明日にはきっと朗報が届く

 

 

 

 

 

 今日は鳥束の誕生日だ。
 奴は今日、二十四歳になる。

 朝起きて、挨拶を交わし、簡単な朝食を作ってともに食事する。
 そのあとは引っ越しの為の荷造り…といっても、各々持っていきたいものは少量なので、各自リュック一つでまとまってしまった。
 家具付きの物件を借りたので、荷物は少ないのだ。
 この部屋、ソファーやベッド食器棚といったものは特に問題なく変えたが、それぞれの設備や機械類に多少難儀する事があった。しかし概してそれなりに快適に暮らせた。
 荷造りが済んだら、今日は休日なので、昼まで二人だらだらとテレビを見て過ごす事にした。
 やがて昼が近付いてきた。僕はアパートを出て菓子店を目指した。
 数日前に予約した、奴の誕生日ケーキを取りに行く為だ。
 無事受け取り、二軒隣にある花屋でささやかなブーケを買い、昼食にするサンドイッチを屋台で二人前買い求め、アパートに戻る。
 アパートは六階建てで、しかしエレベーターはない。ちょっと暗めの内階段を僕は一段ずつ上り我が家を目指した。

 

 この国は日本と違い、誕生日は主役である本人が全て段取りして行うのだ。
 そもそも、日本のように周りが計画する事の方が、少ない。
 日本を出て、初めてその文化に触れた時は新鮮な驚きを味わった。
 もう何年も前の事だ。
 今じゃすっかり慣れたものだがしかし僕らは日本人なので、互いの誕生日は日本式に行っている。

 

 ここで暮らして、もう七年になる。その間、少ないながらも親しくなった人らがいる。
 隣人や、花屋の女主人がそうだ。
 隣人は女性で、知り合った当初は画家を目指す美大生だった。現在は夢を叶え、忙しく仕事をこなしながらも、当初のように「晩御飯のおかず作りすぎちゃったから助けて!」と、デカい鍋を抱えて気軽に声をかけてくる。
 花屋の主人とは、僕や鳥束が交互にあるいは一緒に訪れてよく買い物をするからか、すっかり顔なじみになり親しくなった。男二人、気ままに暮らしていると何というか、よくいえば質素ハッキリいえば殺風景なのだ。そんな時、季節の花を取り入れるのは効果があり、しかも近所という事もあって、通りがかる度店頭を覗きちょくちょく買う内にかわす言葉も増え、いつの間にかオマケしてもらえる上客になった。

 

 しかし彼らとも、今日でお別れとなる。
 こうやって知り合った人と別れるのも、何度目になるだろう。
 次に暮らす場所はまだ決めていない。奴と昼を食べながら探すとしよう。
 そうこうしている内に部屋の扉が目前に迫った。
 チャイムは鳴らさず、テレパシーで帰宅を伝える。
 扉に三つ取り付けられた鍵をガチャガチャ忙しなく解錠して、鳥束はがばっと扉を開けた。
「おかえりなさい、斉木さん!」
 鳥束は満面の笑みで僕を迎え、手荷物を引き受けると、部屋の中へと入っていった。
 僕も後に続く。

 

『さて……次はどこへ行こうか』
 夜のパーティーの為、昼は軽めのものを用意した。
 それにかぶりつきながら、僕は食卓に地図を広げる。
『やはり、食事の美味さは重要だ。あと、スイーツの種類が多いのも欠かせないな』
「はは、斉木さんは相変わらずっスね」
『食事の美味さを最初に言ったのは、鳥束、お前だぞ』
「そうでしたね。や、今でも充分大事っスよ」
『だよな』
 先が見えないからこそ、楽しみは必要だ。
 確かに僕ならば、たとえどんな辺境の地にいようがあの最高級コーヒーゼリーを取り寄せる事は出来る、けれども、やはり選択肢は大いに越したことはない。
 お前と二人でいられるならそれで充分ではあるが、そこにほんの少しスイーツも欲しい。あと美味い食事も。
 お前なら、わかってくれるよな。
「ええ、よくわかります。じゃあやっぱり、この辺りがいいんじゃないですか?」
 鳥束は手を伸ばすと、地図のとある個所を指先でぐるりと囲った。
『ふむ…いいな。ここからだと山脈の向こうだし、そう離れてはいないが近くもない。言語もそれほど入り組んでないところだし、異議なしだ』
 しばし地図を眺めて地名を頭に叩き込み、僕は小さくたたんでリュックにしまった。


