風呂と麦茶とひとしずく
――うわゴキブリ! ギョッとする思考の爆発の後、パァンといい音が響いてきた。 階下からの破裂音に、僕はどっと吹き出す冷や汗にまみれて、ぴくりとも動けなくなった。 金曜日の今日、両親が泊りがけで出かけると幽霊伝手で知った鳥束が、卑怯にも最高級コーヒーゼリーを手土産にするから泊まらせてくれとやってきた。 何が卑怯って、だってそれ出されたら僕断れないじゃないか。好物が好物持ってくるんだ、断りようがない。 一人で気ままに過ごそうと思う一方で、奴を呼ぼうとも思っていたので、誘う手間が省けてよかったのだがしかし、先を越されるとちょっとこじれたくなるんだ。ちょっとだけ。 だからちょっとだけややこしくしつつ金曜日の約束をした。 学校帰りにそのまま一緒に夕飯を食べに行って、帰りに約束の最高級コーヒーゼリーを買ってもらい、家に着いたら早速食べようと思っていたが、家に着いた途端鳥束に食べられた。 コーヒーゼリーではなく僕を。 食べられたというか食べたというか。 順番が逆で、僕としてはコーヒーゼリーの後にもう一つの好物にいきたかった。 だからひどく不機嫌に奴の愛撫に応えてやったが、入ってしまうとたちまち諸々は頭から吹っ飛んで、鳥束の事しか考えられなくなった。 終わって冷静さが戻ると怒りがぶり返した。また、ちょっとだけ。なので、二人で風呂に入りに行ったが、僕はさっさと上がり奴を置き去りに部屋に戻った。奴しかいないので、遠慮なく瞬間移動を使った。 ところが。奴への当てこすりに腐心するあまり、僕としたことがコーヒーゼリーを忘れてしまった! まあいい、奴に言って持ってこさせればいいだけの事。そうだ、ついでに麦茶も欲しいな――。 そう思った矢先のあの爆発に、僕は頭が真っ白になった。 この僕が手から物を取り落とすなんてありえない。でも実際、タオルは床に落ちていた。 仕方ない、それほどの衝撃に見舞われたのだから。 どうやら鳥束の奴、やってくれたらしい。 よくやったって気持ちと、よくもやりやがったなという気持ちが入り交じって複雑だ。 せっかく風呂に入って汗やらなんやら綺麗さっぱり洗い流したというのに、滲んだ汗がこめかみをすべる。 お前…お前、ちゃんと最後まできっちり始末つけろよ。 今にも破裂しそうな心臓を抱えじっとしていると、また思考が届いた。 (なんだ、違った……) 違った? どういうことだ? 確かめたいが、千里眼は絶対使いたくない。あんなもの、視たくない。 自分から確かめにいくのもいやだ。絶対に嫌、一歩も動かないからな。 おい鳥束、一体何がどうなってるんだ、さっさと報告しにこい。 (斉木さんすんません、勘違いでした!) 情けない思念が頭に流れ込んでくる。 (すんませんすんません) それに続いて、ぱたぱたと足音が近付いてくる。 くそ、常に発動しているテレパシーというのは本当に厄介だな。 見たくもないのに、鮮明に伝わってくるんだから本当に嫌になる。 鳥束が「仕留めた」のは、G避けの黒いキャップだった。 本物でなかったのはほっとしたが、一瞬でもギョッとさせられ、心臓が止まりそうな恐怖に見舞われた。 それだけでも充分だ。充分、げっそりした。 僕は、ようやく動く身体で何とかタオルを拾い上げ、滲んだ汗を拭きとる。 「……はぁ」 だが――。 鳥束がいればひとまず安心だという事がわかった。 アイツ自身も虫が苦手で嫌いだが、もっと苦手で憎んでいる僕の為に勇気を振り絞り、立ち向かった。 今回は勘違いであったが、その勇気は称賛に値する。 やれやれしょうがない、褒美の一つもくれてやらんとな。 「えっ…え、斉木さ……え?」 口元に寄せられたスプーンを前に、鳥束はオタオタオロオロ汗を噴き出した。 いいんスか、いいんスか、頭の中でひたすら渦巻いている。 