Dominance&Submission

革手袋

 

 

 

 

 

 週末に浮かれ、大勢の人間で賑わう駅前の通りに車を停め、神取鷹久は窓の外に目をやった。
 空は濃紺に近く、風もない穏やかな土曜日の午後。噴水のある駅前の広場を取り囲むように並んだ、ファストフード店や喫茶店を出入りするたくさんの老若男女が、洒落たオープンカフェや、綺麗に手入れのなされた花壇の周りに思い思いに集まって、買ったばかりのジュースやクレープを片手にお喋りを弾ませていた。
 眺めていて、少々、複雑な気持ちになる。
 自分も恋人と一緒にあそこに加わりたいという気持ちと、自分には似合わないだろうし何より気恥ずかしいという気持ちがぶつかりあって、気が付けば何やら難しい顔になっていた。
 気分を変えようと、時計に目をやる。そろそろ一時になろうかというところだ。
 午後の一時に、恋人と逢う約束をした。
 もう間もなくその人が現れるかと思うと、どうしても顔が緩んでしまうのを止められなかった。
 久しく顔を見ていない。
 正確には先週も顔を合わせているが、少々気まずい別れ方をしたせいで記憶がかすれてしまっている。
 月の半ば、長の出張を命じられた。帰ってからも予定が詰まっており、しばらく会えなくなる旨を告げた。
 ようやく身体も空く金曜日、ようやく会えるといつものように迎えに行くが、思わぬ事故が彼を襲っていた。
 体育の授業中、サッカーボールを受け損ねて左の足首を捻挫してしまったのだ。
 すぐに保健室で応急処置を受け、帰りに医者に寄るよう言われた彼は、悔し涙を滲ませながら車に乗り込み事情を説明してきた。
 自分の不注意で、二週間ぶりの週末を駄目にしてしまった…今にも泣きそうな、押し潰されてしまいそうな弱々しい響きに、胸が締め付けられた。
 病院までの道のりに何度も励まし、帰りも送る。一人では不自由だろうからと実家へ向かった。
 アパートでいいと渋ったが、強引に言いくるめて車を走らせた。道中、彼はほとんど喋らなかった。実家に帰るのが嫌だからなのか、週末が潰れてしまった事を悔やんでいるからなのかは、わからなかった。
 車を降りる間際に呟いた『ごめんなさい』という一言に、また胸が締め付けられた。
 それから三日間、連絡はなかった。こちらも、平日は昼の時間もろくに取れない忙しさにかまけて、寂しく思いながらもつい受身になってしまった。時間があったとしても、実家にいる事を思うと連絡するのはどうしてもためらわれ、結局待つしか出来なかったのだが。
 木曜日になって、少し拗ねたようなメールが届いた。土曜日に逢いたい、たった一行きりだが、そこにいろんな思いが含まれているのは、充分過ぎるほど理解出来た。
 画面に浮かぶその一行を何度も読み返し、思いを馳せた。
 金曜日の夜、電話がかかってきた。
 連絡しなかった事を怒っているだろうと真っ先に詫びの言葉を口にすると、時間を置いたのが良かったのか、彼は穏やかな声でそれを打ち消した。
 この前はごめん、早く逢いたいと繰り返す恋人に、胸が甘く疼いた。
 彼の声はこんなにも甘く心をくすぐるものだったかと、夢見心地になる。
 何を話そう、こう喋ろうと用意していたのにいざその瞬間を迎えると全て吹き飛び、まるで初めての緊張感に喉が固まったようになってしまった。
 それは向こうも同じだったようで、会話はぎこちなく途切れてばかりだった。彼と話したくない訳ではない、沢山の事をお喋りしたくて、それが追い付かなくて、こんなに情けない有様になったのだ。
 明日逢って、顔を合わせれば、いつもの調子も戻るだろう。その訪れを楽しみにしていると告げ、どれだけ思っているか彼に伝える。
 彼は慌てた息遣いで、自分もそうだと渡してきた。どんな顔をしているか容易に思い浮かび、嬉しさに包まれる。
 その幸せのまま通話を終える。
 直前まではほてったように喜びがあったが、切った瞬間から、どうしようもない寂しさに見舞われた。
 明日には逢えるのに、どうしようもなく寂しい。
 たった一日も我慢出来ないほど、寂しく感じられた。
 今すぐにでも明日になればいい。
 そう思いながら眠り、起きて、車を走らせた。
 やっと、やっと彼に逢える。
 神取はもう一度時計に目をやった。
 午後の一時に、駅前の噴水で。
 待ち合わせの場所に向かおうと、車のキーに手をかける。その時、何とはなしに目を向けていた方に恋人の姿を発見し、神取は無意識に息を止めた。心が全てそこに持っていかれる。
 瞬きすら忘れて、神取はじっと彼を見つめた。
 駅の改札へと向かう彼の後に、両親と妹が続く。
 見送りなのだろう。
 会話の内容を推測しながら、神取は成り行きを見守った。
 笑いながら、家族に何事か話し掛ける彼の姿に、寂しさと安堵感の入り混じった、奇妙な感情が胸の内で静かに渦巻いた。
 寂しいのは何故だろう。
 安堵感はどこから来るのだろう。
 寒い日の陽射しを浴びているような強張った頬で、神取は車を降りた。

