Dominance&Submission

雪見風呂

 

 

 

 

 

 内風呂に浸かり、少し熱めの湯で疲れを溶かしている間、僚はずっと口を噤んだままでいた。
 少し怒っているような、困っているような顔付きに、男も声をかけずにいた。
 しばらくして出る素振りを見せたので、入る時は自力で歩く事もままならなかった彼を気遣って支える手を差し伸べるが、僚はそれから顔を背け、ふらつきながらも風呂場を後にした。
 目を合わせようともしないのに仕方ないと肩を竦め、後に続く。
 ろくに髪も拭わず、浴衣に着替えるや逃げるようにして出て行こうとするのを引きとめ、代わりに髪を乾かしてやる。
 何か言いかけ身じろいだが、結局大人しく身を任せてくる僚に、胸の詰まるような愛しさが生じる。
 手を動かしながら鏡越しにそっと顔をうかがうと、先程よりは落ち着いたのか、幾分険しさが薄れていた。
 戸惑いに似た表情に、思わず、抱きしめてしまいたくなる。
 とめどない自分に軽く呆れた。

「もういいよ。ありがと」

 見透かされてしまったかと思えるほどのタイミングで僚はぼそりと呟き、内心の驚きを慌てて飲み込む男から離れ部屋に戻っていった。
 自身の身づくろいを簡単に済ませ後を追うと、僚は窓辺の椅子に座り頬杖をついて、じっと外を眺めていた。
 戸惑いながら近付き、向かいの椅子に腰をおろす。そして、同じ方に目をやり、冬牡丹を見ているのだろうかと視線をたどる。
 まだ、怒っているだろうか。
 自分が悪いのは充分承知していたから、心の中で何度も謝罪の言葉を繰り返す。口に出すとかえってこじらせてしまうので、彼の方から何か伝うまで黙ったままでいる。
 僚は目だけを動かしちらりと男をかすめ見ると、またすぐ視線を戻し、気付かれないようにそっと息を付いた。
 腹を立てたのは事実だが、もうすっかり薄れてしまった。今は、ただ、口を開くタイミングを捜している。
 せっかくこうして二人でいるのに、いつまでも会話がないままなのは嫌だ。けれど、一度見失うと中々元には戻らず、焦りだけが募っていく。
 二人はただぼんやりと、雪の中の冬牡丹を見つめていた。
 助け舟は、意外なところから来た。
 引き戸の向こうから夕食時を告げる朗らかな声が聞こえてきた。姿勢はそのままに二人は目を見開いた。

 

 

 

 膳に並んだ夕食を前に、僚は満面の笑みを浮かべた。
 箸の上に置かれた献立を持ち上げ、一つ一つ目で追う。
 小ぶりのワイングラスに注がれているのは、旅館特製の食前酒…うっすらと緑に透ける梅酒。グラスを鼻先に近付けると、深みのある独特の香りがほんのりと漂ってくる。
 僚はグラスを置くと、次に小鉢、焼き物の皿、鍋、和え物や煮物を順繰りに見回し、最後に、真ん中に置かれたこの旅行の最大の目的である刺身の盛り合わせに目を輝かせた。
 そんな僚の様子に男も相好を崩し、早速食べなさいと手を伸べた。
 目は料理に釘付けのままうんうんと頷き、そうっと箸をつける。
 何も言わず、しかし涙を流さんばかりに喜ぶ様を見ていると、こちらまで幸せな気分になってくるから不思議だ。
 食前酒は飲めないからあげる代わりに、山菜の和え物を寄越せと言う僚に、男は喜んでと交換条件を飲み込む。

「でも食べきれないから、やっぱり返す」

 意地悪してごめんよと小鉢を戻され、また笑みが零れた。
 機嫌が直ってよかったと内心ほっとしながら、男は酒を口にした。
 先刻まで凝っていたのが嘘のように、二人は会話を弾ませ夕食を楽しんだ。

 

 

 

 すっかり満足し、本間の隣に用意された布団の上に大の字に寝転がると、僚は盛大なため息をついた。
 音量を抑えてつけてあるテレビにぼんやりと視線を向け、気持ちよくまどろんでいると、腹が落ち着いたら露天風呂に入ろうと男が誘ってきた。
 それに対して僚は、行かないときっぱりと答えた。
 え、と言葉を詰まらせ、男は困ったように目を瞬かせた。

