皿には、上品な銀色の包み紙がころころと乗せられていた。僚はしずしずと手を伸ばし一つ摘まんだ。

「これは?」
「リンゴの甘煮を、チョコレートで包んだもの」

 包み紙をしばし眺め、僚は口に放り込んだ。噛みしめると意外に柔らかく、ほろ苦いチョコレートと甘いリンゴの味わいが鼻に抜けて、顔中に笑みが広がった。美味しい、と目を輝かせる。

「ああ、良かった」

 神取はほっと胸を撫で下ろした。僚は、チョコレートとフルーツって相性良いよなと、オレンジやバナナを挙げ、どれも最高の組み合わせだと思うと滑らかに口を動かした。そして今まで食べた中で、このチョコとリンゴは一番だ、いくつでも食べられそうだと絶賛した。
 神取は何度も頷きながら、土産物で悩んだ甲斐があったと微笑んだ。次は何を買って彼の喜ぶ顔を見ようかと、楽しみが浮かぶ。出張は行きたくないが。
 次に会うまで同じ一週間で、メールのやり取りもいつもとほぼ変わらぬ間隔だが、遠く離れてしまったと思うだけで駄目なのだ、情けない事だが、たったそれだけで心がさびしさで一杯になる。同じ一週間だというのに。

「鷹久も、はい、一つ」

 埋め合わせするように、嬉しそうに食べる僚の顔をじっと眺めていると、手の上に包みを一つ渡される。

「いや、これは全部君の分だよ」
「そう、でも美味いから、一緒に食べようよ」

 戻そうとするとその言葉で引き止められ、神取は息を飲み込んだ。きらきらした眼差しが眩しい。小さく笑い、並んで口に放り込む。
 歯応えがいい、甘さが丁度いいと感想を言い合っていると、そうだ、と何か思い出した声で僚は言った。

「先週はありがとう、本当に楽しかった」

 彼の指す先週とは、海に誘った時の事だ。少し元気をなくした彼を励ます為、ちょっとしたドライブに出かけた。彼は浜辺で大いにはしゃぎ、大いに食べて、とても可愛らしい姿を見せてくれた。どういたしましてと神取は返した。

「勉強の方は、はかどっているかい」
「ん……まあまあ」
「君ほどの頭があれば、たやすいものだろう」
「え、いや」

 買いかぶり過ぎだと、僚は渋い顔で首を振った。

「そんな事はないさ。私が保証する」

 無責任にも思える言葉に小さく目を見開く。何か云いかけた口を噤み、僚は素直に受け取った。男の声は不思議な力を持っていると、むず痒そうに微笑む。

「じゃあ、大丈夫だな」
「ああ、自信を持っていい」

 大きく頷く男に、余計な力の抜けた、顔一杯の笑みを浮かべる。
 神取もあわせて笑い、それからふと、目を伏せる。

「問題は私だ」

 どこか深刻そうな顔付きになり、男は俯いた。
 笑わずに聞いてくれるかと切り出され、僚は顔を引き締め頷いた。

「一つ、困った事があるんだ」

 話は、まだ付き合う前、気持ちを告げる事が出来なかった頃に遡る。つまり一年ほど前の事だ。その頃から一体何に困らされているのかと、僚はテーブルに身を乗り出した。

「あの頃の私は、日に日に大きくなる君への気持ちで心が一杯になって……どこにいても、君を思っていた」

 うんうんと、僚は小さく頷いた。
 でも自分たちは単なるチェロ仲間、チェロの先生と生徒でしかない。

「あんまりさびしくてね、ある日朝早くに入ったレストランで、給仕の若い男性を……」
「……なんだよ、そっちに目移りとか?」

 僚は片眉を上げ低い声でじっとり男を睨んだ。
 神取はすぐさま首を振った。

「いや、そうじゃない。その人物が君だったらいいなあと、妄想に縋ったんだ」
「………」
「給仕の人間はみな同じ制服で、黒い長めのエプロンをしていた。そこに君を当てはめて、自分の傍にいるとこっそり自分を慰めた」

