Dominance&Submission
幕間
唇を重ねると、微かにコーヒーの香りがした。 気のせいかな。確かめるためにもう一度口付ける。もう一度。もう一度。与える以上に応える男に煽られて、桜井僚は激しく貪った。 舌を絡めながら男の身体を撫で回す。鍛えられた男の身体が手のひらに伝わってくる。特に、背中から腰にかけてが好きだ。尻も好き。脚も、腕も、腹もみんな。 好き勝手さすっていると、不意に胸の一点を摘ままれる。敏感な突起を優しく嬲られ、全身が震えた。感じすぎて、自然と身体が拒む動きになる。それでも男の指は離れず、絶妙な力で捻ってくる。 「やだ、も……そこ、やだ……」 「そんなにいい声で、嘘をつくのかい」 可愛らしく甘えてくる仕草にふと笑い、神取鷹久はもう少し、ほんの少しだけ指先に力を込めた。それだけで身体が跳ねるのがたまらなく愛しい。 「あっ…うう……下も、触って――あっ!」 言い切らぬ内に包み込まれ、僚はひっと喉を震わせた。 手の中の熱に男が笑う。 「他には」 「うしろ、も……欲しい」 少しむきになって声をぶつける。それでも男の微笑みは変わらない。 「何が欲しい。指?」 まだ焦らしてくる。違う、と身をくねらせる。いつもそう。いつもこうしてほんのちょっとだけ意地悪しては困らせ、昂らせ、とろけるような極上の快感を与えてくれる。 嗚呼、早く欲しい。 「……これ、が、欲しい」 手にすると驚くほどの熱さに喉が震えた。熱くてかたい。つばを飲み込む。後ろがずきずきと疼いた。早く、中に感じたい。 「では、自分で脚を抱えておねだりしてごらん」 「……入れて」 おずおずと言われた通りの格好を取る。 男の指が、腿の内側をすっとなぞる。 触れるか触れないかの感覚にすら、痺れるほどの快感に飲まれる。恥ずかしいほど自分のものがびくつくのを目の端にとらえる。慌ててよそを見やる。 僚、と名を呼ばれ、反射的に男を見やる。 「私の前で初めてこの格好になった時――」 君は何を思った? 目を閉じる。記憶を手繰って思い出す為に。 あの時自分は――入れてほしくて、たまらなくなっていた。 「君はその時が初めてだった…怖いものだった。悪い印象しかなかったろうに」 「……うん」 素直に答える。 その前になおざりに言った時は、まだ怖かった。強引に自分を言いくるめて、無理に繋がろうとしていた。 そんな無茶な自分を、男は丁寧にほどいてくれた。 良い印象はなかった。バイト中、道具で散々遊ばれていたので感覚はわかっていた。誰も皆乱暴に突っ込み、好き勝手動かしておしまい。 それでも時には、感じてしまう事があった。心はいつまでも拒絶しているのに、身体だけどんどん慣れていった。 痛みは恐怖で、でもそれが欲しくて、どんどん自分がわからなくなっていった。 こんなもの、好きになる事はないと頭の片隅で思っていた。それ以前にどうでもいいから、考えないようにしていた。 でも男に出会い、こんなものをしたいと強く思った。 コミュニケーションの為にあるという言葉に強く惹かれた。 嘘だ、馬鹿馬鹿しいと笑いながらも、思いは膨れ上がっていった。 男がするならばきっと、あんな暴力的で自分勝手な物ではなく、もっと違うものが見えるのではないか。 あやふやで頼りないが、そんな事を思った。願った。 中に入りたいと興奮しきって、それでいて男は決して乱暴にはしない。決して傷付ける事はしない。 どうしてほしい? どこにほしい? 自分にも同じものがついていて、欲求の度合いは違うだろうが感覚はわかるので、相当な苦痛だっただろうというのは想像に難くない。目前まで迫っていて我慢するのはかなり難しいこと。 今にも破裂しそうなものを抱えて苦しかったはずなのに、どこまでも自分を尊重してくれた。 自分としたいと、こんな自分を抱きたいと言ってくれた。 