Dominance&Submission

甘い涙

 

 

 

 

 

 月曜日の夕刻、粗方の家事を済ませ机に向かった途端鳴り出した携帯電話に、桜井僚はテレビの音量を下げながら応答した。
 電話越しの声はもう何度も聞いているのに、いつも一瞬息が詰まる。どきっと胸が弾む初心な反応に我ながら恥ずかしくなるが、それだけ嬉しいのだ。

『今、電話しても大丈夫かい』
「うん平気、どうしたの?」

 男の声により耳を澄ます。
 用件は、傘を返したいのだが、何時ごろは都合が良いかという確認だった。

「え、週末で良かったのに」

 予備の傘はあるし、予報もしばらくは雨の気配はない。特に困る事はない。
 だが、思いがけず男に会えるのは嬉しく思った。返事の声がつい高く弾む。

『借りたままはどうにも居心地悪くてね。とてもいい傘だった。おかげで助かったよ』
「良かった。使いやすかったろ」

 本当に助かったとの声に頬が痛いほどにやける。
 今しがた本社での会議を終え、支社に戻る道すがら寄ろうと思うのだがと男は説明した。
 まだ仕事が残っているのであまり長居は出来ないが、都合は良いだろうかとの言葉に僚はもちろんと応えた。

「時間なら平気だよ。誰も来ないし、どこも出かけない。ずっといるから」
『そうか』

 では後ほど伺うと続き、通話は切れた。
 手にした携帯を机に置いた後、にやけた顔を元に戻すのに苦労する。
 それから小一時間、そわそわしっぱなしであった。集中はほんのわずかで途切れ、その度に時計に目が行ってしまう。時計を見る度もどかしく焦れ、気を取り直し、またため息を吐く。手が何度もピアスに触れた。つるりとした表面を確かめたり、輪郭をたどったり。
 予告した時間ぴったりに、男は尋ねてきた。
 その少し前からすっかり迎え入れる準備を整えていた僚は、男…神取鷹久を玄関に招き入れた。

「遅くに済まないね」
「ううん、全然。あがってよ」
「済まない、車を待たせているのでね」
「そっか、ごめん」
「いや。今日も綺麗にしているかい」

 玄関先から、部屋を覗こうと身を乗り出す。
 僚はもちろんだと脇に退き、しっかり確かめてくれと自信たっぷりに笑った。

「さすがだね」
「まあね」

 そう言われたくて、いつも以上に気を付けたのだ。その通りの言葉をその通りくれる男に、こめかみの辺りまで痛くなるほどの嬉しさが込み上げる。

「次はゆっくり寄らせてもらうよ」
「うん、綺麗にして待ってる」
「そうか、では厳しくチェックするとしよう」
「あ、ひどい」

 男はにやりと笑い、僚は一度ふくれっ面を見せた後笑った。
 ひとしきり笑い合った後、傘と共に、お礼にと、チョコレートの詰め合わせが渡された。綺麗な空色の包み紙の小箱は、ひと目で高級と分かる匂いがした。驚きの形で顔が固まる。

「君の好みに合うといいのだが」
「……こんな、いいのに」
「金曜日、楽しく過ごせたお礼も含めてだ。受け取ってくれ」
「……ありがとう、ほんとに」

 一本の傘に見合わぬほどの礼に、受け取る手が恐縮する。

「忙しなくして済まないが、今日はこれで」
「うん、わざわざさんきゅ」

 寂しさに胸が一瞬ちくりと痛む。
 すると男はしょぼくれた顔でまだ仕事があるのだ、と肩を落とした。
 その様子があんまりおかしくて、可愛くて、寂しさはすぐに吹き飛び代わりに笑いが込み上げた。
 大変だと労わる気持ちはあるのだが、つい頬が震えてしまう。

「うん、頑張って」

 軽く肩を叩き、唇に触れる。自然に抱き合う形になり、僚はうっとりと浸った。

「……ああ、元気が出てきたよ」

 男は笑顔を見せた。
 合わせて言ってくれているに過ぎなくても、喜ぶ顔を見せてくれる心遣いがたまらなく嬉しかった。
 もう一度抱きしめて離れ、週末の約束をして見送る。
 部屋に戻り、机に置いたチョコレートの小箱を見つめながら、下唇を軽く指でつまんだ。
 やがて小さく息をつく。

