Dominance&Submission

しつこいくらいに義理堅い

 

 

 

 

 

 差し出された体温計の表示を見て、桜井僚は腰かけていた椅子の背もたれに身体を預け、ほっとしたと小さく息を吐いた。
 渡す前に確認していた神取鷹久は、見やってくる少年に笑いかけ、心配かけたと口を開いた。

「ううん、ほんとよかった」
「食事する以外、ずっと寝ていたからね。君がいてくれたお陰で、安心して眠る事が出来たよ」
「……そう、まあ、寝るのが一番だよな」

 風邪の時は、寝て身体を休めるのが一番だ。感謝の言葉に少しむず痒そうにしながら、僚は笑顔で言った。
 すぐに引き締める。

「でも油断は禁物だからな。用心の為に、今日は早く寝ろ」

 うむ、と神取は曖昧に頷いた。何か考え事をするかのように手で口元を覆い、軽く擦っている。それは、言いにくい事があって、出そうか迷っている時の仕草にも似ていた。僚にはそのどちらにも受け取れたし、また、昨夜からのだらしなさの表れをさりげなく隠す為の手、にも見えた。
 ただ気になるという手つきではなく、隠そうとしているのが明らかで、本人の恥ずかしさなどを思うと申し訳ないのだが可愛らしくてまた嬉しくもあった。

「でも風呂は駄目だな」
「……やっぱり、駄目かい」

 先読みしたのが当たりだった事に驚き、僚はいくらか瞬きを繰り返した。
 言う前に禁止された神取は、まだ口元に手をやったまま、窺うように斜めに見やった。
 少し落ち込んだ声音と俯きかけた顔、何よりどことなく弱々しく見える眼差しに、僚は心がぐらぐら揺れ動くのを感じた。風呂で汚れや汗を流して、さっぱりした身体で眠りにつきたいという気持ちはよくわかる。熱いタオルで身体を拭いたくらいでは、やはりどこか気持ち悪いものだ。
 熱が高い時はそれを気にする余裕もないが、平熱になった今、きっと身体の痒さとか無性に気になるだろう。つい二ヶ月前、似たような体験をしたばかりだったので容易に想像出来た。

「ずっと寝ていたから、背中も痛くてね」
「そうか、うん、それはつらいよな」
「ぬるめの湯で温まって、すぐにベッドに入るから、許可してもらえないだろうか」
「わかった。じゃあすぐに用意するから」

 僚はさっと椅子から立ち上がり、風呂の支度にとりかかった。

「ありがとう、頼む」

 手を握られ、僚は行きかけた身体を戻して軽く笑い、任せろと肩を叩いた。洗面所から浴室に入ったところで、男の目が届かなくなったところで、思い切り顔をとろけさせる。はずみで声まで出そうになり、慌てて飲み込む。
 僚は手早く浴槽を洗い、湯を張って準備した。作業中、気付くと鼻歌交じりで手を動かしていた。すぐに口を噤むのだが、いつのまにかまた音符が零れ出て、何を浮かれているのだと自分に参る。
 でも、何かが、じわっと心を嬉しくさせるのだ。
 その元凶である男を呼びに行き、風呂場へと見送る。

 

 

 

「ありがとう、良い湯だったよ」

 ベッドサイドに寄せた椅子で本を読んでいた僚は、そう言って出てきた男に顔を上げた。もう、手で隠さなくてもよくなっていた。当人もさっぱりしたと表情で語っている。

「よかった。じゃあ、さっさと寝ろ」

 笑いながら急かす少年に目尻を下げ、神取は素直に言う事に従った。

「そんでうつ伏せになって」

 目を瞬いて戸惑いつつ、言われた通りの姿勢になる。僚もベッドに乗り上げてきたところで理由を察し、神取は一旦振り返った。

「なんだよ、背中痛いんだろ」
「ああ、そうなんだが」

 まさかマッサージを施されるとは思ってもいなかった。非常にありがたいが、非常に申し訳ない。そのせいでつい動きがたどたどしくなる。

「いいからほらうつ伏せになれって」
「では、お手柔らかに」

 顔を枕に預け、神取は力を抜いた。彼の左右の親指が、背骨を挟むようにして押してきた。力任せの無遠慮なものではなく、かといって触るような物足りなさもない。絶妙な力加減にいささか驚く。

「うわ、ごりごり。これはつらいよな」
「済まん」
「いいから、楽にしてろ」

 僚は肩から腰へ手のひらで数回撫で、ゆっくり円を描くようにさすり始めた。
 すると男は顔を押さえ、ははは、と笑い出した。

「なに、くすぐったい?」

 何かおかしな事をしてしまったかと、僚は慌てて尋ねた。
 神取は笑った無礼を詫びると、思った以上に気持ち良くて、つい笑いが出てしまったと説明した。

「なんだ。どうよ、結構上手いもんだろ」
「いや驚いた。助かるよ。その、撫でてもらうのが特に気持ちいいね」
「だろ。親にも結構評判良いんだ、これ」

 突如出てきた家族の話に一瞬息を詰める。ごく自然に唇に乗せた彼がなんだか無性に嬉しくなる。寂しいような嬉しいような…いっちょまえに嫉妬心も湧く。普段ならみっともないと思うそれも、今は嬉しかった。

