一回言ってみたかった

 

 

 

 

 

 大学進学を機に、斉木さんと暮らすようになってはや数ヶ月。
 新しいことって何でもそうだけど、暮らし始めはしばらくちょっとばたついた。慣れていたらぱぱっとこなせる簡単な準備とか片付けとかに都度つまずいて、もたもたと頼りなかった。
 今まで違う環境で暮らしてきた人間二人が一つ屋根の下で同じ生活を送るのだから、戸惑ったりもたついたりするのは当然だ。
 その度に「どうしましょ」と話し合ってすり合わせて、これは交代でしよう、これは二人でやろうと、一つひとつ解決していった。
 ここだけの話、実は内心こそっと斉木さんのこと心配してたんだよね。オレはご存じのように寺生まれなんでひと通りの家事はこなせる…炊事洗濯どんとこいだ…し生活力はまあある方だけど、斉木さんはどうだろうなーって、心配だった。
 まあ余計なお世話、杞憂だったけどね。超能力使ってだけど、大抵の事はそつなくこなした。むしろオレより目が行き届いてるかも。くう、やっぱり超能力者羨ましい!
 斉木さんがそれでどんだけ苦労してきたか、実際どんな災難に見舞われるか、大なり小なりこの目で見てきてわかってはいるけれどもそれでも、羨ましいと思ってしまうのは止められない。
 だから、オレは一生懸命感謝の言葉を口にする。
 斉木さんがいて助かる、助けられてる、ありがとうって、些細な事でも絶対もらさず伝えるようにした。
 始めの頃は困惑して居心地悪そうにしてたけど、何度も繰り返す内にゆっくり浸透していって、やがてオレのが移って、お互いちょっとの事でも感謝しあうようになっていった。
 ある時、言われるのはやっぱり慣れないが、言うのって結構気分いいな、ってちょっと笑うのを見て、ああ、二人で暮らすってこういうものでもあるんだなってしみじみしちゃった。

 同棲三ヶ月記念で、オレは更なる感謝を伝えた。
 腕を振るって食卓は斉木さんの好物尽くし。もちろんスイーツも欠かさないよ、あちこち駆けずり回って取り揃えた色んなコーヒーゼリーを山と積んで盛大に祝った。
 その晩はいやー、燃えた燃えた。斉木さんのお返しがね、これまた熱烈でさ。渡した以上に返してもらったって感じ。

 そんなこんなでおおむね良好に二人での生活を送れている。
 引っ越しとほぼ同時に始めたオレのバイトの方もまあそれなりに順調で、自分で言うのもなんだけど割と順応性高いんだなって、物覚えはそんなに悪い方じゃないんだなって感心したり。
 バイト仲間ともほどほどに馴染めて、そこもほっとしてる。あと、スイーツ扱ってるからそれ買いに沢山の可愛い女の子と出会えるのよ、これは嬉しいねえ。
 でもそれは二番目に嬉しい事で、一番目とは大きく離れてるんだけどね。
 一番目はもちろん…ぐふふ。
 近いからって理由で選んだものだけど、斉木さんがよく買いに来てくれるしそれだけたくさん顔を合わせる、これが一番嬉しいこと。ここにして良かったって思う一番の理由。

 バイトが終わって、玄関先でちょっとくたびれた「ただいま」を投げかけると、典型的な1LDKの奥から「おかえり」と返ってくる。
 にこやかな出迎えも、お帰りのキスもなく、部屋に入っても斉木さんは読みかけの小説から目を上げる事なくただぞんざいに「おかえり」を繰り返すだけ。
 でも、テーブルには夕飯が揃ってるし、冷蔵庫にはオレのバイト先で買ったケーキが冷えてるし、あとはオレが食卓に着けばいい。完璧な二人暮らしがそこにはあった。
 いつもはオレが料理担当だけど、バイトの日はこうして作って待っていてくれる。いつもより一時間遅い夕食を、一緒に取る為に。
 もう見慣れた光景だけど、何度見たってやっぱり胸に迫るものがある。
 一度目はそりゃあ感激した。バイト初日の朝、今日からバイトなんで帰りは何時になりますって伝えた時、じゃあ夕飯は僕が作っておくって…言われた時、そこからもう感情おかしくなっちゃって、面白いくらいその日はふわふわしっぱなしだった。
 何度も、今のこれは夢じゃなかろうか、夢を見ているんじゃないだろうか、あるいは朝のあれは自分の妄想だったりしないかとか、おかしいくらい頭の中しっちゃかめっちゃかで、バイト初日のてんやわんやで更に脳みそひっくり返っちゃってぐったり疲れ切って帰ったら、本当に食卓に夕飯が並んでいた。簡単なものだぞって謙遜する斉木さんの照れ隠しの仏頂面見た途端、本格的に涙腺ぶっ壊れた。
 山で遭難して二週間ぶりにまともな飯にありついた人よろしく、この世全てに感謝しながら口に運んだ。
 心底呆れられたけど、美味い美味い、毎日だって食えるって繰り返してたら、しょうがない奴だって笑われた。オレも笑った。幸せだった。
 あれからもう何度も同じ場面に遭遇して、すっかりおなじみの光景になったけど、いつだってこの食卓はオレの胸をあたためてくれる。
 それで感極まって見入っていたら、早く手を洗ってうがいしてこいと、ギロっと睨まれた。
 本当に空腹の人の、苛々した目付きだった。
「うふっ……はいっス」
 申し訳ないと思いつつ笑っちゃって、睨まれて、オレは洗面所に駆けた。


