Dominance&Submission

独り占め

 

 

 

 

 

 海に向かう時もそうだったが、帰り道はよりはっきりそうとわかるくらい、男の顔は喜色に満ち溢れていた。
 普段とさして変わらぬ引き締まった面ながら、にやにや、にたにたという言葉がしっくりくるくらい緩んでいるのを、桜井僚は目に留めた。
 理由はわかっていた。男が首に巻いているマフラーだ。深い赤とオレンジが絶妙に配されたボーダーのマフラーは、ここに来るまでに何軒か店を回って、僚が見つけ、男にプレゼントしたものだ。
 それを心底喜んで、男は少々だらしない顔付きになっているのだ。

「俺の」

 信号待ちで停止したのをいいきっかけに、僚は口を開いた。
 聞いていると目配せし、神取鷹久は先を促した。

「俺の好みで選んじゃったけど、色は気に入った? 着け心地はいい?」

 神取は何度も頷き、丁寧な手つきでマフラーをなぞった。

「もちろん最高だとも。本当に暖かいし、色も気に入っている。こういう色合いは好きだよ。今日は枕元に置いて、一緒に寝る事にしよう」
「なにそれ」

 思わず吹き出す。およそそんな事を言う人物ではないが、可愛らしい一面に笑いが止まらない。
 少し照れ臭そうにしながらも神取は続けた。

「だって嬉しいからね。君に買ってもらったマフラーだ、ずっと肌身離さずいたいさ」

 大げさだなと笑うが、たまらなく嬉しい。そして、自分も同じようにあの日、男にマフラーをプレゼントされた時、洗面所の鏡の前でにやにやと飽きもせず自分の姿を眺めていたのを思い出す。まさか後ろで男が見ているとは夢にも思わず、これでもかと顔中緩ませていた。
 丁度、今の男のように。
 自分もこんな顔だったのだなと少し恥ずかしく思い出しながら重ね、僚はにこにこと喜ぶ男の横顔を同じくらい嬉しく眺めた。
 いくつか信号を越えて街中を走っていると、ふわっと車内が明るくなった。
 日が差した事に驚いて、僚は空を見上げた。
 しんしんと途切れなく降り続いていた雪は、いつの間にかはらはらと零れるような小さなものに変わり、空を見上げると、重苦しい雲はすっかりなくなっていた。
 そして切れ間から、ほんのうっすらとだが太陽が透けて見えた。

「なあ、ちょっとお願いがあるんだけど」

 信号待ちで、僚は切り出した。

「なんでもどうぞ」
「冬休みの課題、見てほしいんだ」
「構わんが、私に頼むとなると……高くつくよ」
「……そんな殺生な」

 冗談めかしてにやりと笑う神取に合わせ、僚も思い切り悲痛な声を出した。
 悪辣な顔と途方に暮れた顔、二人は互いの顔をしばし見つめた後、同時に笑い出した。

「すごいよ鷹久、ヤクザも裸足で逃げ出す迫力」
「それはひどいな」

 こんな気の弱そうな一般人を捕まえて、と続いた嘆きの言葉に、僚はますます腹を抱える。男の肩を叩く代わりに、自分の膝をぽんと打つ。

「こんな悪役顔の一般人、いないよ」
「そんな。そういう君こそ、かなりの演技派だったよ」
「鷹久の方が」

 それ以上は笑い転げて言葉にならなかった。ひとしきりひいひいと笑った後、滲んだ涙を擦り、僚はシートに座り直した。男には敵わない、降参だと白旗を振る。
 笑いが鎮まった頃合いに、神取は尋ねた。

「それで、いつ見るかね」
「うん、明日いいかな」
「奇遇だね、明日は君の為に一日空けてあるんだ」
「え、あ……ありがと」

 男のらしい言い回しに、僚はにっこりと感謝した。
 詳しい時間を決め、その日は解散した。

 

 

 

 翌日、課題と筆記用具を斜め掛けに詰めて、僚はアパートを出た。
 今日は朝から快晴で、昨日の猛烈な雪が嘘のように、とても暖かく穏やかだった。
 昨日はどんより曇り空で、背中を丸めて急ぎ足だった。今日はうってかわって良い陽気で、男のマンションに向かう足取りも自然軽やかになる。
 綺麗に晴れ渡る青空を一度見上げ、僚はエントランスに踏み込んだ。五階の玄関の前でチャイムを鳴らす。
 待っていたよと神取は迎え入れ、まずは一服とお茶を振る舞った。
 そこに僚は、チェロの授業料として男に渡しているものよりはいくらか上等な菓子の詰め合わせを、今日のお礼にと差し出した。
 思ってもみなかった手土産に神取は、昨日のは冗談だったのだと謝罪した。

