冬の僕ら

 

 

 

 

 

 夕飯を済ませ入浴を済ませパジャマに着替え、寝るまでゲームでもしようかとテレビをつけた。
 ぱっと画面が明るくなり、たちまち部屋が賑やかになった。
 これは…ふむ、バラエティか。こいつを見るのもありだな。
 背後が気になるからな。
 僕はベッドを背もたれにテレビに見入った。

 贔屓の芸人も出ていて、新作や定番のコントが目白押しで何度も笑いが転げ出るのだが、いまいちのめり込めない。
 面白いのにな、しょうがない、やっぱりゲームにするか。
 背後が気になるからな。
 僕は念力でゲーム機をセットして、コントローラーを構えた。

 しかしそれも三十分もしないで投げ出す事になる。
 別にクソゲーだからってわけじゃない。
 クソすぎで投げ出すとかクソゲーマニアの名倒れだ。
「……はぁ」
 僕は思い切って背後を振り返った。
 きちんと整えられたベッド、がある。
 それを見た途端わけもなくイラついた。
 何がそんなに苛々するのかわからないが、とにかく無性に腹の底がそわそわむずむずイライラ、落ち着かない。
 いや、もしかしたら苛々じゃないのかもしれない。
 よくわからない。
 ここは僕の部屋なのだからそこに誰もいないのは当たり前で、布団も枕もごちゃ混ぜのぐちゃぐちゃになってる訳じゃないから腹が立つ事もないはずだが、とにかく僕は何かしら落ち着かないのだ。

 匂いが。
 残っているのだ。

 このベッドを新調したのはいつだったかな、とにかく寝具類を新しくして以来、僕は必ず朝には一日戻しで新品に戻している。
 普通の人が、朝起きたら布団を畳んだりシーツを整えるのと同じように、復元の能力を使っている。
 使ってきた。
 毎日、出荷直前の状態に戻すから、余計な体臭などは一切残らないようになっている。
 超能力で諸々調整しているので、僕にそもそも体臭はないのだが。
 まあそれでも、その家特有の匂いというものはあって、僕んちにも当然あって、それらは染み付いているだろうけど、この家で暮らしている僕にはなじんだもので、気になる事なんてまずないのだ。

 そんなわけで僕の鼻につくような匂いなんて、あるはずもないのだが。
 どういうわけかあるのだ。
 匂いが。
 残っているのだ。

 それは、鳥ナントカいう寺生まれの癖に煩悩の塊の変態クズのもの。

 別に、昨日初めて奴を泊めたって訳じゃない。
 もう何度か、泊めてやったり泊まったりしている間柄だ。
 奴とそんな風な仲になったのは、いつだったか。どんなきっかけだったか。

 とんでもなく暑い夏の日、奴の額の汗に見入りながらキスしたのが始まりだったと記憶している。
 それの前に何かしらやりとりしたのは覚えているが、どうもぼんやりしていて掴み切れない。
 奴といつもするような、下らない他愛ないやり取りをしていたのは確かだ。下らない煩悩の連続に僕は心底うんざりして、呆れていたんだ。もう死んでくれと胸中の思いを今にも表面に出そうかという時、奴は不意に真面目腐った顔になり、かと思うと、今にも泣きそうな顔で衝動的にキスしてきた。
 蝉の声がとてもうるさくて、そしてそれ以上に奴の心臓の音がうるさかったっけ。
 いや、あれは僕のものだったかもしれない。
 直前まで全く別の事を考えていたくせに、奴め、突然気持ちを爆発させるなんて、支離滅裂にもほどがある。
 そして僕も、思いがけない告白に柄にもなくときめいたりして、本当に気持ち悪かったな。
 思い出したくもない。
 ああだから、一部記憶が曖昧で混濁しているんだろうな。
 けどまあ、想いを告げられた事自体は大切に取っておきたい記憶だと思っている。

 奴に出会った時の事なら、割と鮮明に思い出せるのだがな。
 思い出したくもないのだが、終わってみればあっという間の夏休みを引きずり、非常に憂鬱になっていた時だったから、嫌でも記憶に刻まれた。
 何より接触の仕方が他の誰にも真似出来ないものだったしな。
 なんだ、幽霊って。なんだ、霊能力者って。
 大体何が霊能力者だ「破ァー!!」も出来ない癖に霊能力者名乗るな。
 まあ置いといて。
 そんなわけでイヤでも記憶する事になったんだ。