『いいからやってんだ、ほら、さっさと食べろ』 内容量55gの内のひと口、貴重な貴重なひと口をお前にやるっていってるんだ、早くしろ。ゼリーとクリームの比率も絶妙で、この世のものとは思えない味わいだぞ、しかもこの僕が「あーん」してやってんだ、天にも昇る気分だろ、おい、そうだろ。 「はい、そうです……いただきます」 感激のあまり涙ぐんで、鳥束は口を開けた。クッソ気持ち悪いなコイツ。その癖胸を直撃とかどういう事だ。僕の頭がどういう事だ。 やれやれ。 『残りは全部僕のだからな。もうやらないぞ』 「んふふ、充分です…ありがと斉木さん」 『……ふん、後は麦茶でも飲んでろ』 「ええ、いただきます」 減ってしまったひと口を惜しみながら、残りを大事に大事に味わう。奴にスプーンを向けた瞬間から後悔が過っていた、そして今も、あんな事するんじゃなかったと後悔しきりだが、どうしてか胸は満たされていた。 その後は、並んで歯磨きして、並んで寝床に入って、多分同じくらいの時間に眠りに落ちた。 こんな季節にそんな夜を過ごせば翌朝は汗だくで目覚めるのは当然で、まあ僕は瞬時に快適さを取り戻せるが、身体は常人の鳥束にはたまらない目覚めとなった。 起きてすぐ冷房を入れたおかげで何とか汗は引いたものの、まとわりつく不快感から鳥束は居心地悪そうにしていた。 「あー、斉木さん……」 何を遠慮する事があるのか。さっさとシャワー浴びてこい。 「えーだって、それはあんまり厚かましいかと……」 『お前、厚かましいなんて言葉よく知ってるな』 「ひど、斉木さんっ!」 ひどくない、普段の自分を顧みろ。 「もー…まあ…じゃあ、失礼して、ちょっとお借りしますね」 風呂場に向かう鳥束の後にくっついて、一緒に階段を下りる。 「え、あら、斉木さんも一緒に? ご一緒に?」 そうなの? まさか? 本当に? 一緒に浴びちゃう? 風呂場に近付くにつれどんどん浮かれていくので、着いたところで思いきり挫いてやった。 そっと、目の端にそっと例のキャップを映し、にやりとほくそ笑む。 『お前昨日ここで、勘違いして……くくく』 たちまち鳥束は顔中真っ赤にして肩を強張らせた。 「っ……あーやだ、斉木さんやだー、思い出し笑いなんてやだやだ!」 おいおい、喉のとこまで赤くなってるじゃないか。面白いな、お前。 「そーゆー意地悪な子はキスしますよ」 我慢出来ず肩を揺すっていると、鳥束が尖らせた口をむにゅっとくっつけてきた。 『すまん、だめだ、笑ってしまう』 「もー、笑うな、笑わないの!」 恥ずかしさのせいか、目が少し潤んでいた。 『馬鹿にしてるんじゃないぞ』 「じゃーなに」 乱暴に服を脱ぎ去り、鳥束はぶっきらぼうに聞いてきた。 『頼りになるなって思ってる』 「へー、あっそー」 『誓って本当だ』 「おっ……うん、はい」 言葉の通りちょっと真面目な顔で伝えると、鳥束ははっとなったように息を飲み、ぎくしゃくと頷いた。 何となく気が向いたので、ぬるま湯を張って、二人で浸かる。 「あー……これ、いいっスねえ」 やっぱり風呂はいいわ 日本人はやっぱり風呂だわ 暑いし面倒だからささっとシャワーで済ませようと思っていた鳥束も、湯船に浸かればたちまちいい気分と緩んだ。 『そうだな』 僕も同じように緩む。 土曜の朝からのんびり風呂に浸かる…なんとも贅沢なものだな。 鳥束を背もたれに手足を伸ばし、ため息を一つ。 「いっすねえ……」 『そうだなぁ……』 二人してすっかりふやけていた。 とろとろの蜂蜜みたいなゆったりした時間がそうさせたのだろう、僕は気付けば過去を振り返っていた。 風呂は嫌いじゃないが、僕にも嫌な記憶の一つ二つあってな よく、素っ裸でロシアだのケニアだの、逃げた事がある Gに振り回されて 昔住んでいたアパートはそれなりにぼろく、そうなると色々と害虫が出入りするのだ。 