そんな人間となら、きっと、もっと違う何かが。 「それで……見えたかい?」 ゆっくり入り込んでくる細長い男の指に震えながら頷く。 「見え…た」 指が二本に増える。少しじれったいが、丁寧にほぐしてくれる動きに涙が出そうになる。 もっと見たいから、もっとして。 「鷹久の欲しい……入れて」 自分だけに興奮している姿を見せてほしい。 おねだりに男が微笑んで応える。いつもと変わりないようで、余裕がない。ほんの少しの差を見分けられるようになった自分に嬉しくなる。 男が覆いかぶさり、至福の時が訪れる。 |
深くまで身体を重ね合わせ、より奥を目指して抉ってくる間中、耳元で囁かれる。 愛してる。 何度も、何度も。 深く抉ってくる熱と、耳から入り込んでくる熱とで訳がわからなくなる。 身体がどこまでも昂って、息遣いにさえ感じてしまうのに、それ以上の快感にさらされ、頭がおかしくなる。 もう、やめろよ。 泣きそうになって叫ぶ。 それでも男はじっくりと動いて悦びを教え、耳元で愛の言葉を囁く。肌を這う指は優しくて、身も心も肉も骨も、魂まで溶けてしまいそうに甘く、柔らかい。 真っ白な光に包まれ、高みに達する。 乱れた呼吸が鎮まるにつれて夢見心地だった身体も現実に戻り、どこかふわふわとおぼつかない感覚だった手のひらにも現実味が戻り、抱き合うとしっとり汗ばんだ肌が感じられた。 最中の激しい接触も、今のこの穏やかな抱擁も、全部好きだ。 「鷹久……好き」 男は幸せそうに笑った。 自分の言葉で男が幸せそうに微笑む。こんなに幸せな事はない。 男が繰り返したくなるのも納得だと、少々複雑な気持ちで受け止める。 ベッドに緩くもたれる男に寄り添って寝転んで、幸せの余韻にうっとりと浸る。 やがて口を開く。 「鷹久は、もし俺が本当には痛い事大好きで、ピアスもあちこちガンガン開けるような人間だったとしても、チェロ仲間でいてくれたよね」 首を振る。僚はわずかに顔をしかめた。 「やっぱり……軽蔑する?」 「いいや。以前も言ったが、好みに関しては言及しない」 「でもあの時、悲しくなるとか言ったじゃん」 「強がる君に、胸が痛くて悲しくなったんだ」 「それは……ごめん」 男は肩を抱き微笑んだ。ひと息置いて口を開く。 「質問の答えだが」 あの時はそう言ったが、多分近い内破綻していただろう。何故なら―― 「私が耐えられないからだ。他の誰かと契約し、その主人のものになった君を見るなんて耐えられない。ここに来る前に何をしてきたのだろうか。明日の休日はどんな事をするのだろうか。あの身体に、どんな傷を刻むのだろうか。そんな事に捕らわれて、嫉妬でおかしくなる」 「ええ……」 そんな生々しい妄想をするのかと、僚は目を瞬いた。 「上半身とはいえ、君の身体を見たからね。それに、前にも言ったように、あの時……君が睨んできた時、私は君に引き込まれた。思い浮かべるなというのは……いささか無理だ」 「ああ…そだな」 それは納得だ。 では、それなりにエロい妄想もしたのかと聞くと、男は何か云い含んだ笑みで肩を竦めた。 意外だが、自分とそう変わらないのは正直嬉しく思った。 でも、だったら。 「だったらさっさと襲ってくれてもよかったじゃん」 俺はどんと来いだったのに…少し拗ねた顔をする。無理やりキスをしたのは悪かったが、拒まれて少なからず傷付いた。 「済まん。相性が合わない事を思い知らされるのが、怖かったんだよ」 「鷹久が、怖い?」 ちょっと茶化す。 肩をそびやかし、素直に頷いた。 「見てわかるように、怖がりなんだよ」 「また、よく言う」 「あの時は……自分の事ばかりで、君を思いやる余裕をなくしていた。本当に済まない」 「そんなの、鷹久が謝ることじゃないよ」 「あの時間……君とチェロを楽しむ時の終わりがもう目の前に見えて、私は――」 言葉が途切れた。 