意地悪な男と無邪気な女

 

 

 

 

 

「……ふぅー…い!」

 極楽ごくらく

 

 心の底から歓喜の声を絞り出し、小五郎は天を仰いだ。

 それを内心年寄りくさいと思いながらも、コナンもまた隣で同じように腹の底からため息をついた。

 

「やっぱ温泉はいいなぁ!」

 

 少し熱めの湯がじわじわっと身体の芯まで沁みてくる感じがたまらないと、小五郎は背後の岩に寄りかかりくつろいだ。

 

「眺めも最高だし、これで冷えた日本酒でもありゃ……」

 

 言う事なし…並々注がれたお猪口を傾ける仕草で心を満たそうとする飲兵衛の横顔を、コナンはやれやれと見上げた。それから正面に目を戻す。

 さすが宿自慢の露天風呂、壮観な眺めだ。

 渓流を挟んで臨む奇岩はまるで壁のようにまっすぐにそそり立って連なり、足元を覆う木々は紅葉の時期に相応しく朱や黄色に染まって彩りを添えていた。

 宿に到着後通された二階の客室からも、同じ光景が臨めた。

 この眺めを推すだけあって、部屋の窓は特別大きく作られていた。まるで迫ってくるほどに間近の眺めは素晴らしく、部屋に入った瞬間三人揃って感嘆の声をもらした。

 今頃彼女も、隣で同じ景色を見て同じように感激しているだろうか。

 目の端に映る女湯との仕切りをそれとなく見ながら、コナンは正面にそびえる奇岩をただただ凄いと眺めていた。

 

「よし、あったまったところで今日の分やるか」

 

 しばらくして、小五郎が右手を差し出してきた。

 

「あ、うん。ありがとおじさん」

 

 応えてコナンは左手を伸ばした。

 小五郎のこういうところはありがたいと、素直に感謝する。

 不在の時は除いて、いる時は必ずこうして左手のリハビリに付き合ってくれるのだ。普段は何かとそそっかしく、せっかちの癖に、こういう部分はのんびりとじっくりと見守る。無理強いする事もなく、過剰に褒める事もなく。出来れば出来た分だけ、良くやったと言ってくれる。

 むず痒いが、小五郎のこうした協力のお陰で少しずつ動かせる範囲が広がってきている。

 照れくさいが、本当にありがたいと思う。

 ゆっくり握っては開き、コナンは二十を目標に数え始めた。

 回数が半分の十回まで行った時、ふと小五郎が夕食の時間を聞いてきた。

 客室に通された際、一緒に聞いていたはずだろうにと内心で肩をすくめながら、コナンは七時だと応えた。

 

「お、そうだったな。よし、じゃ次八回目な」

「うん……て、おじさん」

 

 一瞬頷きかけて、コナンは眼を眇めた。

 

「わはは、引っかからなかったか」

「次、十一回目ね」

 

 有名な落語に倣って引っかけを繰り出してきた小五郎に小さくうなり、コナンは残り半分に取りかかった。

 

 

 

 のんびり露天風呂に浸かった後は、いよいよお待ちかねの夕食だ。

 ずらりと並ぶ山海の幸を前に三人は輝く眼差しで舌鼓を打った。

 今日は朝早くに家を出て、一日山道を歩きまわった。

 小五郎は、苦手なロープウェイと山歩きでへとへとに。

 蘭は、山歩きにボート漕ぎに張り切ってへとへとに。

 コナンは、山歩きというより山登りに近くてへとへとに。

 三人三様の疲れは、温泉でじっくり癒した。

 残る空腹を、いざこのご馳走で満たさねば。

 蘭は、箸置きの傍に置かれた二つ折の厚紙を手に取った。献立表だ。

 コナンも小五郎も同じように手に取り、目の前のご馳走と照らし合わせながら一つひとつ読みたどった。

 

「こりゃすごいご馳走だ、早速食おうぜ。まずは乾杯からだな」

 

 料理に追加して注文した冷酒とジュースのグラスを掲げ、三人は声を上げた。

 

