桃と杏のゼリー

 

 

 

 

 

 休日の昼下がり。

 清々しい休日の昼下がり。

 蘭は、窓のカーテン越しに差し込む陽光を、ベッドの中から恨めしそうに睨みつけていた。

 といっても眼差しは弱々しく、睨むというよりはぼんやり見つめているといった方が近かった。

 いつもならば鋭く射抜く眦が今日に限って勢いが無いのは、昨夜から続く熱による気だるさが原因だった。

 咳が出て眠れない、腹痛がひどくてつらいといった症状はなく、熱と気だるさが重く続くこの流行りの風邪は、小五郎から始まったものだ。

 どうやら依頼人からもらったらしく、何日か前の夕飯時、いつもならば夕飯時三本は軽く空ける缶ビールを、一本、それも半分近く残した事から異変に気付いた。

 

 あー…もダメだ、俺は寝る

 

 その日は早々に就寝し、翌日小五郎は一日床に臥せっていた。

 その甲斐あってか根性か、次の日の夕飯時には、いつも通り元気な姿を見せた。いつも通り元気過ぎて、飲酒の量を控えさせるのに苦労したほどだ。

 家族に一人でも具合の悪い者がいると心配になるもので、これでひと安心と胸を撫で下ろしたのも束の間、今度はコナンがもらい風邪に臥せる事になった。

 ならば次は自分の番だと蘭は予防を心がけたが、一つ屋根の下にいてはそれも限界があったようで、こうして晴天の休日を寝て過ごす結果となった。

 眉間にしわが寄るほど険しい顔付きで蘭は目を閉じた。

 

 あーあ……

 

 声にならない声でぼやく。

 人一人吹き飛ばせそうな勢いでため息をつく。

 悔しくて悔しくて、もったいなくてたまらない、それらを十二分に込めて、蘭はため息をついた。

 本当なら今日、コナンと出かけていたはずだった。

 本当なら今頃、米花駅の駅ビルに新しく出来た美味しいとクラスで評判になっている欧風洋菓子店で、二人楽しく美味しいケーキをつついているはずだった。

 

「……のになあ」

 

 蘭はかすれた声でぼやいた。

 行こうと約束したのは、小五郎が風邪をもらう前。

 この日曜日になったら、一緒に行こうと約束した直後、小五郎から始まりコナンに風邪は移った。それでも彼は、熱にだるそうにしながらも日曜日までには絶対治すから行けるよと、自信たっぷりに言った。

 見事その通り回復し、日曜日を心待ちにしていたというのに、不甲斐ない自分のせいで延期になってしまった。

 蘭は目を開き、床に白く浮き上がる窓からの陽光を憎々しげに見やると、寝返りを打った。

 せめて雨空ならよかった…いや、きっと、雨の日でも楽しく傘を並べて出かけていた事だろう。

 横向きに丸くなっているのが窮屈になり、蘭は少し苛々した様子で仰向けになった。

 身体がだるく、思うように動けないのが腹立たしい。

 ベッドの中でしばらくそうして情けなさに悶えていると、ノックの後コナンが遠慮がちに顔をのぞかせた。

 調査で昼過ぎに外出した小五郎の代わりに三階の留守を預かっていた。ずっと静かだったので、本を読んでいるか眠っているのかと思っていた。

 

「蘭姉ちゃん、具合はどう?」

「……移るから入ってこない方がいいよ」

 

 開いた扉から覗き込むコナンに首を曲げて、蘭はぼそぼそと低く言った。

 

「ボク、もう治ったから平気だよ」

 

 コナンは静かに扉を閉めると、枕元に歩み寄った。

 蘭は天井を見上げふうと息をついた。

 

「蘭姉ちゃん、具合悪いというより機嫌悪そうだね」

「そんな事ないよ…だって」

 

 コナンの方は見ず、天井へ視線をさまよわせたまま蘭は答えた。

 

「今日行けなくなっちゃったから、ふてくされてるんでしょ」

「……だって」

 

 ずばり言い当てられ、蘭は気まずそうに目をよそへ向けた。

 

「あと、良いお天気なのにもったいない…って思ってるでしょ」

 

 それも当たりだった。

 自分の気性をよく知っているコナン…新一の優しい物言いが耳からじわりと沁み込む。

 

「……何か用?」

 

 彼の声はいつだって優しく可愛らしい。だのに返事が刺々しくなってしまうのは、悔しいやら情けないやら、申し訳ない気持ちがぐるぐる渦巻いてどうしてよいやら分からないからだ。

 コナンは気にせず言葉を続けた。

 

「うん、美味しいの買ってきたから、一緒に食べようと思って」

 

 手にした小さな紙袋を掲げてみせる。

 白い小さな手提げ袋には、今日二人で行く予定だった店のロゴが印刷されていた。病人一人残して家を出るのは非常に迷ったが、何もありませんようにと祈りながら行きも帰りも全力で走ったお陰か、異変は起こらなかった。

 

「……!」

 

 読み取って、蘭は頭を枕から浮かせた。口元にほんのり笑みが浮かぶ。

 コナンはそれを嬉しげに見ながら続けた。

 

「ボクも今日一緒に行きたかったし…でも、蘭姉ちゃんと一緒に食べられるならどこでも同じかなって思って」

 

 不機嫌そうだった目付きが和らいだのが嬉しい。走りどおしで乱れた息を玄関先で収めながら、要らないと突っぱねられたらどうしようかと心配になった分、本当に嬉しい。無理して走りどおしたせいで手のひらの傷や、ぶつけたこめかみがずきずき痛んでいたが、彼女の笑顔一つで綺麗に消えた。

