助けて仮面ヤイバー

 

 

 

 

 

 醤油さしの底がこつんと当たった。

 それだけで、茶碗は呆気なく割れてしまった。

 

「あ!」

「……あ」

「ああ」

 

 テーブルの上、見事なほど真っ二つになってしまった茶碗に三人…蘭と小五郎とコナンは声を上げた。

 

 

 

 いつもと同じ時間、同じ賑やかさで、三人の夕餉を始めた。テレビから流れる『お取り寄せグルメ』の豪華な内容を見ながら三者三様言葉を発し、カニ尽くしや焼き肉三昧の夕食もたまにはいいと、楽しくお喋りを交わす。

 その合間に蘭は父親の飲み過ぎをたしなめ、小五郎はごまかそうと必死にテレビに相槌を打ち、その光景にコナンはいつも通りだと呆れ笑いで肩を竦めた。

 言葉と笑いとが絶えない、いつも通りの夕餉。

 ごちそうさまと手を合わせ、コナンは湯呑を手に取った。

 隣では、蘭が同じように食後のお茶でひと息ついていた。

 テレビからは相変わらず、絶品お取り寄せグルメの特集が流れていた。

 今画面に映っているのはロールケーキ。何の変哲もない、素っ気ないほどごく普通のシンプルなロールケーキだが、使用されている卵、小麦粉、生クリームのどれもが厳選素材だと強調されると喉が鳴るもので、酒飲みながら甘い物にも目がない小五郎はすっかりテレビに釘付けになっていた。顔はそのままで、醤油を取ろうと手を伸ばす。

 蘭とコナンも同じように、厳選素材で作られるロールケーキが出来上がっていく様に目を奪われていた。

 

「見てあれ! すっごくふわふわで、美味しそうねコナン君」

「うん、ホント美味しそう! 蘭姉ちゃんならきっと、丸ごと一本食べちゃうね」

「あー、またコナン君は。どうせ食いしん坊ですよーだ」

 

 わざと憎々しげに言って、蘭は笑った。目はテレビを見たまま、いつものように器を重ねようと茶碗を手に取った。

 持ち上げたまさにその時、茶碗の縁に小五郎の持ち上げた醤油さしの底がこつんと当たった。

 こつんと、ほんの少し触れた程度だったが、たったそれだけで茶碗はぱかりと二つに割れた。

 

「あ!」

「……あ」

「ああ」

 

 三人は揃って声を上げた

 模様のない、薄い桜色をした蘭のご飯茶碗が、蘭の手の中の半分とテーブルの上の半分とに分かれる。

 

「あ、あ…悪い」

 

 小五郎は慌てて、二つの破片を手に取った。

 

「あ、気を付けてお父さん」

 

 蘭はさっと起ち上がると、部屋の隅に積んだ新聞紙から数枚取って広げ、脇に敷いた。小五郎はそこに向きを揃えて破片を重ねた。

 

「結構気に入ってたのになあ」

 

 名残惜しいと含み、蘭は破片を新聞紙にくるんだ。

 

「悪かったなあ…明日、新しいの買ってきてやるよ」

「うん…ううん、よそ見してた自分も悪かったし、自分で見て買ってくる。明日日曜だし」

「ああ、それがいいな」

「そうだコナン君、一緒に買いに行かない? 明日、何か約束ある?」

「ないよ。一緒に行こう、蘭姉ちゃん」

「よかった。じゃあ……お昼の買い物の時に行こうか」

「うん」

「決まりね」

 

 約束を取り交わし、二人はにっこり笑んだ。

 

 

 

