二人の男と小葱とコーヒーゼリーとあと嘘

 

 

 

 

 

 月曜は元気だった。
 ほぼ一日、日課になってる斉木さんへの呼びかけと付きまといと挨拶と、色々忙しく過ごした。

 火曜日も元気だった。
 昨日に続き、授業中も小テストの間も斉木さんに呼び掛けては、無視、罵倒、こき下ろし等々され充実した一日を過ごした。

 おかしいなと軽く首をひねったのは、水曜日の昼頃だった。
 気のせいだと頭から追っ払いつつ、強引に斉木さんを屋上に引っ張ってって、一緒に昼を食べた。
 少し声がおかしいと指摘する斉木さんに、それもまたセクシーでしょと笑ったら、可哀想な子を見る目を寄こされ、笑うところだとねだったら、おでこめがけて飴玉を一つ投げ付けられた。
 痛さをこらえつつどうにか空中でキャッチすると、もう斉木さんは屋上からいなくなってた。残ったのは手の中のイチゴ味一粒と、穴が開いてるんじゃと思うほど痛むおでこ。
 そして、お大事にと頭に響く斉木さんの声。
 もったいなくてすぐには食べられなかった。午後の授業が終わる頃、ようやく決心がつき、口に放り込む。甘くて酸っぱいイチゴ味は、そのまま斉木さん味。甘いだけじゃないけど、酸っぱいからこそ甘さが際立つ。
 ごろごろ口の中で転がしながら、隣のクラスに向けてあざっスと唱える。

 木曜日、朝から時折乾いた咳が出るようになった。
 そこからあれよあれよと体調は悪化してゆき、昼まで持たず早退する事になった。
 夜になると、一気に熱が出た。夕飯もそこそこに部屋にこもり、布団をかぶった。
 寝入ろうとすると咳が出て、中々寝付けなかった。

 金曜日、幸い熱は引いたがしんどさは相変わらず、咳も相変わらずで、学校を休んだ。

 

 昨夜は咳に悩まされろくに眠れなかった。
 そのせいか、朝になり部屋の中が明るくなっても、ぼんやりして布団から起き上がれなかった。
 うとうと、うつらうつら、起きているのか寝ているのかわからない状態がつらくて、ぐずぐずと弱音を吐く。
 内容は主に斉木さんへの呼びかけだ。
 斉木さん、斉木さーん、今頃なにしてるかな。
 授業中?
 それとも燃堂たちとだべってる?
 照橋さんのおっふ強盗から逃げ回ってるところ?
 俺がいないの気付いてるかな斉木さん。
 隣から俺の声聞こえないから、気付いてますよね。
 オレ、ここです。
 斉木さんあいたいよー……。
 どうしよ、幽霊たちに頼んで、斉木さんの様子見に行ってもらおうかな。でもなあ、聞いたら絶対、自分の目で見たくなるよなあ。
 あーくそ、あーあ。
 思い出されるのは、オレにしては珍しく、夜ではなく昼間の斉木さんだった。
 そりゃ夜のも極上トロトロで最高で最上、このベッドでも至った事があるというのに、瞼に思い浮かぶのは昼間の辛辣で遠慮もくそもありゃしねえ氷の女王の斉木さんだ。
 なんでだろ…意味わかんね、とにかく斉木さんはどれも好き。
 だってそれでこそ斉木さんだし。
 そうやって斉木さんの事ばかり考えながら上を向き横を向き、ベッドでごろごろうとうと過ごしていたからか、とうとう夢にまで見た。
 昼時、コーヒーゼリー持参で斉木さんがお見舞いに来てくれた夢。

 