「くぅ…うめぇ!」

「おじさん、ボク飲めないから食前酒あげるよ」

「お、サンキュー」

「私も、はい」

「悪いな…お、この梅酒も美味いな!」

「じゃあ代わりにお前ら、好きなのあったら取れ」

「やった、じゃあ私デザートもらお」

「蘭姉ちゃん…太るよ」

「何かいったかしらコナン君」

「え、ボク何も言ってないよ」

「ちゃんと聞こえてるんですからね。意地悪したらいけないのよ」

「えへへ、ゴメンなさい」

「コナンはどれがいいんだ」

「じゃあボク、その和え物がいいな」

「えーと、これだな。何だ、これっぽっちでいいのか…ついでだからこの刺身も食っとけ」

「え、そんなにいいよ」

「ガキは遠慮しなくていいんだよ。どんどん食って早く治せよ」

「うん、ありがとう!」

「どれから食べようかな。どれも美味しそう」

「さすがにこれだけ並んでると迷うな」

「蘭姉ちゃん、この蒸したの美味しいよ!」

 

 ご馳走を前に気分が高揚してか、三人はいつも以上に賑やかに言葉を交わしながら、何度も美味しいねと笑い合って夕食を進めた。

 

 

 

 飲めない食前酒と交換して二つに増えたデザートの最後の一口を、にこにこ笑顔で口に運ぶ隣の蘭を、コナンはにやにやと見つめていた。

 

「またコナン君、意地悪してる」

「えー、ボクただ見てるだけだもん。蘭姉ちゃん美味しそうに食べてるから」

「ウソおっしゃい。太る、太るって顔で笑ってたじゃない」

「そんなあ、蘭姉ちゃんの考えすぎだよ」

「……どうだか」

 

 小さく零し、蘭は食べ終えた器とスプーンとを置いた。

 並んで座る二人の前には小五郎が座っていたが、今はそこに姿は見えない。

 少し前から、座椅子の傍に横になってうたた寝を始めていた。好い加減で酔いが回ったのだろう、頬も額も見事に真っ赤だ。

 

「ああ、美味しかったあ。ごちそうさま」

 

 輝く笑顔で蘭は座椅子に寄りかかった。

 珍しい山海の幸を口に出来て上機嫌、その上温泉の効果も相まってか、頬がつやつやと光って見えた。

 そのせいで、コナンはついつい見惚れてしまう。

 今しがた不当に文句を言われたばかりだというのも忘れて、じっと見入ってしまう。

 

「もーう、どうせ食いしん坊ですよーだ」

 

 そんなコナンに、蘭は思い切り唇を尖らせそれから笑った。

 

「もー、蘭姉ちゃんは」

 

 おどけた顔もまた愛しかった。軽やかな笑い声も心地良かった。まっすぐ降り注ぐそれらをじっくり噛みしめ、コナンはおだやかに笑いかけた。

 注がれる眼差しの優しさに蘭の胸がどきりと高鳴る。

 反射的に目を逸らし、蘭は立ち上がった。

 立ちあがってから、自分に言い訳する。

 

「もう下げてもらってもいいよね」

 

 言いながら蘭はそそくさと部屋の隅に置かれた電話に向かった。

 食事が済んだら、フロントに知らせる決まりになっていた。

 

「うん、一緒に、お布団も頼もうか。おじさん、寝ちゃったし」

「そうね」

 

 二つの事項をフロントに告げ、受話器を置いた時にはすっかり気持ちも落ち着いていた。しかし、振り返って頷いたのがよくなかった。何気なく目が合っただけだというのに、また頬の辺りがかっと熱くなった。

 蘭は忙しなく立ちあがると、今度はテレビをつけに部屋を横切った。

 

「酔って寝るとお父さん中々起きないし、小さい音なら平気よね」

 

 音量を調節し、蘭はリモコン片手に自分の座椅子に戻った。

 

「そだね」

 

 どことなくそわそわした様子の蘭に小首を傾げながら、コナンは頷いた。

 

 

 並んで敷かれた三組の布団の右端で、小五郎が小さくいびきをかいて眠っていた。

 コナンと蘭は、部屋の一方に寄せられたテーブルをはさんでテレビに向かい、並んで座椅子に座っていた。

 それぞれの前には一つずつ茶碗が置かれ、食事の後に運ばれた小さな茶菓子が添えられていた。

 テレビからは、ひっきりなしに楽しげな笑い声が聞こえてきた。

 少々騒がしかったが、食べきれないほどのご馳走を平らげ、満腹になった後では、丁度良い子守唄のように聞こえた。

 始めは一緒になって笑っていた蘭も、次第にとろんとした眼差しになり、いつしか眠りかけていた。

 と、ひときわ大きな笑い声にはっと目が開く。反射的にテレビを見やると、ちょうど一番の盛り上がりに場面は差し掛かっていた。

 しばし成り行きを見守り、どっと沸いたところで蘭も一緒になって声を上げ笑った。

 