 翌日昼前、二人は米花商店街へと向かった。

 蘭が絶賛し、長らくのファンも多い昔ながらのケーキ屋さんのほど近くに、その瀬戸物店はあった。

 この店も古くから開業しており、年数に相応しくどっしりと風情のある店構えをしていた。

 小皿、小鉢、銘々皿…店頭の棚に陳列された色とりどりの器の類に、まず蘭は目を奪われた。

 今日は飯椀を買いに来たのだが、こうして様々な種類の品が綺麗に並んでいるのを見ると、どういうわけかあれもこれも欲しくなってしまう。

 今は他に必要な器は特になく、どれも皆揃っているのに、買いたくなってしまうのだ。

 そんな彼女の性質を十二分に理解しているコナンは、特に声をかけず、同じように足を止めて待った。

 蘭は何とか気持ちを振り払うと、店内へと足を踏み入れた。

 入口から少し入った右手の棚に、目的のご飯茶碗が並んでいた。

 

「わあ、たくさんある…どれにしようかな……」

 

 圧倒されると、蘭は途方に暮れた声で呟いた。

 

「うーん…ねえ、コナン君も選んで」

「え、ボク?」

「うん……」

「じゃあ、何色がいいの?」

「うーん、やっぱり前と同じ、綺麗な桜色がいいな」

「模様とかは?」

「それはおまかせ。コナン君なら、ばっちり選んでくれるし」

 

 陳列棚の上から下から迷っていた視線をコナンに向け、蘭はにっこりと笑ってきっぱりと言った。

 

「えー……」

 

 さあ、責任重大だ。

 今度はコナンが棚の上から下から迷う番だった。

 とはいえ、蘭の好みは把握している…つもりだ。時々理解を超えるが、それもまた楽しい。コナンは見上げた首が痛くなるほど端から端までじっくり目を走らせると、口を開いた。

 

「じゃあねえ……蘭姉ちゃん、そこの真っ青な茶碗分かる?」

 

 コナンは人差し指で棚の上方を示した。これねと、蘭はその通りの茶碗に気付いた。

 

「そう、それの二つ下のお茶碗。そうそれ」

「わっ、綺麗」

「まだ待って。次はね、そこから右に二つ行った派手な模様の赤いの、それの隣のお茶碗」

「これも綺麗!」

「あと一つね、その上のお茶碗」

 

 選びに選んで、コナンは三つのご飯茶碗を蘭に提示した。それからぎくしゃくと下を向き、凝り固まった首に深いため息をつく。

 

「ありがとうコナン君、どれも綺麗……!」

 

 コナンが厳選した三つのご飯茶碗を前に、蘭はきらきらと目を輝かせた。

 当然だと、コナンは得意げに蘭を見やった。

 

「どうしようかな……」

 

 真剣な顔で蘭が呟く。

 どれにしようか、どれも綺麗。どれも可愛らしい。すっと広がった縁、手の中にしっかり収まる大きさ。持った具合も丁度いい。つるりとなめらかな表面、そしてこの淡い桜色。控えめな模様に至るまで、どこをとっても好みにぴったりだ。

 何て憎たらしいんだろう。

 三つを見比べながら、蘭は心の中で震え上がった。嬉しさに顔がどんどん緩んでいく。

 にこにこと輝く横顔をしみじみと眺め、コナンはもう一度ため息をついた。選んで欲しいと言われた時は、正直面倒に思ってしまった。どれでも同じだろう、好きに選べと。今は充分反省している。もし『面倒だから』と放棄していたら、彼女のとびきりの笑顔に会えなかったかもしれないのだ。こんなに晴れやかな顔が見られるなら、どんな苦労だって厭わない。

 

「どれもいいな、全部欲しくなっちゃう……うーん」

 

 蘭がうなる。

 それすらも可愛い。

 

「よ…し、決めた!」

 

 蘭が選んだのは、コナンが真っ先に目を付けた茶碗だった。

 

「これにするわ」

「うん、蘭姉ちゃんにぴったりだよ」

「わあ、嬉しい」

 

 女の顔がにこにこと光り輝く。

 少年の顔も同じくらいにこやかだった。

 

「……あ!」

 

 と、蘭の目が何かを見付け、きらりと輝く。

 目線を追ったコナンは、途端にぎくりと顔を強張らせた。この後に続く会話を予測し、逃れるにはどうすればいいか素早く辺りに目を走らせる。

 あれだ。

 同時に蘭が口を開く。

 