 あの頃男がそんな風に過ごしていたのだと初めて知り、僚は驚きを眼に上らせた。
 神取は眼差しをちらと見やってまたテーブルに伏せ、言葉を続けた。

「それからはもう、どこに行っても君を傍に置きたがったね。注文を取りに来てくれたのが君だったら。受け付けにいるのが君だったら」
「……かなり重症だったんだな」

 僚はテーブルの上で腕を組み直した。
 神取は二度ほど肩をそびやかした。

「そう、情けないが末期状態だったよ。その頃の自分は、君を諦めなくてはいけないと凝り固まっていたからね」

 だから、我儘な妄想に縋った。妄想の中で彼は、秘密の目配せをしてくるのだ。周囲の人間は誰も自分たちが恋仲だとは思わない、誰も知らないのだ。こっそりこうして顔を合わせて、休憩中も、仕事中も、短い時間ながら傍にいる事をお互い確認しあう…そうやって自分を慰めていた。
 どこか悲しそうな顔で小さく唸る僚を上目遣いに見つめ、神取は続けた。

「それで、晴れて君とこうして過ごす事が出来るようになった訳だが、今でもやっぱり出張の際は思ってしまうんだ。気持ち悪い?」
「……は? 鷹久ならそんくらいじゃないと」

 そこまで想われていた事に恐縮するあまり、口調が荒くなる。僚はすぐさま取り消し、しかし上手く言葉が浮かばず、じれったさに唇を歪めた。きっと男を言据えて椅子から立ち上がり、テーブルを回り込んで横に立つ。男は腰に腕を回してきた。待っていた僚は、引き寄せられるまま男の膝に座った。そして、菓子皿に手を伸ばす。

「怖がりでさびしがりやの鷹久は、これでいいかな」

 包み紙を取り、男の口に運ぶ。神取は見上げて微笑み、素直に口を開けた。
 指まで齧られそうになり、僚は慌てて手を引っ込めた。この、と笑いながら怒り、男の頬を撫でる。
 噛みしめながら、神取は満足そうに笑った。

「じゃあ、俺の気持ち悪い話も」

 先を促す男の目配せを受け取り、僚は口を開いた。
 自分も似たようなものだった。街中で、男の呼ぶ声を聞く事が時々ある。今は仕事中だ、出張で遠くに行ってる…絶対にいないのは分かってるのに、声が聞こえた気がして、つい姿を探してしまう事が何度もあった。

「いる訳ないのにって自分に言い聞かせて、するとそれまでは何ともなかったのに、そのせいでさびしくなって」

 神取は抱える腕に力を込めた。僚もまた強くしがみつき、呟いた。

「かなり重症だよな」
「お互い、大変だ」
「まったく」

 小さく笑い、一拍置いてあのさ、と問う。

「どうした」
「鷹久の妄想と実物と、どっちがいい?」
「聞くまでもない。君は本当にいい男だ」

 更に強く抱きしめられる。抱擁を通り越してもはや絞め技だった。降参だと、僚は男の腕を二度叩いた。程よく緩み、僚は肩を揺すった。
 男も笑う。
 僚は少し身体を離し、男の顔をまじまじと眺めた。
 おかえりと告げると、男は嬉しげに微笑みただいまと応えた。
 ただそれだけが無性に嬉しくて、僚は顔を近付けた。重ねた唇は、チョコレートとリンゴの香りがした。
 充分に、心行くまでキスを楽しんだ僚は、男が離してくれないからと理由を押し付けて、膝の上に乗ったままでいた。尻がほんのりあたたかいのがまた居心地が良いのだ。痺れてきているかといくらか心配が過ぎるが、どうしても離れがたかった。
 膝に乗ったまま、男の出張土産を菓子皿から摘み上げ、まず男に一つ渡し、それから自分に一つ。
 ゆっくり噛みしめて味わっていると、額に手が伸ばされた。恋人の愛撫ではなく、確認の手だと気付くのに、そうかからなかった。何を確認しているのかも、すぐにわかった。

「そういえば君は最近、熱を出さなくなったね」

 ある程度予測はついていたが、その事自体自分にはいささか恥ずかしいものなので、僚は苦笑いでむにゃむにゃと口を動かした。
 何か楽しみな事があると、期待するあまり過度に興奮して、発熱や喉の痛みといった風邪に似た症状が出る事があった。実際のそれとは似て非なるものなので、一日休めば回復する。
 男が口にしたのはそれだ。

