Dominance&Submission

指先の嫉妬

 

 

 

 

 

 第一日目は、チェロ本体と弓の、それぞれの名称を教えてもらう事から始まった。
 初対面であるので、自己紹介をという訳だ。
 男とは初対面ではない。出会ってから二ヶ月以上経っている。それで初めて名乗りを上げるなんておかしな話だと気まずさがこみあげる。
 始めに名乗らなくていいと言われて、それに甘え、特別不自由しているわけでもないので、置き去りにしてきてしまった。
 聞かれないから言わなかったという言い訳を用意して、気まずさを無理やり押し込めてきた。
 しかしこれから先はいい加減な事はしたくはないので、まっすぐ背を伸ばし名乗る。

――桜井僚です、どうぞよろしくおねがいします

 真剣さが少しでも伝わればと頭を下げると、男も同じように、神取鷹久ですとあらためて名乗り、頭を下げた。
 安心したからか、僚は全身が一気に熱くなるのを感じた。
 こうしてチェロの授業は始まった。
 男がかつて使ったという教科書を開き、一つひとつ紹介した。
 僚は瞬きも惜しいと紙面を見つめ、焼き付けるようにして名前をたどった。四歳の頃のおぼろげな記憶が脳裏を過ぎる。父からも聞いたはずであるが、どうにも思い出せない。覚えていない。あの頃はきっと、名前を覚えるよりも演奏を聞く事に神経を集中させていたのだろう。
 隙間だらけだったチェロに対する知識が一つひとつ埋められてゆくのは、思った以上に快感だった。こうして一つひとつたどっていけば、いつか父の音を再現出来る。自分が、自分の手で、あの音を紡げる。
 無理やりにでも嫌いになろうとして、出来なくて、嫌う事で執着したせいで父の音がよりくっきりと心に残っている。自分はあの音の流れを、弾けるようになる。
 嫌いになりたかったんじゃない。本当は大好きで、いつまでも大切にしたい物だったのだ。
 自分はただ純粋に、父の音が好きだったのだ。
 いつか、今に、あの音を自分の物にしよう。

 

 

 

 練習の後、弓や本体をそれぞれ手入れしてケースにしまうのだが、最近やっと、補助が無くても一人で始めから終わりまで全部出来るようになった。男の先導が無くてもスムーズに動けるようになり、僚はケースにしまう瞬間までチェロに触れる嬉しさに浸りながら、男の手本を思い出しつつ丁寧にたどった。
 教わった当初は、もたもたとおぼつかなかったのを思い出す。
 一つ終わる度、次は何だと集中しないと出てこなかった。
 今はもう自然と身体が動く。今日もありがとうと心の中で感謝しながら、ケースの金具を留めた。

「ありがとうございました」

 今日もしっかり練習出来たと、男に礼を言う。
 床に座り手入れを眺めていた男は、お疲れさまと返し立ち上がった。
 音楽室から五階に戻り、チェロをしまった後反省会に取り掛かる。
 苦手な箇所と、どうして苦手なのかわかってきたので、次の練習ではそこを重点的にやっつけようと話はまとまった。
 まだまだ足りない自分にいささか難しい顔で頷き、僚は茶菓子を噛みしめた。

「本当にチェロが好きなんだね」

 練習中の集中の度合いや、手入れの丁寧さを指して、神取は緩く笑んだ。

「……うん、はい」

 恥ずかしそうにしながらも、僚は幸せを滲ませて微笑んだ。

「なんだか妬けてしまうな」

 チェロと君、良い仲に見えて。
 神取はテーブルの上で軽く手を組み合わせると、斜めに僚を見やった。

「……え!」

 思いもよらぬひと言に僚はぱちぱちと目を瞬いた。何と答えてよいやらわからない。もごもごと口を動かす。

「なら、俺も」

 それを言うなら自分も、男とチェロの仲に嫉妬している。
 いや嫉妬というよりは、チェロに成り代わりたい。あんな風に男にそっと扱われるチェロになりたい…なんて幼稚な妄想をしていたりする。
 腕に抱かれ、なめらかに動く指で身体を撫でられて、綺麗な音色を響かせて。
 嗚呼なんとも恥ずかしい妄想。
 でも嘘ではない。

「鷹久の指、ほんと綺麗だし」

 長くすらりとした指が羨ましい。
 僚は片手を掴んで上に向けさせ、指先を一本ずつ押して戯れた。
 神取はむず痒さにふと笑った。

「あとここな」

 左手のたこをなぞり、自分と見比べ、まだまだ及ばない己に僚はううむと唸った。
 男が美しいのは手だけではない。
 頭からつま先から、動作の一つひとつに至るまで美しくなめらかで、たまにぼうっと見惚れてしまう事がある。立ち上がる仕草一つ取っても優雅で凛として、こんな風に綺麗に動く人はまず見た事がない。
 旧家の生まれだから、きっと習い事も沢山したのだろう。生ぬるい想像しか出来ないが、いくつものしがらみや好悪を越え、生まれた時から周りにあったものに洗練されて、男は出来上がったのだ。

「ああ……いや」

 神取は曖昧に笑って答えた。
 彼が抱いているイメージはそれほどかけ離れたものではないが、あまり綺麗すぎるところに置かれるのも居心地悪い。
 といって口を開くのもし難い。
 実際のところ彼も詳しく聞こうとはしていないのに乗っかり、神取は黙したままでいた。
 微妙な声音の違いで理解してくれた彼に、そっと感謝する。
 彼は、人に話したくない部分を持っていた。
 自分も同じく、人に触れてほしくない部分を持っている。
 だからお互い、目線や表情から読み取って、踏み入ってはいけない部分を尊重していた。話す事はよく聞くが、そうでない部分は立ち入らない。
 お互い守って息を合わせる。

「高校の時にしていた部活のせいかな」

 話せる部分を出すと、僚は身を乗り出して聞く体制に入った。

「今は違うようだが、私の頃は、生徒全員部活動をする義務があったのだよ」
「へえ、そっか。うん、今はないな」

 強制なんて大変だと顔をしかめ、僚は続きを待った。

「だから、茶道部に入ったんだ」

 週に一度の活動なので、好きなチェロや勉強に障りがなくていいと思って選択したと、男は説明した。

「へえ……」

 大変納得したと僚は小さく口を開けた。ふと記憶が浮上する。
 一年の時の文化祭で、菓子目当てにというクラスメイトに誘われ茶道部を覗いた事がある。独特の、完成された一つひとつの動きを思い出すにつけ、そうか男の美しさはあそこからも来ているのかと繋がった。
 さてこの記憶は男に言わない方がいいだろうと判断し、僚は即座に飲み込んだ。男本人も間に合わせで選んだものとはいえ、冷やかしの自分はやはり腹立たしく思うだろう。
 ますます嫉妬が募る。その完成された手でチェロに触れるなんて羨ましい。嗚呼、本当にチェロになれたらいいのに。
 神取は笑みを浮かべると、差し伸べた手で僚の頬を包み込んだ。
 僚はその上に手を当て、軽く目を伏せた。温かい手のひらがとても気持ちいい。

「君も、いい音を響かせるじゃないか」
 いつも私の腕の中で
「!…」

 僚は一気に顔を赤くし、ぎこちなく瞳を揺らした。

「……鷹久の手、好きだから」

 いつも、とても優しくしてくれる。

「今日は、どんな音を聴かせてくれるかな」

 楽しみでたまらないと嗤う支配者に、僚は喉を引き攣らせた。

 

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