 

 

 

 ひとしきり言葉を交わし、ここでいいからと桜井僚は改札の前で手を振った。
 家族の顔には、それぞれに穏やかな笑みが浮かんでいた。ごく自然なその表情も、彼らには、最近になってようやく得られた貴重なものだ。

 一緒に暮らさない事で手に入るものもある。

 最後にもう一度母親が、何かあったらすぐ連絡しなさいと念を押し、じゃあまたねと手を振った。
 純粋にありがたい気持ちと、大勢の人間の前で家族に見送られる恥ずかしさの板ばさみから、僚は少し焦ったような顔で頷き、歩き去る彼らの後ろ姿を見送った。小さく、ため息をつく。
 三人が、先ほど一緒に昼を食べた駅ビルに再び戻っていくのを完全に見届けてから、僚は正面の噴水に向かって歩き出した。
 午後の一時に、ここで恋人と逢う約束をした。
 噴水の周りでひしめく人々の中に男の姿を探し、僚は辺りを見回した。
 その時、ポケットの中で携帯電話がいつもと違う着信音を鳴らし、僚に、待ち侘びた人からの連絡が入った事を告げた。
「もしもし?」
 辺りを忙しなく見回しながら、僚は呼びかけた。
「今どこにいるの?」
『ここにいるよ』
 男の静かな声音に、少々腹を立てる。
 ここってどこだよ
 しかし、怒りは一瞬でおさまった。
 引き寄せられるようにして目を向けた先に、偶然、男の姿があった。
 自然と頬が緩む。こらえても、笑みが消せない。
「正面に、いい男がいる」
 少々の距離を置いて向かい合い、僚は歯を見せて笑った。
 その、小憎らしいまでに愛らしい笑顔と、嬉しくなるような一言に、神取は口端を持ち上げた。
「どんな男だい?」
『背がすらっと高くて、黒が似合って、男くさい顔したやつ。今日も黒い格好で、革手袋までしてて、妖しい感じ。子供が見たらひきつけ起こしそうなくらい目付きが鋭いのに、実際は優しくてやらしくていい男』
 照れ隠しからか、合間にけなしながら僚は言った。
「そうか」
 笑みを零し、神取は返した。
「私の正面にも、いい男がいるよ」
「ホントに? どんなやつだよ」
 僚は聞きながら歩き出した。
『黒いコートに、チャコールグレーのマフラーをした、若い子だ。私より少し身長は低いが、ほっそりと引き締まった体型をしていて、足は長い。髪は黒で、少し癖があって、左耳にピアスをしている。今日は、誰かの家に泊まるのかな。随分大きな荷物だ』
「それから?」
 どうしてもにやけてしまう頬をさすりながら、男に近付いていく。
『とにかく、全てにおいていい男なんだ。優しくて、思いやりがあって。笑った顔は、格別。少しわがままで、頑固なところが玉に瑕だが、そこがまたいいんだ。全てが、愛しいよ』
「そいつの事、あの……好き?」
「ああ。大好きだ。愛しているよ、僚」
 電話越しに話さなくても届くほど間近に迫った少年に、少々の照れくささを感じながら愛していると投げかける。
 投げかけられて、僚は、少し困ったように唇を引き結び、それからすぐににっと笑った。
「……俺も」
 耳にあてていた携帯電話をポケットにしまい、そっと囁く。
「元気そうで何よりだ」
 嬉しそうに笑う男に、笑顔で応える。
「足は、もうなんともないのかい?」
 問いかけに、僚は視線を左足に落として軽く振ってみせた。
「ああ、こうするとまだちょっと痛いけど、歩くのは問題ない」
「それはよかった。だが、無理は禁物だよ。捻挫は、少しの無理が後々まで響くからね」
「わかってるよ」
 自分を心配する真剣な言葉に、またしても頬が緩む。
 柔らかい響きでそう返し、僚は唇を引き結んだ。少しでも気を抜くと、喉元まで出かかった歓喜が口から飛び出そうになる。