 あはは。
 どう考えてもこんなの、夢だ。
 あの、あの斉木さんがオレの見舞いなんてバカな、そんなバカな。
 わかってますって、オレの都合のいい夢だってわかってる。
 だからひたすらベッドに寝転がって、にやにやしながら斉木さんを眺めた。
 斉木さんはオレの方をちらっと一回見た後、すぐ床に座って、手にしたちいさなカップをテーブルに置いた。白いクリームとの対比が綺麗だねえ。
 どうも見覚えがあると思ったら、そうだ確かあれ、学食で売ってるやつだ。
「て事は斉木さん、今日は学食だったんスね」
 何食べたか当ててやろ。
 といっても、どうやら鼻も少しばかりバカになってるようで嗅ぎ分けなんて無理だろうけど…と思っていたら、ふわーんとカレーの匂いがしてきて、その途端頭に鮮烈なイメージが浮かんだ。
「わかった、カレーうどんだ」
 斉木さんは、やれやれって感じで肩を竦めた。
「その態度、当たりスね、へへー」
 声に出して笑うと、咳がこんこんと転がり出た。
 あー、苦しい。
 あー、腹減った。
「いいなあカレーうどん…オレも食いたいス」
 でもなあ、今食べたら絶対喉痛めるよな。
『じゃあ何が食べたい』
 背中を向けたまま、斉木さんが聞いてきた。
「そうっ…スねー、やっぱこういう時はお粥かなあ」
 アツアツのお粥を、斉木さんがふーふーしてくれて、そんでもってあーんて…してもらいたいなあ。
 そんな願望を込めて、背中に視線を注ぐ。
『そうか』
 今の返事は、どっちにしてくれたんだろうな。
 まあオレの都合のいい夢だから、どっちにもだな。
 カップのフタを開け、斉木さんがコーヒーゼリーを食べ始める。
 最初に一回こっちを見た後はずっと背中を向けてたから、どんな顔で味わってるか見えないのが残念だったけど、見なくたってわかる。だってもう、数えきれないほど見たし。
 ああ、それ見られるのが嫌で、だから背中向けてんだ。
 でもね、背中越しでも、幸せ〜が伝わってきてますぜダンナ。
 可愛いなあ、好きだなあ。斉木さん好きだなあ。
 こんな風に夢に見るほど好きとか、相当重症だなオレ。
「ああ…来週は学校行けるかなあ」
 ぼそっともらすと、背中越しに返事があった。
『行けるようにしてやる』
 返事も、言葉の内容もたまらなく嬉しくて、顔も心も溶けるようだった。
「ほんとっスか斉木さん。お手柔らかに頼んます」
 にしても、どーせ夢なんだから、もちっと自分に都合よくてもいいのに、夢の中でも斉木さんが素っ気ないって、オレってやつは…ははは。
 そんな事を思ったからか、それまでずっと背中を向けていた斉木さんが振り返り、寝ているオレに覆いかぶさって、キスしてくれた。
 びっくりして、まじまじと近すぎる顔を見つめていると、睡眠薬、催眠術…とにかく、キスされた途端胸の息苦しさがなくなって、猛烈な眠気に包まれた。
 ヘンな夢、でも最高に幸せ。
 斉木さん…あざっス。
 オレはまた眠りに落ちた。

 

 幸せな夢から覚めると、部屋は夕暮れに染まっていた。
 しんと静まり返った室内にはもちろんカレーの匂いなんてないし、時々出る自分の咳で乱れる以外は物音一つない。
 風邪引いて心細くなってるだけだとわかっているが、口がへの字に曲がった。
 薄暗くて静かなのがいけない、賑やかにすればマシだと、起き上がり、電気とテレビをつける。
 明るくなったし、うるさいくらい騒がしくなった。
 長い事寝ていたからか、どうにも身体が痛い。
 オレは座って上半身を右に捻り、次に左に捻った、そこで、右側に突如人の気配が湧いた。
 首だけまずそちらに向けると、驚いた事にそこに斉木さんがいた。
 一人用の土鍋を持ち、腕には白い小さなコンビニ袋を提げている。
 あんまり驚くと、声も出ないものだ。
 オレはバカみたいにぽかんと口を開けたまま、まじまじと斉木さんの姿を見つめた。
「ほんものだー」
 園児の驚く演技みたいに、声になんの感情もないままもらす。
 それからじわじわと実感が湧いてきた。
 さっきまで寂しくて泣きそうだったが、今は嬉しくて泣きそうだった。
「ね、ね、昼間――」
 来てくれましたよねと言いかけて、待てよと首をひねる。
 あれは、オレの夢だったっけ。
「でもその鍋、それ、オレの希望スよね」
 お粥食べたいってオレが言ったら、わかった、て……あれ、違う?
 単なる偶然?
「あー…なんか混乱してるみたいスね」
 昼も夜も区別のつかない状態で眠ってばかりいて、そんな中夢を見たから、頭がこんがらがってしまったようだ。
「なんスか、オレの勘違いです、謝りますから、だからそんなゴミ虫見る目しないで斉木さぁん」
 必死に手を合わせていると、ふいっと顔が背けられる。
 見ないでとは言ったけど、逸らされちゃうのは悲しい。