 

 

 

 木曜日最後の授業は、都合により自習となった。始めに配られたプリントを早々に済ませた僚は、頬杖をつくと、裏面の白紙をいくつかの落書きで埋めていった。
 教室のあちこちでは、暇を持て余したクラスの人間が数人ずつ固まっておしゃべりに興じていた。
 自習を言い渡され、担任が教室を出て行った直後から皆てんでに散って、集まり、プリントなどすっかり忘れているようだ。
 曲がりなりにも授業中という事で、彼らなりに声を抑えているようだが、時折沸き起こる笑い声はまったく遠慮がなかった。
 そんな賑やかな騒音を聞き流しながら、僚は考え事に耽っていた。
 落書きは八つほどになった。

「次はマークだね」

 すると斜め後ろから上杉が声をかけてきた。申し訳ないと思いつつ、僚はうぐ、と喉を鳴らした。
 自分を名指しされ、上杉の横に座っていた稲葉が何事かと覗き込んできた。

「なんだ……おい上杉、てめえ」

 落書きの内容を読み取った稲葉は、上杉が何を言おうとしたのか即座に理解し、こめかみに青筋を立てた。
 僚が描いていたのは干支だった。そして次は申という事で、よくサルにたとえられる稲葉を名指ししたのだった。

「まあまあ、そう怒らずに、ね」
「うっせ」

 上杉の冗談に稲葉が怒った顔を見せるのはいつもの事で、本当に腹を立てているわけではなく、これが彼らなりのいつものやり取りであった。
 むくれた稲葉と一生懸命宥める上杉とを見て、傍に座っている桐島がふふと軽やかで上品な笑い声を上げた。

「本当に二人は仲良しですわね」

 素晴らしいコンビですわ、コミュニケーションもばっちりと、流れるような発音が続く。
 すると二人はほぼ同時に思い切り顔をしかめた。

「マジ、息ピッタリだよね」

 綾瀬が追撃する。
 冗談でしょ、勘弁してくれよ、と飛び出す声も全く同時に起こり、周りの者をますます笑わせた。

「ひでーよ、このウルトラビューティフルなオレ様がマークと同類とか……」
「いいじゃん、いっそコンビ組んじゃえばあ」

 お笑いコンビ、との言葉に稲葉は大きく手を振ったが、上杉は乗り気の姿勢を見せた。

「いや、んんん、それもアリかもねえ」

 調子づく上杉には触れず、綾瀬は昨夜のテレビ番組の話題を口にした。時間帯と、知名度から、クラスのほぼ全員が毎週見ているものだ。一気に盛り上がる。
 どの部分が特に笑えたか、皆のお気に入りのコントは、誰それがカッコいい、ゲストの新人アイドルが可愛かった…おしゃべりはさざ波のように教室に溢れ返った。
 僚もいくらか会話に加わったが、ここのところ頭を悩ませている考え事に引きずられ、言葉は途切れがちだった。今考えるべきではないとわかっているのだが、どうしてもうまく切り替えられないでいた。
 気付けば手がピアスを掴んでいた。ゆっくりと膝に下ろす。
 誰かの視線を感じ、それが南条のものであると気付くと同時に当人から声をかけられる。

「どこか具合でも悪いのか」

 以前のように体調を崩したのかとの気遣いの言葉に、大きく首を振る。

「腹痛か?」

 すぐに稲葉が加わる。そう言う本人こそ、実は昨夜食べ過ぎで散々な目に遭った。だからすぐに腹痛が頭に思い浮かんだのだ。

「いや、全然」
「じゃあ腹ペコ?」

 今度は上杉だ。けれどそれも違う。が、上杉は大げさに困った顔をして腹を押さえた。

「オレ様もぺこぺこぺこーでもう大変。早く授業終わんないかなー。もう今にも倒れそう。ねえ南条、オレ様今にも倒れちゃいそうなのよ」
「だからなんだ」
「帰りピーダイ寄ってこうよ。ねえ、でないとオレ様家まで帰れないよー」
「気持ち悪い、なんだその泣き真似は」
「じゃあ行こうよ。みんなで行こうってばー」
「わかったから放せ。行く、行くから」