「いや、わかってるけどそれは別で。これは別で、そうでないと俺が気が済まないから」
「ああ、まあそうだろうが……」
「絶対気に入ると思って、これ選んだんだけど」

 僚は自分が手にしているものを見てから男を見上げ、いささか強気で言った。

「すまん、わかった。ありがたく頂戴するよ」
「こういうの、好きだろ」
「ああ、更に言うと、こちらのココア味を選んでくれたのが、より嬉しい」

 もう片方のバニラ味よりこちらの方が好きなのだと男は語り、その恥ずかしそうにしながらも嬉しがる姿に僚はほっと胸を撫でおろした。

「良かった。俺もちょっとは、鷹久通になったな」
「それはもう、間違いなく。お茶菓子に加えようか」
「いいよ、好きなのは独り占めで」

 早速開けようとする男を制し、僚はわざとそう耳打ちした。するとますます男の顔が輝いた。

「しかしそれではさすがに悪いからね……一つだけ、君にあげよう」
「うん、ありがと」

 断腸の思いで、と、見るからに渋い顔をする男の肩を叩き、僚は着席した。

 

 

 

 少し俯き加減で、きつく引き締まった男の顔を、はらはらした気持ちで僚は見つめていた。
 神取は課題の最後の一枚をしまいまで読み進めると、文の最後で指先を一つとんと鳴らした。確認した証にする、癖の一つである。裏返して脇に置いた用紙に重ね、両手にまとめると、顔を上げた。

「よく出来ている。問題はないね、完璧だ」
「あーよかった。すげーどきどきした」

 僚は大きく息を吐きながら、胸を上下にさすった。いつの間にか前屈みになっていた身体を戻し、背もたれに預ける。
 課題を返しながら、神取は笑った。

「おや、そんなに自信なかったかい」
「ああ……自信はまあそこそこあったけど、鷹久、ものすごく真剣な顔してたから。それでちょっと」

 僚は課題を斜め掛けにしまいながら説明した。

「そうか……よくおっかないって言われるんだ」

 神取は自分の顔を掴むと、軽く揉んだ。
 提出した書類のチェックを待つ間、みんなこんなような気持ちで支社長の顔を見ているのだろうな…場面をぼんやりと想像しながら、僚は頷いた。

「うん、おっかなかった」
「今はもう、元通りだろう」
「うん、いつもの鷹久」

 よかったとほっと笑う顔が愛しい。そう思った瞬間、衝動が込み上げた。
 気付けば言葉が口をついて出ていた。

「あのさ、俺は好きだからね。おっかないのも、今みたいに笑うとこも」

 他の連中と同じにされてたまるかと、少しむきになって告げる。まるで怒っている口調に神取は圧倒されて一瞬ぽかんとし、それからくすぐったそうに笑った。

「ああ、よかった」

 心から喜ぶ男の笑顔につい胸が高鳴る。一気に顔が熱くなった気がして、僚は慌てて俯いた。男に告げた言葉が、今になって猛烈な勢いで恥ずかしさを招く。嘘は一切ない。本心から思っている。どんな時の顔でも、自分は大好きだ。しかしそれを素直に口にするのは、柄でもない。込み上げて胸中でぐるぐる渦巻く照れくささに、僚はむにゃむにゃと唇を動かした。
 またこういう時に限って、嫌な沈黙が続くのだ。
 僚は思い切って、息を吐き出すように言った。

「あのさ」
「どうした」

 しかし男の穏やかな眼差しと声に包まれると、追いやろうとする恥ずかしさがしつこく舞い戻ってくる。
 神取は、何か云いたげにもごもごと口を動かす僚を、じっくりと愛でた。彼は、いつでも素直に熱烈に愛を口にする性質ではないが、ろくに行動を起こしてもいないのに態度でわかれと無茶を言う傲慢な人間ではない。
 ほんの時々口にして、後はたっぷり行動で示す。
 実にわかりやすかった。ところどころひねくれてはいるが、充分過ぎるほど愛情が伝わってくる。根が素直だから、本当にひねくれた事は出来ないのだろう。
 そんな彼がほんの時々を口にしたのだから、嬉しくてたまらない。
 沈黙が静寂に変わろうかという時、とうとうといった風情で僚は口を開いた。

「昨日言ったことだけど」
「ん……何だったか」
「高くつくって」
「ああ――」
「……本気でいいよ」

 冗談で流せと言おうとして飲み込む。神取はわずかに眼を眇めた。ああ、そう…期待しているのか、私のいやらしい恋人は。
 心持ち背筋を伸ばし、僚はわずかに目を伏せている。美しく整った少年らしい顔付きが、今はうっすらと妖しい色を立ち昇らせていた。

「では、続きは寝室で」

 

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