 

 斉木さんは、どうしてわかるのか部屋のあっちこっちに巧妙に隠した聖書(エロ本)を数冊手元に引き寄せると、テーブルに重ね、なんと鍋敷きにした。
「ああーなんてことを……!」
 抗議するが、手遅れだった。深緑色のどっしりとした土鍋の下敷きになってしまった聖書を嘆く。厳選に厳選を重ねたオレのお気に入りの数々が。
 心の中で恨み言を垂れる。
 ああもう斉木さんのバカバカ、横暴、ナニサマ、大好き!
 支離滅裂に並べたてながら斉木さんを見上げると、心底つまらなそうな目とかち合った。
 冷え冷えとした眼差しだけど、本当は人が良くて優しくて、困っているとちゃんと助けてくれるって知ってる。だから、どんなに凍った目付きを向けられようが、顔が緩んでしまう。
 そうだよ、斉木さんがそういう人だから、オレは好きになったんだ。
 斉木さんは心底呆れ返った顔になって、やれやれとばかりに深いため息をついた。
 すんません、でも、その顔も可愛い。
 斉木さんは何しても可愛いです。
 斉木さんはコンビニ袋から、家からの持参であろう小鉢とレンゲとを取り出しオレの前に並べると、土鍋の蓋を取った。
『さっさと食べて治せ』
「了解っス」
 では、あーん
『……少し待て』
 地を這う声がしたかと思うと、斉木さんの超能力で、目の前の土鍋が突然ぐらぐらと煮立ち始めた。
「ひいすんませんすんません! 調子乗りましたすんません!」
 地獄のマグマもかくやと思われる有様に、慌てて謝り倒す。
 すんませんと言う度、こんこんと咳が出た。
 ああ苦しい…頭いてー…さいきさーん……
 頭の中で泣き言を繰り返していると、斉木さんの声が響いた。内容はとんでもなくひどいのに、斉木さんの言葉だからか、少し、頭痛が去った気がした。
『お前でも風邪を引くんだな。お前のような、煩悩まみれのどうしようもないゲスエロ小僧でも』
「そこまで言う…ひどいっスよ斉木さん」
 とほほと嘆くが、一人ではない心強さからそれほどダメージはない。
 自然顔が緩む。
『っち』
「舌打ちやめて」
 泣き笑いで、また咳こんこん。
 あーくるし……あーやだ…咳やだ…さいきさーん……
 吸い込んだ息を吐き出す時、咳が出やすい。それが怖くて辛くて、つい呼吸が浅くなってしまう。ふ、ふ、と少し吐くだけにすれば咳を回避出来るからだ。
 しかしそんな事をしていれば息苦しくなり、思いきり吸い込みたくなる。思いきり吸い込んだら、思いきり吐き出す事になり、また咳に見舞われる。
 わかっているから浅い呼吸に逃げるのだが、いつまでも浅い呼吸では持つはずもなく、結局は苦しい目にあう。
 そんな事の繰り返しで、身体はすっかり疲れ切っていた。
『……大丈夫か』
「や、大丈夫っス。斉木さんの顔見たし、夕飯もあるし、すぐ元気になりますよ。あでも、斉木さんに移るかも……」
『僕は風邪を引かない』
「ああ、何とかは――」
『おっとお粥が冷めてしまったな、温め直すか』
「ひいやめてごめんなさいだから地獄の釜はやめて!」
『下らない事言ってないでさっさと食べろ』
「はいすんません……これ、ママさん作っスか?」
 優しい色をしたお粥、小葱がパラパラのってるのがまたいい。良い匂いで、見た目も良くて、食欲をそそる。冗談みたいに腹がぐうぐう鳴った。
『いや、母から聞いて僕が作った』

