今後ともよろしく

 

 

 

 

 

 鳥束の部屋にある時計は、静かに秒針が巡るタイプだった。
 カチカチ時を刻む時計もある。気にしない人間は全く気にならないが、人によっては耳について眠れないとか、思考を阻害されるとかで、じんわり回る秒針の時計を買うとか。
 僕はご存じの通り生まれつき超能力を持ち、常に周りの人間の心の声が聞こえる環境で育ってきた。
 膨大な思考が滝のように流れ込む環境の中で暮らしている訳で、そんな僕が今更秒針ごときで気が散るなどないものだが、こんな深夜の住宅街にあってはカチカチ音が欲しいなと思ってしまう。
 だって、深夜の住宅街という事は起きている人間の数もぐっと減る、場所によってはほぼ無音、皆寝静まって夢の中だから、疑似的に常人のようにしんとした環境が手に入るというわけだ。
 ただ、普段の僕は自慢じゃないが早寝早起きが習慣付いており、日付を越えたこんな時間に起きている事なんて滅多にない。
 しかも、自分の部屋でなく学校行事で訪れた宿泊施設でもなく、……ここは寺。
 ぶっちゃけるとここは鳥束の部屋で、単なるお泊りなどではなく夜を共にしていて、僕だけがこんな時間まで起きているのは――。

 ついさっきまで、鳥束に抱かれていた。
 僕にとって……鳥束にとっても初めての行為は、初心者同士によくあるオロオロやもたつきつまづきを経ながらも、どうにか最後までつまり射精まで及ぶ事が出来た。
 そう、僕は今日初めて鳥束と…やった。
 それまでのなんやかやは省くが、まあそれなりに順当に段階を経てここまで到達した。

 鳥束ははじめ僕への好意を「何かの間違いじゃ」と頭を抱えていたが、受け入れてからは驚くほどの速さで想いを膨らまし、とある日に正直に伝えてきた。
 心の声で芽生えの瞬間からずっと視てきたので動揺する事なく『何かの間違いじゃ』とあしらったが、今まで見た事ないほど真剣な顔で告白してくるものだから、蹴散らす事も超能力で追い払う事も出来ず、僕はただ頷いた。
 それでまあ、お付き合いなるものを始めた。
 ここは省かせてもらう。というのもだって恥ずかしい。一生恋愛になど縁がないだろってわかりきって割り切ってた僕が、この僕が、わかりきっているはずの初デートなんぞに浮かれたりときめいたりしたなんて、恥ずかしくて口が裂けても言えない。
 その後も、テレパシーで先取りしてわかってたっていちいち心が浮き沈みする日々で、自分でもこんなにイライラしたりドキドキする事あるんだな…なんて、僕はすっかり鳥束にはまっていた。
 省くとか言って何だかんだ語ってしまったがまあなんだ、それだけのめり込んでいるってことだな。
 だから余計、絶望感がひどい。

 セックスで、何も感じなかった。
 全くとまではいかないが、これまで見聞きしてきたような未知の感覚に翻弄されるとか爆発的な解放感を味わうとかが自分には一切訪れなかった。
 鳥束が悪いのではない。鳥束はそりゃあ一生懸命僕を可愛がってくれた。
 ネットでの比較的真面目な解析から怪しい雑誌の眉唾情報までとにかく事前に学習しまくった。その情熱普段の勉強に生かせよってあきれ返るほど熱心に知識を仕入れたのは、どうすれば僕を喜ばせる事が出来るかを一心に考えての事だ。
 あんまり頑張りすぎて身も心もへとへとになり、気を失うようにして眠りに落ちてしまう程。それほど、僕を最優先で事に及んだ。
 だから余計、ひどい失望感に見舞われた。
 鳥束が一生懸命してくれても、自分の身体にほとんど響かない。その事に僕は愕然となった。

