斉木さんは今日も

 

 

 

 

 

 しまったと思った時にはもう遅かった。
「っ!…っが!」
 まず額にガーンと衝撃を受けた。
 それが後頭部に突き抜け折り返して鼻へと抜ける。
 ぶつけたおでこ、脳天、鼻も、どこもかしこも痛くって、オレは息をするのが精一杯の状態になった。
 オレは無様にも床にへたり込み、はひはひと呼吸を繰り返した。

 夕飯後の洗い物中、泡で滑ったマグカップを流し台から落としそうになり、大慌てでキャッチするものの無理な体勢のせいで倒れおでこをしたたかにぶつけたのだ。
 ひぃ…いってぇ!
 ものすげえいてえ!
 ぐっと堪えるがじわじわ涙が出てしまう。それほど痛かった。きっとたんこぶ出来てるなコレ。
 でも割れなくて良かった、落とさなかったぞ、斉木さんのカップ!
 オレは、両手にしっかと掴んだカップに目を向けた。
 とそこへ、物音かはたまたオレの心の声を聞き付けたのか、斉木さんがやってきた。
 がんがん痛むおでこをおして、オレは照れ隠しにカッコつけた。
「うふ…へへ、斉木さん、オレはもうここまでのようです……」
 斉木さんからしたら、両手泡だらけにして床に寝そべってる間抜け野郎にしか映らないだろうけど。
 案の定、やれやれって顔で頭を振られた。
 そりゃそうだよな、この状況じゃな。
 あらためて考えるとどうにも恥ずかしく、顔が一気に熱くなった。血が集まったせいで余計におでこが痛んだ。

 そんなこんなで動けないでいるオレの手から、ふわふわ〜っとカップがひとりでに離れて斉木さんの目の高さまで浮かんだ。オレはそれをただ呆然と見守り、少ししてハッと…ああ、サイコキネシス…と、初めて超能力見る人みたいな反応をしてしまった。
 どんだけ頭飛んじゃってるんだか。
 とにかく、いつまでもひっくり返ったままじゃ本当に格好がつかないから起き上がろうとした。いてて、ちょっと尻も打ってたか。
 立ち上がろうとどうにかもがいていると、見せてみろと斉木さんが覗き込んできた。近付いた顔と顔にちょっとドキっとしてしまう。
「いや、大した事ないっす……」
『血が出てるぞ、おでこ』
「えうっそ!?」
 痛いは痛いけど、まさかそこまでとは。確かに角っこにぶつけたけど、血が出るほどだったか。そう思うと余計傷みが増した気がする。うう、涙出そうだ。
『やれやれ、洗い物一つまともに出来ないのかお前は』
「すんません……」
『ちょっとじっとしてろ』
 斉木さんがおでこに手をかざす。
 ぶっ叩かれるのかと身構えるが、痛みはこなくてどころか痛みが引いた。治してくれたのだ。
 ほっといても、こんなんツバつけときゃ治るのに。
『目ざわりだからな』
「ええー……」
『別にコップの一つや二つ割れたって、僕ならすぐ元に戻せる』
 そんな事を告げる間に、途中までだった食器洗いはもちろんのこと、拭き上げに片付けまで済ませてしまった。超能力者って、ほんとすごいなぁ。
「あ、……」
 ありがとうございます、って言おうとしたオレにさっと背を向け、斉木さんはさっさとリビングに戻っていった。え、なに…目も合わせないよあの人。