 夕飯後、片付けも済んで二人でのんびりテレビを見る。
 といってもお互い半々くらい。テレビは賑やかしみたいなもので、オレはファッション雑誌を、斉木さんはスイーツ情報誌をめくっていた。
 ちなみに今夜の夕飯は大根カレーと大根の煮物、あと大根油揚げの味噌汁。食卓が大根尽くしなのは、先日実家からえらい立派な大根がこれでもかと送られてきたからだ。二人でせっせと消費中だ。カレーに大根て結構合うものだね。ただでさえカレーは白ご飯が進むのに、更に一杯詰め込んだ。
 その上、今日はオレのバイトの日つまり、斉木さんがオレのバイト先のケーキを買ったので、食後のデザート…アップルパイ…もしっかりあって、別腹もどこもかしこもぎゅう詰め。
 そのせいで、いつもなら夕飯後は風呂タイムなのだが腹が苦しすぎてすぐには行けそうになかった。という事でちょっと落ち着くまで、こうして思い思いに過ごしているというわけだ。
 
 ぺら、ぺらっと雑誌をめくっていた中ほどで、心くすぐる特集が載っていた。オレが以前からいいなと思っているとあるブランドの季節限定販売ってのが来月から始まるとの事で、商品が見開きにびっしり並んでいる。
「あーいいなこれ、このシャツ」
 思うと同時に口からこぼれていた。
 言葉にするだけじゃ収まらなかったので、雑誌を向けて斉木さんにも見てもらう。各々の前に置いたコップを一旦脇に寄せて、ずいっと雑誌を差し出した。
「ねー斉木さん、これ、よくないっスか?」
 これとか、これとか。
 一つ二つ指差して同意を求めた。
 その頃斉木さんの方も、この時期ならではのフルーツを使ったスイーツ特集ってなページに釘付けだったので、やや遅れて目を向けてきた。
 オレの指差すのをちらっと見て、オレの顔をちらっと見て、ふうん。
 思った通りあまり芳しい反応ではなかったが、まあいつもの事だしと切り替え自分に雑誌を戻して、オレはまた指をくわえる作業に戻った。
 はあ、やっぱりいいな。
 すると、斉木さんは自分の雑誌に目を落としたまま言ってきた。
『買えばいいじゃないか』
「ああ、ええうーん、そうしたいんですけど、ちょっとね、お高めなんスよ」
 だからこう、見るだけっス
 へへへと苦笑いで飲み込む。
 以前に思い切って一着買った事がある。いち高校生が気軽に買えるようなものじゃなかったが、どうしても欲しくてたまらず、それまでにコツコツ集めたお宝本を泣く泣く手放し足しにした。
 値段だけのことはあるしっかりした縫製で、手触りがよく着心地も抜群、さすがと惚れ惚れしたものだ。今でも大事に着ている。
 はあ、溜息出るなあ。
 その時であった。

 ――人生で一度は言ってみたいセリフ!

 目は雑誌に未練たっぷりだったが、耳が、テレビからのそんな音声を拾う。
 一度は言ってみたいセリフとかどんなもんだと顔を上げた。
 画面にはでかでかとテロップが出ており、ランキングの下位から順に現れる「人生で一度は言ってみたいセリフ」に「なるほどー」「あーわかります」と出演者たちがコメントしていた。
 へえー、人生で一度は言ってみたいセリフねえ。
 オレは雑誌をめくる手を止め、しばし見入った。気付くと斉木さんも同じようにテレビに顔を向けていたので、見ながら一緒に気楽に笑った。
 出てくるセリフは、日常ではとても使う場面がなさそうなものばかり。
「てか映画やアニメであるあるのセリフっスね」
『そうだな。現実で使ったら翌日から白い目で見られヒソヒソされた挙句存在抹消される事間違いなしだ』
「いやそりゃさすがに大げさでしょー、ノリで許してもらえますよ」
 もう、斉木さんてばきついんだから。
「斉木さんは何かあります? オレはあれっスね、やってみたい!」
 指したのは「よいではないかよいではないか!」って帯グルグルーってほどくやつ。いわゆるお代官様ごっこね。
 オレらしいでしょって笑いを取りにいったつもりなんだけど、ゴミ虫見る目向けられた。くう…まあちょっと予想はしてたけど。あとその目もけっこうくるんだよね。
『お前なんかがやった日にゃ、その日の内に学校中に広まりさらには町内にも知れ渡って、危険人物とみなされたお前はここで暮らす事が困難になり引っ越しせざるを得なくなり――はっ、という事は僕にもとばっちりがくるな。早々に同棲を解消するべきか?』
「ちょちょちょちょっともー! どこまで話飛躍するんスか!」
『元気で暮らせよ鳥束』
「斉木さーん!?」
『冗談だ、一回言ってみたかったんだ』
「なにーもうこの、上手い事言って、……やだー!?」
 オレは全力で斉木さんにしがみついた。同棲解消だなんて冗談じゃない。てかその冗談悪趣味だよ本当にもう!
 怒ったり悲しんだりするオレを宥めるように、斉木さんがぽんぽんと背中をたたく、
 ぐ、そんなんでごまかされませんからね!…って言って簡単にほだされちゃうんだけど。
 雑誌八割テレビ二割オレゼロの斉木さんに背中とんとんされるだけで、あ〜癒されるう。
 斉木さんは優しいんだ、雑な扱いに見えるのは単なる照れ隠しなの、ヘヘヘ羨ましいだろ。
 オレの恋人世界一ぃ!
 とんとんのせいで段々さっきの大根カレーがどうかしてきそうだけど気のせい、斉木さんは優しい斉木さんは優しい。
 あ、げっぷでそう。
『ふざけてないで、そろそろ風呂いくぞ』
「はいっス」
 合図に、ささっと身体を起こす。
 この部屋の風呂は、一人で入る分には不満はないが野郎二人ではやはり窮屈だ。けれど費用の節約の為なるべく一緒に入るようにしている。ぎゅう詰め状態になるけど、一緒にくっついてお風呂入って、一日の疲れを取るのって、ものすごく贅沢。むしろ狭いの万歳。