 自分は一生、みんなみたいに体験出来ないのだ。

 こんなに踏み込まなければよかった。
 家族以外に特別な存在なんて望むべきじゃなかった、作るべきじゃなかった。
 僕はもちろん、鳥束もさぞ苦しむ事だろう。
 今からでも遅くない、いやもう充分手遅れだが超能力者ならば可能なはずだ。僕に関する記憶をきれいに消して、距離を置くべきだな。
 ああ、くそ…泣きたい。
 心の中にもやもや渦巻くそれが泣いてしまいたい気持ちだと認めた途端、目の奥がひどく痛んだ。

 瞬きを繰り返して必死に追い払っていると、鳥束の起きる気配がした。ぎくりと全身が熱く脈打つ。
 そんな僕の動揺に気付くわけもなく、鳥束は眠たげにうっすら目を開け僕を見てきた。
 隣に僕がいるとわかった途端、それそれは幸せそうに微笑んだ。
 こいつのこんな顔、はじめてだ。胸が痛いほど熱くなった。
 大切なものを扱う手付きで抱きしめられ、鳥束の思考がたっぷりと沁み込んでくる。
 身体、つらくないですか?
 眠れないんですか?
 平気だ。身体は全然何ともない、平気だ。
 そう込めて小さく首を振る。求められる事や、こうして気遣われ労わられる事に心がとても震える。心はちゃんとこうして受け取れるのにな。
 良かったというように鳥束の笑みがますます広がる。
 斉木さんを抱いた。
 抱きしめられるって幸せだ。
 精神的にも充足して、実際身体にも色々変化が訪れている。
 この、ハグは僕も嫌いじゃない。

 じゃあ、鳥束にも返そうか。
 抱き合うと幸せナントカが分泌されて身体がリラックスするとかなんとか。
 僕の…お互いの最後の思い出に、せめて、一つだけでも。
 ああ…抱きしめ合うってのも、気持ち良いものだな。
 ぎゅうっと人肌を感じ、ますます幸福感に包まれる鳥束。
 その気持ちが僕の中に染み渡った時、何故だか涙がどっと溢れた。
 ただただ、幸せだった。
 僕の行動で鳥束が幸福感に包まれた、その事実が、僕に幸いをもたらす。
 堪えたが嗚咽が漏れた。

「ど、どうしたんすかっ!?」
 甘ったるく抱きしめ合ってたのに突如泣き出したんだ、そりゃ誰でもうろたえるよな。
 鳥束は飛び起き、心配のあまりおっかない顔になって僕を正面に見据えた。
「さいきさんっ!?」
 やっぱり無理をさせたか、どこか痛むのか、つらいんだ、つらい思いをさせてしまった!
 混乱する鳥束に違うのだという事を説明したかったが、言葉は出ないし思考もぐちゃぐちゃ。
 僕はひたすら幸せな気持ちで泣き続けた。
 とにかくしようもなく涙があふれてくるんだ。
「ひっ……うぐっ」
 しかも声も抑えられない。小さい子供みたいだ。
 いや、小さな頃だってこんな泣き方、した事ない。こんなみっともないとこ、親にだって見せた事ないのに。
 鳥束の前だと、自分でも知らなかった自分がしようもなくあふれてくる。
「どうしたの斉木さん、ああ斉木さん、大丈夫ですか!?」
 鳥束はおろおろしながら、一生懸命僕の肩や腕をさすって宥め続けた。
 こんな無様なとこ見られたくない。鳥束だって、不細工なもの見たくないだろ。そう思って僕は腕で顔を隠していた。でも頭の中では、さっきみたいに抱きしめ合いたいって欲求が強く強く渦巻いていた。
 僕は懸命に息を整え、思考を落ち着け、そう伝えようとした。
 でもまだ、まだまだ涙は止まりそうにない。
 だから仕方なく腕を伸ばして抱き着き、抱き返すよう鳥束を促す。
「え、こ、こう……?」
 始めは恐る恐る、それからぎゅうっと、鳥束に包まれる。
 ますます幸せが押し寄せた。

 ああ、気持ちいい……きもちいい――精神的な絶頂に見舞われ、僕はほんの一瞬、意識を飛ばした。



「あっ斉木さん!?」
 目を開けると心配そうな鳥束の顔がすぐそこにあった。
 意識が戻った事で大喜びして、良かったよかったと涙声で抱きしめてきた。
 僕は抱き返した。
「……とりつか」
 お互いの腕で相手を包むのって、こんなに気持ち良いものなんだな。

