Dominance&Submission

砂時計

 

 

 

 

 

 練習を終え、弦や弓の手入れをいつも通り済ませてケースにしまった後、桜井僚は両手で頭をかきむしり盛大にため息を吐いた。
 中々上手くいかずもどかしい、という心情を全身で表現する彼に目を上げ、神取鷹久は軽く笑った。
 視線に気付き、僚は顔を向けた。

「でも、楽しい」
「だろう。君の音からも、それがよく伝わってくるよ」

 そうだろうかと、僚は苦笑いで肩を上下させた。
 以前男が持ちかけた、三重奏をやってみようという提案…最初こそ怖気づいて拒んだものの、冷静になって考えるとやってみたい意欲がむくむくと湧いてきた。
 自分はまだまだ拙く危なっかしいが、そこまで縮こまる事もないのではないか。
 自分がどれほどなのか、一度くらい試してもいいのではないか。
 時間が経つごとに気持ちが固まっていった。
 僚はさっそく男に伝えた。
 夏休みに入る前に、三人で合わせてみたい。
 四月の頭の事だ。
 もちろん男は快諾した。すぐに悪友めに連絡を取り、具体的な日時の打ち合わせをした。

――おお、ようやく僚くんのチェロが聞けるんだな

 彼もまた快く承知してくれた。ただ申し訳ないが練習に参加出来るのは五月からになってしまうので、それまで二人で合わせておいてほしいとの旨を伝えられた。
 僚の方こそ急に決めた事を謝罪した。

――そんなの全然気にしなくていいよ、本当にやりたい事は遠慮しちゃだめだめ、構わずガンガン行かなきゃ

 彼には感謝でいっぱいだ。
 そして男にも。
 今日で三度目の合奏になるが、どうにか息が合ったと思った途端に走りがちになり、何度も同じところを行ったり来たりした。

「だが、調子は良いよ。音もよく張り切っていて、綺麗に伸びていた」

 ピアノを乗せるのが楽しかったと言ってくれる男に礼を言い、僚はエレベーターに乗り込んだ。
 男の後について部屋に入り、チェロをしまいに行く。そしてすぐにキッチンに向かい、改めて謝罪する。
「時々せっかちになるだけで、本当に良い音だったよ」
 反省会のティータイムの準備をしながら、神取は緩く首を振った。すぐ傍に立つ僚の顔をちらりと見やる。

「それで、どんな良い事があったんだい?」

 紅茶の缶、二人分のカップ、そして砂時計を用意し、改めて顔を向ける。
 僚は、困った、それでいてどこか嬉しそうな顔で笑った。

「鷹久って、何でもわかるよな」
「何でもとまではいかないが…君が嬉しいか、悲しいか、見落としたくないと思っている。そうやって見ていたらわかってきてね。今日は、嬉しい方だな、とね」

 お見通しだった事に僚は苦笑いを零し、男の隣に並んだ。一枚のプリントを差し出す。
 四つ折りのそれを開き、男はほうと小さく声をもらした。
 僚は、目の前にある砂時計をそっと手に取った。
 男に渡したのは、週初めに行われた健康診断の結果を表したものだ。注目してもらいたいのは身長の欄。
 砂時計は三種類のボトルが並んだもので、上部にそれぞれ数字が書かれていた。中の砂の色もそれぞれ違っていた。
 僚はしばし眺めた後、男に目を上げた。

「せめてもうちょっと欲しいと思ってたから、すっごい嬉しくてさ」

 なるほど、だからこうして、いつも以上にぴったり隣に並んだという訳か。違いを感じろ、という為に。
 練習中、とてもよく集中しているのに気が急いてしまったのもこのせい。早く報告したくてたまらなかったのだ。
 僚は推測した通りの事を口にし、今日の練習で気もそぞろだった事を謝った。
 彼の嬉しそうな顔を見るにつけ、自分も不思議と嬉しくなる。良かったね、と素直に気持ちを渡す。