やつらは冬でもお構いなしに出没し、風呂場が一番暖かいからかしょっちゅう顔を合わせた。 その時の驚きたるや、筆舌に尽くしがたい。 『あの時お前がいてくれたらな』 昨夜の事を思い出しながら、気紛れに綴る。母は確かにとても心強く頼もしかった。でも、……でも。 すると鳥束はいきなり僕をがばっと抱きしめて、こう言った。 『おい――!』 「今、いるから、これからずっといるから!」 お風呂、どんどん好きになってくから! ……ふん、煩悩の塊の癖に図に乗るな。 振りほどこうと思えばいくらでも出来た。けれど、やたらに暑苦しい、デカい身体に閉じ込められるのも悪い気しなくて、僕はそのまま身を委ねていた。これだけ密着しているというのに奴には何の下心もなくて、ただただ僕を励ましたい慰めたい力になりたい傍にいたい、それだけを願っていたから、僕も、ああそうなれたらどんなにいいだろうなと、素直に思いを馳せてみた。 まあそうなれたらも何もない、力ずくでもなんでも傍に置いて、絶対手放す気はないがな。 だってもう、もはや無理だ。なぜ今更離れられるだろう、それくらいに近付いてしまった。こうなると、コイツと出会う前は何をしてどうやって日々を過ごしていたかよく思い出せない。ひと言でいえばひどい状態だ。そこまで追い込んだ張本人を、僕が逃す訳がない。 今この時点の体勢は、コイツが僕を逃さない構えだけれども。 閉じ込める腕に収まって、奇妙なほど静かな時間を重ねていると、ふと背後から思考の波がゆっくり押し寄せてきた。 面倒な昔話が始まるなと少し口がへの字になったが、興味が湧いたのも事実で、僕は邪魔せず語りたいようにさせた。 「あの時ああだったら……ていうの、オレもね」 ありますよ。 「オレね、時々ですけど、昔に戻りたいって思う事があるんスよ」 あの頃に戻りたいっていうの、あるんですよ。 ばあちゃんに触れないって知らなかった頃に戻りたい。 好きなあの子が幽霊だって知らなかった頃に戻りたい。 それより後の時間に、良い記憶ないから、ずっと戻りたいってそればっかり思ってました。 「でもね、今は違うんですよ」 戻りたいって気持ちもまだありますけど、あるんですけど、でもそれ以上に今がいいから、戻らなくてもいいって。思うようになりました。 「だって、斉木さんに会えましたから」 あの頃に戻ったら、今現在の幸せが消えちゃうわけですからね、それは嫌です。 こんなオレでも、好きだって言ってくれる人が出来た。その人との積み重ねた時間は、あの頃よりも……うん、大事です。 たまに、すごくすごく寂しいなって思う時がありますけどね……でも、今を全部消しちゃってもいいくらいじゃないから、我慢します。 「我慢ていうか違うな、斉木さんがいるから、もう全然寂しくないっス」 一度胸に染み付いたものって、元々なかったみたいに消える事ってないですけど、そこに新しい色を塗り重ねる事は出来ます。アンタで埋め尽くす事が出来るんです。 ひとしきり語って、鳥束は小さく息を吐いた。 そこで僕は動く。振り返る。 数秒の間に見えた表情は、らしくない事を語った照れくささと、寂しいという言葉に相応しいそれ。頬はぽてっと赤くほてっていた。ぬるま湯とはいえ浸かっているのだ、多少はのぼせるだろう。でもそうではなくて、何らかの悲しみが滲んでいるようにしか見えなくて、胸のそこかしこがチクチクと痛んだ。 やれやれまったく、厄介なものを聞かせやがって。 身体ごと向きを変え、僕は顔を近付けた。 (え、斉木さん) (慰めてくれるのかな) さあどうかな。 唇を重ねる。 たちまち鳥束の思考は気持ち良さに染まり、感情の赴くまま腕を回してきた。 僕がどんな性分か、鳥束、お前もうよく知ってるはずだよな。 