「俺はいい。鷹久行ってくれば」

 わざと目を逸らしたまま言い放つ僚に、やはりまだ怒っているのかと内心肩を落とす。同時に、やりすぎてしまった自分の行いを深く反省する。

「……じゃあ、行ってくるよ。気が変わったらおいで」

 無駄かなと思いつつそう声をかけると、いってらっしゃいと素っ気ない言葉が返ってきた。仕方ないと息を付き、タオルを手に外へ出る。
 僚はテレビに顔を向けたまま視界の端でそれを見届け、男が硝子戸の向こうに消えたのを確認すると、すぐさま起き上がって部屋の電話に手を伸ばし、冷酒を二本、注文した。
 程なくして届いた二本の小瓶を、丸盆に乗せる。自分用に冷蔵庫からジュースを取り出し、手にしたグラスを眺めながら僚は軽く唸った。大人と子供のくっきりとした違いに顔をしかめる。
 仕方ないと大きなため息で吹き飛ばす。アルコールを受け付けない体質なのだから、仕方ないのだ。僚は丸盆を片手に、外の様子を伺いながらそろそろと硝子戸を開けた。
 途端に、夜の外気が肌を突き刺す。風はないが、雪を乗せた空気は震え上がるほど冷たく、思わずくしゃみが出そうになる。どうにかこらえ、露天風呂の方へそろりそろりと向かう。
 寒牡丹の前を通り過ぎる時、歩みを緩めてじっくり眺める。寒さに強張りながらも、笑みが浮かんだ。
 くの字に曲がった道の手前で一旦立ち止まり、雪を被った低木の陰からそっと伺う。
 こちらに背中を向け、見るからにしょんぼりと肩を落として湯に浸かっている男の姿を目にした僚は、足元の雪を一握り拾うと、さらに近付き、肩の辺りを狙ってひょいと放り投げた。
 雪玉が当たった瞬間、声こそ出さなかったものの男はばしゃりと湯を波立てて振り返り、唖然とした表情を見せた。

「なに寂しそうに入ってんだよ」

 びっくりした顔の男に笑いかけ、僚は歩み寄った。

「これ、差し入れな」

 しゃがみ込んで丸盆を差し出す。

「ありがとう」

 驚きと嬉しさの入り混じった顔で男は礼を言い、受け取った丸盆を近くの岩の上に置いた。

「一緒に入ろう」
「やだよ。また苛められるから」
「反省してるよ。今度は優しくしてあげるから」
「あやしいもんだな」

 僚は顎を上げ、にやにやと答えた。

「まあそう言わずに。せっかく、お供用のジュースを持ってきたのだから、一緒に入ろう」
「しょうがないから、付き合ってやるよ」

 僚は脱衣所の方へ回り込んだ。手早く浴衣を脱ぎ去り、タオル片手に向かう。

「熱い?」
「最初だけね。今はちょうどいいよ」

 僚はまず手の先で確かめた。それから手桶に汲んで三度ほど肩に被り、冷えた身体に沁みる熱さに身を強張らせる。

「おいで」

 神取は手を差し伸べた。
 僚は握り返すと、つま先で確かめつつ、ゆっくり湯の中に身体を沈めた。
 自然と口から、軽やかなため息が零れる。
 数メートルの間にすっかり冷えた肌が、じんわりとあたたまっていく。
 日本人で良かったと思う瞬間だ…頭の片隅で思う。
 僚は横から男の肩にもたれかかり、ふうと大きく息をついた。
 安心しきって身体を預けてくる僚に嬉しそうな笑みを浮かべ、神取は差し入れの冷酒を猪口についだ。
 その間に僚は自分のジュースをグラスに注ぐ。

「ちょっと冴えないけど、乾杯」

 そして二つの器を、そっと合わせる。
 男は猪口をあおった。

「うまい?」

 伸び上がって覗き込む僚にああと応え、ありがとうと付け加える。

「俺も酒が飲めたら、よかったのにな」

 そうすれば、きっともっと楽しいだろうに
 半分ほど飲みほしたジュースのグラスを目の高さに持ち上げ、渋い顔をしてみせる。

「私は、君が隣にいてくれるのが、何より嬉しいよ」
「苛め甲斐があるって?」
「おや、今は私が苛められている気がするが」
「気のせいだよ」
「いやいや、さっきも、誰かに雪を投げ付けられて、それはそれは寒い思いをしたんだよ」
「ええ? ひどいやつもいるもんだな」
「本当にね」
「……ごめん」