「……はー美味かった。相変わらず、あそこの屋台のサンドイッチ、ボリュームたっぷりで美味いっスね」
 ごちそうさまでしたと、鳥束はきちんと手を合わせた。
「次に行く街でも、美味いものやが近くにあるといいなあ」
『手軽で、美味くて、ついでに美人のおねーさんが店番やってるといいなあ、か』
 相変わらずの煩悩ぶりだな。
「もー、読めても、黙ってるのが人情でしょ」
『うるさい。おい鳥束』
「……うわっ」
 微苦笑する鳥束の胸ぐらを念力で掴んで引き寄せる。同時に自分も立ち上がり、テーブルの上空で唇を重ねる。
「……もー、相変わらず強引」
 鳥束は小さく笑って、さりげなく目を伏せた。
 照れくささからではなく、奴の心に引っかかるあるもののせいで、僕の目を見られないのだ。
 今朝起きた時から、それは始まっていた。
 朝、目を覚まし、挨拶と共に『愛してる』と言った瞬間から、奴はこうして、僕の目を避けている。
 理由はわかっている。
 どれだけ口を噤もうと、超能力者の前では無駄な事だ。
 流れ込んでくる重苦しい思考に、僕までも息苦しさを覚えた。
 それを解消したくてキスをしたのだが、そう簡単に重しはなくなってはくれないか。

 これは別に、鳥束が僕に愛想を尽かしたからとかではない。
 愛の言葉を手向けた途端気まずくなったのは、奴が僕と同じように僕を愛しているからだ。愛しているからこそ、この暮らしがつらくなったのだ。
 僕たちは、七年ごとに住処を変えてきた。
 同じ場所には長くいられないから、日本を飛び出し、海を越え山を越え、小さな村、都市の外れ、海辺の町と、転々としてきた。
 同じ場所に長く留まれないのは、鳥束が七年ごとに若返るからだ。
 別に、そういった奇病にかかった訳じゃない、僕が若返らせているのだ。
 ある時期になると、制御装置を外し、鳥束に七年戻しを施している。
 いたずらにそんな事をしている訳じゃない。
 鳥束といつまでも若い状態で気ままに暮らしたいから、やってる訳じゃない。
 そうしないと、鳥束が二十五を迎える前に死んでしまうから、そうしているのだ。

 

 

 

 最初にその予知夢を見たのは、鳥束の本当の二十四歳の誕生日の朝のこと。
 誕生日から十日ほど過ぎた頃から、鳥束の身体にちょっとした異変が現れ、あれよという間に弱ってゆき、二十五歳を迎える事無く奴は逝ってしまう…そんな夢だった。
 まるで老人のように痩せ細り、骨と皮だけになった奴の手を握って、僕は呆然と突っ立っていた。
 白い病室、機械音、手の感触。全て夢の中のものだが、目を閉じたくなるような白とか平坦で耳障りな音とかかさかさの冷たい感触とか、まるで現実に起きた事のようにくっきりと記憶に刻まれた。
 僕はその日一日、日が暮れるまで悩みぬき、七年戻しを実行した。
 たとえお前が否と言っても決行すると、覚悟を持って臨んだ。
 一度目の時鳥束は、まだ楽天的であった。
 ――まあ、また十七の身体で斉木さんを抱けるのは純粋に嬉しいし、まだまだ斉木さんと生きたいから、感謝っス!
 真っ先にシモの事かよと、悩んだ時間を返せと腹も立ったが、同時に奴らしいと安堵もした。

 

 

 

 あれから、何度も奴の身体に七年戻しを施している。まだ二桁まではいっていないが、順当に年を取っていたら僕らは結構な年齢になっているはずだ。
 そうやって繰り返してきた事が、長い年月が、現在奴の心を重くさせていた。