 

「え」
『ああ見えて父がよく風邪を引くんでな、その際の定番がこれだ』
「へえ」
『父向けのはこのネギ抜きだが、のってる方が見た目もいいというので、加えてみた。嫌ならお前はのけて食べろ』
「えええ、とんでもない。好きっス、残さず全部いただくっス」
 わざわざ作ってくれたのだという。夢ではなかろうか。軽くこんこん咳込みながらも嬉しさ一杯、いそいそとレンゲに手を伸ばす。
 それより早く斉木さんがレンゲと小鉢を手にする。
 またマグマにされるのかとびくびくしていると、ごく普通に小鉢に取り分け、レンゲで中身をかき混ぜひとすくい口元に運んできた。
「へえ……?」
 間抜けな声が出た。
『まだ熱いか?』
 ぐいぐい下唇に押し付けられる。
 ちょっと熱いくらいで、火傷するほどではない。熱さは丁度いいのだが、歯が折れそうな力加減にちょっと泣いた。
「だいじょうぶです……」
 恋人手作りのお粥を、手づから食べさせてもらえるなど、本当に、夢ではないだろうか。
 夢が叶った、正夢だった。
 もしかして予知夢?
 オレにも、とうとう超能力が!
 ……なわけないか。
 とにかく食べよ。
「いただきます……あ!」
 寂しく心細かった事もあり、自然と涙が滲んだ。
『僕も厳密に言えば風邪を引くが、即座に治せるからな』
 食べながら頷く。
『常人は面倒だな、何日も病状に悩まされて。でも……看病される父や、する母を、少し羨ましいと思った事がある』
 二口目が差し出される。
「……そっスか」
 いつかママさんがやってただろう行動をなぞる斉木さん。
 なんか、なんかすごく……
 まずいと思った時には涙がこみ上げ、あっという間に溢れていた。
 もぐもぐと食べながら、慌てて涙を拭う。
『忙しい奴だなお前は』
「ほんとっスね。すんません」
 右目左目と、急いで袖で拭う。
 自分でも、これがどういう感情なのかわからない。
 斉木さんが、可愛い、愛しい、好き、大好き。
 これ以上ないくらい緩み切った顔で、三口目に期待する。
 からんとレンゲが手放されたのはそんな時だった。

 