 いつの時もこちらに心を注ぐ男の優しさが、胸に熱くにじむ。
「どうした。足が痛むか?」
 嬉しさのあまり顔をくしゃくしゃにして笑いたいのを我慢している表情が、男にはそう見えたのだろう。神妙な顔付きで尋ねる男に、僚は笑みをこらえて大きく首を振った。
「大丈夫だよ」
 少し暑いくらいの陽光に負けない明るさで微笑む僚に、男も笑みを零す。
 彼の笑顔に、目が釘付けになる。見るたびに心を和ませてくれるその表情は、時に華やかで、時に妖しい。全てが、自分を魅了して止まない。
 もし今二人きりだったら、間違いなく抱きしめていた事だろう。突然の事に驚く僚の唇を塞いで、服を脱がせて、深く繋がっただろう。
 それを、ただ見つめているだけなのが、なんとも歯痒い。
 ともすれば見境のない自分に、心の中でやれやれと肩を竦める。昼間の時間を楽しもうと気持ちを切り替え、神取は助手席側のドアに手をかけた。
 促されて、僚は助手席に滑り込んだ。シートベルトを確認し、運転席に座った男に目を向ける。それから、男の言うところの大きな荷物から封筒を取り出し、差し出す。
「なんだい」
「あのう……母さんから渡された、タクシー代」
「ふむ」
「この前送ってもらったのを、タクシーで帰ったって言って、それで……」
 僚はいささか困った顔で眉根を寄せ、説明した。
 先日送ってもらったのをそのまま説明するのは難しく、タクシーで帰ってきたのだと、親には告げた。すると母親は、それは手痛い出費だったでしょうと、エルミン学園から自宅までのおおよそのタクシー代を寄こしてきた。一度は断った僚だが、考えてみれば自分はいつもお気楽に車に乗るばかりで、何の負担もしてこなかった。
「だから、今までの分……に足りるか分からないけど、取っておいてほしいんだけど。あの、ガソリン代とかそういうの、あるだろ」
「なるほど。しかし困ったな、これは受け取れないよ」
 僚は更に顔付きを険しくした。男は心持ち肩をそびやかした。しばし考え込む。それから、僚が手にする封筒を受け取る。
「わかった、これは有り難く頂戴する。今後は気にする事はないよ。特に困ってはいないし、私が運転を負担する代わりに、君も色々と負担しているだろう。特に不平に思う事はないよ。そうだね……君が自分で稼ぐようになったら、その時また分担を考えよう。それでいいかい」
 見るからにほっとした顔で僚は頷いた。その時はよろしくと、肩を落とす。
 神取は軽く笑いかけ、やや置いて口を開いた。
「先週、実家に帰るのを嫌がっていたから、少し心配していたのだが、その必要はなかったようだね。安心したよ」
 一瞬何のことかわからなかったが、すぐに、駅前での見送りの事だと気付き、僚は少し驚いた顔になった。
「あ……見てたのか」
 思い出した途端、顔を赤くして僚は俯いた。ややあって顔を上げ、遠くを見つめる。
 男は静かに車を走らせた。
 静かなエンジン音が響く車中、二人はしばし無言でいた。
「嫌だって言うんじゃなくて――照れ臭いって方が、近いかな」
 唐突に僚は口を開いた。
「……一緒に暮らすより、離れている方がいいのは、確かだよ」
 確認するように頷き、ぽつりぽつりと言葉を続ける。
「前みたいにわけもなく苛々したり、馬鹿みたいな事しでかすこともなくなったし」
 無理に感情を殺さず、僚は思ったままを口にした。軽く肩を竦め、ちらりと男を見てから、窓の外に視線を向ける。
 そうか
 男は小さく頷いた。
 後方に流れる景色をぼんやりと眺めながら、僚は過去の記憶をゆるゆると手繰り寄せた。

