スリッパと記念日

 

 

 

 

 

 曇り空、雨こそ降っていないがどんよりと空気は重たく湿っぽい休日の朝。

 朝食後、ジメッとした空気に相応しく男二人は事務所でダラっと過ごしていた。開けた窓から時折入ってくる風はやや冷たく爽快に感じるので、まだエアコンをつけるまでには至っていない。

 元気なのはいつだって蘭。

 メモ用紙とペンを手に二階と三階を行き来しては、日用品の補充を書き付けていた。

 蘭は事務所のキッチンにきびきびとした動作で向かうと、来客用のコーヒー類もメモに書き足した。それからトイレを覗き、そろそろ切れそうな物を一つ、二つ。

 ひと通りメモを済ませて事務所に戻ると、先程入ってきた時と全く同じ姿勢で座ったきりの小五郎とコナンが目に入った。二人とも、一ミリたりとも動きはない。

 さすがに見かねて蘭は口を開いた。

 

「ちょっと二人とも…そんなだらけて座ってたらカビ生えちゃうわよ!」

 

 両手を腰に当てはっぱをかける。

 小五郎はわずかに椅子を軋ませて蘭を見やると、かったるそうに口を開いた。

 

「……だってよ、なーんか身体重たくて、動くのが億劫なんだよ」

 どことなく頭も痛いし

 

 小五郎の言葉に、ソファにだらんと座っていたコナンは全くその通りだとだるい表情のままこくこく頷いた。いつもなら膝にある漫画雑誌も、今はどうも読む気がしないと脇に退けていた。小五郎が天候のせいで頭の痛みを覚えるのと同じく、左手がじいんと重く痛むのだ。

 

「もー、そういう時こそしゃきしゃき動く! 血のめぐりが良くなって、元気出てくるから。頭痛だってなんだって一発で治るわよ」

 

 蘭は手にしたメモ帳の一枚目をぴりっと勢いよく切り取ると、小五郎のデスクにすっと差し出した。

 

「お父さん、ヒマなんだったらこれ買い物お願い」

 

 そして二枚目も同じくぱっと切り取り二つ折にしてポケットに収めると、今度はコナンを振り返る。

 

「コナン君は、私と一緒に別の買い物付き合って!」

 

 有無を言わさぬ蘭の声に二人は揃ってため息をついた。

 

「……へいへい」

「……はーい」

 

 そしてこれまたお揃いの、腹に力が入っていない気の抜けた声で返事をした。

 

「もー……」

 

 蘭は苦笑いを零した。

 同じ部屋で寝起きをし、同じ釜の飯、同じ空気の中で生活しているせいか、のろのろと支度を始める男二人の仕草がどこか似通っているのだ。背中の曲がり具合、力の抜けた首の倒れ具合、足の運び。まったくもう…だらけた仕草にまだるっこしくなるが、おかしくもあった。

 

「んじゃ行ってくる」

「お願いねお父さん」

「準備出来たよ、蘭姉ちゃん」

「じゃあ行きましょうかコナン君」

 

 はつらつとした声と共にさっと伸ばされる女の手。

 

「うん」

 

 頷いて半ば無意識に、条件反射で握り返してからはたと、コナンは目を見開いた。それから少し照れくさそうに唇を曲げる。

 すっかり馴染んだ位置。

 なのにいつでもはっとする位置。

 傍から見ればだらしなくにやけた面で、コナンは蘭と共に事務所を出た。

 

 

 

 向かうは、事務所から程近くのスーパー。一階は食品売り場になっており、二階は生活雑貨や衣料品を扱っていた。

 蘭はまず二階に足を向けた。

 入り口脇にあるエスカレーターに乗り、おりたところでメモをコナンに渡す。

 

「コナン君チェックお願いね。まず何だっけ……洗剤かな?」

 

 カートにカゴを置き、尋ねる。

 

「そう、食器用洗剤だね」

 

 コナンは受け取ったメモの一行目を読み上げ、それを三本と付け足した。

 蘭は頷いて顔を上げ、天井から吊るされた売り場案内のボードを頼りに歩き出した。

 常用しているスリムなボトルの洗剤は本日の割引品に該当しており、安く買える事を喜びながら蘭はカゴに三本入れた。

 

「それから次は……三角ネットだったかな」

「当たり。これも三つだね」

 

 本人が書いたのだから当り前だが、コナンは記憶している蘭ににっこり笑いかけ向こうの棚だと指差した。

 それからも二人は、当たり、外れと言葉を交わしながら売り場をめぐり買い物を続けた。

 

「箱のティッシュが二つと…トイレ用のが二つ」

 

 カートの下段にかさばるそれらを積み込み、蘭はすっくと背を伸ばした。

 と、目の端をワゴンに山積みとなったスリッパがかすめた。

 

「あそうだ!……スリッパも」

 

 忘れていたと、蘭が声を上げる。

 コナンは一旦ワゴンを見やり、メモに目を落とした。

 買い足す物はあと二種類。しかしスリッパの文字はない。

 

「書いてはないけど、買っとく?」

「うん、台所で使ってるスリッパがね、底がはがれかけてペタペタいうようになっちゃったの」

 

 少し重くなったカートをよいしょと回転させ、蘭はワゴンに近付いた。

 ワゴンに山積みのスリッパ。ツルンとした素材の物、硬めの生地、フワフワと柔らかそうな物様々で、色の種類も豊富に沢山のスリッパが無造作に折り重なっていた。アニメのキャラクターが描かれた物や、パンダや亀、ミツバチの形をした物まである。

 

「だからコナン君、良さそうなの選んでくれる?」

「え、ボクが?」

「そうよ。コナン君のは私が選んであげる」

「え、いいよ」

「一緒に新しくしましょ。コナン君のも大分くたびれてたしね」

「ああ、うん……」

「えーと……あ、これ! 決まり!」

「……って、仮面ヤイバーかよ……」

 

