雨だれ

 

 

 

 

 

 初恋の人の現住所を探してほしいという依頼を受け、事務所の主である毛利小五郎が調査の為出かけたのは、昼を少し過ぎた頃だった。

 丁度、雨が降り出した頃。

 それから、六時間。すっかり日も暮れ、三階の自宅では、蘭が夕飯の支度を進めながら父親の帰りを待っていた。その傍では、少々大きめの眼鏡をかけた少年がちょこまかと動いて手伝いをしていた。

「おじさん、遅いね」

 茶碗を運びながら、コナンはちらりと壁の時計を見上げ、振り返って蘭に言った。

「そうね。きっと、もうすぐ帰ってくるわよ」

 揚げたてのカツをまな板の上でざくざくと切り分けながら、蘭は雨の様子をうかがって窓の外を見やった。

 そのすぐ後、まるでその話題が出るのを待っていたかのように電話が鳴った。

 手の離せない蘭に代わってコナンが電話に出ると、相手は、至極ご機嫌な様子で「コナンちゃーん!」と声を張り上げた。それも、耳からずっと離しても聞こえるほどの大音量で。

「っ……!」

 飛んできた弾丸を避けるより早く腕を伸ばし、コナンは大げさに顔をしかめた。

「コナン君、だあれ?」

 エプロンで手を拭き拭きリビングにやってきた蘭は、受話器をぶら下げ少しうなだれているコナンの様子を見てすぐに、電話の相手を言い当てた。

「……もしかして、お父さん?」

 コナンは俯いたままこくりと頷いた。苦笑いが後から湧いてくる。

 ……このオヤジは

 普段なら絶対聞けないおぞましい猫なで声が、受話器からわんわんと響いてくる。

 内容は、調査の帰りに駅前で偶然知り合いに会ったから、ちょっとだけ飲んで帰る、飯は先に食べてろ、というものだった。それが、酔っ払い特有の金切り声で聞こえてくるのだ。

 返事がないのも構わず喋り続ける小五郎に、コナンは内心冷汗を流した。応答の方を蘭にかざし、恐る恐る目を上げる。

 すると案の定、目を三角に吊り上げてわなわなと震えながら受話器を睨み付ける蘭の姿がそこにあった。

 このすぐ後に、怒鳴り声の一つや二つ、とばっちりの一つや二つ飛んでくるものと予測したコナンは、出来るだけ被害を被らないよう身を硬くし、その時に備えた。

 が――。

 意外な事に蘭は、受け取った受話器に静かな言葉をかけると、こういう場合いつもなら修復不可能かと思えるくらい粉々に、力任せに電話を切る事さえもせず、逆に不気味なほど丁寧に電話を置いた。

