Dominance&Submission

J&J

 

 

 

 

 

 衣替えを迎え、そろそろひと月が過ぎる頃。
 男のマンションに向かう道すがら、鼻先をひらりとかすめた蝶に桜井僚はふと目を上げた。
 車が行き交い、排気ガスが渦巻く中をまるで気にせず舞い飛ぶ蝶の姿に、しばし暑さを忘れる。
 歩道脇の街路樹に近付き、ぱっと離れ、何かを探しながらやがて建物の向こうへと飛んでいった。
 見えなくなってもまだ僚は目を向けていたが、地下鉄の階段に差し掛かりそこで顔を正面に戻した。
 ここ数日、昼間はうだるように暑く、夜は眠りにつくのも困難なほど気温が高かった。
 今日は、少し強い風が出ている。おかげで昨日までに比べればまだ過ごしやすいが、それでも半袖のシャツの下は汗が噴き出していた。影がほぼ真下にある時間に外を歩いているのだから、当然だ。
 ようやく日陰に入れると、僚はほっと息を吐きながら地下鉄の階段を駆け下った。

 

 

 

 地下鉄の中は、寒く感じられるほど冷房が効いており、そのせいで降りてすぐは熱気もそれほど不快に思わなかったが、いざ外に出てみればやはり息苦しい暑さで、しかも今まで過剰に冷やされていた反動も加わり、一気に汗が噴き出した。
 着いたら、まずシャワーを借りよう。そうすればさっぱりすると、僚はいつもの倍はあるように感じられる身体でマンションへと向かった。
 エレベーターを降り、ドアの前でチャイムを押す。
 ややあってドアが開き、神取鷹久が迎え入れた。

「よく来たね、暑かっただろう」
「もう汗だく」

 大げさなため息と共に僚は頷き、男の横に立って髪をかき上げた。

「言ってくれれば、迎えにいったのに」

 廊下の照明に浮かび上がる僚の火照った顔にくすりと笑い、神取はその顎に指をかけた。
 いつもなら嬉しい迎えのキスも、今日ばかりは遠慮願いたいと思っていた僚だが、いざ男に見つめられるとそんな事も忘れ顎を上げてしまう。暑いから抱き付くのはダメと身振りで訴え、顔だけを近付けた。
 男は笑って応え、ついばむようなキスで僚を迎えた。
 二度、三度と繰り返し、二人は顔を見合わせて笑った。

「中は涼しいよ。おいで」

 促され足を踏み入れたリビングは、心地好い冷気に満たされていた。深く吸って吐き出す。ようやくまともに息をついたように思う。本当に息苦しかった。
 早く汗を流してしまいたい。浴室を使わせてくれと願い出ると、男は快諾した。

「その前に、まずは冷たい一杯をどうぞ」

 神取は、冷蔵庫に用意していた、よく冷えたレモネードを手渡した。
 これは嬉しいと、僚は子供らしい無邪気な笑みを顔いっぱいに浮かべ、受け取るや結構な勢いで飲み干した。
 あっという間に空になったグラスに男は軽く笑う。

「さんきゅ…ほんと美味かった」
「私も後でお邪魔していいかい」
「……え?」
「書斎の整理に夢中になって、少し汗をかいてしまってね」

 レモネードのおかわりを作ってから向かうよ。
 僚は複雑な顔で応えた。

「いいよ、けど、風呂の中じゃやんないからな」

 以前、調子に乗って風呂場で耽り、のぼせて散々な目に遭ったからだ。最中は確かに最高の心持ちだったが、後の気分の悪さときたら…思い出すのも震えがくる。
 だから僚は釘をさす。あくまで汗を流すだけだと。

「もちろん、一緒にシャワーを浴びるだけさ」
「なっ…んだよ、俺だけやりたいみたいじゃんか」

 しかしあっさり返答されるとそれはそれで複雑である。頭の中にそれしかないように思われたようで、怒りやら恥ずかしさやらが交互に込み上げた。
 険しい顔付きでぶつぶつと零す姿に神取は苦労して笑いを堪える。