 そうして夜は更けていった。


 翌日はバイトがないので、いつも通りの時間に夕飯を済ませた。
 ごちそうさまでした、おそまつさまでした。
 またしても大根尽くしの献立だったけど、斉木さんはどの料理もまんべんなく箸をつけてくれて、取り分けた分は綺麗に平らげてくれた。これも、考えてみりゃ贅沢だ。
 自分でもおもしろくなるくらい、あれもこれもに感謝している。
 きっかけはきっとあの、屋上から斉木さんと二人で帰った日だろうな。
 がらっと変わったようで実は徐々に変化していったんだろうけど、思い出すのはあの日に見た色。張り巡らされた電線の向こうに広がる褪せた青色が、やけにくっきり胸に残っている。あと、隣で揺れていた濃桃色も。

 季節は移って、うんざりする暑さもすっかり遠のいた今日この頃、湯船に浸かるのもだいぶ楽になってきた。
 真夏にはきっと大半の人間はシャワーで汗を流して終わりだろうけど、オレは冬でも夏でも湯船に浸かる派だ。もうずっと小さい頃からの習慣。億劫だし汗ダラダラだけど、よく眠れるからおすすめ。
 あと美肌効果もあるんだよね。
「て事を女の子たちに言ったら、翌日からなんとなく遠巻きにされたのはいい思い出っス……」
 風呂上り、そんな事を喋りながらはははと乾いた笑いをもらすと、斉木さんから乾いた視線をもらいました。
「や、違うんスよあのね、物知りな男子はモテると思ってたんス」
『やっぱり昨日言ったのは間違いないじゃないか』
「あっぐ……!」
 反論のしようがない…オレ、同棲解消のピンチかも!
『まあそれはないがな』
「え、ほんと?」
『お前みたいな危険人物、誰かが監視してないとな。関わった以上は最後まで責任持って制御役をしていこう』
「……うんもー、遠回しなんだからー。もっと素直に「好き」って言っていいんですよ」
『やめろくっついてくるな、暑い、鬱陶しい』
 きつい顔で身体を揺するのも気にせず、オレはぎゅっと抱きしめた。
 そこで初めて、斉木さんの読んでるのがいつもみたいなスイーツ情報誌じゃない事に気付いた。

「え、斉木さんもバイトを?」
 そう、斉木さんが熱心に見ていたのはバイト情報誌だった。道理で、いつもと比べてひと回り小さくて薄いと思ってたんだ。
 すると斉木さんは一つため息を吐いた。思ったような職種が見つからないな、っていう時のそれ。つぶさに探してるけど条件に合うものが中々見つからず、くたびれたなって時に出る追い払いのため息。
『ああ。お前がバイト行ってる時間、僕もちょっと』
「へえー。そりゃまたどうして」
 雑誌を逆さから覗き込み、斉木さんへと目を向ける。
『やりたい事が出来てな』

 斉木さんのやりたいこと。
 昨日オレと一緒に見たテレビでの「ここからここまで全部下さい」が心に強く残り、それを実行すべくバイト探しを始めたのだそうな。
 そこでぴんとくるものがあった。スイーツにベタ惚れの斉木さんがしたい「ここからここまで」といったら間違いなくアレだ。
 オレは軽く想像してみた。

 ケーキ屋さんで、ショーケースの端から端まで指差して注文する斉木さん…やだ、可愛くて胸とあそこがどうかなっちゃいそう。

 つい癖でちょっと下の方をぎゅっと握ったら、すうっと斉木さんの左手がオレの頭に伸びてきた。
 待って頭吹っ飛ばすのナシ!
 はひはひ乱れる呼吸を散らかしながら、オレは迫る命の危機に必死に後ずさった。
『よいではないかよいではないか』
「ち、ちがっ……それ今言うの違うっ!」
『騒ぐな近所迷惑だ』
「うぐっ…じゃじゃあ斉木さんも収めて下さいよ」
『来世でも一緒になってやるから、安心して逝け』
「えっぅぐ、ぅえあの……ああもう頭わかんない……!」
 呼吸も涙も鼻水も思考も、全部が取っ散らかって混ぜこぜになる。

 説得も空しく軽い締め技食らって目を白黒させていると、いつの間にか攻撃はキスにすり替わっていた。
「……!?」
 まさかこんな展開、現実じゃないだろ、死の間際に見るオレの願望か…なんでもいいやっ、それならそれでいい思いしとかなきゃ損だ。
 のしかかる斉木さんを組み敷いてたっぷりと味わっていると、さっきまでオレを締め上げていた腕が甘ったるく絡み付いてきた。
 斉木さんいる、いるんだ。
「ふふ……斉木さん、明日は休み…今夜は寝かせませんよ」
『一回言ってみたかった?』
「うっもう……それはもういいから」
 笑いながら頬を撫でる。
 ノリ悪い奴、と口の先で呟いて、斉木さんも笑った。そしてまたキスをしてくる。
 互いに相手を抱き込んで、飽きずに唇を吸い合った。
 ああ、いるなあ。
 ああ、いるだろ。
 胸の内で繰り返す言葉に斉木さんが応える。思わず顔が歪んだ。いるんだ。当たり前の事だけど、オレには涙が出るほどありがたいんだよ。