 傍ではらはらしながら見守っていたコナンは、思いも寄らぬ肩透かしに瞬きを繰り返した。

 蘭は大きく肩を上下させながら息を吐くと、小さくもうと呟いた。

「今日はお父さん、帰りが遅くなるって」

 背中を向けたまま、それだけ告げる。

 いや、それだけじゃないはず…

 沈黙する背中が怖い。

 時間差で、振り向き様何かあるのではと警戒するコナンをよそに、蘭はくるりと踵を返すや身を屈め「ご飯にしよっか」とにっこり笑った。

「え…うん」

 どこか違和感のある蘭の様子に、コナンは内心首を捻った。

 しかし、その後二人だけの静かな夕食時も、特に変わったところは見られなかった。

 強いて挙げるなら、会話らしい会話がなかったという事くらいか。

 人前では完璧に秘密をしまい込んでも、いざ二人きりとなるとやはり無意識の意識が働くからだろうか。外見とかけ離れた中身で照れつつ、コナンは推測した。

 ほとんど会話がないといっても、テレビから流れるニュースで伝えられる事柄についてあれこれと言葉を交わす事はした。

 蘭はまた、心を殺伐とさせる凄惨な事件には悲しげに顔をしかめ、親をなくした生まれたばかりの猫を育てる犬のエピソードには、嬉しそうに顔をほころばせた。

 まるで、自分のすぐそばで起こっている事のように一喜一憂しくるくると表情を変える幼なじみに、コナンは知れず内に目を奪われていた。

 そのせいで、彼女のちょっとした変化には気付いていなかった。

 はっきりそれを目にしたのは、夕食を済ませ、後片付けを手伝っている時だった。

 流しで食器を洗う蘭の元に、空いた皿を運んでいたコナンは、背中を向けた途端耳に届いた物音にはっと振り返った。

 足を横に投げ出す形で床に崩れ込んでいる蘭の姿に、大きく目を見開く。

「どうしたの、蘭姉ちゃん!」

 すぐさま駆け寄り、顔を覗き込む。

 蘭の右手が、流しの縁を掴みかすかに震えていた。倒れる瞬間、咄嗟に掴んだのだろう。

「うん……」

 ため息混じりにこたえ、しかしそれ以上は言葉が継げないのか、蘭はきつく眉根を寄せて俯いた。

「蘭姉ちゃん? 蘭姉ちゃん!」

 呼びかけながらコナンは、視界の端に映った蘭の右手、洗剤の泡に濡れた手をふきんで包むと、強張った指をそっと解いてやった。

 触れた手は、自分よりもずっと熱い。思わずぎょっとなる。

「おい…蘭、しっかりし――」

 倒れそうになる身体を支え、さらに呼びかけるコナンの口を、蘭が突然塞いだ。

「……蘭姉ちゃん、でしょ。そんなだから……バレちゃうんだからね」

 浅い呼吸を繰り返しながら、蘭は弱々しく笑った。

「バーロ…んな事言ってる場合かよ」

 塞ぐ手を外し、コナンは半ば怒ったように言った。

「もう…どんな時も冷静沈着に……て、新一…言ってた……」

 ぐらぐらと揺れる視界の中コナンの顔をとらえ、蘭は小さくたしなめた。

「ちょっと黙ってろ」

 心配のあまりきつい口調で言いつけ、コナンは額を寄せた。

「平気だよ…これくらい」

 口先だけの言葉を無視して、熱を測る。

「………」

 間近に迫った真剣な眼差しに、蘭は口を噤んだ。

 額に首筋に、コナンの手が触れる。小さくても、いつも自分を守ってくれる、頼れる手。

 優しくて、あたたかい――

 蘭は流しに寄りかかり、大人しく身を委ねていた。急に襲った目眩に頭が割れるように痛んだが、小さな手が触れるごとに、不思議と痛みは和らいでいった。

「いつから、おかしかったんだ?」

「今ちょっと…くらっときただけ」

 目を閉じたまま蘭は答えた。

「バーロ…オレをなめんなよ」

「……じゃあ、聞かなきゃいいじゃない」

 真剣がゆえに怒っているように聞こえるコナンの声に、蘭は小さく笑った。幼い声だけど、心は新一そのものなんだと今更感じる真実に、無性に嬉しくなる。

「あのなあ…いいから、部屋いって横になってろ。すぐに薬持ってってやっから」

 突っぱねるような物言いをしてしまう蘭に、コナンは怒るでもなく肩を竦めた。

 蘭の意地っ張りは、今に始まった事ではない。

 長い付き合いで心得たもので、コナンは支えてやりながら蘭を立たせ、半ば強引に部屋に押し込んだ。

「……うん」

 大丈夫と口元まで出かかった言葉を飲み込み、蘭は素直に従った。

 ともすれば険悪なやりとり、ぶっきらぼうな態度が、今はとても心地好かった。

 

 

 