 初めの頃は僕も、いくらか楽観的であった。
 僕のかけたマインドコントロールで、人類の自然治癒力は飛躍的に上がったが、依然として不治の病、難病は存在する。
 という事は、医療の発展はこれからも目覚ましいだろう。
 であれば、いつかは鳥束がかかる病を克服する日が来るはずだ。
 そう思って、その日が来る事を願って、七年戻しを実行した。
 さすがに一年二年では望みが薄いと思っての事だ。
 二十四歳の誕生日が訪れる度鳥束を若返らせ、住処を変え、ここまでやってきた。
 しかし未だに治療法は見つかっていない。
 鳥束と同じ病に倒れ、一年足らずで死んでいく人を、僕はただ見送るだけだ。

 僕たちは、出口の見えない穴の底に落とされたのだ。

 七年ごとの引っ越しは言うまでもないが、周りに不審に思われない為だ。
 実は僕たちは、実年齢で三十歳までは日本にいた。
 三十路でも十代に見える連中は結構いるものだし、厳密に言うと外見は二十歳を越えていてそう大差なかったから周りもそう不自然に受け取る事はないだろうと、その辺りの年齢までは一つ所に留まっていた。
 けれどその先が難しかった。
 鳥束の治療法は見つからない、次の七年戻しが迫っている、これ以上同じ場所にはいられないとなり、遠くの街に移る事にした。
 ――どうせ引っ越すなら、思い切って海外とかどうっスか?
 ――飯美味い、スイーツ豊富、キレーなお姉さんのいる国がいいっスね
 最後の所で鼻の下を伸ばし、鳥束はそう提案した。
 特に行き先を考えていなかった僕は、最後の部分が非常に気にくわないながら乗る事にした。
 食事はともかく、スイーツ豊富なのは捨てがたい。
 それと、これは奴には言えないが、お前が楽しいと思うものを自分も楽しんでみたい欲求があったからだ。
 マインドコントロールを使えば、いつまでも老いない僕たちを周りが不自然に思う事はない。
 けれどそれをしなかったのは、鳥束と一緒に色んな所に行きたいという気持ちが込み上げたからだ。

 さて、食事はともかくといった僕だが…のちに、何の気なしにとある国に引っ越して、食生活のあまりの乏しさに飯が美味いのも非常に大事だと痛感した。
 それもあって僕は、はっきりと『飯が美味いとこ、あとスイーツ』と宣言するようになった。

 そうやって僕らは、七年ごとにいろんな国を渡り歩いてきた。
 回数は片手を超えたが、僕はやはり夢を見る。鳥束の二十四歳の誕生日に、奴が二十五で死ぬ夢を。
 それを見た朝、僕は必ず奴に『愛している』と伝えるようになった。

「ん……はよっス、斉木さん」
 寝起きの緩んだ声がたまらなく愛おしい。
 僕は自分のベッドから抜け出して奴の寝床に潜り込み、腕も足も絡めて抱き着く。
「おはよう鳥束。愛してる」
「ん〜、オレも愛してるっス!」
 一瞬で眠気が吹っ飛んだと、鳥束は力強く抱き返してきた。

 愛してるなんて、普段は決して口にはしない。
 それこそ、七年に一回くらいか。
 その分行動にはたっぷり気持ちを込めて過ごしている。まあ僕なりになので、そこはご容赦ください、だが。
 だから言わなくとも気持ちは充分過ぎるほど伝わっているが、予知夢を見た朝はどうしても言いたくなってしまうのだ。
 言った途端全身が痒くなるが、奴がああして抱きしめてくれるので、だいぶ緩和するのが救いだが。
 自分に似合わない言葉、本当に全身が痒くなる。痒くなるし心はガタガタ震えるし手足は冷たくなるし、ほとほとまいってしまう。
 特に、目の奥の痛みがひどかった。針で刺されたような、抉られるような痛みに襲われ、息が詰まってしまう。
 それが奴に抱きしめてもらうと症状が和らぎ、心が落ち着く。
 まだこうしていていいのだと言われたようで、ほっと力が抜けていくのだ。

 