 そんなやり取りした次の日、二人して休みで、特に出かける予定も組んでいなかったのでおうちデート気分でのんびり過ごそうと、二人して着古したよれよれの部屋着でなんとなくイチャイチャとじゃれていたところ、訪問者が。

「やあ楠雄、鳥束君も、元気そうでなにより」
 来訪者は他でもないお兄さん。
 対応に出たオレのすぐ後ろで、斉木さんが露骨に嫌そうな顔をする…だけど、手土産の洋菓子店の箱を目にした途端いくらか軟化した。ああ、多分きっとあれお高いケーキが入ってるんだろうな。視てわかったから、少し緩んだんだ。本当にかわいい、しょうもない人。
 とか和んでたら、そのロゴ、オレのバイト先のカフェの!?
「ああこれかい。楠雄は最近はここのケーキばっか食べてるようだからさ」
 他のはもう口に合わないんじゃないかと思って。
 ははっといつもの軽快な笑い声を、オレは血の気が引いた顔で見守る。
 この人、なんで知ってんだ?

「てことで上がらせてもらうね。ケーキは同じのが三つだよ、喧嘩しないようにと思って。てことで鳥束君、コーヒーお願いね。えーと、……そっちが楠雄でこっちが鳥束君か。じゃあ僕はここに座ったら問題ないよね」
 オレが案内する前にすすすっとリビングに進み、部屋を一巡見回すと、お兄さんは見事オレたちの定位置を見抜いてちょこんと座った。
 その前に渡された箱を受け取り、オレはぼう然とするばかり。見ただけで座る位置がわかるとかなんなんだ?
 こえー…
「そうそう、今日来た理由は楠雄の勧誘なんだ」
『え?』
「は?」
「バイト、始めるつもりなんでしょ。だったら僕の研究を手伝ってほしいんだけどな」
 僕の研究を…のところで続きを察したようで、斉木さんの顔がとんでもなく歪んだ。えらく歪んだ。今まで見た事ないくらいの、そんなレベルの迷惑顔。
 というかちょっと待って、待って!
 あまりに色々知りすぎだろ、なんだよこの家盗聴器でも仕掛けられてるの?
「やだなあ鳥束君、僕がそんな事する人間に見える?」
 見えるも見えないも、弟負かすためにオレをさらって洗脳してけしかけた過去がある人間が、何か言ってるよ!
「あはは、そんな事もあったねそういえば、まあそれはそれとして、弟のことなら何でもわかるよ。だって僕は楠雄のお兄ちゃんだし」
 う、うーん?……そういうものなんか?
 全然納得いかない。
『大丈夫だ鳥束、盗聴器なんてものはない』
 そっスか、斉木さんが言うなら、まあ安心だな。
「ちぇー、僕信用ないなあ。まあいいや。そこに載ってるどこよりも時給は弾むよ」
 ぎりぎりとお兄さんを睨む斉木さんの顔が、その言葉で硬直する。
「時間もそっちの都合に合わせるし、おやつには最高級コーヒーゼリーをつけるからさ」
 そこまで聞いて、ああこりゃ決まりだなとつい笑いそうになった。
 我慢して我慢して抑え込んだけど、超能力者じゃなくたってこんなの簡単に見抜けるよな、まして斉木さんは心の声で筒抜けだから、そりゃもうおっかない顔で睨まれた。
 そんな顔しないでよ、コーヒーゼリーに弱い斉木さんにも責任があるんだから。
 なんて言葉を口に出すほど命知らずではないから、心の中で思ってしまったのを「今のナシ、今のナシ!」と必死に祈って怒りが静まるのを待った。
 数秒、オレへの殺意を飲み込むまでの数秒の沈黙が、本当に恐ろしかった。
 それから斉木さんはやれやれとため息をこぼし、渋々ながら曜日と時間帯を告げた。
「全然構わないよ、じゃあ決まりだね。いつから来られる?」
『まだお前のとこに行くって言ってない』
「ええー、もう決定も同然でしょ。それに、……ちょっとごめんね鳥束君」
 と、にこやかにオレを見た後、着けていたテレパスキャンセラーをすっと外した。
 たちまちがたんと椅子を蹴って立ち上がる斉木さん。その顔はひどく焦っていて、怒っていて、でもそんなに怖いって感じでもない。なんと言おうか、ちょっと見た事ない顔。そう家族とか、それら限定された者にだけ見せる気安い表情。
 えーなんだろう、何言ったんだ気になる!

 

 

 


 

 

 

「はい、約束のバイト代。今日までお疲れ様」
 名前と金額の書かれた茶封筒が差し出される。
 受け取ろうとして、最初に提示されたより多く書かれている事に気付き手が止まる。透視で確かめても、間違いなく多い。
 コイツが間違える訳がないから、これはあえての増額だ。なんのつもりかと困惑の眼差しを向ける。
「ん? ああ、頑張ってくれたからそのオマケだよ」
 頑張った分と言われても素直に受け取れない。この二週間、自分は言われた事しかしていない。そりゃ不真面目に臨んだつもりはないがここまで追加される覚えも一切ないから、受け取る事に躊躇してしまう。
「えーそんな事ないよ。楠雄のお陰で大げさでなく一年分は短縮できたからね。これでも足りないくらいだよ」
 もっと足した方がいいかと計算機を叩き始めたので、それはいいと即座にやめさせる。
「そう? 本当に感謝してるからね」
『……気持ち悪いんですけど』
「もー楠雄は相変わらずひどいなあ。少しはお兄ちゃんらしいことさせてよ。ほら、素直に受け取って」
 手を取り、そこに封筒を押し付けてきた。そこまでされて突っ返すのもおかしいだろう、今度は受け取る事にした。
『……じゃあ、遠慮なく』
「そうそう、若いのに遠慮なんてしなくていいんだよ」
 僕は封筒にじっと視線を注いだ。薄い紙はすぐに透けて、中に詰まった高額紙幣が視えてくる。
「………」

