Dominance&Submission

一番好きなの

 

 

 

 

 

 毎週のチェロの練習を終え、音楽室から五階に戻った二人は、いつものように反省会を始めた。
 テーブルに向かい合って座り、開いた楽譜に問題点を書き込む桜井僚のやや俯き加減の顔を、神取鷹久はよくよく観察した。
 練習中にも感じたが、しっかり集中しているのだが何か気がかりがあるようで、どことなく表情が優れないのだ。
 具合でも悪いのかと心配するが、顔色は至って健康的で、食事会の時も食欲不振といった点は見られなかった。むしろその逆で、巧みなジョークに危うく理性が吹き飛びそうになったくらいだ。
 となると何か、こちらには言いにくい問題でも抱えているのだろうか。
 そんな男の心配をよそに、僚は険しい顔付きで五線譜を睨み付ける。心を悩ませている事があるのだ。チェロを習い始めの頃は一回ずつが心弾む体験で、どこまでも舞い上がる気分だったが、ここのところは自分の出す奇妙な音が気になってしまい、あの時のように気持ちが軽やかでないのだ。
 習い始めてまだほんの数か月の、全くの初心者がおこがましいが、それでも少しくらい上達してもいいのではないか、聞き苦しい音を抑えられないものか。男のように、などとは言わないが、せめてあと少し、もう少し、良い音を出したい。
 悔しさが胸に渦巻く。まだまだ練習が足りないのだ。そうとも、習い始めて半年にも満たないまるきりの初心者、自分はこれからなのだ。ちょっと指先が硬くなったくらいで、何をいい気になっているのか。
 そうやって自身を叱咤すると、少し気が楽になった。気持ちが軽くなった。
 来週もお願いしますと、僚は顔を上げた。
 正面で見守っていた神取は、幾分晴れやかになった顔付きに内心ほっとする。何かしらの決着がついたようだ。問題は、それほど深刻ではないようだ。良かった、安心して茶菓子を摘まめると、小皿に盛った和菓子を口に運ぶ。
 僚も手を伸ばし、いつもするようにこっそり男を真似る。一緒に齧り、一緒に茶を啜る。緑茶の香りが鼻から抜け、身体がぽかぽかと温まって、いい気分だった。
 もっともっと練習して、あの音に近付くのだ。記憶にしっかり残っている父のあの音を出したい。それにはひたすら練習あるのみだ。そうすれば必ずたどり着けるはずだ。
 生来の楽天さが僚の心を軽くする。重しとなって圧し掛かっていた心配事が退いて、男を見る余裕が出てきた。反省会でのお茶菓子が密かな楽しみの一つと言うだけあって、じっくり深く味わっている。
 練習の最中は、チェロの先生と生徒という事で気持ちが切り替わるが、その時間が終わった今、すっかりくつろいで顔付きも穏やかだ。ほんの些細な違いだが見分けはつくもので、僚はいつものように心の中で密かに見惚れた。
 やがて男は視線に気付いた。

「どうした」
「あの……もう一つ、もらってもいいかなって」

 上手い事浮かんだ言い訳を口から紡ぎ、僚は済まなそうに菓子皿を指差した。

「ああ、遠慮せずにどうぞ」
「いやさ、鷹久の好物だから、あんまり食べちゃ悪いかと」
「まあ、確かにそうだが」

 神取は軽く笑って肩を竦め、包みを手早く開いた。

「君と一緒に食べるのが、好きなんだよ」

 僚の口元へと運ぶ。

「あ……」

 不慣れな行為に僚は顎を引き、改めて口を開けた。人に食べさせてもらうのはむず痒かったが、照れ臭いながらも満足感もあった。甘やかしてくれる彼に甘えて、一緒に甘い時を過ごす。あんまり甘くて天にも昇る気分だ。恥ずかしい、恥ずかしい、嬉しい。

「ありがと」

 他のより、美味いのではないか。そんな事を考えながら一口ずつ噛みしめる。
 神取は軽く頬杖をつき、おかしそうに頬を緩めた。

「……君を食べるのも、好きだよ」

 聞こえてきた男の言葉に、僚は動きを止めた。瞬きも忘れて男を凝視する。一秒、二秒…俯いて、残りを飲み込む。
 それからゆっくり、窺うように目を上げる。
 まっすぐ向かってくる淀みない支配者の眼差しに射貫かれ、頭の芯がびりびりと痺れる。軽い目眩を覚えるが、それがまたなんとも心地良かった。僚は始まりの時に無意識にため息を零した。
 神取は手を引き、立ち上がる僚を抱き寄せた。とろんと潤む瞳で見上げてくる少年の頬を二度三度撫で、唇を塞ぐ。舌を絡ませると、まだほんのり甘かった。抹茶の匂いが微かに鼻孔をくすぐる。その中で彼の舌を食むと、本当に彼を食べているようで、自然と笑いが込み上げてきた。

 

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