 なんて威力。

 

「コナン君……」

 

 蘭は少し重そうに手足を動かしながら起き上がった。

 コナンは慌てて、心配そうに手を差し伸べた。

 

「気を付けて」

「大丈夫、嬉しくて何か元気出てきちゃった……わざわざ買ってきてくれたのね」

 

 ありがとうと、蘭が手を握る。

 

「やっぱりまだ熱っぽいね」

 

 コナンは手のひらから手首にかけて触診し、眉尻を下げた。

 

「食べたら治っちゃうもん」

 

 自信たっぷりに蘭は言った。

 言葉を受け取り、コナンは微笑んだ。

 

「蘭姉ちゃんが…前に蘭姉ちゃんが言ったからさ。どこでも、思い出に変わりはないって」

 

 いつか自分が言った言葉を俯き加減で喋る、どこか照れくさそうなコナンの仕草に、蘭はきらきらと瞳を輝かせた。

 

「……もーコナン君は」

 

 その後は喉が詰まり、胸が詰まり、言葉にならなかった。笑顔を浮かべようにも、何故か口がへの字になって上手くいかない。

 

「もーう……」

 

 少し震えた声が蘭の口から零れる。

 また泣いた。

 また泣き虫が出た。

 彼と美味しい物を食べて、楽しい思い出を残そうとしているのに、何故泣くのだろう。

 だらしない自分。

 コナンは少し困った顔をしたあと、やや置いてにっこり笑いハンカチを差し出した。

 

「蘭姉ちゃんが泣きやんだら、頂きますしようかな」

 

 言って、袋から一つずつゼリーを取り出す。

 可愛らしいリボンが付けられ、ふた付きのプラスチック容器には、桃と杏の絵が描かれたシールが貼ってあった。薄らとピンクがかったゼリーを透かして、細くカットされた桃と杏の果肉が見える。

 蘭はハンカチを受け取ると、ぎゅうぎゅう目尻に押し当て無理やり涙を引っ込めた。

 

「はい、頂きます出来るよ、コナン君」

 

 歯を食いしばり、少々険しい笑顔を浮かべてみせる。

 その、引きつった表情にコナンは小さく吹き出し、スプーンと一緒にゼリーを渡した。

 

「もう大丈夫?」

「ええ、もう泣いてないもの」

 美味しそう

 

 蘭はゼリーを受け取り、もう平気だと顎を上げてみせた。ところがだ、手にしたゼリーがひんやり冷たい、その些細な出来事一つで、眦からまたぽろりと涙が零れた。

 

「だめー…もう」

 

 自分に焦れて蘭が零す。

 

「ゆっくりでいいよ。ボク先に食べてるから」

 

 コナンはいたずらっ子の顔で笑うと、わざとがさがさとゼリーの包装を解く振りをしてみせた。

 

「え、だめだめ……」

 

 蘭は慌てて引き止め、恨めしそうに見やった。

 

「冗談だよ。ちゃんと待ってるから一緒に食べよう、泣き虫蘭姉ちゃん」

「……いじわるコナンくん」

 

 蘭はぼそぼそと言い返した。

 

「あー…おっかない蘭姉ちゃん」

「……すぐどっかいっちゃうコナンくん」

「ああ……」

 

 切り札を出されてはそれ以上返せず、コナンは悔しそうに歯噛みした。

 

「うそ……優しいコナン君」

 

 蘭はそっと言った。

 降り注ぐ甘い声甘い眼差しをしみじみと受け取り、コナンは笑顔を浮かべた。

 

「わたし…いつもしてもらうばっかり……」

 

 そんな事ないと少年が首を振る。

 

「蘭姉ちゃんがいるから、出来るんだよ」

 だからうんとお礼しないと

 

 コナンは更に今までの蘭の気遣いを挙げ、一つひとつ礼を言った。いつも何事にも全力で取り組み、励む一つひとつを称賛した。それでもまだまだ足りないのだ、彼女には感謝してもしきれないのだ。

 何せここでこうして生きていられるのは、楽しく笑っていられるのは、他でもない彼女のお陰。したたかでおっかなくて優しい、彼女の強い力。

 

「早く元気になってね、蘭姉ちゃん」

 

 二人分の気持ちを乗せてコナンが言う。

 蘭はまっすぐ向いて頷いた。

 

「ありがとうコナン君」

 

 彼の言葉はこんなにも励みになる、胸がいっぱいになる。ようやく止まった涙の残りを拭ってふうと息をつく。

 

「もう泣いてないよ」

「うん、じゃあ頂きますしようか」

「うん!」

 

 二人は笑顔でいただきますと頷き合った。

 

 すっごく美味しそう、桃と杏のゼリーなのね

 うん、一番人気ってあったから、買ってきたんだ

 ありがとうコナン君、今度こそ二人で行こうね

 行こうね、楽しみにしてる

 ……おいしーい!

 

 蘭の目がパッと見開かれる。

 あ、熱が吹き飛んだ…コナンにはそう見えた。直前まで、嬉しそうだがやはり病人らしく目をしょぼつかせていたのが、ひと口食べた途端飛び散った。悪い物全部が、ぱっと飛び散ったように表情が変わった。

 

「本当に美味しい! ありがとね」

 

 はしゃぐ女の声は何より心地良かった。

 こんな美しい物を残せる事に感謝しながら、コナンもゼリーをひと口味わった。

 

「!…ホントに美味しいね!」

 

 二人で食べるとろけるような甘さにびっくりしながら、コナンは蘭と同じ顔で笑い合った。

 

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