 

 小学校に上がる前に両親は離婚し、実父は家を出て行った。
 入れ替わるように新しい父親がやってきて、子供が好きなその人物は僚と妹を我が子のように愛した。しかし幼い僚には、離婚の理由や、見知らぬ大人の侵入をどうしても理解出来なかった。
 未熟ながらも、未熟だからこそ、両親に絶対の安心感を委ね求めていた僚は、それまで明るく快活だった事が疑われるほど頑なになり、攻撃的になっていった。
 自分にも非のある離婚のせいで僚を苦しめている事を理解していた母親は、発作的に癇癪を起こす僚を決して怒らず、今まで以上に愛情を注ぐ事に心を砕いた。
 そして義父も、一日も早く馴染んでくれるようにと、それのみに心血を注いだ。
 時に腫れ物に触るように、二人は僚を特別扱いした。
 感情の爆発を受け入れるだけの度胸がなかったのだ。
 我が子に、己の過ちを指摘されるのが怖かったのだ。

 

 今の状態が最良であると思い込む為に重ねた一つ一つの態度が、残さず吐き出す事で楽になれたはずの僚のわだかまりを奥へと押し込んでいった。
 消さないまま。
 やがて成長するにつれ、激しい感情の起伏は見られなくなっていった。年齢と共に理解力を身につけたからだろうかと、両親はとりあえず胸を撫で下ろした。
 半分は、そうだった。
 僚とても、わかっていないわけでは、なかったのだ。どんなに幼い時でも、自分に向けられているのは何なのか、わかっていた。
 けれど、どうしても拭えないのだ。
 実父に捨てられたという気持ちは。
 母親と、新しい父親が自分に愛情を注げば注ぐほど、その気持ちは強まっていく。
 そして同時に、二人の深い愛情も、理解出来ている。
 母も義父も悩んでいるのだと、自分だけが苦しいのではないのだと理解出来るからこそ、苦しかった。
 常に、相反する考えが僚を支配していた。
 決して混ざり合う事はないだろうその二つがうねりを上げる度、発作的に、何もかもを壊したくなる衝動にかられた。
 僚にとって何より辛いのは、自分を憂い悩む両親の顔を見る事だった。
 このまま一緒にいたのでは、いつか本当に憎んでしまうかもしれない。そもそも、今ある感情だって、とっくにそうなってしまっているかもしれない。
 ただ、何となく、好きだよって思いたいのに。
 その為に僚は、離れて暮らす事を望んだ。
 それから、ゆっくり、歩み寄ろう。
 その事について、二人は特に何も言わなかった。
 どうでもいいから何も言わないのではなく、自分を信じているからこその無言なのだと理解して、僚は歓喜を覚えた。
 こうやって、少しずつわかっていけたらいい。