「ありがと。ちなみに鷹久っていくつだっけ」
「最後に測った時は、182センチだったかな」

 最後に計測したのはいつだったか。

「うーん、ふーん。おっきいね。でも俺だって伸びたもんね。もう十センチ差じゃないからな」

 何故か挑発的な僚の物言いに笑いが込み上げる。
 言われてみれば、目線を向ける角度が少し緩くなった気がする。

「確かめてみるか」

 僚の手が右肩を掴み引き寄せた。力強さに思わずどきりとする。上手く隠し顔を寄せる。

「今日はやけに積極的だね」
「……こういうの、嫌いか?」

 唇の上で囁くと、僚の目がわずかに揺れた。
 とんでもない。
 その後は行動で応える。
 男はしっかりと抱きしめ、深く唇を重ね合わせた。僚もすぐに腕を回し抱き合う形になる。
 彼の言う通り、屈む度合いも伸び上がる力も、僅かだが確かに違う。
 男は無性に嬉しくなるのを感じた。
 長い長いキスの合間、僚は囁いた。
 だって、夏休みまであと三ヶ月しかないから。
 夏休みに入ったら受験勉強に専念する。とはいえ全く会えなくなる訳ではなく、金曜日の練習と食事会はこれまで通り変わりはない。年数は短いが、それなりに自分のやり方というものを確立させた。集中出来る時間や、リズムを把握している。一つ崩すとあちこちに響いてしまい、結果全てが上手くいかなくなってしまう性分である事も理解している。だからこれまで通りの生活を送るつもりだが、どうしても気持ちが急いてしまうのだ。
 三人で合わせる約束も果たしたい、どうしても焦りを抱いてしまう。
 よくわかると抱く腕に力を込め、男は舌を絡めた。
 あ、と淡い声が零れる。
 その、背筋を撫でる艶めかしい声に男は興奮を抑えられなかった。
 僚もまた同じで、キス一つで自分を操る男が憎らしくもあり愛しくもあった。縁をそっと舐められた瞬間、自身が一気に熱くなるのを感じた。
 男の脚に擦り付けるようにして一歩踏み出し、背後にあるカウンターに支えの手を伸ばす。
 がたんと大きな音がした。
 何かを倒した感触に僚ははっと目を見開き、慌てて見やった。
 砂時計ではありませんように――きつく眉根を寄せる。
 たった今まで頭の中を渦巻いていた熱が急速に下がっていくのが手に取るようにわかった。

「ごめん……ごめん!」

 僚はあたふたと倒した砂時計を手に取った。

「落ち付いて、僚。かしてごらん」

 男は受け取り、光にかざした。

「わ……割れちゃった?」

 おろおろと尋ねてくる彼に首を振り、大丈夫だと笑いかける。

「ほら、見てごらん。どこにも傷は付いていない。カウンターも綺麗だ」

 そう声をかけるが、青ざめ強張った凝視は変わらなかった。
 僅かに震える左手でピアスを掴む。

「ごめん……調子に乗って。ほんとにごめんなさい」
――鷹久。

 そっと囁くような声が、男のある部分を妖しくくすぐった。
 直前まで、軽く笑い飛ばすほどの些細な出来事であると彼を慰めるつもりでいた気持ちが、遠く押しやられる。
 代わりに浮かんでくる、一つの強い欲求。
 嗚呼、彼は本当に誘うのが上手い。
 状況に引き込む力を、さりげなく、しかし逃れようもなく振るう。
 やや潤んだ瞳、訴えかけるような上目遣い。しっとりと感情のこもった眼差しに絡め取られ息もままならない。彼の求めるものを寸分違わず与えて、支配して……支配されたい。そんな気分にさせる。
 本人は完全に無意識だ。
 本当に彼は素質がある。
 巡り合えて嬉しい。嬉しくてたまらない。
 神取は目を細めた。
 目の前には、微動だにせず俯いたまま突っ立つ少年。その行為は彼にとって精神安定をもたらすのか、左手がピアスに縋り付いている。
 支配者の貌でじっくりと眺めた後、男はふっと目を逸らした。そこには、先ほど彼が渡してきた一枚のプリントがあった。もったいぶった動作で手に取る。

「確かめてほしいんだったね」

 びくんと身体が揺れる。
 しばしの静止の後、僚はぎこちなく頷いた。
 静かな言葉で操る。

「寝室へ行きなさい」
「……はい」

 僚はか細い声で応え、ゆっくりと歩き出した。
 その後に、砂時計を手にした男が続く。

 

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