 ベッドの上に座り、鳥束の胸にもたれるようにして抱きしめる。
「大丈夫っスよさいきさん、ほら、ここにいますからね。オレちゃんとここにいますから」
 背中をさすり、ゆらりゆらりと揺れて、鳥束は一生懸命あやしてくれた。
 僕は何度も頷いた。もうさっきみたいに、むやみに涙があふれる事態にはならなかったが、油断するとほろりときそうだった。幸せはまだ続いていた。
 だって、鳥束に包まれている。

 この次もきっと最中は何も感じないかもしれない。でも、そのあとこうして抱き合って幸福に包まれるなら、決して無意味じゃない。
 僕はみんなみたいに出来ないとしても、みんなが感じる幸せを「幸せだ」と受け取ることは出来る。
 それが、たまらなく嬉しい。
 それを知る事が出来ただけでも、セックスした甲斐があった。

 鳥束を抱きしめたままふと見やったそこに、静かに時を刻む時計があった。
 もうすぐ七時か――時刻を確認するとたちまち空腹に見舞われた。
 寺生まれほどじゃないが、僕も十六年間規則正しい生活を送っている。朝に晩に、三度三度、きちんと計ったように腹が減る。生きているのだから当然だ。
 が、今この雰囲気で腹の虫が鳴るのは勘弁願いたい。堪えようもない食欲に何とか抗えないかと頭を巡らせていると、ひと足先に鳥束の腹が空腹を訴えてぐうと鳴った。
 たちまち、抱きしめた身体が面白いほど熱を発した。きっと顔面なんてゆでだこみたいに真っ赤だろう。
 鳥束はしどろもどろになって言い訳を始めた。謝り始めた。
 せっかくの空気をぶち壊した事に嘆き悲しんでいた。
 いい。それでこそお前だ。僕も同じなんだしおあいこだ。
「さ、斉木さんも腹減ってるっスね?」
 ああ、昨夜かなり運動したしな。
『特にお前は』
「あ、そ、うん、ええ……そっすね」
 別の意味で、身体がほてる。

 しんと静まり返った部屋で、静かに時が流れていく。
「斉木さん……好きです」
 僕もだ。
 が、その前にお互いの胃袋をなんとかしないか。
 甘ったるい話は食後にたっぷり付き合ってやるから、まずは腹を落ち着かせよう。

 頬っぺたにちゅっと唇の先が触れてきた。
「えへ…斉木さん好き」
 わかったって。
 鳥束はくすぐったそうに笑うと腕をほどいた。
 え、あらためて顔を合わせるって、なんか恥ずかしいな。
 お互いもじもじしながら、ちらちら目線を送って、愛想笑いをしてみたり。
 しょうがないだろ、あんな大泣きした後にすぐには冷静になれない。
 あと、離れたのが結構堪える。さっきまでくっついてぬくぬくしてたから、すーすーして寒い。
 おかしいな。僕が、この僕が。
 こんな寒さを味わうなんて初めてかもしれない。
 戸惑っていると、鳥束がおもむろに抱き着いてきた。
「わーもうこんな時間ですもんね。そりゃ、腹も減るっスね」
 行為はナイスだがそのわざとらしい発音はいただけない。でも、本当にナイスだ。
 いやそうでもないか、腹が減ったって言うんならそれへ向けて行動するべきなのに。
「うん……あの、秒針がひと回りするまででいいですから、どうかもう少しこのまま」
 少し潤んだ声。恥ずかしいのもあるが、離れがたい気持ちが部屋を満たさんばかりに溢れている。
 やれやれしょうがないな、ひと回りする間だけだぞ――なんてずるいな僕は。自分だって腹が減ってるのに鳥束に腹の虫ごまかしてもらって、素直にハグしたいって言えないのも押し付けてるのに。
 こんな僕だというのに、鳥束は大事に腕に閉じ込めてくれた。
 僕はそうっと抱き返し、じんわり巡る秒針に身を任せた。

 ひと回りするまでなんて言わず、どうか、鳥束。

 

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