「……そうか。ああ、あったまってきたよ」
「そうそう、血の巡りが大事なんだよな」

 僚はせっせと手を動かし続けた。気持ち良さにふにゃふにゃと力の抜けた無防備な男の様は何とも可愛く、愉快だった。男が目を閉じているのを良い事に、にやにやとだらしなく頬を緩める。

「本当に助かる。専属で雇いたいくらいだ」
「いいけど、高いよ」

 おどけて言うと、男も調子を合わせ金に糸目はつけん、と芝居がかった声を出した。こんな他愛ない事でも乗ってくれる男がしようもなく愛しくて、僚は肩を揺すった。
 テレビで見たものを見よう見まねで覚えたマッサージだが、言った通り親にも評判がいい。家族の話題を出すのに少しためらいがあったが、男はいつものように穏やかに聞いてくれた。ますます愛しく感じる。
 背中を大きくさすり、腕を擦ると、ああたまらぬと男はため息を吐いた。気持ちよさそうな息遣いに僚も嬉しくなる。

「私が寝ている間、一人で退屈したろう」
「ううん、書斎で面白い本見つけたし」
「なにか……ああ」

 音楽関連以外で彼の興味を引く本があっただろうかと思い浮かべたところで、神取はすぐに行き当たった。ここに移り住み、荷物を整理して以来自分は触れていなかったが、彼が面白いと思うだろう本は確かにあった。
 最下段に収めていたので、すっかり記憶が薄れていた。

「まさかここでシャーロックホームズ見つけるなんて、思ってもなかった」

 原書だったけど。
 やや興奮気味の声は、すぐに低めのそれに切り替わった。落差がおかしくて、神取はくすくすと笑った。
 あの本は、確か高校生の時に悪友のはとこが誕生日の贈り物に選んでくれたものだった。

「そう確か、イギリスに留学するのが決まった頃だった」
「じゃあ鷹久は、その頃もう完璧だったわけか」
「今の君と、それほど差はないさ」
「はいはい」

 ちょっとの嫉妬を指先に込め、僚は背中をぐいぐい押した。嫌味も皮肉も一切なしの言葉だが、それがかえって憎らしい。謙遜している、持ち上げていると分かっても尚言葉通り聞き取れる男の柔らかな声音が羨ましい。

「翻訳されたものなら、読んだ事はあるだろう」
「うん、小学校の図書室でね」

 小学生向けのシリーズが棚に並んでいた。目を閉じると、棚のどの位置に収められていたか、どんな順番で並んでいたか、周りの椅子や机の様子など今でも鮮明に思い出す事が出来る。それくらい何度も棚の前に立ち、数え切れないほど手に取った。

「だからまあ、飛ばし飛ばしだけど、何とか読めたよ」
「はは。ドイツ語の方が良かったかな」

 アパートの本棚に並ぶ本を指してのからかいに、僚は不明瞭な呻き声と共に激しく首を振った。だったらまだ英語の方がいい、と叫ぶようにして告げる。
 大きなため息を一つ。

「まったく、鷹久って意地悪だよな」
「悪かったよ」

 不満がたっぷり詰まった声に、神取はくすくすと肩を震わせた。おかしさに腹を抱える一方、彼とこういった話を気兼ねなく出来る事に嬉しさが込み上げる。

「はい、もうおしまい」

 少し痛い加減でぴしゃりと背中を叩かれ、神取は大きく息を吐いた。

「ありがとう。お陰で身体が軽くなったよ」

 あんまり気持ち良くて、半分眠っていたくらいだ。
 じゃあそのまま寝ろと、僚は笑いかけた。
 強引に毛布をかぶせてくる僚に笑い返し、神取は仰向けになった。

「マッサージさ、よかったらまた言ってよ。いつでもするから」
「頼みたいが……高いのだろう」
「うん、高いよ」

 渋い顔で見やってくる男に合わせて顎を上げ、僚はおどけた顔をしてみせた。
 神取は大げさに嘆き、片手で顔を覆った。
 過剰な演技がおかしくて、二人は声を合わせて笑った。

「本当に助かった。この礼は必ずするよ」
「うん、期待しないで待っとくよ」

 僚は子供をなだめる手つきで毛布を叩いた。

「さあ、早く寝る約束だからもう寝ろ」

 僚の目が時計に向かう。神取も同じく見やり、いつもと比べて早い就寝に厳しいとため息を吐く。

「なんだよ、俺だって、向こうで一人で寝るの寂しいんだからな」

 僚は書斎のある方を指差した。とにかく安静第一を考えて、今夜は一緒のベッドで寝るのは避けた。隣の揺れで寝不足になり、いつまでも治らないなんて本人もつらいし自分も嫌だ。

「そうだな、済まん。今夜中に必ず治すよ」
「うん、お休み」

 お互い唇に触れたい欲求をぐっと飲み込み、抱きしめ合う。

 

目次