「入るぞ」

 水と薬を手に、コナンは扉をノックした。聞こえるか聞こえないかの返事にノブを回し、部屋に入る。

 もしかしたら起きているかもしれないと心配していたが、蘭は大人しくベッドに横になっていた。

 少し慌てた様子で、目元を拭っている。

「具合はどう……!」

 それが涙を拭っているのだと気付いた途端、コナンははっと息を飲んだ。

「どうした、どっか痛むのか?」

 コップの中の水を跳ねさせて駆け寄り、ひどくうろたえた様子で問い掛けるコナンに、蘭は小さく笑いながら大丈夫と首を振った。

 しかし、そう言う端から涙を零し、それでも中々口を開かない蘭に、動揺を隠せない。

「薬、飲んじゃうね」

「あ、ああ……」

 起き上がって大丈夫なのかと、気が気ではないコナンの心配をよそに、蘭は受け取った薬を水で流し込んだ。小さくありがとうと添えてコップを渡す。

「蘭……?」

 再び横になり、またも涙を滲ませるのに、コナンは恐る恐るハンカチを差し出した。

「ありがと…あのね……」

 蘭は照れたように笑って涙を拭い、ためらいながら口を開いた。

「あのね……」

 それでも中々言い出せず、ようやくのこと心を決めてぽつりぽつりと告げる。

「コナン…君がいてくれてよかったな……って思ったら、ちょっとね」

 名前を呼ぶ時少しの間を空けるのは、そこにもう一つの名を挟んでいるからだ。

 あの夜から始まった呼び方。

「気が緩んじゃって……」

 また少し滲んだ涙を拭い、小さく笑う。

「いつも…すぐ傍にいてくれてたんだよね」

 枕元の幼い顔を見上げ、蘭は瞳を潤ませた。

「……ああ」

 子供にふさわしからぬ強い眼差しで、コナンは呟くように言った。

「ずっと気付かなくて…ごめんね……」

 眉根を寄せ詫びる蘭に、慌てて言葉を被せる。

「それはっ……オメーが謝る事じゃねーよ。オレが、オレが……」

 言いづらそうに息を詰めたコナンに、ふっと頬を緩める。

「……ちゃんと、約束守ってくれてたんだね」

 瞬きした拍子に、眦から涙が零れ落ちて頬を伝った。

 コナンはその涙を、蘭の手からハンカチを受け取ってそっと拭ってやると、しばし視線を泳がせ、最後に俯いてぼそぼそとこたえた。

「ああ……オメーは…泣き虫だからな……」

 他人の懊悩をも自分の事のように背負い込み、心を砕き涙するそんなお人好し。

 

 そんな蘭が、泣く事を頑なに拒んだ時期があった。

 

 

 

 両親の別居に端を発する。

 どんなに引き止めても叶わない母親の背中を見送りながら、蘭は繰り返し思った。

 自分が悪い子だから、母親は出て行ってしまったのだ。だから、良い子にしていれば、きっと戻ってくる。

 勉強を頑張れば、好き嫌いをなくせば、父親の言う事をちゃんと聞いていれば、すぐに泣いたりしなければ……きっと、お母さんは戻ってくる。

 そうして、蘭は泣かなくなった。

 意地の悪い男子に乱暴な事をされても、決して泣かず歯を食いしばって我慢した。

 寂しくても、悲しくても、泣く事をしなかった。

 けれど、ずっと傍で見ていた新一は知っていた。

 体育の時間、わざと突き飛ばされて転び、すりむいてしまった膝をこっそり水で流しながら、一人涙をこらえているのを。

 口をへの字に結び、耐えている蘭に、なんと言葉をかけていいかわからず新一は、見て見ぬ振りをした。

 もし自分が、そんなところを見られたら、物凄く恥ずかしい。

 だから、気付かない振りをした。

 本当は、どうしたらいいのかわからなかったのだ。

 少し変わってしまった幼なじみと、戸惑いながらもこれまでと同じ日常を過ごす。

 その事で意地の悪い男子にからかわれても、蘭は何を言うでもなく我慢を貫き通した。

 男子は、元太に似て身体が大きく、元太よりも衝動的だった。

 単純に、好きの裏返しだったのだろう。

 幼稚な子供は、自分の気持ちの伝え方を正しく知らず、マイナスの接触を繰り返して蘭を困らせた。

 それまでは、何かあればすぐ泣いていた蘭が、何を言っても何をしても、泣かなくなってしまった事に意地になり、ある日、上履きを隠すという行動に出た。

 気付いた少女が、下駄箱の前で途方に暮れて立ち尽くし、泣き出すのを期待していた。

 しかし蘭は、ほんの一瞬驚いた顔をしただけで、靴下のまま教室へと向かった。

 泣くでもなく文句を言うでもなく、また先生に言い付けるでもなく。

 それまでは、蘭が引き止めるせいもあって我慢していた新一も、さすがに怒りを募らせ、男子に詰め寄った。

 カッコつけんなと男子は言い、くだらねー事すんなと新一は言い返した。その後は自然の流れで、取っ組み合いのけんかになった。コブの一つも作ったが、隠された上履きをどうにか取り返した新一は、先生が来る前にと急いで蘭に届けた。