 振り返ってみると、ろくな記憶ないな。

 あの日奴の額に流れた汗はもちろん、それ以前の様々な場面を、覚えている。
 木枯らしに鼻を啜った帰り道とか、凍える朝の庭で、バケツに張った分厚い氷をかかげた楽しげな顔とか、風が強いのに無理して屋上で弁当を食べた早春の青空とか、一つひとつが、どれもどうでもよくてどれもどうにも大切な思い出だ。

 そんな何やらを経て、また巡ってきた夏休み明けのある日初めて奴と一夜過ごした翌朝、自分の布団に他人の匂いが残る事に不思議な感動を覚えたりもしたっけ。
 ――あー……気になりますか?
 独特の香の匂いに感心する僕に、奴は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
 まあ気にならないと言えば嘘になるが、嫌だとか癇に障る、頭痛がするなんてものじゃないから、気にするなと僕は返した。

 それから僕は、復元するのをやめた。
 もちろんその代わりに、週に一回洗濯に出すようにした。
 ちなみにうちでは毎週金曜日が大物洗濯の日になっている。
 奴が泊まりに来るのは大抵週末で、土日を共に過ごして、次の金曜日まで、僕は嫌でもない癪に障るでもない奴の匂いの残りと日々を共にしてる。
 これまでそれで、何かが気になった事はない。

 それが何故か今、この有様だ。
 気になって気になってしょうがない。
 なんだよ、なんで今更気になるんだ。
 そしてなんで、嗅ぐと何とも言えない心持ちになるんだ。
 苛々する…というのでもない。腹の底がざわついて、とにかく落ち着かない気分になるのだ。
 衝動的に叫んでしまいそうな……?
 よくわからないが、何かしたい、どこかへ行きたい、この場にじっとしていられない気分に駆られる。

 なんだっていうんだ、僕は何をしたいんだ?
 心のどこかから湧いてくる訳のわからない感情、これは一体なんだ。

 実は奴の匂い、嫌いなのか?
 本人については、……まあ悪からず思っている。
 救いようのない変態クズだな、死んでもらいたいなと思った事は一度や二度じゃ済まないが、たとえどんなに数えきれないほど思うとも、嫌だ嫌いだと振れることはなかった。
 そこからの延長で匂いも嫌いじゃないと思っているが実のところはキライでイヤで、だのに無理に嫌いじゃないと思うから無理がたたって苛々しているとかなのか?
 僕はシーツに鼻先をくっつけ、クンクンと確かめてみた。
 たまらなく胸がぎゅうっとなったが、別に嫌いだからってわけじゃないな。
 うん、全然嫌いな匂いではない。
 しかし、今のぎゅうっはなんだろうか。

 ああもう、苛々する。
 腕組みして考え込む。
 原因不明の、もしかして病気か?
 はっと閃く演技をしてみるが、見当はずれの茶番に余計苛々するだけだった。

 っち。
 もうテレビもゲームもやめて、寝るとするか。
 一気に全て消して部屋を真っ暗にして、僕はベッドに横になった。
 ……うすら寒いな。
 冬仕様の寝具だからシーツがひんやり冷たいだとかないし、そもそも僕は調節出来るので寒さなんて感じないはずだ。
 しかしどうも手足が冷えるのだ。
 何かが物足りないと思った。
 奴の匂いがふっと鼻先をかすめると、冷たさが増すように思えた。
 原因を探ろうとするとますます胸が騒がしくなった。
 ああもういい加減にしてくれ。
 がばっと跳ね起きる。
 どうすりゃいいんだ。

 ああ、やれやれ…本当はわかっているのだ。
 どうすればいいかわかってる。
 いい加減認めるべきなんだ。
 力一杯ベッドを殴りたくなった。そんな事をしたら前方二十キロが綺麗さっぱり吹き飛んでしまうからやらないが。
 その代わり、鳥束を殴りに行こう。
 僕がこんなになってしまったのは、奴のせいに他ならないからな。
 よし、そうと決まれば早速行動だ。
 とその前に、千里眼で確かめよう。
 奴が何をしてようが今更驚きはしないが、あまり気まずい場面に遭遇したくはないんでな。
 ぶっ飛ばす口実が増えるのはいいが、精神衛生上よろしくないだろ。

 視ると、枕に顔を埋めうつ伏せになっていた。一見大人しく寝ているようだが、布団をかぶって何やら致していたら嫌だなあ。
 もしかして最悪のタイミングだったかと後悔がよぎるが、両手は枕を抱えていたのでひとまずほっとする。
 心の声を聴いてより確信してからがいいか?
 いやもうめんどくさい、すぐ飛ぶか。