伸びあがって口付ける。 お互い怖がっていたのか。自分だけでなく。自分はしまいにじれったくなって、やけくそになって、突破を試みた。 やってみてよかった。こうして落ち着くところに落ち着いた。 少しおどけて、しかし心は正直に想いを伝える。 「もう鷹久なしじゃ駄目だね、俺の身体は」 「私こそ、君なしではもう駄目だ。君の奏でるチェロもピアノも、君の身体も心も全て」 まっすぐ注がれる眼差しも。 美しく整った顔に浮かぶ綺麗な笑みも。 「絶対に手放さない」 「鷹久、欲張りだもんな」 すぐ目の前にある手の甲を、指先でつついて遊ぶ。 お返しに、大きな手が優しく頬を撫でる。嬉しさに僚は目を細めた。 「あの時、忘れ物してなかったら、鷹久に会えなかったんだよな」 記憶をたどりながら呟く。 ホテルを出て少し歩いてから、フロントに預けていた荷物を思い出した。その少しの差がなかったら、会えていなかった。 もしくは通りが渋滞していなかったら。あるいは、あの日の客が無茶をしなければ、車の前で倒れ込む事もなかった。 自分たちはお互い目に留まる事もなく遠くですれ違って、それでおしまい。 繰り返し頬をさする手のひらに唇を寄せる。 「出会う……運命だった。ね」 目を上げて微笑む。 「……でも、もっと早く会ってたらよかったな」 あんな事をする前に出会えていたら。 悔し涙が滲む。 傷の無い身体で、後ろめたい思いを抱く事もなかった。 あの頃の事を時々夢に見て、目を覚ましてからもまだ恐怖を引きずって、申し訳なく思ってしまう。 後悔する少年に身を屈め、額に口付ける。 「だが、それがなければそもそも接点がなかった」 どこまで遡ればいいかわからないが、ただ同性が好きだというだけでは、決して交わる事はなかっただろう。 良い事も嫌な事も、一つとして削れない。 色んなものが積み重なって、出会いに繋がったのだ。 「だからそんなに自分をいじめるな」 君をいじめていいのは私だけだ。そう言ってにやりとほくそ笑む男に、僚はそっと目を細めた。 「……うん」 傷を忘れる事は出来ない。だからといっていたずらに傷を抉る事もない。ただ痛みばかりあるだけで、何も変わりはしない。 今こうして一緒に過ごしている事に何の不満があるというのだ。 僚は小刻みに首を振った。何もありはしない。 「……慰めてくれるんだろ」 ああ。何度でも。 「君が不安になった時は、いつでもね」 だが、私を疑った事は許せないな。 うっすらと笑っている。そこに落胆や失望は見えない。 「ごめん……なさい」 震えながら告げる。 手が優しく頬を撫でる。 いつもこうして、助けてくれる人。理解して、共に苦しんでくれる人。だから自分は。好き。信じる。頼る。甘える。どこまでも溺れる。 「……お仕置き、してください」 「どうされたい?」 「……なんでも。鷹久のしたい事ならなんでもいい。痛いのも苦しいのも、鷹久ならいい」 なんでもする。何をしたっていい。ここにあるのは全部、男のものだから。 「今夜は少し冷えるね。あたたまろうか」 微笑む男にどう返事をしてよいやら迷う。 「あそこの」 すると男の人差し指が、一番遠くのクローゼットを指差す。 「奥から、赤いものを全て持っておいで」 男と目を見合わせて頷き、僚は向かった。 「そう、そこだ」 誘導の声に応えて扉を開く。息を飲む。中には思った通り、赤い革枷が収まっていた。 手枷、足枷、そして首輪。自分を従う者へと変える為の印。 赤いものはもう一つあった。 僚は革枷を右手に、赤い蝋燭を左手に掴むと、ためらいがちに男を振り返った。 「それで全部だ。おいで」 一度俯いてから男の元に戻る。 「君の本気を見せてくれるかい」 どれだけ私を思っているか、教えてほしい。 唇の内側を噛みしめ、僚は頷いた。 |