 兄、らしいこと。
 自分たちは世間一般の兄弟とはかけ離れている。何が違うって何もかも違うだろう。でも、実のところはそんなに変わりなかったりするのだろうか。
「あーあ、明日からは楠雄抜きかあ。一度楠雄の協力知っちゃうと、後が大変だなあ」
 あれもこれも自分でやらなきゃいけないんだよな、とブツブツぼやくものだから、今までは一人でやってきてただろ、元に戻るだけじゃないか、と心の中で思う。
 でも気持ちはわからないでもない。
 それまでは一人でも平気でやってこれたのに、二人の気安さ諸々を一度でも知ってしまうと以前のようには中々戻れない。
 そうたとえば自分とアイツのように――。

『なあ――』
「もっかい楠Ω作ろっかな」
 たまになら手伝ってやらんこともないぞ、と言おうとしていた。
 言わなくて本当によかった。
「ん、なに楠雄?……どしたの、なんかすーごく鬼の形相だけど」
 奴のこめかみに汗がひとすじたらりと伝う。
『僕ならここを二週間前の状態に戻すのも容易だぞ』
「やめて、マジでヤメテ」
『なんなら一年前の状態にしてやろうか?』
「作らないって。冗談通じないんだから」
 お前の冗談はよくわからないし、全然おもしろくないし、少なくとも今のは九割方本気だっただろうが。

「でもまあこれで、楠雄の希望が叶うね」
『……うるさいな、いちいち言わなくていいんだよ』
「またすぐそうやって怖い顔するし……いや、緊張してるのかな?」
『だからいちいち言い当てるなって』
「あ、当たりだった? はは、楠雄でも緊張する事あるん――わーごめんごめん、一年戻しは勘弁ね!」

 一年戻しは勘弁してやったが、奴が使っているメインのマシンを、辛うじて修復出来るラインまでポンコツにしてやった。
 半泣きで一生懸命キーボードを叩いている奴を尻目に、ラボを後にする。
 建物を出て、諸々の交通機関を乗り継いで帰宅…ではなく、瞬間移動で二人の家に帰る。なので、鳥束と同じバイト時間と言っても僕の方が早い帰宅になる。
 広く眩しい真っ白なラボから、暗く静まり返った小ぢんまりとした部屋へ。落差などものともしない身で、たとえ南国の楽園から極北の地へ飛ぼうとびくともしない頑丈さを備えているが、心情はまた別だ。
 以前ならば実家の自分の部屋がそうで、今は、この標準的な1LDKが、どこより居心地がいい場所になっている。ほっとする。ああ帰ってきたと、気の抜けたため息が出る。
 半ば無意識に息を吐き出し、そんな自分に笑って、僕は手早く荷物の整理をする。それから夕飯の支度に取り掛かる。
 この二週間、作り置きの簡単な夕餉しか出せなかった。それでもちゃんと感謝して食べてくれた。その上、味が染みててうまいだの、一緒に食べられるのが何より幸せだの…心の中で思ってる事と同じことを口にした。
 それに自分は申し訳なさから素っ気なくしたり怒ったり、まあなんだ、あんまりよろしくない態度で返してたわけだが、バイトは今日で終わりだから来週からはまたちゃんとした夕飯を作ってやるし、明後日の休日もあるし、それでチャラにしてもらおう。
 明後日、週末、二人の休み。
 この日は前々から二人で出かける約束をしていた。
 映画を見る予定もあるので、前売り券もしっかり購入済みだ。
 その後は人気のカフェでスイーツセットを心行くまで注文する。これは、鳥束の秘密の計画。当日お楽しみがあるので期待してて下さいとアイツは笑った。きっと驚くぞって笑いと、こうやって言う端から伝わってるからもうわかっちゃってるよねという笑いとが含まれていた。
 ああ、わかっちゃっている。僕相手に秘密も何もないもので、アイツもそれは承知の上だが、僕だっていつまでもつまらないガキじゃないから、全部見えていたとしても乗っかる事にした。
 期待して下さいとの言葉に、楽しみにしてると、少しは素直に見える顔で応えた。

 楽しみにするのはお前もだぞ。
 個人的な重要書類とかの私物を入れておく為の引き出しに、バイト代の入った封筒をしまう。すとんと閉めたところで何だか息苦しく感じ、一体どれだけ息を止めていたのかと自分に呆れる。
 ――楠雄でも緊張することあるんだ
 あるよ、うるさいな。
 耳にこびりついた奴の言葉が蘇って、つい舌打ちする。と、引き出しの金具にかけていた手が目に入った。
「!…」
 空助への、八つ当たりめいた怒りで薄く平坦になりかけた気持ちが急速に舞い戻って、また僕を呼吸困難に追いやった。
 薬指にはまった銀色に引き込まれそうになった時、そうだ夕飯の支度と思い出し急いでキッチンに向かう。

 

 