『飽きた。大体わかったから、あとは自分で食べろ』
 そう言うや斉木さんはさっさと身体の向きを変え、テーブルに頬杖をついてテレビを見始めた。
「……はい」
 はいはい…たった二回でも、手ずから食べられただけで幸福だよオレ。最高幸せなんだよオレ…泣き笑いで粥を口に運ぶ。
「美味しいっス……」
 しみじみと呟く。
 自分で食べても変わらぬ美味しさ、充分幸せじゃないか。
 斉木さんあざっス。横顔に目一杯の感謝を向ける。
「ところでそっちのコンビニ袋……ああ、コーヒーゼリー」
 そりゃそうだ。
 それ以外あるか?
 いやない。
 自分に突っ込み笑ったところで、また咳が出る。
 は、は、は、と呼吸を整える。
「すんません、聞き苦しくて」
『煩悩全開のゲスエロ妄想が聞こえないだけ、全然聞き苦しくはないな』
「な…オレ、そんないつもうるさいっすか?」
『ああ聞き苦しい。黙って食べろ』
 わざとらしく手で耳をふさぐ斉木さんに二言三言文句を零すが、食べ始めると幸せで頭がいっぱいになる。自分は本当に単純だな。
『そうだな』
「斉木さんは食べないんスか、コーヒーゼリー」
『まだ気分じゃない』
「へえー」
 いつでもどこだろうが、目の前にあればあるだけ食べる…そんな姿を何度も見てきたので、へえーとしか言いようがない。
 たとえば、そのコーヒーゼリーは自分にあてはめればいわば聖書みたいなものだ。いつでもどこだろうが、あれば即座に開いてじっくり端まで堪能する。
『おい』
 気分じゃないと後回しにした事は、覚えている限り一度もない。
『一緒にするな』
 気分ではなく、状況で後回しにする、せざるを得ない時はあっても、目の前にあって手を出さないなどありえない。一体どんな時だ。
『いい加減にしろ、コーヒーゼリーが汚れる』
 二度目まではかろうじて無視出来たが、さすがの三度目はこより並みの鋭さと強度をもっていた。それで思考にヒビを入れられては、さしものオレもぴたりと停止せざるを得ない。
「すんませんした……」
『次はないと思え』
 肩越しに振り返り、凍り付く殺意を飛ばしてくる斉木さんに平謝り。申し訳ないと思うのに、いつもみたいなやり取り出来るのが嬉しくって、オレの顔はだらしなく崩れてしまう。
 斉木さんはふんと前を向き、コンビニ袋をガサガサと探った。
 どうやら気分になったようだ。
「ああ、オレをいたぶっていい気分になったってね。なるほど」
 苦笑い。
「ごっそさんした」
 ほんとに美味かったなあ。ずっと食べたかったなあ。
 一粒残さずすくった鍋と小鉢を前に、しっかり手を合わせて感謝する。
 斉木さんは、コーヒーゼリーのフタを開けたところ。
「あ、そうだ斉木さん、このお礼に、あーんさせて下さいよ」
『そんなお礼はいらん』
「まあそう遠慮せずに、ね」
『やめてください、コーヒーゼリーが汚れます』
「そんなあ、いいじゃないスか、させて下さいよお」
 押し切って、渋々といった様子の斉木さんにあーんとコーヒーゼリーを一口運ぶ。
 ああ、なんて恋人らしいやり取り。こんな他愛もない人からしたら馬鹿らしい事がなんでこんな嬉しくて楽しいんだろう。幸せでたまらない。
 しかしそこでこんこんと咳が出てしまい、手が震え、スプーンからコーヒーゼリーがはじけ飛ぶ。

 