 今日もそんな風に朝を迎えたが、これまでとほんの少し違っていた。
 抱きしめてくる腕の力強さも、返される愛の言葉もいつもと変わりないのだが、目線が合わないのだ。
 ちらとだけ見て、鳥束はさっと目を伏せる。
 その時必ず、つらそうな表情になる。
 奴は隠し事が下手だ。
 何年たっても下手なままで、目は口程に物を言うとはまさにこの事。
 もしもテレパシーが封じられたとしても、奴の抱えるつらさはすぐに感じ取れたことだろう。
 そして僕は相変わらず超能力者なので、隠している心の声も丸見えの筒抜けた。
 だが僕は、奴が言い出すまで黙っている事にした。
 他の事…奴のいつものちょっとしたよそ見の追求とか、煩悩の抉り出しなんかとは違って、気軽に触れる事の出来ない部分だからだ。

 早い時間から、夕食の支度に取り掛かる。
 この日だけはなるべく超能力に頼らず自分の手足で料理をすると、心に決めていたからだ。
 そうなると僕は途端に不器用になるので、夕飯の時間に間に合うよう早くから始めたという訳だ。
 材料は全て日本で買ってきた。日本の食料品を扱っているスーパーで買った、ではなく、実際に日本に飛んで買ったものだ。
 もちろんそこは超能力を使った。なるべくという言葉は絶対にという意味ではないのでノーカンだ。
 しょうがないだろ、でなきゃ「炊き立てのご飯、わかめと大根の味噌汁、秋刀魚の塩焼き、漬物」なんていう本気の夕餉は作れないんだ、しょうがない。こればかりはしょうがない。ここは勘弁願おう。
 さて、誕生日だというのにこんなありふれた何の変哲もない献立なのは、奴のたっての希望に他ならない。
 実年齢で三十一歳、若返らせていたので二十四そしてまた十七歳になる夜、僕らは日本を出る決意をした。奴の希望で海外に行く事になり、そこで奴は言った。

 これから先の誕生日、欲しいものは一つだけです、斉木さんだけです。斉木さんがいてくれれば、オレは他に何もいりません。ただ――その日だけでいいから、斉木さんの手料理、食べたいなあ……なんて、高望みっスかね

 高望みも何も、そんな程度でいいのかと肩透かしを食らった気分だった。
 まさか小難しい面倒な献立組む気じゃないだろうなと顔を引き締めれば、いえいえ、ごくふつーの晩飯でいいんですと返してきた。
 日本から遠く離れた地で、日本のごくふつーの晩飯はある意味贅沢ではあるが、お互い米で育ってきたとなれば恋しくなるのは当然だ。
 一年に一度くらいならと、僕は引き受ける事にした。
 ケーキについては奴はそれほど執心しなかったが、僕が食べたいので、必ずバースデー仕様の特別豪華なのを頼む事にしている。

 そして僕は大根おろしに悪戦苦闘する。
 秋刀魚と言ったら大根おろしは欠かせないだろ。だが、誰にでも一つくらい不得手があるように、超能力者の僕にも苦手なものはある。
 これでも随分器用になった方なのだが…やれやれ、何年たっても苦手意識は抜けないし実際苦手だし、困ったものだ。
 万一おろし器の破片が入っていてもご容赦ください、だ。
「いい匂いっスねぇ」
 魚の焼ける匂いはうっとりすると、鳥束はふわふわした足取りでキッチンに入ってきた。
『だろ。今回も北海道まで行って、水揚げされたばかりのいいのを買ってきたからな』
「斉木さん、目利き!」
『もう焼き上がるから、テレビでも見て待ってろ』
 焼き加減に注意しながら、そう促す。しかし奴は踏みとどまり、甘えるように身体を寄せてきた。
 またも奴の思考が頭に流れ込んできて、僕を少し息苦しくさせた。
 きっと、あれだお前、腹が減ってるからそんな思考になるんだ。
 一年に一度の贅沢を口にすれば、そんな気持ちも吹き飛ぶ、だから、鳥束――。
 するりと腕をほどき立ち去る後ろ姿を、僕は目の端で見送った。

