Dominance&Submission

一番好きなの

 

 

 

 

 

 翌朝、男にやや遅れて目を覚ました僚は、入れ替わりに洗面所に向かう際に体調を訊かれ、特におかしなところはないと笑って答えた。

「本当に平気かい」
「うん、大丈夫だって」

 笑って男の肩を叩き、洗面所の鏡の前に立つ。いつもの順番通りに歯磨きから始める。
 男は必ず事後、僚からすると少ししつこいくらいに体調を気遣った。トップの役目として当然の事だ。しかし一度だって男はやりすぎる事はなく、翌朝に影響するほどの何も残した事はない。
 僚は奥歯を磨きながら、軽く足踏みを始めた。
 細かい事を言えば、股関節がちょっと疲れているくらいだ。けれど、あれだけ長時間股を開いた姿勢でいたのだから当然だ。一番楽な仰向けの姿勢だって、そのままずっといれば疲れる。足を開きっぱなしで疲れない訳がない。
 しかしこれはいつもの事で、歩行になんの支障もない。今は少し軋んで感じるが、昼にはすっかり薄れて忘れている。わざわざ男に言うまでもない。
 もっとひどい目に遭った事もあり、それらも結局消えて何の影響も残っていないのだから、男の加減でそこまで心配する事はないのだ。
 僚はしかしわかっていた。
 もっとひどい目に遭った事があると知っているから、男が殊更心配するのだと。
 今の自分は、きちんと見守られているのだ。
 男への感謝が胸に募る。
 途端に目の奥が熱くなり、僚は慌てて顔を洗った。無性に泣きたくなり、笑いたくて顔が緩んだ。
 寝室に戻ると、クローゼットの鏡に向かい合い、服を着るのとは違う動作をしている男が目に入った。どうやら左肩が気になるらしかった。

「どうしたの? 傷めた? ぶつけた?」

 僚は早足で近付いた。
 神取は軽く笑いかけ、改めて服を着た。

「いやなに、大した事じゃない」
「なに、気になる、どうしたの」

 シャツのボタンを留める手を引き止め、僚は食い下がる。すると神取は気まずい時するように目を他所へ向け、実はと口を開いた。

「実は…昨日君に噛み付かれて、それがちょっと」
「え……」

 僚は一気に青ざめた。慌てて口を覆い、男の襟を引っ張る。覚えはあるのだ。あまりに強烈な行為に飲み込まれてたがが外れ、無我夢中で男の身体にしがみ付いた。きっとその時にがぶりとやってしまったのだ。

「……ごめんなごめんな。ひどい傷? 痛むか?」

 何度も謝りながら確認する。が、肌は至って綺麗だった。念の為反対も確認するが傷一つない。
 どういう事だと戸惑いながら男の顔を見て、そこでやっと僚は騙された事に気付いた。
 下がった血が静かに上る。
 眼に怒りを湛え、無言で睨み付けてくる僚に軽く肩を竦め、神取は言った。

「君が噛み付いてきたのは、本当だよ」
「……覚えてはいるけど」

 怒りと申し訳なさとが絡み合い、僚は頬を引き攣らせた。

「まあそうおっかない顔をするな」

 軽く肩に手を乗せられ、僚は複雑な目で見やった。
 ひとまず神取の弁明を聞く。
 君に食べられているみたいで嬉しくて、跡になったらいいなと思ったんだ。でもきちんと加減してくれていたようで、起きたらすっかり跡形もなく、それがちょっと寂しくて、言ってしまったんだ。
 すまんと素直に謝られてはそれ以上怒れない。僚はとりあえず形だけは頷いた。
 それに、跡が残ってなくて寂しいという気持ちは、少しわかる気がするのだ。男の加減は絶妙で、鞭や平手、最中はあんなに泣けて仕方ないのに、いつまでも肌にへばりついて残った事はない。
 それは嬉しくありがたい事で、癒えてくれなきゃ困るが、消えてしまうのは名残惜しくもあった。

「……ごめんな」

 噛み付いた事を詫びる。
 いいやと、神取は笑って首を振った。

「痛みはなかったからね。驚いたのと、嬉しいのが半分ずつ」
「……噛まれて嬉しいとか、鷹久へんたーい」
「そうだよ。でも違うがね」
「違わないよ、食べられて嬉しいとか、へんたーい」
「度合いで言うなら、君の方こそ中々だよ」
「っ……」

 痛いところを突かれ、僚は言葉に詰まった。余裕の笑みを見せる男にやけっぱちになる。

「……ああそうだよ俺も鷹久食べるの好きだよ一番好きだよ、食べられるのも好きだよ大好きだよ悪いか参ったか!」

 顔が赤くなるまでひと息に畳みかける僚に、神取は堪えきれず肩を揺すった。参った、完全に降参だと両手を上げる。その腕の片方で僚の肩を抱き、キッチンへと誘う。

「食べてもらえるのは嬉しいが、なくなるのは困るので、朝食にしようか」
「……うん」

 僚は息苦しさから吐き出すように頷き、男の腰に腕を回すと、並んで歩き出した。見やってくる男の目を見てからぷいとそっぽを向き、そこで一瞬だけにやけて、元に戻す。男の見える範囲では、不機嫌さを装う。男の目は相変わらず自分をじっと見つめてきて、とても柔らかかった。
 だからまあきっと自分の偽装などとっくにお見通しだろうが、それが何とも憎たらしくて、僚はキッチンに着くまでの儚い抵抗としてふてくされている顔を続けた。
 二人で朝食の準備に取り掛かると化けの皮は呆気なくはがれる。何故なら、男と一緒に何かをするのが、どんな事でも楽しいからだ。
 一番好きなのだ。

 

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