「!……あ!」
 一瞬にして天国から地獄である。
 これ以上ないほどの絶望に血の気が下がる。
 しかしそこは斉木さん、超能力で難なく受け止めた。落ちた一口はテーブルを汚さず口の中へと納まった。
 無駄にならなくてほっとしたけど、いつもの可愛らしい表情はそこにない。
 斉木さんの口からため息がもれる。コーヒーゼリーに至福を感じたからじゃない。オレに呆れたんだ。よりにもよって、コーヒーゼリーを落とすなんて大失態をやらかしたオレに。
『もういい。病人は大人しく寝てろ』
「すんません……」
 オレは手を引っ込めた。
 指先がひんやりしている。冷えたコーヒーゼリーを持っていたから、ではない。全身が冷えた。肝まで冷えた。斉木さんへの愛情は煮えたぎっているけれど、斉木さんの方は……。
 消えてしまいたい気持ちでベッドに潜り込む。
 申し訳なくて背中を向けると、肩に手がかかり、仰向けにされた。
 え、と思うと同時に、目前に斉木さんの顔が迫ってきた。
 え、え?
 コーヒーのふくよかな香りが鼻先をかすめた。
 あれ、これ……!
 何かを思い出しかけた時、唇が重なる。
 突然の出来事に呼吸も忘れる。
『駄目だ、ちゃんと息しろ』
(あ…ああ、鼻で)
『違う、口で』
(いやでも、口、塞がれてるし)
『いいから口で息しろ。ほら、吸い込め』
 しっかりぴったり口を塞がれてるのに、どういうわけか、清浄な空気が流れ込んできた。
 キスの時はいつだって少し息苦しいものだと思っていたから、びっくりして目を丸くする。
 しかし、問題は吐く時だ。
 このまま斉木さんの口の中に吐き出せばいいのか?
 戸惑い、躊躇する。
 しかも今は、吐き切る時にこんこんと転げるように咳が出てしまうのだ。
 それが嫌でなるたけ浅い呼吸で抑えているのだ。
『いいから吐き出せ。全部僕がもらってやる』
(え、え?)
 何が何だかわからない。
 何をしようというのかわからない。
 風邪のせい、満腹のせい、不意打ちキスのせいで上手く頭が回らない。
 ただ、斉木さんの唇はいつも柔らかで気持ちいいなと、ゲンコツもらいそうな事が頭に浮かぶ。
 恐る恐る息を吐き出す。破れかぶれになり、肺に力を込めて思いきり息を吐き切る。
 咳は出なかった。
(あ、え?)
『そうだ、もう一度』
 いつの間にか部屋は暗くなっていた。テレビの音もしない。斉木さんが消してくれたようだ。
 目を閉じて吸い込むと、どこかの高原が頭に思い浮かんだ。清涼な空気に満ちた、爽やかな場所。およそ自分には似つかわしくないような、青空と緑がいっぱいの場所。
 清々しい高原で斉木さんとキスしている幻想に耽り、ひと息、またひと息吸っては吐いて、病んだ肺を癒す。
 息苦しくない、咳も出ない、なんて心地よいんだろう。
 今日も昨夜も、したくもないのにげほんと咳き込んで、ろくに眠れないほど苦しくなっていたこの数日が思い返され、思わず涙ぐむ。
 ああ、斉木さん斉木さん。楽です斉木さん。
 そこで激しい既視感に見舞われる。
 咳しないで息が出来ると喜ぶ傍ら、昼間の事が頭をよぎる。
 昼間もそうだった。
(ねえ斉木さん、やっぱりあれって夢じゃなかった……?)
 頭の中で問いかけるが、斉木さんはオレに覆いかぶさったままじっと身動き一つしなかった。
 瞼が重くなり、吸い込まれるように意識が遠のく。
 キスされて眠くなるところも、一緒だ。
(じゃああれってやっぱり……ああ眠い)
『よし、寝ろ』
 言葉は短いけど、とてつもなく優しかった。
『あと一回必要だから、また来る』
 そう言われたが、もうほとんど眠っていて、オレは聞き取れなかった。

 

 ふと目を覚ますと、ぎりぎり今日が終わるところだった。
 尿意にせかされベッドから出る。
 テーブルの上には、何の痕跡も残っていなかった。
 使われた本はおそらく元の場所に戻されたのだろう。
 のたのたと便所に向かいながら、唇を触る。
 今の今まで、何か柔らかいものが触れていたようだった。
 試しに、腹に力を込めてふうと息を吐き出すが、あれほど自分を悩ませた咳は気配すら消えていた。
 斉木さん……。
 のお陰だと、たちまち顔がにやけてくる。
 あの頑固な咳を、三度もの手間をかけてオレから吸い出してくれたのだ。
 それって、コーヒーゼリー何個でお返し出来ますかね。
 火照る頬をごしごしこすり、幸せに浸る。自分がこうして身軽に幸せになった分、お返ししなくては。
 そうだ、今度こそ、あーんを成功させなくては。
 そしてあわよくばその先も…。
「あーもう……なんなんすか斉木さん」
 邪な妄想も軽やかに紡げるありがたさに胸が詰まり、泣けてしようがなかった。

 

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