 足もとに、ぶっきらぼうに放り投げられた自分の上履きを見て、どこか怒っているような新一を見て、蘭は教室を飛び出していった。

 今にも泣きそうに口をへの字に曲げ、それでもこらえて走っていく蘭の後を、新一はすぐさま追いかけた。

 廊下を曲がって一時見失ったが、何かあると必ずウサギ小屋に行っていたのを思い出し、新一は走った。

 案の定、小屋の前で蘭はじっと金網越しにウサギを見ていた。

 泣きたいのを我慢した、強張った顔で。

 肩まで伸びた黒い髪を揺らし、泣く代わりに小さくしゃくり上げる蘭の姿に、思わず新一は駆け寄った。

 声をかけた途端蘭は大声でわっと泣き出してしまい、新一は途方に暮れた。

 泣きながらありがとうを繰り返す蘭に、おろおろする。どうしたらいいかわからない。

 父の言葉を思い出す。父はいつも、「女の子には優しく」そう言っていた。

 女の子には優しく

 新一はそっと手を伸ばすと、優しく頭を撫でた。

 大丈夫

 蘭、大丈夫

 何度も声をかけながら、優しく頭を撫でた。

 その度に蘭はうんと頷いた。

 こらえていた分を吐き出すように泣き続ける蘭に、胸が締め付けられる思いだった。

 もし、自分の母親が出て行ってしまったら。

 明日から、別々に暮らす事になったら。

 ……怖かった。

 とてつもなく怖かった。

 言葉に出来ない恐ろしいものがやってくるように思え、新一は震え上がった。

 彼女は今まさにそうなのだ。

 どうして一緒に暮らせないのだろう。

 どうして傍にいないのだろう。

 そこまで考えて、気付いた時には、言葉が口から飛び出していた。

 それなら、自分がずっと傍にいると。

 幼稚な誓い。けれど新一には重大な、意味のあるものだった。

 単純に、ヒーローを気取ってもいた。

 ずっとずっと、一生蘭の傍にいる。

 ――ずっと傍にいるから

 ――泣きたくなったら

 ――オレが傍にいるから

 一生と決めたんだ。

 その言葉に、蘭は徐々に泣きやんでいった。

 硬く強張っていた心は、その日を境に少しずつほどけていって、それからも遭遇する泣きたい時、蘭は新一の前でだけそっと涙を零した。

 

 

 

 あれから心も随分成長して、それでもまだ分からない部分はたくさんあるけれど、あの頃よりは、両親の気持ちが理解出来るようになったと思う。

 単純なものと、そうでないものがないまぜになった、言葉では説明しにくい気持ちが。

 

 

 

 照れ隠しにそっぽを向いたコナンの顔に手を差し伸べると、蘭は眼鏡を外した。

「あ……」

 小さく驚くコナンに、恥ずかしそうにありがとうと告げる。

「蘭……」

 熱のせいで少し潤んだ瞳が、まっすぐに見つめてくる。途端に跳ね上がる鼓動を慌てて押し隠し、コナンは取られた眼鏡に手を伸ばした。

「だーめ」

 いたずらっ子のようにくすくす笑って、蘭は手を避けた。

 仕方なくコナンは、眼鏡を取られたまま蘭を見つめた。けれどすぐに恥ずかしくなって目を逸らし、壁や天井に視線を漂わせる。

「……ありがとう」

 その時耳に届いた淡い声に、聞き間違いかと目を向けると、眠りに落ちる瞬間の愛らしい顔が鮮やかに胸に迫った。

「……蘭」

 恐々額に触れ、熱を確かめる。肌はまだ腫れたように熱を帯びていたが、薬の効果で随分落ち着いた呼吸に、コナンはほっと胸を撫で下ろした。

 知らず頬が緩む。

 そっと眼鏡を取り戻し、毛布をかけなおしてやると、コナンは窓の外をうかがった。

 雨は大分小降りになっていた。

 もう一度蘭に目を向け、少し名残惜しそうに見つめた後、静かに部屋を出る。

 約束したのだ。

 ずっと傍にいると。

 今は代理の人間がその役をかっているけれど、同じ気持ちなのは間違いないから、だから、何も心配しなくていい。

 ずっとずっと、ずっと傍にいる

 かすかに聞こえる雨だれに重ねて、そんな事をぽつりぽつりと思う。

 

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