「とんでもない。でも、風呂の中では禁止だろう?」
「そうだよ。けどさ」

 言葉はそこまでだが、尖った唇が心情を物語っていた。
 もう我慢出来ぬと神取は肩を震わせた。当然ながら、愛しい彼にきつい眼差しで睨まれる。両手を軽く上げて宥める。

「少しなら、いいかい」
「……うん。少しならな」

 あくまで少しだぞと声に込め、僚は目を逸らした。

「では、後で」

 

 

 

 手のひらで温度を確かめた後、もう待ちきれぬと頭から浴びる。
 身体に纏わり付いていたべたべたとした不快感が一気に流れてゆく。
 ため息を一つ。
 本格的に身体を洗おうと石鹸に手を伸ばしかけたところで、僚は尿意に気付いた。
 暑さでぼやけていたのだろう、汗を流した事で今ようやく気付いた。

「………」

 ここでしてしまおうか…いや、それはさすがに失礼だ。礼儀知らず、絶対に良くない。
 すぐに思い直してシャワーを止める。
 男が来る前に済ませて、改めて身体を洗えばいい。
 そうしようと思い立った時、物音がした気がした。
 気のせいではなかった。
 男がやってきたのだ。
 浴室のドア越しに目を見合わせ、お互い軽く笑う。

「っ…」

 腹の底まで響くほど胸が高鳴り、僚は唾を飲み込んだ。
 男が一枚ずつ服を脱いでいく様に目を奪われる。
 心がすべて持っていかれる。
 見ていて、自分の背中が気になった。男の身体は相変わらず綺麗で、無駄なく鍛えられ、背中から尻まで見惚れてしまうほどだ。それと比べて自分はどうだろうかと、気になったのだ。
 タオルを手に男がやってきた。
 僚はドアの前から退いて迎え入れた。

「もう、全部終わってしまった?」
「……まだ」

 髪も身体も洗い終えたかという問いに、僚は少し潤んだ瞳で首を振った。

「では、背中を流すのを手伝っていいかい」

 瞬きを交えながらじっと見据える。
 神取は視線の意味をすぐに察し付け足した。

「わかっている、あの時の事は私も反省している。だから、手伝うだけにするよ」

 私なりのやり方でね。
 抗議めいた眼差しの僚に軽く笑い返し、背後から肩越しに手を伸ばして栓をひねる。
 僚は喉の奥で小さく唸り、シャワーを浴びた。
 男の事だ、ただ身体を洗うだけのはずがない。一体どんないたずらを仕掛けてくるつもりか、全力で身構える。
 もし仕掛けて来たら、何と言って抗議してやろうか。あれこれ思い浮かべながら待ち構えるが、男の両手は丁寧に肌を撫でるだけだった。しっかり石鹸を泡立て、塗り付けるようにして首や背中を擦る。力加減が絶妙で、時々くすぐったく感じてしまうが、わざとしているわけではない。
 やがて手は前面に及んだ。
 けれどやはり、身体を洗う以上の事は何もしてこなかった。
 感じやすい部分をわざと摘まんでからかう事すらしない。
 手はどこまでも優しく、気持ち良かった。
 そうなると、偉そうに突っ立って身体を洗わせている自分がたまらなく恥ずかしくなってきた。
 申し訳なくていたたまれない。
 自分の番が終わったら、すぐに男にお返しをしよう。
 まったく、彼はちゃんと約束を守っているのに自分はなんて邪な事を…嗚呼恥ずかしい。

「!…」

 そう自省した矢先の事だった。
 男の指が、後ろに入り込んできた。
 すぐさま手首を掴んで止める。

「そこは…! そこはいい、自分で――!」

 前に進んで逃れようとするが、それより早くもう片方の腕で抱きすくめられ、身動きが取れなくなる。

「た……鷹久! しないって言った!」
「少しならいいと言った」

 ふふと笑う声が耳朶をかすめる。
 ぞくりとした感触に身震いを放ち、僚は喉を鳴らした。

「洗っているだけだよ。私なりのやり方でね」

 また笑い声がして、内部の指がゆっくり蠢いた。
 自分の事を知り尽くした動きに、今にも恥ずかしい声がもれそうになる。今更隠す事でもないが、まんまと引っかかった悔しさから、出してなるものかと噛み殺す。代わりに身体が震えた。足踏みしてごまかす。