 

 希望が見えた気がした。

 

 しかし、一度根付いたものは簡単には消えてくれなかった。忘れかけた頃にやってきては、わけもなく苛々した気持ちにさせるのだ。

 

 自分がどれほど馬鹿げた事をしているか充分理解していながらも、自分自身を傷付ける事が止められなかった。
 心の中に常に晴れない霧が纏わり付いて、わけもなく苛々した気分にさせる。
 偶然、霧が晴れたのは、抑え切れない怒りに任せて深夜に街をうろつき、勘違いした中年の男に半ば強引にホテルに連れ込まれ、変態まがいの行為に苦痛を味わわされた時だ。
 頭の中が真っ白になり、他に何も考えられなくなった瞬間、それまで纏わり付いていた正体のわからない霧が一気に消え失せた。
 一生消える事はないだろうと思っていた霧が、晴れたのだ。心まで解放された気分になった。
 ようやく見つけた方法を、夜毎繰り返し、傷を増やしていった。
 ただいっときの解放感の為に、悪化させるだけの方法を繰り返す。
 確実に、物事は悪い方に向かっていた。

 

 男がそれを、誤りだと気付かせてくれた。

 

 もしも出逢っていなければ、どうなっていたか…想像も出来ないほど酷い状態に置かれていた事だろう。
 僚は目を開き、周りを見つめようと努力した。
 今まで、わかっていながらあえて目を逸らしていた部分も、見つめようと努力した。
 それが出来たのは、全て、男のお陰だ。
 男が、例え離れている時でも存在を感じさせてくれるほど深く想ってくれるから、安心して、立っている事が出来た。
 それから恐る恐る歩き出して、何とかここまでやってきた。
 頬杖をついて窓の外を眺めていた僚は、そのまま目だけ動かして男を見た。
 正面を見据える横顔に、目が釘付けになる。
 急に、沈黙のままが不自然に感じられ、何か喋らねばとあれこれ思い浮かべるのだが、いざ口を開こうとすると何も言葉が出てこない。
 久しぶりに逢えて、嬉しくて、たくさん話したいと思っていたのに、どうして何も出てこないのだろう。
 今まで、こんな時は何を喋っていただろう。
 それとも、沈黙のままだっただろうか。
 言葉を探して口を開きかけては、何も伝う事が出来ず噤む。まるで、初めて恋人と出かける時の浮き立つような気持ちに放り込まれ、僚は次第に落ち着きを失っていった。
 何か喋ってくれれば、楽なのに
 今にも外に聞こえてしまいそうなほど高鳴る胸にうろたえながら、僚は睨むように男を見つめた。
 果たして願いが通じたのか、びっくりするほどのタイミングで神取は口を開いた。
「その指輪」
 無造作に膝に置いていた手に、僚ははっと視線を向けた。
 よく似合うと、男は称賛の言葉を口にした。
 普段何も身に付けない照れ隠しからか、僚ははにかんだように唇を歪めて、小さく礼を言った。
「露店で買ったんだ。これでも、一応シルバーなんだって」
 値段を聞き男は驚く。
「君は買い物が上手だね」
 本当に良く似合う。君がしているからかな。
 恥ずかしげもなく言ってのける男に、僚はもごもごと言い返した。
 笑い、男は続けた。
「ところで、チェロの練習は出来たかい?」
 ちらりと僚を見やり、訪ねる。
「うん。七回、部屋を借りた」
 少しずつでも、毎日練習出来るのが理想的だったから、男は、自分がいない平日も自由に部屋で練習していいと僚に告げてあった。
 確かに週末だけでは腕が鈍って弾けなくなってしまう。プロになるとか、アマチュアのオーケストラに所属したいというのではないが、純粋にチェロを弾きたいと望む僚は、男の提案に喜び、平日は出来るだけマンションを訪れるようにしていた。