 南条の袖を掴み、左右に振っていた手をさっと放すと、上杉は行くメンバーの点呼を取り始めた。

「……そんで桜さん、と。行くっしょ。南条くんのおごりだよ」
「じゃあ行くよ」
「おい、桜井」
「ごちそうさまです」

 僚は飛び切りにこやかに南条の肩を叩いた。
 するとそれを真似して、上杉と稲葉も肩を叩きごちそうさまですと続けた。まったくどいつもこいつもと南条の渋い顔がますます渋くなった。

 

 

 

 帰宅し、一人静けさの中で考える。
 学校という場で、皆がいるところで思い浮かべるにはあまりに不似合いだったと後悔が襲い来る中、恥ずかしさに悶えながら考え込む。
 瞼の裏で男の顔が明確になってゆく。
 気付けばまたもピアスに触れていた。
 彼と出会って、半年が過ぎた。
 身体を繋げたのはひと月前。
 いけない事をしていた、嘘を吐いた、その罰として尻を叩かれて、セックスして。
 その後も数回肌を合わせたが、最中に平手で軽く尻を打たれる以上の行為はなかった。その時も痛みというより弾けるような軽い衝撃だけで、肌がじんわりと熱くなるが後に引かない。痕も残らない些細なもの。
 その事で考える…思い悩む。
 最初に、絶対にされたくない事を挙げてほしいと言われた。
 男が望むならどんなものでも許容しようと思っていた。アルバイトで、ひと通りは経験した。いくらか耐性はあるつもりだ。
 男が望むならどんなことでも耐えられる。
 それでも一つだけ嫌なものがあった。思い出すだけで震えが走るほどだ。
 言おうとすると、舌が硬直したように引き攣って喋れなくなった。
 男はすぐに異変を感じ取り、言葉が出るようになるまで辛抱強く待ってくれた。
 ようやくのこと絞り出す。

――浣腸は、しないで

 男は怖いほど真剣な顔でわかったと頷き聞き入れた。
 それ以外の事は、おいおい始めていこうと緊張をほぐしてくれた。
 が、まだ本当に、叩く…撫でるような事しかしていない。
 痛い事が本当は嫌いな自分を怖がらせないよう、じっくり丁寧に抱いてくれた。身体の芯にまで届くよう、たっぷりの快感を与えてくれた。他にあるものと言えば、ちょっとした制限くらいだ。調教とも呼べないもの。
 遠慮している、させているのだろうか。自分のわがままで、彼に我慢させているのではないか。
 そういえば踏み込んで聞いたことがない。男はどんなプレイをするのか、望みなのか。
 自分とはどんな風にコミュニケーションを取るのだろうか。
 これから先も、普通のセックスだけでいくのだろうか。
 先週招いた時に聞いてみようと思ったが、怖気付いてしまい結局聞けずじまいだった。
 アルバイトで相手をした連中のように過激な事はしないようだし、こちらが本当に嫌う事は決してしないと最初に約束してくれたし、想像する限りではソフトな物しか思い浮かばないが、実際はどうなのだろう。
 もし、もし…実はハードなのも好みだったら。合わせるつもりはあるがやはり怖い。
 だがこれ以上は一人で考えてもらちが明かない。
 聞けばいいのだ。明日会った時に、聞いてみるべきだ。
 僚はテーブルに置いた箱に目を落とした。月曜日、傘の礼として男にもらったチョコレートの詰め合わせ。今日で最後の一個を食べてしまう。どれもみな違う味わいで、一つひとつ感動した。
 そしてとうとう最後の一つとなった。
 もったいないが、早く味を知りたくて、口に放り込む。鼻に抜けてゆく濃厚な香りに思わず頬が緩む。
 ゆっくり味わいながら、感謝のメールを送る。

 

 

 

 おめでとうの言葉と共に、四角い箱を手渡された。
 誕生日の贈り物として男が選んだのは、腕時計だった。
 心配なのか、いささか硬い表情ですすめてくる男に促されるまま、僚はケースから取り出し腕に巻いた。
 腕にはめた時計を少し潤んだ目で眺めていると、チョコレートが頭を過ぎるのを感じた。
 あれといいこれといい…どうして男はこんなに自分の好みがわかるのだろうか。
 嬉しいやら驚くやら、どう表現すればよいやらわからない。