「だ、め……じゃあもういい! ありがと、もういいから!」

 全力でもがいて、僚は何とか拘束から逃げ出す事に成功した。
 不満たっぷりの眼差しで睨んでくる僚を微笑で受け流し、神取は泡を洗い流した。
 僚は身構え、一挙手一投足をも逃さぬ鋭さで見据える。どうやらいたずらはあれで終わりのようだが、気が収まらない、何かしらのお返しをしなくては気が済まない。
 そう、お返しをするのだった。
 唇を引き結ぶようにして笑い、僚はしゃがみこんだ。目の前にある男のものを間髪を入れず咥え込む。
 しなやかに勃ちかけていたそれが、口の中で一気に硬く張り詰めるのを、僚は興奮に似た思いで味わう。
 まだきちんと汗を流していないので、男の臭いはより強烈だ。それがまた気持ちを昂らせる。思わず小鼻を膨らませてしまう。恥ずかしさに身体が熱くなるが、他の意味でも熱い。男のものを咥えて、握っただけで、自分も勃っていた。内股が痛いくらいだ。
 浅ましい生き物になってしまった自分に恍惚としながら、僚は口淫に耽った。
 お返し…仕返しなんてどうでもいい。ただの口実。自分はどこでだって、男とこうしたいのだ。後先なんて知るものか。今はもうこれしか考えられない。
 と、根元に添えていた手を握られる。目を上げると、もう片方の手が視界に入った。両手を寄越せ、という仕草だ。
 僚は、支えの為に脚に掴まっていた手を放して男に預け、膝で這いずって更に前に出た。
 目だけを上げて確認すると、男は満足げに頷いた。
 僚も目を細め、改めて口中に受け入れる。
 手を使わずにという指示に従い、舌と唇だけで男に奉仕する。時々先端に歯を当て、そっとくすぐると、頭上からため息に似た喘ぎが降ってきた。
 ぞくぞくするような疼きが全身を駆け巡った。
 持てる限りの技巧を尽くして男を悦ばせる。
 しっかり握ってくる手に掴まり、僚は一心不乱に貪った。
 男の泣き所はよく知っている。どこをどうされるのが好きか、全部覚えている。
 だから時々、少し意地悪をする。わざと好きなところを外すのだ。すると男はさりげなく欲しいところを差し出してくる。その、甘えて委ねてくる仕草がたまらなくて、また自分も我慢しきれなくなり、もう意地悪はやめて共に高みを目指すのだ。
 裏側を狙って舌先でこそぎ、先端をすぼめた唇で吸う。
 また、声がした。
 たまらずに僚は身悶えた。触ってもいない自分のそれが、小刻みに震えた。息継ぎの合間ほんのわずか口を離し、また咥え込む。苦しいくらい喉奥に受け入れ、何度も唇で扱く。
 男の握る力が、少し強くなったように思えた。同時に口内の怒漲がびくびくと痙攣する。限界が近いのだと察した途端、頭の芯がびりびりと痺れた。目が眩み白く霞む。
 僚は我を忘れて吸い上げた。先刻男に弄られた後孔が切ないほど疼き、ほんの微かに残った感触に縋って腰を振る。
 男の熱い手のひらをしっかり握り返し、痴態を晒す。
 ほどなく、夥しい量の熱いものが口内を満たした。男の想いに溺れかける自分が脳裏を過ぎる。馬鹿げた妄想にうっとりと浸り、僚は何度も喉を鳴らした。むせかえるほどの男の臭いに自然涙が滲む。
 最後の一滴を飲み込んだ刹那、もう一秒たりとも我慢出来ず、僚はかすれた声とともに絶頂を迎えた。
 男の足もとに二度三度と白液を放つ。