「ねえコナン君、せっかくだからコナン君も新しいお茶碗買わない?」

 

 予測した通りの第一声、コナンは懸命に伸び上がって手を伸ばし、傍にあった子供用の茶碗を指した。

 

「え、あ…そ、そう? じゃあボクこれがいいな!」

 

 スリッパの失敗を繰り返してなるものかと大急ぎで選んだのは、白地に青いラインがぐるりと引かれ、可愛らしいクマの顔が描かれた茶碗。いくら咄嗟だったとはいえ、よりにもよってこんな幼児用を選んでしまうとは…自分が情けなくなる。しかし、隣にあるウサギやカメよりはまだいくらかましだと、自分に言い聞かせる。

 

「あら、それも可愛いわね。こっちとどっちがいい?」

 

 案の定、蘭は仮面ヤイバーの絵が大きく描かれた茶碗を手に、不気味なほどにこやかに話しかけてきた。

 

「これでコナン君が、おかわり!って言ってくれたら嬉しいんだけどなあ」

 

 嬉しいという言葉に心がぐらりと揺れるが、断じて引くわけにはいかない。

 絶対に。

 クマの茶碗はがっかりだが、仮面ヤイバーだけはなんとしてでも回避せねば。

 このままでは、居候先の身の回りのものが全て仮面ヤイバーになってしまうではないか。

 助けて仮面ヤイバー。

 柄にもなく、コナンは心の中で叫んだ。

 それほど必死だった。

 先日買ったスリッパが、思いの他履き心地が良いのがまた憎らしい。

 けれど、嗚呼…

 

「ボク…こっち!」

「しょうがないなあ、じゃあコナン君はそれね」

 

 やれやれといった風に蘭は承知した。

 やれやれと言いたいのはこっちだと、コナンは肩を落とした。手の中の茶碗を見る。大きく描かれていないのがせめてもの慰め。よく見れば、綺麗な青いラインではないか。自分を納得させる。

 

「……あ」

 

 また、蘭が何か見付けたようだ。

 店の奥に向かって歩き出した彼女の後を、コナンはついていった。

 細長い店内の突き当たり、そこには、様々な和陶器のコーヒーカップが展示されていた。四角く区切られた棚の一つひとつに収められた、色とりどりのカップと受け皿。どれも淡く渋い色合いで、しっとりと落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

 向かって右の棚には酒器や湯呑が、左には蕎麦猪口の類が並んでいる。

 蘭の目は、コーヒーカップの棚に注がれていた。

 

 きれい

 

 ため息混じりに蘭が呟く。

 短期間ではあるが、陶芸教室で土に触れた記憶が過ぎったのだろう。淡い色彩に、蘭はじっと見惚れていた。

 その中で特に心惹かれた一つに、蘭は恐る恐る手を伸ばした。

 

「綺麗なみどり色……」

 

 森の中を思わせる深い色に感嘆の声をもらす。

 受け皿とカップをそれぞれしっかり掴み、蘭はそっと持ち上げてみた。均一ではなく、あえてむらを出したように濃淡が重なるみどりの色合いが、心をとらえて離さない。

 

「これ…これでコーヒー飲んだら、きっと美味しいだろうな」

 

 蘭は軽く飲むふりをしてみた。手に馴染む重みが心地良い。

 自然、頬が緩む。

 そんな女の横顔を見上げ、コナンは小さく頷いた。

 彼女がカップを透かして何を見つめているか、分からないほど馬鹿ではない。

 蘭はコーヒーと紅茶なら、紅茶を選ぶ。好んでコーヒーを飲む事はあまりない。そんな彼女が口にする『コーヒー』は誰が飲むのか。誰に美味しく飲んでもらいたいと思っているのか。

 愚鈍さを自覚してはいるが、こうまで言われて分からないほどの馬鹿ではない。

 コナンは瞬きをこらえて、じっと蘭を見上げていた。

 ほんのり浮かぶ笑みの何と愛くるしい事か。

 少し…非常に、頬が火照る。

 蘭はおっかなびっくり棚を見やった。今手にしているコーヒーカップの値段を確かめる為だ。

 