 急に声を低くして謝る僚に神取は穏やかに笑った。それから、肩を抱き寄せる。
 優しく包み込む男の手に引かれるまま、僚は再びもたれかかった。
 そのまま口を噤むと、辺りに静寂が満ちていった。
 心地好い無音に、僚は目を閉じた。
 男も同じく目を閉じた。
 自分たちは今、都心から遠く離れた場所にいる。
 それが妙に不思議な事に思え、どう言ったらいいかわからない気分に、何故だか笑みが浮かんだ。
 僚は湯を波立てないよう、静かに身体を丸め肩まで浸かると、男の手を探して握り締めた。

「ありがと」

 自然と言葉が口から零れた。
 こうして隣にいられる事に感謝して、短く伝える。
 神取は正面を曖昧に眺め微笑んだ。

「美味い物と楽しい時間に変わって、どうだった」
「……ああ、うん。すごくほっとしてる。こんな使い道、自分じゃ思い付けなかったから、すごく感謝してる」
「決断した君が偉いんだよ」
「そんなこと……」

 過剰な評価に肩を竦める。

「忘れるのは難しい。無理に押し込めても、どこかに必ず影響が出る。だが、過ぎた事だ。こだわっても、時間は待ってはくれない。だったら前に進もう。これまでの事は変えられないが、これからは何でも出来る。一度失敗したのは良い経験だと思うよ。これからの糧になる」

 取り返しのつかないものではない。ほんの少しつまずいた程度のもの、これから
の歩みには何の影響もない。

「全ては君のものだ」

 神取は手を伸ばし、グラスと猪口を引き寄せた。グラスを僚に渡す。
 僚は受け取りしばらくの間じっと何事か考え込んでいた。唇が小さくほどける。ややあって、言葉が紡がれた。

「出来ると思う?……俺に」
「ああ。今こうしているのもその証だからね。君は充分よくやっているよ」

 だからこれからも出来る。
 半信半疑の少年に微笑む。若さに任せて、もっと思い上がってもいいのに。だが彼はどうしても、あんな事をしていた自分、と縛られてしまう…自ら縛り上げてしまうのだ。要らぬ委縮さえ取り払ってやれば、彼はどんな場所へも行ける。
 その為に男は自分の言葉を利用する。こちらの言葉を、彼は驚くほどの素直さで飲み込んだ。時折天の邪鬼の部分を覗かせながらも、いつだって彼はまるで何を思う熱心さで耳を傾けた。迂闊な事は言えない。彼を生かすも殺すも自分次第だ。
 だから男は、暗示にも似た自分の言葉で彼を導く。
 最後の選択は彼に任せて。

「君の思う通りにやってごらん。また失敗したって構わないさ。一度経験があるから、すぐに挽回出来る。まずは何でもやってみる事だ。私は、そんな君の隣にいつもいるよ」
「いつも?」
「嫌かい」

 僚は射抜く鋭さで男を見つめたままそんな事はないときっぱり首を振った。本当に、いつも隣にいてくれるのか。

「ああ、本当だ。だから君も、私の隣にいてくれるかい」

 いる、約束する。
 僚は、笑ってしまうほど真面目くさった顔で頷いた。

「良かった…今後とも、よろしく」
「俺も……ありがとう」

 少し潤んだ目で礼を言う少年にこちらこそと頬を緩め、神取は猪口をあおった。

「でもなんで、鷹久は……そんなに俺に……俺の何がそんなにいいかな」

 ひと口ふた口グラスを傾け、僚は首をひねる。一体どこがそんなに気に入ったのだろう。身体の相性がばっちりなのはわかるが、それ以上は上手く理解が繋がらない。
 神取は軽く笑い、空になったグラスを僚の手から受け取った。それから両手で、包むように顔を押さえる。
 思いがけずしっかりした力で固定され、僚はどぎまぎしながら正面の男を見つめた。
 視線を受け取り、男はほのかに笑う。

「それだよ」
「……どれだよ」

 おっかなびっくり笑う。
 その目付きだ、と男は言った。

「やな目付きしてる?」
「違う、その逆だ」

 力強い、生命力にあふれた眼差しに、自分は引き寄せられた。

「君はそれだけ、心が強い。生きる力に溢れている。目標に向かってまっすぐ進む足を持っている」

 そこに自分は惹かれた、だからずっと傍にいたいと思ったのだ。
 まさか、そんなもの。自分にそんな大層なものはないと僚は笑い飛ばす。男も微笑むが、冗談を言っている顔ではなかった。
 僚の顔から段々と笑みが薄れていく。