 冷たいなあ。
 オレはもたもたと手を洗った。キッチン周りはすっかり綺麗に整っていて、もうやることはない。
 ちぇー、身体を張ってアンタのカップ守ったってのに、感謝の言葉の一つもないとか切ないわぁ。
 オレは斉木さんを一番大事に思ってるのに。
 一人台所に残り、オレはついグズグズ考えてしまった。
 斉木さんが一番大事。だから、気に入って買った揃いのこのマグカップも、同じくらい大事にしてる。
 でも斉木さんは、……どーだろ。オレの事。オレの扱い結構雑だよな。
 すぐ追う気にならなくて、更にグズグズ考え込む。
 そりゃアンタに比べたらてんで頼りにならないだろうけどさ、これでもオレなりに頑張ってんだけどね。
 ……はっ、夜の部でもっと頑張ればいける!?
 って、いやいや、脱線はよしとこう。
 えーと、落としかけた事怒ってるのかな。ん、だな、これだな。でもさ、別にワザとじゃないんスよ。いつもおっちょこちょいなわけじゃないし。
 だからもうちょっとオレにもさ。
「……はーぁ」
『おい』
「!…」
 ついため息が出てしまう。そんな風にもじもじいじいじしていると、背後から声をかけられオレは心臓が飛び出るほど仰天した。さっき、ピシャッと引き戸閉めてリビングに引っ込んだはずの斉木さんがすぐそこに立ってるんだもの、そりゃ驚くさ。
「き、聞いてたっすか……」
 てか超能力者にとんだ間抜けな質問だと、自分自身でも冷や汗がダラダラだ。
 そーっと伺うと、想像通りの怖いお顔がそこにあった。
「うふ、ひひ……」
 笑ってごまかすが、険しい目付きは変化なし。
 と、斉木さんの両手がオレの胸ぐらをがっしと掴んだ。
「ひぃっ……!」
 このまま頭突きされるの?
 ぶん投げられる?
 それとも関節技とか?
 と思ったら唇に柔らかい感触。
 思いがけないキスに顔が一気に熱くなった。オレは言葉もなく、ただただ斉木さんを見つめた。
『確かに丁寧とは言い難いがな、怪我も速攻で治してやった、コップだって割ろうがすぐに復元してやるし、なにより、お前のそばを離れたりしない。離れる気はない。これだけ思っててもまだ不満か?』
「――!」

「……いいえ」
 斉木さんの言葉を、想いを噛みしめるほどに、じわあっと涙が滲んだ。

『わかったらさっさとこっちこい』
「……はい」
『……一人でテレビ見ててもつまらないんだよ』
「……はい!」
 元気よく返事をすると、おっかなかった顔がみるみる緩んで優しい眼差しへと移っていった。
 ああ、可愛い可愛い!
 急激に熱くなった胸から気持ちがどんどん込み上げてくる。たちまち斉木さんの顔が恥ずかしそうに強張り、頬にほんのりと朱が乗る。
 なにそのお顔、可愛いってば!
 この人は、どんだけオレを振り回せば気が済むんだろうな。
『……そんなつもりは微塵もない』
 たまらない気持ちで見つめていると、頭の中でそっと言葉が響いた。
 オレは我慢出来なくなり抱きしめて唇を寄せた。
 一瞬うわってなった斉木さんだけど、拒まずにキスを受けてくれた。
 ああもう斉木さん可愛い。大好きだ。
 胸の中も頭の中も、その気持ちで一杯になる。
 そんなオレを宥める為か、斉木さんの手が頭をそっと撫でた。

 あーあもう、オレの扱い本当に上手いんだから。

「斉木さん、お茶とコーヒーとどっちがいいっスか?」
 食後の一服なににしましょ。
 オレの腕から…というか自分の赤面から逃げるように?…して、斉木さんがリビングに向かうから、ついにやにやしながら背中に投げかける。
『……コーヒーゼリー。今すぐだ』
「うふっ……りょーかいっす」
 オレは上機嫌で返事して、大急ぎで用意して持ってった。
 そうしたらご褒美だって感じで、コーヒーゼリーをひと口あーんしてくれた。
 天にも昇る気分だと丁寧に味わい、斉木さんの愛情に感謝する。ふと目にしたテレビでは二人ともが好きで毎週欠かさず追っている番組がやっていた。見ながら、そして見終わった後、今後の展開について喋り合ったりもする。
 その番組が丁度始まったところだった。
 あ…そう、始まるぞって、呼びに来てくれたんだ。じゃなかったらあのまま気付かずいつまでもキッチンでグズグズしてた可能性大だ。落下未遂からのあれこれですっかりすっかり頭から飛んじゃってたし。
 そうだよね、毎週結構楽しみにしてんだもんねこれ、見ながら二人で他愛ない話するの、ささやかだけど大事な時間だもんね。
 あ、あ!…斉木さんがさっさと行っちゃったのってオレを置き去りにしたとかそういうんじゃなくて、あれってつまりさあ、やだぁ、やべぇ、何かもう感情が追い付かない。
 とにかく言えるのは――!

 斉木さんは今日も、優しいってこと。

 

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