「……あ」

 吐き出して満足した直後、止めようもない別の熱いものが先端から滲み出た。
 力んで抵抗するが、叶わなかった。せめて無様な姿を隠したかったが、男は手を離そうとしなかった。

「だめ……はなせ!」

 必死に振りほどこうとするが、それも叶わなかった。
 情けなくて顔を上げられなかった。男の顔を見られなかった。
 触られてもいないのに射精して、続けざまに漏らしてしまうなんて、こんな情けない姿を晒してどんな顔をすればいいのか。

「ああ……」

 男の足を汚す自分に大きく顔を歪める。
 神取はその様子をじっと見下ろしていた。一瞬驚きはしたが、すぐに洗えるこの場で騒ぐほどの事でもない。生理現象は仕方がない。それよりも体調が気になった。単に我慢しきれなくなっただけならいいが、心配になる。
 問いかけるが、一度目は無言であった。
 少し間を空けてもう一度訪ねる。
 僚はかすれた声で途切れ途切れに答えた。

「へいき……どこも、いたくない」
「本当に?」
「……だいじょうぶ」

 哀れを誘うか細い声にほっとする。同時に、自身の中のよくない心が頭をもたげる。
 まずは彼を立たせ、もう一度身体を洗ってやる。
 思わず笑いそうになるほど僚は竦み上がり、されるがままになっていた。
 水音に紛れて『ごめんなさい』と囁きが聞こえてきた。
 シャワーを止める。

「僚、ここはトイレではないよ」

 僚は深く俯き、鼻を啜って頷いた。
 左耳の白金が小刻みに震えている。

「約束を忘れてしまったのかい?」
「そんなこと…ない」

 俯いたまま小さく首を振る。
 彼が見ていないのをいい事に、神取は嬉しげに口端を歪めた。

「前に何と言って約束したか、覚えているね?」

 たちまち僚は肩を竦めた。
 びくりと弾む動きに合わせて、顎から水滴が滴った。
 床に落ちた水滴から目を上げ、神取は続けた。

「言ってごらん。あの時、何と言って約束した?」

 僚の唇が何か云いたげに動く。しかし言葉は発せられなかった。両目が忙しなく揺れ動いている。

「言いなさい、僚」
「はい、もう……」

 もうお漏らししません。
 今にも泣きそうに顔を歪め、僚は喘ぎ喘ぎ答えた。
 神取はそこで、わざとらしくため息をついた。約束をしたのに、と呆れる音を出す。
 また僚の肩がびくりと震える。

「でも、君はしてしまった」
「ご、ごめんなさ……」
「約束したろう?」
「ごめんなさい……」
「謝るなら、私の目を見なさい」

 僚はぎくしゃくと目を上げ、支配者の貌を見る。
 まっすぐ向かってくる強い眼差しに絡め取られ、息も出来なくなる。だというのに…直前まであんなに己を悔いていたのに、目を見た途端、身体の芯が熱く膨れ上がり、何もわからなくなるほど状況に酔い痴れてしまう。
「だらしのない君のここには、栓をしないといけないね」
 信じがたい言葉に目を見開く。間を置かず下部を握られ、僚は何度も首を振った。

「や…いやだそんな――やだ、やだ!」

 もうしないから。今度からちゃんと言うから。
 男の手首を掴み、何度も訴える。
 神取はゆっくりと首を振って僚の抵抗を封じた。

「そんな目をしても駄目だ、ほら、まっすぐ立ちなさい」

 僚が言われた通りの姿勢をとると、神取は手を放してやった。

「約束を守れなかったのだから、罰を受けるのは当然だよ」

 冷ややかでとても熱い男の眼差しにまっすぐ射貫かれ、僚は喉を引き攣らせた。気を抜くと今にも膝から崩れそうになってしまう。どうにか奮い立たせ、男を見つめ返す。

「……はい」

 始まりの時に身体はひどく震え、心が、堪えようもなく疼いた。

 

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