 一年ぶりの日本の晩御飯で満腹になっても、別腹のケーキをたらふく食べても、奴の思考は晴れなかった。
 わかっていた事ではあるが、僕はため息を抑えきれなかった。

「斉木さん」
 いくらかかしこまった顔で、鳥束は口を開いた。
「今年も、盛大に祝ってくれて、本当にありがとうございます」
 ついにきたと僕は息を詰める。
「久々の日本食、本当に美味しかったです」
『それは何よりだ』
 奴が次に何を言うつもりか、もうわかっている。
「ねえ……斉木さん」
 よく、わかってる。
「オレの事……恨んでますよね」
 僕はじっと奴の顔を見つめた、奴は目を伏せがちに、言葉を続けた。
「斉木さんは、普通に暮らすのが望みでしたよね。目立たず静かに暮らす…でもオレのせいで普通でいられない。オレの事、恨んでますよね」
 オレのせいで普通の暮らしが送れない
 日本にもいられない
 この国にももういられない
 全部全部、オレのせいだ
 オレが病気になんてなるから、斉木さんは、斉木さんは――
「斉木さん、もう……オレはいいですよ。ここまでで、いいですよ」
 斉木さんは本当によくやってくれました
 斉木さんと暮らせて、斉木さんにこんなに愛されて、オレは本当に幸せ者です
 だから、ここまででいいです
 次の若返りは、もう――
 僕はぎりぎりと奥歯を噛みしめ、じっと鳥束の言葉を聞いていた。
 ああ、目の奥が痛い。
 歯を食いしばり、拳を握って、ただじっと耳を傾ける。
 そうでもしないと、奴を殴ってしまいそうだった。

 馬鹿な事を言うな
 ここまできて諦めるな

 ふっと、高校時代の同級生が頭を過った。
 誰より暑苦しいあいつのお陰で、少し冷静になった。
 握っていた手から少し力が抜ける。

 部屋はしんと静まり返っていた。
 なあ鳥束、僕の努力を無駄にするなよ。
 僕だけじゃない、お前だって頑張ってるじゃないか。
 お前がいるから僕は頑張れるんだぞ。
 といっても出来る事なんてほんのわずかだがな。
 超能力は万能じゃない。
 そして僕は神じゃない。
 お前の延命は出来ても、治療は出来ない。
 心が読めても、本当には力づけてやる事も出来ない。
 ただ、一緒にいてやる事しか出来ない。
 もうここまででいいと言いつつ、本当には望みを捨てられないお前の気持ちが溢れ出るのを、黙って待つしか出来ないんだ。
 だから鳥束、もう少し言葉をくれ。
 ちゃんと聞いてやるから、心に留めているその言葉を吐き出せ。

 普通の生活なんてものは、普通じゃないお前に目をつけられた時点でとっくに崩壊しているんだよ。
 確かに、それまでの僕は目立たず静かに生きる事を目標にしていた。
 もう随分昔の話だ。
 あれから、いろんなものが変わった。
 面倒で災難な日々を疎ましく思った事もあったが、僕はつまるところめんどくさい事が好きなんだ。
 お前のものになると決めた時点で腹はくくった。
 どんな面倒ごとでも受けて立つ。
 まあ、まさかここまで時間がかかるなんてその頃は思ってもいなかったが、今日までを振り返っても、何一つ、嫌じゃなかったぞ。
 こんな年になっても僕は相変わらず、ご飯前にコーヒーゼリーはダメだとお前に叱られて、うるさい奴めって思うけれど、それだって全然嫌いじゃない。

 何故って、鳥束、お前といられるからだ。
 お前がいるからなんだよ。

 お前と一緒に時を刻むことが、人生でなにより大切なんだ。
 お前と一緒に思い出を振り返りたい。
 そうだ、お前、突如目の前に現れ散々僕の平穏をかき乱しておきながら、こんなにも僕の人生に食い込んでおきながら、今更思い出になろうなんて許すもんか。
 絶対手放してやらんからな。