もっと、もっとと求めてくる唇に、僕はガブっと噛み付いた。 「いちっ!」 ばっと鳥束は離れ、恐る恐る指先で唇を確かめた。 ああ、風呂に入って、血の巡りよくなってるしふやけてるし、簡単に切れたな。 びっくりする顔に笑いかけ、僕はそっと舐め取る。 再び顔を覗き込むと、驚きとちょっとの怒りが混じって見えた。 「え、斉木さ……わざと……?」 『あんまり辛気臭い顔してるんでな、ちょっと喝入れてやったんだ』 「……えー」 何それって顔にまたキスをする。 「ん――もう、この乱暴者め」 『情熱的って言え』 「言わないっスよ」 全然違うんだから! 両手で僕の肩を掴み、鳥束は顔を近付けた。仕返しなのか、下唇を思いきり吸われる。 『もっと過激にしたっていいのに』 そう例えば夜のお前みたいに。 「えっ、オレそんな毎度毎度無体働いてます?」 すっとぼけるのとも違う、心からの驚きを出されると、参る。働いてるとも言えるし違うなとも言えるし。 オロオロする大型犬の幻を見る。 むしゃくしゃしたので、揃えた指の先でビシっと額を叩いてやった。 「いだっ!」 ざぶんと湯を波立て、鳥束が悶絶する。 そいつを無視して、僕はざばっと立ち上がり浴槽を跨いだ。 「あーん……いたた…待って、斉木さん置いてかないで」 慌てて鳥束が追ってくる。 大急ぎで浴槽を越えようとするから、やたらに長い足をつっかけて奴は無様にも転びそうになった。その一連の動きが、僕にはとてもとてもゆっくりに見て取れた。だから、アイツが(すんません!)と心の中で思いながら僕にしがみつこうとするの、よけようと思えばいくらでもよけられたけど、そうしたら洗い場に頭から突っ込んでちょっとした流血事故になってしまう。そんな朝はつまらないので、僕は「よける」「受け止める」の選択で、その場にじっと立つ方を選んだ。 まあこっちはこっちで、骨と骨がぶつかって片や常人片や超能力者で強度が段違いに違う為、流血には至らないまでも結構な大騒ぎになるのだが。 「いてぇ……かてぇ……いてえっ!」 痛さのあまり息も切れ切れの鳥束。 『カルシウム不足だ、変態クズ』 言い捨て、僕は浴室を出た。 そんな問題じゃないと心の中でぼやくのを聞き流し、服に着替える。 『おでこは痛いわ、肩は痛いわ、朝から災難だな鳥束』 「唇もわりと痛かったっスよ」 もう塞がったけど。 下唇をうーっと突き出して、鳥束はふふと笑った。 『うわ、ブサイク』 「ひっで!」 冷蔵庫から持ってきた麦茶を互いのグラスに注ぐ。 いただきますと伸びる鳥束の手を、風呂上がりの少しふやけた眼差しで見つめる。 『それ飲んだら、とっとと用意しろ』 「え、……なんの用意?」 まさか、もう帰れってこと? 悲しがる大型犬の幻がまたも見える。 違う。 てか僕何見てんだこれ。 『出掛ける用意だ』 「え、うそ、どこ?」 『決めてない。どこでもいい。お前の行きたいところにしろ』 「えっ……え、うわ、ほんとに?」 うわー、どこにしよ! 「でもなんで急に?」 『僕で埋め尽くしたいんだろ』 「あ……、はい」 『僕を選んで正解だと思わせてやる』 寂しいと思う暇もないくらい、振り回してやるからな。 「……もー。斉木さん」 『つまらんとこに連れてったら承知しないぞ』 「なんだかちょっと不穏だけど、嬉しいっス。お手柔らかにお願いしますね」 『僕なりに、善処する』 「えー」 不服そうな顔がおかしくておかしくて、僕はつい唇を重ねた。 静かに離れた奴の頬に、汗かそれとも違う雫か、一粒流れるのを見る。 『そら、さっさと着替えろ』 「はいっスー!」 幻の大型犬が、千切れんばかりに尻尾を振って大喜びする。 ずっといるって言われて嬉しかったから、僕もお返しだ。 ずっと、この先ずっと。 楽しみだな、鳥束。 |