「ありがとう」

 少し息が上がってしまっていた。自分でもわかるほど声が震えていた。恥ずかしくなり言い訳を重ねる。

「ほんと、嬉しくて……」
「よく似合うよ。気に入ってもらえて、私も嬉しい」

 男は笑ったりせず、微笑んで喜びを表した。
 ますます頬が熱くなる。それほど嬉しかった。もったいないから元通りケースに収めようと思ったが、ずっとつけていたい気持ちも強かった。
 食事の間も、チェロの練習の時も、ふと目を向けては心の中でにやにやとだらしなく頬を緩め、何度も繰り返し喜びを噛みしめた。
 身体中に満足感が充填されている。まるで一杯に膨らんだ風船のようだ。中身はぎっしり詰まっている。嬉しさが途切れることなく込み上げて、今にも弾けてしまいそうだ。
 満ち足りた時間を夢見心地で過ごす。反省会に差し掛かって、気持ちも落ち着いてきた。
 ふわふわとおぼつかなかった足がようやく地に着いた感じだ。僚は小さく息を吐いた。
 今日の練習について、感想を求められる。
 気分は非常に乗っていたが、浮かれ気味でいたせいか出来としては今一つだ。いや、悪い方だ。

「いい音は出せたと思うけど……でも、それだけだな」

 恐る恐るといった様子で見つめてくる僚に、神取は穏やかに微笑んで頷いた。本人に自覚があるなら、それ以上は何も言う事はない。次の課題をいくつか述べて、反省会を締める。
 僚はその後もしばらく楽譜を眺め、自分なりに気になる箇所に印をつけた後、楽譜を閉じた。
 小皿に乗ったひと口の和菓子を摘まんでいると、忘れていた疑問が唐突に蘇った。小さく息を飲む。

「鷹久も、縄とか鞭とか使うの?」

 がんじがらめに縛って、吊るして、鞭で打って。そういった事を男もするのか。
 込み上げた勢いのまま口を開く。
 当然ながら、男の目が驚きを表して何度か瞬いた。
 聞き方がまずかったとためらいが生じるが、何日も思い悩んだ末の勢いは止まらず、身を乗り出して迫る。
 一つひとつ尋ねると、男はいくつかに首を振った。
 残ったのは鞭だった。

「それも、相手と望みが合うならね」
「俺に使いたいと思う?」

 俺に使ってるとこ、想像したりする?

「君は、使われたい? 私に鞭で打たれる自分を思い浮かべた事は?」

 神取は覗き込むようにして目を見つめた。
 彼は痛みを欲していない。本当は好きでもなんでもないといった言葉が、脳裏を過ぎる。彼には素質があるが、ほんの少しの痛みが好みに合う。だから鞭のような直線的な痛みは好みに合わない。

「……ないけど」

 でも、と僚はすぐに言葉を続けた。
 でも、鷹久のなら受けてみたい気持ちはある。

「怖いのだろう?」

 たちまち僚は顔付きを険しくした。心なしか頬が青白く見える。無理もない。初めて会った夜、目にした彼の背中は、自分勝手な力に翻弄され正視に堪えぬほど傷付けられていた。ああまでされて、恐怖が残らない訳がない。あの頃の彼には必要だったとはいえ、本心から望んだものではないのだ、恐怖が拭い去れる訳ではない。
 今でも根強く残っているはずだ。

「鷹久はどうなの? 俺の身体、鞭で打ってみたい?」

 それでも僚はこうして寄り添う方を選んだ。痛々しいほど青ざめた顔は真剣そのもので、健気さに胸を打たれる一方、笑いたくもなる。単純におかしいから、嬉しいから。
 その奥からじわじわと興奮が込み上げる。

「欲求はある。どんな声を出すのか、どんな顔を見せてくれるのか」

 神取は正直に述べた。
 想像しようとするが、ぼやけて上手く思い浮かべられないんだ。

「……え、どうして」
「君が好きでない事は、出来ないんだ」

 たとえ想像といえども、ためらいが生じる。

「俺がしてくれって言ったら、想像できる?」
 そして、してくれる?

 テーブルに身を乗り出す。

「鷹久の鞭が欲しいって言ったら、してくれる?」

 男はわずかに目を細めた。真意を測るように見据える。
 いくらか怖気付くが、僚も見つめ返す。
 やがて支配者の貌で男は微笑んだ。

「私を、もっと見たいのだね」

 ずきりと腹の底が疼くのを、僚ははっきりと感じ取った。

 

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