「今の面白かったね、コナン君」

 

 同意を求めて横に目をやると、そこには、座椅子に身体を預け心地良さそうに眠るコナンの姿があった。

 蘭は慌てて口元を押さえた。

 静かに眠っている、起こしてしまっていない事にほっとすると、蘭はにんまり口端を持ち上げた。

 間近でじっと寝顔を観察する。

 ほんの小さくだが、ぱかっと開いた口のせいか、少し間が抜けて見える寝顔。

 それがまた、無性に可愛い。

 蘭は声を抑えてくくくと笑った。

 

 今日は一杯歩いて疲れたもんね

 

 そこではたと、呼吸しているかどうかが気になった。

 余計な心配が頭をかすめる。

 慌てて蘭は鼻の下に指を持っていき確かめた。

 大丈夫…当り前だが、ちゃんと息をしている。

 

「うん……」

 

 するとそれがむず痒かったのか、コナンが無意識に鼻の下をこすった。

 持ち上がった手は、力なくぱたりと落ちた。

 まだ眠っているのだ。

 今度こそ声を上げて笑いそうになる。

 しようもなく愛しい。

 さっき彼が言った事…ただ見ているだけという言葉の意味が、よく分かる。

 こんなに大切なもの、いつまでだって見ていたいではないか。

 思った途端、身体の芯が幸いで満たされじわっとあたたかくなる。

 そんな蘭の中に、ささやかないたずら心が降ってわいた。

 気持ち良く眠っているのに邪魔をするなんてとんでもないと一度は否定するが、どうにも欲求には勝てず、蘭は人差し指を伸ばすとコナンの頬にそっと押し当てた。

 ぷくっと柔らかく、弾むようなほっぺたの感触がたまらない。温泉の効果も相まってか、つやつやと輝くようだった。

 可愛らしい、少し小憎らしい。

 何より。

 

 ああ、大好き

 

 蘭は軽くつついたり撫でたり、思う存分好きを味わった。

 と、ついにコナンが目を覚ます。

 

「なにし……なにすんの蘭ねえちゃん」

 

 何してんだよ…言いかけてはたと気付き『コナン』に切り替え、しょぼつく目を瞬かせながら蘭を見上げる。

 

「んー、べつに」

 さっきのお返しかな

 

 頬をぴかぴかと輝かせながら蘭は笑い、眠たげで不機嫌そうなのも気にせずコナンのほっぺたをつついた。

 

「もー…やめてよぉ」

「やあだ。いいじゃない」

 

 コナンは思い切り口をへの字に曲げた。

 顔が熱く感じるのは気のせいだ。全身が熱いのは気のせいだ。きっと食後だから熱いんだ。いや、熱くない。やっぱり熱い。彼女の触れるところが一番熱い。

 

 ……ちぇっ、自分だって意地悪してるじゃねーか

 

 しかし当の本人はきっと、これが意地悪だなんて思ってもいないに違いない。

 コナンは心中密かに悪態をついた。

 彼女はいつだってこうして二人を同時に見てくれている。自分だって同じだが、それでも中々納得出来ない事もある。

 無抵抗だからって無邪気にはしゃぐ蘭が憎たらしい。

 恐れる物なくはしゃぐ蘭が嬉しい。

 彼女を守れている証。

 彼女に守られている証。

 たまらなく嬉しい。

 そして悩ましい。

 そんな目で見るな。

 そんな顔するなよ。

 不純にまみれた自分が情けなくなる。

 こんな苦悩を抱えているなんて思いもよらないだろう彼女が憎たらしい。

 それ以上に眠い。

 嗚呼悩ましい、眠い。

 せめぎ合いを抱えながら、コナンは小さく「もう」とうなった。

 

 

 

 翌朝、しっかり眠れたか記憶が定かでないコナンは、ささやかな仕返しにと、蘭の朝食の膳に自分の小鉢の納豆を無言で乗せた。

 今度こそ意地悪をしてやる。

 しかし好き嫌いのない彼女、それではてんで仕返しにならないのが悔しい限り。

 それが証拠に、ありがとうなんて無邪気に礼を言ってくる。

 

 嗚呼だめだ…やっぱりこの女には敵わない

 

 苦手な物の代わりにと、海苔をくれる蘭の笑顔にコナンは降参だと微笑んだ。

 

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