 お前はどうなんだ、鳥束。


 静かすぎるまま、時間だけが過ぎていく。
 やがて、奴は静かに泣き始めた。
「ほ――ほんとは、まだ生きたいっス」
 斉木さんと一緒に、まだまだ生きたい
 どこへ行ったっていい
 うんと寒い国でも、暑いとこでも、斉木さんと一緒ならどこだって楽園だ
「死にたくねーっスよさいきさぁん」
 澄み切った紫水晶のような瞳から、大粒の涙が溢れる。涙の粒は頬を伝い奴の濃色のズボンに落ちていった。
 僕は小さく息を吐いた。安堵の混じった息を静かに吐き出し、椅子から立ち上がる。テーブルを回り込み奴に歩み寄った。
『僕が死なせない。僕が生かす』
「うっ……うっ……」
 背中を丸め、子供のように泣きじゃくる鳥束を腕に抱き、僕は髪に口付けた。
『お前の病の治療法が見つかるまで、絶対に死なせないし見捨てない』
 だからどうか、僕の傍にいてくれ。
 見捨てろなんて言うな。
 置いてけなんて言うな。
 もういいなんて言うな。
『なあ鳥束、頼むから、僕と一緒に生きると言ってくれ』
 鳥束は泣きながら何度も頷いた。
「斉木さんと、一緒に、生きたい。斉木さん――愛してます」
 しゃくり上げながら喋るものだからひどく聞き苦しかったが、奴の脳内でも同じ言葉が渦巻き溢れ、僕を圧倒するから、聞き漏らす事はなかった。
『僕もだ。鳥束、僕もだ』
 愛している
 愛の言葉は七年に一回、朝限定なんだが、今日は特別だ。


 穽にはまってしまった僕らだけど、二人なら必ず出口は見つかるはずだ。
 それにな、二人きりじゃないぞ。
 あいつもいる。空助とかいう奴。あれもお前の病気の治療法を探してる。
 お前に引けを取らない変態ドМのクソ野郎だけど、まあまあ頼りになるんだ。
 だから、まだ明日に望みはある。
 鳥束、望みはあるんだよ。

 泣き止むまで、長い時間がかかった。
 僕はずっと隣に寄り添い、ただ静かに手を握り続けた。



「斉木さーん、おはようございます!」
 なんだお前…今何時だ?
「なんと朝五時っス!」
 ばかやろう…鳥束、そこに直れ。
 昨日僕がどんだけ忙しかったか、知らない訳じゃないよな?
 向こうを出る際にちょっと近隣住人にマインドコントロール行ったし、この物件借りるのにもちょっとマインドコントロール行ったし、町の様子を覚える為に隅々まで視て確かめたし、引っ越しの荷解きはまあそれほどじゃないけど、部屋の具合をひと通り確かめるのだって決して楽じゃないんだぞ。
 そんなこんながあって、僕と言えどさすがに疲れてんだ。
 今日はこの辺り一帯祝日だ、ぐっすり眠る為にわざわざこの町にしたんだ、寝かせてくれ。
 てかお前…昨日あんなにシオシオだったくせに、ひと晩で元気になりやがって。
「やー、昨日はお騒がせしました」
 騒がせすぎだよ。あんなに心配かけておいて、この野郎。
 てかいいから寝ろ。
 一人晴れやかな顔しやがって、本当にムカつくな。
「すみませんて。でも、一秒でも早く斉木さんにお詫びしたくて」
 お詫びはいいから寝かせてくれ。
 まったく、十七歳ってうるさいな。
「そっスね、やっぱり十代はサイコーっス!」
 うるせぇよ、朝から声張んな。
「斉木さんだって、一緒に十七歳に若返ったんでしょ?」
 ああ、お前と一緒に繰り返して、もう何度目になるかな。
 でも眠いものは眠いんだ、寝かせろ。
「七年くらいじゃ変わりないかなって思うけど、あらためて見ると十七歳の斉木さん、やっぱり可愛いっス!」
 もちろん、二十代の斉木さんも色気たっぷりでエロ可愛いですよ!
 はいはいそれはどうも。
 十代のお前もそれなりにあれだよ。

「斉木さん、愛してます!」
 だからうるさいって。
 心の声も元気一杯で喧しい事この上ないな。
 ああもうほんと、しんで…いや、寝てくれ。
 何でもいいから寝てくれ。
 あと一時間寝てくれ。寝かせてくれ。
「じゃあ、添い寝をば」
 ごそごそと潜り込んでくるでかい図体に、僕はほとほとうんざりする。
 しかし鳥束は意にも介さず隣に寝転んで、僕を抱きしめてきた。
 はぁ…やれやれ、お前がわーわー騒ぐせいで眠気がどっか行ってしまったじゃないか。
「じゃあ、子守唄をば」
 いらない、黙れ、お口にチャック。
 そう伝える代わりに、僕は手足を巻き付けた。
「あ、子守唄より、軽い運動にしますか」
 馬鹿か、ふざけるなお前、服を脱ぐなボタン閉めろ。ただの二度寝の準備だよ。
 お前の体温、嫌いじゃないからな。
「えー、十代の盛りの男子に密着してきておいて、そりゃないっスよ斉木さん」
 ブツブツ、ブツブツ。
 口の先で鳥束がぼやく。
 僕は一切を無視して目を瞑り続けた。