「俺は、あんな事してた人間だぞ」
「あんな事をしていたのに、君はちゃんと戻ってきた。自分で考えて決断し、逃げる事をやめた。君より少し長く生きている分、色んな人間を見てきた。大抵の人間は、一度逃げると、その味に溺れてどこまでも楽な方へと落ちてゆく。戻ってくる事は滅多にない。だが君は踏みとどまり、戻ってきた。そんな強さを持った君がこれから先どんなものを得るのか、その手で何を成し遂げるのか、知りたくてたまらない」
「俺はそんな……強くなんか……」
「今はまだ漠然としてはっきり形に成っていないが、君は、なりたい自分を頭に思い描いている。その為にはどうすればいいか、模索を続けている。本当に君は強いね」

 僚は強張った顔で首を振った。
 神取は緩く笑んで首を振った。

「今すぐでなくていい、だがいつか必ず、過去を許してあげなさい。自分のした事を許して、手放した時、君はもっと強く、大きく成長出来るはずだ」

 あんな事が、何だというのだ。

「つまずいても、座り込む事はしなかった。また顔を上げて歩き出した。せっかくだからその調子で歩き続けて、時々地団太を踏んで、この世界に足跡の一つも残してみようじゃないか」

 始めはしっかりと男を見据えていた目が、段々と落ち着きをなくし左右に揺れ始める。そして男が話し終わった時、またしっかりと、正面から向かい合った。
 神取はそっと手を離し解放した。
 しばし沈黙が流れる。

「鷹久ってほんとにさあ……」

 冗談の一つも言って流そうとするが、声はみっともなく震え、継げなくなる。目の奥に涙が迫った。鼻を啜る。熱い物が胸の内で急速に膨れ上がり、抑えておけなくなる。心の底まで沁み込んだ男の言葉は、いつまでも響き渡った。
 衝動のまま、僚は涙を滲ませた。慌てて頭を振る。顔を背ける。最後の抵抗に、零れた涙をそのままにした。拭わなければ、涙が出た証拠にならない。これはただの汗だ。そんな幼稚な悪あがきで対抗する。
 男は何も言わなかった。有り難かった。
 では自分は何を言うべきだろうか。
 ありがとう、嬉しい。どれも当てはまる。だがどれも相応しく感じない。それだけでは足りない。伝えるには、応えるには、たったそれだけでは間に合わない。
 僚は片手を上げた。つい弾みで目を拭いそうになり慌てて押しとどめる。上げた手を男の肩に置き、出来るだけ何でもない風を装って言う。
 やるから、見ててよ。
 また、どっと、泣きたい衝動が込み上げてきた。今度は我慢しきれず、潰れた呻きが口からもれた。
 それでも男は何も言わない。触れない。ただ、見てろという言葉にだけ応えた。

「ああ。隣でしっかりと」

 僚は観念して涙を拭い、泣き笑いで頷いた。

「じゃさ……もうのぼせそうだから、そろそろあがろっか」
「そうだね。充分あたたまった」
「温泉、最高だな」
「まったくだ」

 立ち上がった時、男は僚を抱き寄せた。頭を抱えるようにして引き寄せる。憎らしいほどのタイミングに、僚はもう一度鼻を啜った。
 しばらく無言でいたが、部屋に戻る頃には、いつもの僚に戻っていた。
 荷物からガイドブックを取り出して、ふかふかの布団の端に頭だけ乗せて本を開き、張り切って明日の予定を組み立てる彼に、神取は頬を緩めた。
 さあ、明日はどこへ行こう。
 いくつか候補を挙げていたが、未だ決めかねていた。
 まず一番に海へ行くのは決まっていた。

 この寒いのに、また海に行くんだって。あーあ、鷹久って変わってるよな
 おや、冬ならではの海の良さが、君にはわからないのかい
 全然わかんないや、晴れてると水面が眩しくて気持ち良いとか波の音が気持ち良いとか空がずーっと高くて気持ち良いとか、冬の海の良さなんか、全然わからないね……何笑ってんだよ、ほんとわかんないから、明日こそ教えろよな
 ああ、責任を持って、君に教えよう
 だから笑うなよって
 いやこれは、明日君と海を見に行ける嬉しさからだよ

 それから、土産物を見よう。いや、それは後にしようか。後回しにすると、疲れて探すのが億劫になってしまわないだろうか。昼はどこで食べようか。
 話すほどにまとまらなくなる予定にお互い笑い、お互い意見をぶつけ、二人はあれこれと案を出し合った。
 雪に吸い込まれた時が、ゆっくりと流れていった。

 

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