 一点の曇りもない、満面の笑顔で差し出す蘭に嫌というのは難しい。非常に難しい。コナンは引きつりそうになる頬を何とか動かし笑顔を浮かべた。

 

「じゃあコナン君、私の分お願い」

「……うん。分かった」

 

 不承不承頷いて、コナンは伸びあがってワゴンを覗き込んだ。

 

 

 

 スーパーを後にした時、蘭の両手には大荷物。コナンは片手に軽い物だけが入った袋をさげていた。中身はコーヒーフィルターや三角ネットといった物だ。

 

「蘭姉ちゃん、ボクもっと持てるよ」

 

 会計後、袋を分ける際言った言葉をコナンは再度繰り返した。これではあまりに頼りない。何しろ、片方の手にしか持っていないのだから。

 

「うん、でも今は左手に障るから駄目。まだ重たい物は持っちゃいけませんってお医者さん言ってたでしょ。治ってからお願いね」

「でも……」

「じゃあ、このスリッパお願い」

「……うん」

 

 蘭の差し出す袋、スリッパふた組が入っている袋を、コナンは渋い顔で受け取った。表情がスッキリしないのは、結局押し切られる形で自分用のスリッパを、子供から大人まで大人気のヒーロー仮面ヤイバーのスリッパにさせられた事と、もう一つ。

 

「……これじゃボク、来た意味無いじゃん」

 

 情けないと顔をしかめ、コナンはしょんぼりとした声で言った。

 

「そんな事ないわよ」

 

 すっかり気落ちした顔になった少年に明るく笑いかけ、蘭は続けた。

 

「二人で買い物出来て楽しかったし、何より今日はコナン君にスリッパ選んでもらった記念日よ」

 

 胸を張って述べる蘭にポカンとする。声も出ない。

 歩くのが精一杯といった顔で、コナンは女の後を必死についていった。

 

「記念日って……」

 

 ようやく出てきたのはその言葉。

 たかがスリッパだろ…コナンは眼を眇めて蘭を見上げた。

 

「……そんなんでいいの?」

「そんなのもありよ。今日からお台所に立つの楽しくなるもの」

 コナン君の選んでくれたスリッパ、綺麗な色だし、柄とか好みにぴったりよ!

 

 蘭はスリッパを指差すと、目を輝かせ言った。

 彼女が何を好むか、どんな物を喜ぶか、その点についてはちょっと自信があると、コナンは胸の内でこっそりと自画自賛した。

 そこではたと気付くものがあった。事務所でだらしなくくつろいでいた時に身体を支配していた重い痛みが、今はすっかりなくなっていた。彼女の言う通り身体を動かしたから、スーパーの店内が涼しかったから…否、彼女とこうしているからだ。楽しく買い物をしたおかげだ。彼女が些細な事で喜ぶように、自分もまた、この些細な事が力となるのだ。

 コナンは半ば無意識に口端を緩めた。

 

「じゃあさ、この次買い替える時は…新一兄ちゃんと二人でだね」

「……やあねコナン君。アイツとコナン君と、三人よ」

 

 当然とばかりにあっけらかんとして蘭が言い放つ。

 祈りのこもった目がコナンを捕える。

 

「……うん、三人だね」

 

 受け取って、コナンはしっかり頷いた。

 

「そしたらね、アイツには重い物ばっか持たせちゃお。今までほったらかしてたお返しよ。アイツがひーひー言うくらい持たせてやるんだから」

 

 いたずらっ子の顔で企む女がたまらなく愛しくて、コナンは何か言わずにいられないとばかりに張り切って口を開いた。

 

「新一兄ちゃんいっぱい持つよ。蘭姉ちゃんが手ぶらで困るくらいいっぱいね」

 

 そうだ、彼女の隣に戻れたなら、何であろうと自分が持ってやる。密かな決意を込めて告げる。

 

「でもやっぱりちょっと可哀想だから、一緒に持って帰ろうかな」

 

 断固たる決意を、蘭のあっさりとした言葉があっさりと吹き飛ばす。

 コナンは一瞬複雑に眉をしかめたが、この時も込み上げてくるのは喜びだった。

 

「……じゃあ、三人でひーひー言いながら持って帰るんだね」

「そうね、それで、オメー、ちょっと買い過ぎだぞ、なんて言われちゃったりね」

 

 光景を想像しているのだろうか、蘭の瞳が一際明るく輝く。

 コナンはそれを眩しそうに見つめ、にっこり笑った。

 

「あー、何ニヤニヤしてるのよコナン君。どうせ、蘭姉ちゃんはいつも山ほど買い物するから…とかでしょ。悪うございましたねえ」

「え、そ…ボクそんな事思ってないよ」

「いーえ、今の目はそう言ってました!」

「違うってばあ!」

「じゃあ何よ!」

「え、あの、そのね! えーと……」

「ほら、言えないって事はやっぱりそうなんじゃない! どうせいつも買い過ぎますよーだ!」

「だ、だから違うってば!」

 

 赤くなったり青くなったりしどろもどろの言い訳は、事務所の階段にたどり着くまで続いた。

 

「さあもう後ちょっと、頑張って!」

「うん……」

 

 両手に提げた重たい荷物をものともせず、軽い足取りで階段を上っていく頼もしい蘭に、コナンはそっとため息をついた。ふと、手に提げたスリッパが目に入る。半透明の袋を透かして見える、仮面ヤイバー。

 また、ため息。

 なのに次にはもう頬が緩んでくるのは、どうした事か。

 今日からの『お手伝い』はきっと今まで以上に楽しい。

 

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