 やがて文句も途絶え、脳内だけで鳥束は取り留めなく僕へ呼びかけ続けた。
 本当にお前、煩悩の塊だな。
 長い事付き合ってきてもうすっかり慣れたものだが、こうしてあらためて考えるとお前、よくそれで寺生まれ自称出来るものだよ。
 どうなってるんだか。

 ぽろぽろ、ゆるゆると僕への不満や欲望をかき混ぜるものだから、僕の方も、取り留めなくものを考える。
 思えば、お前が生まれた時から触れてきた教えに、僕は思い切り反抗してるんだよな。
 それを考えたら、鳥束、お前の方こそ僕を恨んで当然なんだがな。
 僕のわがままでお前を振り回してる。お前に恨まれても仕方ない事を、僕はしている。
 だのにお前は、それらよりも僕といる事を選んで、こんなところまでついてきた。
 まあ、嫌だと言っても僕が引きずり回しただろうがな。
 それでもお前は恨んだりせず、一緒に反抗してくれる。
 だから僕は諦めないんだよ。諦められないんだ。 

「どうあっても寝るって言うんスね……んー……じゃあ、後でお相手願う事にするっス」
 そうしろ鳥束。起きたらちゃんと構ってやるから、いましばらくは、新しい朝に感謝して目を閉じろ。
「あとでね、斉木さん」
 あとでな、鳥束
 腹が減ったら、起きような。


 満足いくまでぐっすり眠り、目を覚ました時、鳥束は隣でニマニマしながら僕を見ていた。
 うわ、気持ち悪いと思うのに、流れ込んでくる心の声も何もかもが愛しくてたまらず、僕は大きく息を吐いた。
 よく眠れましたかと聞かれ、僕は夢見心地で頷いた。
 でも夢ではない。鳥束は僕の腕の中にちゃんといる。奴も僕と同じようにその事実に心を打ち震わせ、幸せを噛みしめていた。
 その一方で、腹が減った何か食べたいまず斉木さんを食べたいな…などといつも通りを垣間見せた。
 やれやれ。呆れるが、それは僕も同じだったので、あいや、腹が減った部分は同じという意味で、とにかく空腹に耐えかねているのはコイツと一緒なので、僕はベッドから這い出した。

 今日は祝日で、周辺の店の大半が休みになる事を考慮して朝食は昨夜の内に買っておいた。
 ひと晩経ってかたくなったパンを、ミルクたっぷりのコーヒーに浸しながら噛みしめていると、窓の方からはしゃいだ声が聞こえてきた。
「ねー、ほら斉木さん、海キレーっすよ!」
『そうだな』
「見てないじゃん!」
 生返事やだぁ!
 開け放った窓に寄りかかり、奴はたちまちふくれっ面になった。
 やれやれめんどくさいな。
 僕は形ばかり顔を向け、うんうんと頷いた。
「ね、ね、屋根の向こうにちょっと見えるのが、またいいっスよね」
 半開きの目でも、向いてりゃ満足なのか、鳥束は機嫌を直してニコニコしだした。
「しかも空の色も綺麗なブルーだし、ここにして良かったっスね」
 窓から少し身を乗り出して空を仰ぎ、尚も奴は喋り続ける。
 僕はコーヒーカップを片手に立ちあがり、奴の傍に歩み寄った。
 奴の言う通り、空は澄んだ青に染まっていた。
 寝起きには少々厳しい煌めく海を見渡していると、奴の唇が頬に触れてきた。
 まったく、まだ朝食が済んでないというのに盛りやがって。起きたら構ってやると約束したが、せめて食べ終わるまでは待て。いくら超能力者といえど、腹は減るんだぞ。
 不機嫌さを露わに見やるが、鳥束の緩んだ顔は一向に元に戻らない。おぞましいほどの煩悩が雪崩のように襲い掛かってくる。
 まあ、そんなお前も、嫌いじゃないがな。