「そういえばね」

 そっぽを向き、僚は早口で答えた。楽しみな気持ちが膨らみ過ぎて熱を出すなんて、あまりに子供じみているではないか。
 気まずそうに口をへの字に曲げた僚に、神取は穏やかに微笑みかけた。強張った頬をそっと撫でる。

「笑ったりしないさ」
「……どうも。前に鷹久が言った、調整の仕方がわかったのかも」

 むやみに焦りを抱いて抵抗するのではなく、自分なりのやり方で向き合えばその内自然と鎮まるだろうと、男は言ってくれた。自分はそうなってしまうものだから、そういうものだと受け入れ、反発せずに置いておく。そのように考えると気が楽になった。気が楽になった分余計な力が抜け、穏やかに過ごす事が出来るようになった。もう、むやみに振り回される事がなくなった。
 説明を聞き、神取はほっとしたように笑いかけた。

「よかった。一つ聞いてもいいかい」
「なに、どうぞ」
「実は私も思い出したくはないのだが……大失敗は、出来れば忘れたいものだからね」

 僚はいくらか眼を眇めた。失敗など、男がした事があっただろうか。記憶をたどっても、それらしいものにたどり着かない。
 神取は緩慢に首を振った。

「チェロの練習をしようと約束を取り付けたのに、急な海外出張で台無しにしてしまった時の事だ」

 ああ…僚は声もなく頷いた。しかしあれは、男自身の失敗ではない。
 神取は再び頭を揺らした。

「この部屋で……そう丁度あの辺りで、君は、それはそれは輝く瞳でチェロを見つめた。来週時間を取って一緒に弾いてみようと約束したのに……本当に済まなかった」

 今にも消え入りそうな、聞いていられない低い囁きに、僚は声を張り上げた。

「もういいって。ほんとに。熱は出たけど」
「……やはりそうか」

 そうだよ、とおどけた声で応える。

「しかも次の週は大泣きだからな。どうしてくれんだ」

 小さなため息が、男の唇から零れる。後悔しているのがありありと見て取れた。だからこそ、わざと声を変えたのだ。言葉に詰まった男の頬をそっと撫でる。済まないと言ってきたら、もっと謝れと言って抱き付こう。許してほしいと言ってきたら、ようし許してやると言って抱き付こう。
 男が黙したままでいたので、僚は思い付いた三つめを口にした。

「でもいいよ、もう。本当にいいんだ。あの時だって別に腹は立たなかったし、そもそもそんな事思える立場じゃないから、あーあくらいだった」

 腰に回された腕に力がこもる。やっと反応があり、僚は口端を緩めて男に抱き付いた。

「私は悔しい。そんな思いを君にさせてしまったなんて、君を泣かせたなんて」

 強い顔で、神取は宙を睨み付けた。

「泣かせるのはいつもだろ」

 笑いながら、僚は腕をさすった。

「こっちのは好きだよ。いくらでもしていいよ」

 それから、いつまでもどこかを睨み付けたままの男の顎に指をかけ、自分の方に向けさせる。
 神取は頭を抱き寄せるようにして唇を重ねた。

「大泣きした?」
「うん。金曜日の夜からずっと。土曜日も一日中」

 何かが悲しくて苦しくて、うんざりするほど涙が溢れた。

「だのに……泣かされたい?」
「うん。だって鷹久、ぎゅってしてくれるだろ」

 泣き止まなかったのは、一人だったから。独りだという事実に打ちのめされ、中々涙が止まらなかったのだ。

「君が抱き返してくれるからだ」
「一人はやだよな」
「ああ、本当に」

 もう一度顔を見合わせ、口付け、抱きしめ合う。どちらからともなく、唇から安堵のため息が零れる。それを聞き、お互い小さく笑う。

「君の望み通りにしてあげよう」
「……じゃあ俺も、鷹久の事ぎゅってする」

 言いながら僚は腕に力を込め、静かに目を閉じた。

 

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