「うっわぁ――がはっ!」
 奴の枕元に立って『おい』と声を掛けたら、バネでも仕込んでたのかってくらいの勢いで奴は飛び起きそのまま壁に背中をぶつけた。
 あれは痛そう。しばらく息が出来ないくらいの衝撃だろあれ。
 案の定、青ざめた顔で浅い呼吸を繰り返す鳥束。
 心の声もショックのあまり途切れ途切れだ。
 ごめんごめん、さすがに脅かしすぎたな。

「なんスか斉木さん、何の御用で?」
『お前に仕返ししに来た』
「え……なーんだ、一人寝が寂しいから、会いに来てくれたとかじゃないんスか」
『いやまず仕返しの部分に驚けよ。おののいてくれよ』
「はっ、それはもー、今更っスから大人しく受けますよ。また何かやっちまったんでしょ、オレ。どーぞどーぞ」
 そうかよ。それはそれでつまらんな。
 それにしても、鳥束の癖に一発で正解に行き着くとか本当にムカつくな。
 そして、うつ伏せの理由が、先週僕が泊まった残り香がもうない事に嘆いていたからだったとは。
 ますます腹立たしい。
 お互い同じように思い悩んでいたなんて。
 お前と同じ事していたなんて。

「で、どんな仕返しするんスか?」
 そもそも、何の報復っスか?
 沈黙する僕に、鳥束は再度質問した。
 僕はそれを無視して、鳥束のベッドに潜り込んだ。
 直前まで、すぐ部屋に戻るつもりでいた。戻ろうか潜り込もうかせめぎ合っていた。
 誘惑に負け、僕は布団を選んだ。
 鳥束を押しやりながら無理やり身体を割り込ませる。

「ちょ、ちょ、ほんと、何なんですか?」
 これが仕返し…な訳ないし
 実はやっぱり寂しかった?
 オレに会いに来てくれた?
 もしや斉木さんも同じ――
『鳥束!』
 思考をかき消す勢いでテレパシーを送る。
「はいっ」
 びくっとする身体に、わずかに罪悪感が過る。
『寝るぞ』
「え、ちょ…え、ちょ……」
 いやま寝るのはいいけどさ
 でもまだ早くない?
 眠いんスか斉木さん
 それともどっか具合が悪いの?
 大丈夫ですかと顔を覗き込んでくる。
 鬱陶しいなあ、寝ろよ、見るなよ。
 心配そうに背中をさするな。

「って、寝るってアッチの寝るでした?」
 違うよ馬鹿、ぶっ飛ばすぞ。
 ハッとすんなキリっとすんな。
 こっちの寝るであってるよ。
『ごそごそするな鬱陶しい、眠れないだろ』
「……はい、すんません。寝ます」
 と言いながら、鳥束は尚ごそごそと手足を動かし僕に絡めてきた。
 っあぁ、うざいな。
 未練たらしく身体を触ってくるなら遠慮なくぶっ飛ばせるが、コイツはただ僕を抱きしめて眠りたいだけだった。
 この位置なら邪魔にならないかな。ここなら重く感じないかな、そんな場所を探してごそごそしているのだ。
 僕の安眠を妨げずなおかつ自分の気の済む位置取りを求めて、鳥束はごそごそもぞもぞ動いて、やがてようやくしっくりきたのか、安心したような溜息を吐いた。

「あー……斉木さんの匂い」
 ないだろ、さっきも言ったぞ。
「いえ、石鹸とシャンプーと、あと何か、なんとなく、甘い匂いがするんスよ」
 甘い匂い?
 ん……なんかそういう重大病気があったような。
「いやいやそういうんじゃなくて。不健康なそれじゃなくて」
 優しい甘い匂いだと、鳥束はうっとりと呟いた。
 ふぅん、自分じゃわからん何かが残ってるのだろうな。
 それが僕んちの匂いなのかもな。
『気になるなら帰るが』
「やっ、なに、ダメっス!」
 たちまち鳥束は大慌てで僕を腕の中に閉じ込めた。
『おい、さっきまでのは辛うじて許すが、今のこれは苦しくて眠れないぞ』
 ぶっ飛ばされたいか?
「やですやです、はい。気にならないから帰らないで」
 帰る気なんかないよ。たまには僕も、心にもない事を言うんだ。
「いや気にならないって言ったらウソだな…気になる、すごく気になる。だってオレの好きな匂いだし」
 とろけた声が鼓膜を震わす。言葉と同時に、しっかり抱きしめられた。
『おい、だから苦しい』
「すんません!」
『次はないと思え』
 そんな脅し文句の陰で、自分もこっそり、鳥束の匂いを胸に吸い込む。