「映画面白かったスね! 前半のんびり展開だったから、ちょっと寝かけちゃいましたけど――」
『いやマジで寝てたぞお前。いびきうるさかったし』
「ぇうっそ、え……マジで?」
 さっと青ざめる様がおかしくて、僕は顔を背けて肩を揺すった。
「あーもー斉木さんはー、またそうやってすぐいじわるする〜」
 僕の笑い方で嘘だと見抜いた鳥束は、少し頬を膨らませて斜めに見やってきた。
『すまん、後半は、中々熱かったよな』
「ええそう、前半が嘘のようにテンポ良くて、最後ちょっと泣けたっス」
『僕も号泣した』
「えっ」
『心の中で』
「ほんとにい?」
『本当だ。ああいう王道展開は何度見てもぐっとくるな』
「ああ、ええ、それはわかります」
 映画館を後にした僕らは、カフェへの道すがら口々に映画の感想を述べあった。
 僕への「お楽しみ」がにじみ出る奴の弾んだ足取りは素直に微笑ましく、僕の心を和ませた。
 と、意気揚々の様だった歩調だが、ふっと鈍った。
「あーの、斉木さん……このあとどこ行くかもうおわかりだとは思うんスけど、えー……オレの先に行っちゃっていいっスか?」

 斉木さんのバイト代
 きっと今日の為のだ
 ケーキ屋で「ここからここまで」を
 今日の為に
 今日で半年
 正確には一昨日だけど
 盛大に祝いたいんだ
 半年記念!

 口から紡がれるものより流れ込んでくる心の声の方がはるかに多く、僕を圧倒した。特に大きかったのが今日のこの外出が何の為かを謳う声。奴の脳内でもそうだし、僕にも伝播して一瞬くらくらっとした。
 やれやれ、お互いたかだか半年に浮かれて、本当にしようもないな。
 ふうとひと息ついてから伝える。
『お前のから楽しみたい』
「っ……そっスか」
 鳥束は柔らかく微笑むと、また軽やかに歩き出した。僕も遅れずついていく。

 鳥束は今、嬉しさにはしゃいでいるし緊張して不安になって変な汗が滲んでいるしで、楽しいと怖いとを行ったり来たりしている。
 白状すると僕の方も似たようなもので、喜んでもらえるだろうか、いや絶対感激して泣くはずだ、と、右へ左へ感情が揺れていた。
 相手が何を望んでいるか全て手に取るごとくわかる超能力者だとて、緊張するし不安にもなる。
 だからそのせいで鳥束のお楽しみであるケーキが味わえないんじゃないかと心配だった。



 案の定、僕はふわふわの気分で帰路を辿っていた。
 理由は色々だ。
 そして鳥束もまた、僕とは別の理由でふわふわ覚束ない足取りで隣を歩いていた。
 ふわふわのクラクラ、お互いアルコールは一滴も口にしていないのに酔っ払いの風情で、完全に麻痺していた。

 頭の中で反芻する。僕は間違いなく確実に「ここからここまで」をやった。やれた。計画通りやってのける事が出来た。出来た自分にあっぱれと言いたい。
 ただし鳥束が思い浮かべたようなものではない。
 はっきりしっかり店員に向かって「ここからここまで」を伝えたが、そこはケーキを扱う店ではなくアパレルショップ…いわゆるファッション性の高い服や靴やアクセサリーといったものを販売する場所で、普段の僕ならば絶対に近寄らない用のないところ。
 そんなお高い店に赴いて「ここからここまで」なんていう暴挙を働いたのはひとえに鳥束の為である…とか説明するまでもないな。くっそ恥ずかしい。くそっ。
 言う前も言った後も今もまだ頭の中がごちゃごちゃしていて全く鎮まらない。
 言って、買って、渡して、ひとまず肩の荷は下りたが珍しく緊張したせいか中々いつもの自分に戻れないでいた。
 鳥束の方も、まさか僕のアルバイトの目的が自分に向けてのものだなんてつゆほども思っていなかったので、ショップに入った瞬間から思考は焼き切れ未だに混乱中だ。

 雑誌に載っていた季節限定の商品が、実物として自分の目の前に並んでいる。
「え、まさか……え?」
 半信半疑の鳥束の前で、見事「ここからここまで」を果たした。
 いや、ねえ…うそでしょ――!
 声もなく叫んだのを最後に、鳥束の意識は遠く霞んでしまった。

「……はっ!」
 家に帰りカチャンと鍵を閉めたところで、鳥束はようやく我に返った。よかった、元に戻す方法は八通りほど思い浮かんだのだが、どれも少々穏やかでない手段なのでどうしようかと悩んでいたところだ。
「あ、ああ……すんません斉木さん」
 フリーズしてほぼ無意識でここまで歩いてきたわけだが、完全に意識が途切れていたわけではなく微かに残ってはいたと鳥束は謝ってきた。
『うん。起きたならいいんだ』
「これ……本当だったんスね」
 肩にかけていた大きな紙袋を下ろし、鳥束はそーっと中を覗き込んだ。
『こんな暗い場所じゃよくわからないだろ。部屋の明かりつけて、ちゃんと確認してみろ』
「はい……す」
 鳥束は両手に袋を持つと、しずしずとリビングに向かった。