「……結構高いね」

 

 傍に寄りそう少年に小声で耳打ちする。

 高校生の身には、おいそれとは買えない値段だ。

 

「そうだよね……」

 

 仕方ないと、蘭は再び器に目を戻した。

 コナンはほんのわずか眉根を寄せた。そんな顔されたら何としても買ってやりたくなる。

 それでは意味がないのは、充分承知の上だ。

 蘭は、手に取った時のようにそろそろと元の棚に戻した。

 それから静かに口を開いた。

 

 いつか、自分で働いたお金で、アイツにプレゼントするわ

 

 しかし言ってから急に不安になる。

 馬鹿な事を言ってやしないか。

 出過ぎたまねではないだろうか。

 厚かましくも、趣味に合わない物を贈ろうとしているのではないだろうか。

 

「……よろこんでくれるかな」

 

 おどおどおとコナンを見やる。

 コナンは何も言えなかった。

 こんなにも想い寄り添ってくれる女に自分は何が返せるだろう。

 見栄を張って愚図ついて、失敗してばかりの自分に何が出来るだろう。

 頷くのが精一杯だ。

 それでも、表情は語っていた。

 蘭にはそれで充分だった。

 

「良かった」

 

 大事にそう綴る。

 コナンもまたそのひと言を、大事に心にしまい込んだ。

 

「じゃあコナン君は、あのお茶碗喜んでくれる?」

 

 突如話題が切り替わる。

 まだ、仮面ヤイバーに未練があるようだ。

 天国から地獄、コナンはしどろもどろにうなった。

 

「え! そ、それは……」

「正義の為に戦う仮面ヤイバーよ」

「でもボク、こっちがいい……」

「どーしてもダメ?」

 

 にやにやしながら迫ってくる蘭に弱り果てた顔で何度も目を瞬き、コナンはもう一度心の中で縋った。

 助けて仮面ヤイバー

 

「ら……蘭姉ちゃん、ボクお腹空いちゃったよ。早く買って帰ろうよ。おじさんもきっと待ってるよ」

「あー、ごまかした。もー、コナン君はしょうがないんだから」

 

 楽しくて仕方ないと満面の笑みで、蘭は肩を竦めた。

 頼むからごまかされてくれと、コナンはやけっぱちの笑顔を浮かべた。

 

「なんてね。せっかくコナン君は一生懸命綺麗なの選んでくれたのに、怒られちゃう」

 

 反省していると、蘭はにこっと笑った。

 小憎らしいほど清々しい笑顔。

 コナンは目を瞬いた。

 たったそれだけで、ほとほと参った心も気分が良くなる。許せてしまう。そんな自分に地団太を踏みたいが、すっかり晴れた後では気持ちも起きない。

 嗚呼…これだから。

 

「私もお腹空いちゃった。帰ってお昼にしよう」

「うん」

 

 コナンの分の茶碗を受け取り、蘭は奥の会計に向かった。

 店を出て、二人はいつものように手を繋ぎ歩き始めた。

 

「今日から何だかご飯が楽しみだな。新しい物買うって楽しいね」

「そうだね」

 

 ウキウキと弾む声にコナンは大きく頷いた。その気持ちはよく分かる。

 

「でも蘭姉ちゃん、いくら嬉しいからって食べ過ぎちゃダメだよ」

「えー、どうせ食いしん坊ですよーだ。何とでもおっしゃい」

 

 蘭は笑いながら、繋いだ手を大きく振った。

 あたたかく降り注ぐ笑顔を眩しく見上げ、コナンも負けじと手を振った。

 そして勢いに乗せ、言葉を彼女に届ける。

 

「ボクも一杯食べるよ、おかわりするくらい。蘭姉ちゃんのご飯美味しいもん!」

「わあ、コナン君嬉しい事言ってくれる」

 ありがと

 

 二つの茶碗を手に、二人は家路を急いだ。

 

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