 今週はさすがに無理だったが、その前の二週間、男の長期出張中は、時間が許す限りマンションを訪れチェロの練習に励んだ。
「結構いい具合に弾けるようになったとは、思うんだけど、一人だとどうしても自己満足になる部分があったりして、中々……難しい」
 あれほど悩んだというのに、一度口を開くと後は滑らかに言葉が紡がれた。僚は肩を竦め、毎回同じところでつまずいてしまうんだと零した。
 それに対して神取は色々とアドバイスをし、信号待ちの時には、煙草の箱を弓に見立てて持ち方を確認したり、膝の開き具合や、腕の角度について語った。
 道中、二人はチェロについて語り合った。
 あんまり没頭してしまった為に、自分の家に帰る道のりを男が見逃してしまうほどだった。
 しまったと顔を強張らせる男に、僚は涙を零さんばかりに笑い転げた。
 マンションの地下駐車場に停車する頃になってようやく笑いもおさまり、僚は落ち着こうと大きく息を吸った。笑いの余韻を浮かべた顔で男を見る。
 少しふてくされた顔で、男はエンジンを切った。
 不意にまた、沈黙が舞い戻ってきた。
 二人の視線が絡み合う。
 ここならば、他人の目を気にする必要もない。
 神取は静かに身を乗り出した。
 僚も同じく身を寄せようとして、ある時はっと目を見開く。
 誰か他人の気配を感じ取ったのかと、神取は動きを止めた。
 そうだ、僚は小さく呟き、大慌てで荷物を探った。神取はその様子をじっと見守った。すると何やら取り出した。
 出てきたのは、妙に可愛らしい袋に入った…チョコレート。
 神取は僚の顔と手にするそれとを交互に見やり、軽く目を瞬いた。
「これ、これ……忘れるところだった」
 僚は苦笑いを浮かべ、詰め合わせを差し出した。
 男の性格から、タクシー代を受け取ってもらえるか色々心配するあまり、もう一つの重要なこちらをすっかり忘れていた。受け取ってもらえた事でほっとして、頭から抜けてしまった。
「やっと渡せる」
 やけににじむ声で僚が言う。神取は受け取ったそれに目を落とした。見る限り、袋に入っているのは全てチョコレートのようだ。色んな種類のチョコレート菓子。
 僚は説明した。本当は、先週の金曜日に渡すつもりでいた事、例のアクシデントで渡しそびれた事、だから昨日もう一度買いに行った事を、男に説明する。
「いつも、色々してもらってるお礼にって、金曜日に渡したかった」
 今度の声は少し残念そうだ。その気持ちはわかると、神取は唇を引き結んだ。
「だから、あらためて詰めてきた。いつも、俺の事助けてくれるお礼に」
 改めて言葉にするのは照れくさいが、僚は一言ずつ大切に渡した。しかし男は手に乗せ眺めたまま、微動だにしなかった。ここにきて急速に不安が膨れ上がる。
 僚の顔が笑顔と不安とを行き来する。ほんのわずかな違いだが、空気を揺らすそれらの感情を察し、神取は彼が何か言う前に口を開いた。
「もらっていいのかい」
「なに、もちろんだよ。いつも、ありがと」
「……こちらこそありがとう。全部、私の好物だ」
「……ほんと、よかった。選んだ甲斐があった」
 そして嬉しそうな声。肩の力が抜け、自然に込み上げる柔らかな微笑に、神取はしばし目を奪われる。
 もう一秒も我慢出来なくなり、抱き寄せて唇に触れる。
「君の…匂いがする」
 そう言って男は頬をすりよせ、強く僚を抱きしめた。
 鼓膜に心地好く響く、男の声に、身震いが起こる。少し息苦しいほどの抱擁に身を委ね、僚は目を閉じた。

 

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