 煌々と照る白色の下で、鳥束は一枚また一枚とシャツを取り出し並べていった。嬉しさに煌めいたかと思うと泣きそうに歪み、また喜びに染まってと、忙しなく移り変わる鳥束の表情を見ていたら喉の奥が変な風に鳴った。
「この為だったんスね……バイト」
 テーブルを挟んで、鳥束は座り僕は立って見守っていた。聞かれるまま素直に頷く。
 鳥束は並べたシャツの一枚を手に取った。そっとそっと撫でる手付きがなんだかおかしくてふっと息がもれた。
「だって、……いやだって斉木さん、いつもなんか小馬鹿にしてたじゃないっスか」
 うん、してた。
 それにも頷く。
 服にこんな何千も何万も、とてもじゃないが理解出来ないと正直今も思ってる。
「じゃあ――」
『でも、そういうのもたまには悪くないとお前が教えてくれた。それへ、お返しがしたかった』
「えぇ……うわっ?」
 念力で鳥束の左手を引っ張り寄せる。突然の引力に鳥束はテーブルをガタつかせて立ち上がった。
 僕からも片手を伸ばし、お互いの薬指に収まる指輪を並べる。
『これが……どんなに嬉しかったか』
 それを伝えるにはどうすればいいか。


 あの頃のお前はもうどうしようもなくなって命を断とうとまで思い詰めて、それに対して僕は何も出来なくて見ているしかなかった。いっそお前の中から僕の記憶を消そうか、そうしたらお前はもっと楽になるだろうか。そんな事まで考えた。
 お前が僕に執着するようになってから、僕もお前に引きずられる事が多くなった。お前といてもいなくても、お前の事を考える時間が多くなった。だから、記憶を消すのがどうしても出来なかった。
 苦しんでいるお前に何もしてやれなかった。
 お前が自分なりに決着をつけて、一緒に肩を並べて帰ってくれたこと…嬉しく思っている。
 お前と始められて、本当に嬉しかった。
 一緒にいられればそれで充分だけど、物や、言葉があるともっと嬉しいって事を、お前は教えてくれた。
 だから僕も同じようにしたかった。するべきだと思った。
 僕だって、お前の事を――


『もっとずっと前から伝えたいと思っていたが、中々勇気が出なくてこんなに遅くなった。すまん』
「……そんなの、いいんですよ」
「鳥束愛してる」
「ふんっ!……ん、ん?……んん?」
「……一回」
 一回言ってみたかったんだよ
 ああくそ、頭で思い浮かべた自分はもっと気楽にスマートに言えていたのに、なんだこのザマは。たかがひと言になんでこんなにのぼせてしまうんだ。
 そう考えるとうちの両親すごいな、こんな勇気が要ってこっぱずかしくなる事をよくも毎日口に出来るものだ。
 僕の赤面が移ったのか、鳥束も顔中真っ赤だ。
 やれやれ、一体全体この状況はなんだ。
 僕はスイーツで腹が一杯で、鳥束は僕の言葉で胸が一杯、お互いいっぱいいっぱいですぐには動けそうになかった。

 辺りの住人たちの、思い思いに耽る心の声が僕の周りで渦を巻く。けれど今の僕には鳥束の思考しか聞こえないし聞き取れない。
 鳥束の心の声はひどく途切れがちだ。真っ赤になると同時に思考の方ものぼせてしまったようで、熱心な感謝と心苦しい思いとが交錯していた。
 苦しさの方を、鳥束は吐露するべきか迷っていた。
 こんな事を言ったら気分を害するのではないか、軽蔑されてしまうのではないか、引かれたらどうしようだのなんだのぐずぐずと足踏みしている。
『お前も言えよ』
「……えっ」
『僕だってちゃんと伝えたんだから、お前もちゃんと伝えてこいよ』
「あの……でも」
『お前がちゃんと聞いてくれたように、僕もちゃんと聞いてやるから』
「!…はい」
 鳥束はぽつりぽつりと言葉を綴った。

 斉木さんからバイトするって聞かされた時、オレ、実は反対したかったんです
 だって、その…心配で
 斉木さんに変な虫が集ったらどうしよう、バイト先で嫌な目にあったらどうしよう、色々な事がばーっと頭に浮かんで、すごく心配になっちゃって
 オレはほら、斉木さんからしたらいつでも視えるから安心でしょ、でもオレはわかんないから……別に、斉木さんを信用してないわけじゃないっスよ、ただ、本当に、心配で……いやで
 だから、お兄さんとこ安心だって思いました
 なんか……いろいろごめんなさい

 余計な言葉は挟まず、静かに頷いて聞き届けた。
 この場合、何と返事すれば嘘臭くないだろうか。いくつか候補は浮かんでくるがどれも何だか白々しくて気に入らない。
 しょうがないので微笑を浮かべた。
 鳥束も似たような表情でそっと笑った。
 以前に比べて、こんな風に言葉でない会話もできるようになったように思う。

『僕がバイトを探し始めた翌日、アイツが突然来ただろ』
「ええ」
『その時、アイツにも似たような事を言われた』
「え?」
『お前に心配かけるなって言われたんだよ』
「ええっ?」
 あのお兄さんが!?
 鳥束の心の叫びに、そうあのアレが、と心で返す。


 ――それにやたらなとこでバイトなんてしたら、そこの人間に鳥束君嫉妬しちゃうかもだし。喜ばせたいんでしょ、だったら余計な心配かけないようにしなくちゃ
 まさかアレにそんな事を言われるなんて思ってもなかったから、柄にもなく動揺して椅子を蹴倒してしまった。
 もう少し冷静であったならそんな無様な姿をさらす事もなかったが、……いや無理か。昔からどうにもムキになってしまうのは、嫌いだからとかじゃなく、それが普通の在り方なのかもしれないな。
 ムキになって反発してつっかかって、向こうが嫌うならこっちも嫌いだ嫌いだ遠ざけてこじれにこじれて、もう戻れないんだなんて思っていたけどちょっとのきっかけであっさり元通りになったり。
 つまりよくある家族の様相だ。