 僕も気になる。すごく。
 これしきで安心出来てぐっすり眠れそうだなんて、僕らしくなくてすごく気にくわない。
 腹いせにぶっ飛ばそう。
 あと五秒したら殴ろう。
 いやあと十秒。
 三十秒にしよう。
 動かない手にじりじりしながら、どんどん秒数を増やす。
 しかしそれも、鳥束の体温と匂いに包まれまどろむ内、薄れて消えていった。
 すぐそこには、僕を抱きしめご満悦の鳥束がいる。
 数えるのはやめにして、僕は大人しく身を任せた。

 さっきまで、すごく寂しかったと、鳥束の脳内が振り返っている。
 昨夜はこうして斉木さんとくっついて寝たのに、今日は一人寝だなんて寂しすぎる。
 寂しくて悲しくて力が抜けて、何をする気にもならなかった。
『嘘つけ、学校じゃいつも通りのエロ束キモ束だったじゃないか』
「はっ…やだもー、勝手に読まないで」
 もじもじと身体を揺するな、気持ち悪いんだよ。
『無駄に動くな、じっとしてろ』
 作務衣を引っ張る。

「もー…斉木さんは、平気なんスね」
 オレなんか、朝から晩まで何かというと斉木さんばっかなのに。
 オレばっかり、こんななの?
「はぁ……でもいいや」
 斉木さん、今いるし。
 切なげに溜息を吐いたかと思えば、すぐに立ち直りルンルンになる脳内、うるさい。
 目まぐるしいったらありゃしない。
「おやすみなさい斉木さん」
 おやすみ。
 よし、寝ろよ。寝ろよ。
 っち、まだ寝ないか。

 本人に伝えてやりたい。
 僕のテレパシー受信範囲と、まだ早いこの時間、四方八方からどんだけの騒音が押し寄せてるか、しかしお前の思考のせいでそれらがほとんどかき消されてる事、つまり今僕の脳内にはほぼお前で占領されてる事、教えてやりたい。
 まあ言った途端図に乗るのは目に見えてるが、それでもいつか気が向いたら言ってやろう。
 僕がどれだけ、お前の事で頭が一杯になってるか。
 腹立たしくて気持ち悪いくらいのこれを、いつか見せてやるよ。

 しかし、この僕がよりにもよってお前の事で思い悩むとか、許しがたいな。

 だというのに、なんでこんなに嬉しくなるのだろう。
 込み上げてくるこの感情はなんだろう。
 堪えても堪えても、口が笑いたくなるなんて、こんなのおかしいだろ。

 なあ鳥束、お前答えを知ってるか?
 こういうのなんて言うか、知ってるか?
 お前が今なってるそれと同じものに、僕もなっている。

「あぁ…オレも超能力欲しい」
 半分眠りながら、鳥束が呟く。
 やめろ馬鹿、お前にだけは発現したら駄目な奴だ。
「そしたら、会いたい時すぐ、会いに行けるし……」
 それを最後に、鳥束は眠りに落ちていった。

 ……心臓が口から飛び出るかと思った。
 窮屈な奴の腕の中で、僕は少しみじろいだ。
 ちょっとやそっとじゃほどけないな、これ。
 物理的にも精神的にも。
 でもまあ、いい。

 苦しくてつらくて息が満足に吸えないほどだが、僕もそうなれるんだとわかって嬉しいから、いいか。

 さて仕返しだが鳥束、明日お前が起きるより先に起きて、家に帰ってやる。
 お前は、今日以上に悶絶する事間違いなしだ。
 僕にこんなものを教えた責任、僕をこんなにした責任は取ってもらうからな。
 まあ、実際出来るかどうかは怪しいところだが。
 とりあえず起きてから考えよう。
 出来なきゃ出来ないで、明日は土曜日だし、まあいいか。

 しまった、母さんに何も言わずに来てしまったな。
 それも明日、起きてから考えよう。

 今は、安眠出来る幸せを噛みしめて、目を瞑ろう。
 じゃおやすみ、鳥束

 

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