 パンを食べ終える前に一度抱き合って、食べ切った後もまたして、少し落ち着いたところで周辺の探索へと出かけた。
 階段や、細い路地、急な坂の多いうねる道を辿って、ついに海際にたどり着いた。
 この辺りは観光地から少し外れているが、それでも海辺にはいくらかの環境客の姿が見られた。
 昔は、徹底して人の少ない小さな村だのを巡ったものだが、実はその方が目立ってしまうと気付いてからは観光地を徹底して除外するのはやめにした。
 観光シーズンとなると少々うんざりする事もあるが、人がまばらであるよりも多少は賑やかな方が、心が慰められるのだ。
 静寂を二人で分け合うよりは、騒々しい方が心を穏やかにさせた。
 人が多い分面倒ごとも増えるものだが、あまり静かだと押し潰されそうになる。待ち受ける運命に抗う為にも、騒がしく活気に溢れている方が自分たちには合っているのだ。

 海沿いの遊歩道を並んでぶらついていると、鳥束が口を開いた。
「ねえ斉木さん」
『なんだ』
「いつかオレの病気が治って、もう七年戻ししなくてもよくなって、ほんとの最後の時には、斉木さんちでゆったり過ごしたいですね」
『僕の家か…それは構わないが、なんでだ?』
「だって、オレたちが出会った記念すべき場所でもありますし」
 ああ、そうだったな。
 いまでもはっきり覚えてるぞ。
『手紙を寄越してすぐの訪問、図々しく部屋に上がり込んで、お前、弟子にして下さい!……だもんな』
「いやぁ……その節はお騒がせしました。ははは」
 懐かしいっスよね。
 鳥束は照れくさそうに頭をかいた。
 昨日の事のように思い出せますけどね。
 そうだな。僕もはっきりと覚えてる。
 あれから随分経ったな。
 まさか二人でこんなところまで来るなんて、当時の自分からしたら驚きなんてものじゃない。


 この先医学が進歩して、いつか、お前の病気を治せる日が来るだろう。
 あるいは空助が治療法を見つけるかもしれない。
 そしてもしも治る日が来たら、そこから一年ずつ、一日ずつ年を取って、一緒に老いて、そして死を迎えよう。
 その日まで、二人で生きていこう。
 お前と二人で生きてゆく為なら、僕は何度だって繰り返そう。

 寄せては返す煌めく水面を眺め、僕はそんな事を思っていた。
 しかし隣の男は、道行く女性の胸ばかり眺めては、あれもよしこれもよしこちらも最高と脳内をぎらつかせていた。
 そうやって吟味しつつ、佇む幽霊たちに気軽に声をかける。
 誰もいない空中に話しかける奴の姿を、周りの人間は思い切り不振がったり見ない振りをしたり、そして僕はさりげなく奴から距離を取ったり。
 つまり何もかも変わりなく鳥束で、呆れるのと感心するのとほぼ同時、安心感すら与えてくる。
 どこに行こうが、どれだけ経とうが、コイツはコイツなんだ。

 そんな事を噛みしめながら、しばらく一人遊歩道を歩く。
 すぐに後ろから、恐らく世界で一番うるさいであろう男の思考が追いかけてきた。
 置いてかないで――じゃあ遅れるな
 一緒に歩きましょう――さっさと来い
 手を繋ぎたい――そいつは却下だ
「あぅん……!」
 寸前でさっと手を避けると、気持ち悪い不満声が奴の口から零れた。声はそれだけにとどまらず、ボヤキはさらに続く。思考は更に喧しく、本当にうんざりしてしまう。
 だというのに顔が緩んで仕方なかった。
 またしても目の奥に痛みが走ったが、こちらは嫌いじゃないので我慢するとしよう。
 それを見て鳥束はますます脳内を騒がしくさせ、好きだ好きだ、愛してる愛してる、一緒にいられて幸せだと何度も何度も繰り返した。
 よくまあ言葉が続くものだと感心しながら、並んで歩き続ける。

 やれやれまったく、飽きさせないな…なあ鳥束、お前を好きになってよかったよ。
 さて、昼は何を食べようかな。

 

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