 お兄さんにもそんな感情あるんだー……オレ実は密かに嫌われてんじゃないかって思ってたのにー
 鳥束はぽかんと口を開けたまま、じっと僕を見つめてきた。そして数秒後、何かに気付いてはっと息を飲んだ。
「ああだからあの時斉木さんお兄さんのこと睨んだんスね!」
 すとんと落ちるように納得がいった鳥束に、よくそんなの覚えてるなと苦々しく笑う。
『睨んだのは、他にも理由がある』
「えーなんすか気になる! 教えてくださいよ!」
 それまでお互いの間にあったテーブルをぐるりと回り込んで、鳥束は掴みかからんばかりに僕に迫った。
「ここまで言ったんだから、最後まで全部ゲロっちゃいましょうよ」
 何だよそれ、僕は別に犯罪者でもなんでもないぞ。ギロっと見上げるが一度勢いがついた鳥束には通用しそうになかった。
 わかったよ…やれやれ、ゲロってスッキリするか。

 ――鳥束君と同じ時間帯希望って、つまり家に一人がつまんないからだよね。じゃあ余計に、やたらなとこでバイトは避けないとね。ね、だから僕んとこおいでよ

 思った通り、鳥束は目を真ん丸にしてたまげていた。僕に、アイツに、色々と衝撃を受けている。
「……驚きっス!」
『べ、別にバイトやめろってわけじゃないぞ。お前をからかいに行くのも楽しいし』
「えへへーなになに、エプロン姿のオレに惚れ直しちゃうって?」
『うるさい!』
「いた、いたっ! もう、恥ずかしいからって蹴るのナシ!」
 脛への攻撃を両手で防ぎながら、鳥束は涙声で訴えた。
「も、やめ、おしまい! ね、座りましょ、一旦座りましょ! お茶入れてきますから」
『……うん』
 鳥束が慌ただしくキッチンに向かうのをしばし見送り、僕はどさっと腰を下ろした。
 なんだよくそ、こんなはずじゃなかったのに。
 とんだ半年記念だ。


 ずずっと啜った熱いお茶が、腹の底までじんわりあたためていく。それにつれて昂っていた気持ちもおさまって、ようやく僕は穏やかに隣へ視線を向ける事が出来た。
 目を見合わせ、鳥束はにっと笑う。
「……なんか、お兄さんに感謝っスね」
『あいつは引っかき回して楽しんでるだけなんだ。感謝なんてする必要ない』
「まあまあ、そんなにふくれないで下さいよ。それでもオレは感謝っス。こんなに嬉しい半年記念、迎えられましたし」
 またひと口、鳥束は湯飲みを傾けた。僕もなんとなくそれにならう。うん…日本茶はいいな。身体の芯から温まって、しようもなくほっとする。
「斉木さんと暮らすようになって、オレ、こんな嬉しい事はないってしょっちゅう思うようになりました」
 愛してます斉木さん
『……僕も』
「僕も、なんスか? 一回なんて言わずに、何度だって言って下さいよ」
 あ、睨んでごまかそうったって無駄っスよ、そんなんでへこたれるオレじゃないから!
 ……ほう、その覚悟がどれほどのものか、試させてもらおうか。
 薄笑いで見据えると、たちまち鳥束は震え上がって肝を冷やした。
 目に涙を溜め、それでも粘り強く返事を待ち続ける鳥束。
 やれやれ。
 僕だって、こんな物騒な半年記念は望んでないからな。
 でも、言うのか……よし、うん、言うぞ。言うべきだよな。わかってる、今、言う。
 破れかぶれになって鳥束の頭を引き寄せ耳元で囁く。
「愛してる」
「!…斉木さぁん!」
 嬉しさの詰まった声を喜ばしく思いながら、鳥束の肩に顔を埋める。
「あれ、斉木さん?……ちょ、顔熱い熱い、どんだけっスか!」
 うるさいな、ちょっとくらい我慢しろ。僕だって、恥ずかしいのと泣きたいのと我慢してるんだからな。

 呼吸まで震えがちになって、それら諸々を我慢していると鳥束に強く強く抱きしめられた。
 余計な事するなよ、ますます涙がこみ上げてくるじゃないか。
 こっちは唸りたい気分だというのに、鳥束は上機嫌で喋り始めた。
 今日の事を振り返り、僕に感謝を述べ、これからもよろしくお願いしますと丁寧に伝えてきた。
 いつもの軽薄な口調ではなく、かといってあんまり仰々しくもなく、じっくり心に染みる柔らかな響きで、僕を包み込んだ。
 やれやれ、もうどうにでもなれ。
 そんな気分で鳥束を抱き返す。

 耳の奥では色んな言葉が反響していた。
 鳥束のことば、アイツのことば、そして僕が一回きりにするはずだったことばそれらが、大きくなったり小さくなったりうねりながら心臓や手足といったあちこちを締め上げていく。
 恥ずかしい、ムカつく、時間巻き戻そうか、どこまで遡ろう。
 僕だっていつまでもつまらないガキじゃないから短絡的に事を運ぶなんてもうしなくなったが、だからって全然思わなくなったわけじゃない。今だって喉元まで出かかっている。
 こんな苦しい思いをするならいっそ…といった破れかぶれを、鳥束のことばが引き戻す。
 ――斉木さん、大好きです!
 僕もだよ。

 ああ、本当に最高の、幸せな一日だ。

 

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