美味しくないもん

 

 

 

 

 

 しゅうしゅうと白い湯気を出し始めたやかんを、蘭は食い入るようにじっと見つめていた。

 やかんはやかん、銀色ステンレスで平底、大ぶりの取っ手は黒という、何の変哲もないやかん。

 使い込んだにふさわしくあちこち細かな傷が付いているが、質素ながら頑丈な作りのやかんに味わいを与えている。

 そのやかんで湯が沸くのを、蘭はじりじりといいそうなほどの眼差しで見守っていた。

 隣に立って同じように湯が沸くのを待っていたコナンは、蘭の形相をこっそり見やり、ひっそりため息をついた。

 時刻は十時を少し過ぎたところ。

 眠るにはまだ幾分早いが、濃いめのコーヒーを飲むにはいささか遅い時間。

 それでもどうしてもと拝み倒されては、得意のうんちくも程ほどに「はい」と答えるしかなく、結果こうしてコーヒーを入れる準備に追われている。

 きっかけは、ついさっきまで一時間ほど見ていた特集番組。

 毛利蘭が最も嫌う物でありながらどうしても無視出来ない物…心霊物。

 蔵出し特選と銘打っただけあって、再現映像は演出小道具等々こだわりが感じられた。

 それらはコナンの目には良く出来た特撮程度に映ったが、人一倍怖がりの蘭には、一つひとつが心臓を縮みあがらせるにふさわしい、筆舌に尽くしがたい恐怖映像に仕上がっていた。

 

 なら見なきゃいーのによぉ…

 

 コナンが心中ぼやく。

 まったく、そんなに怖いのなら見なければいいのに、この幼馴染は小さい頃からいやだの怖いだの言いながら見ずにはいられない、厄介な性質を持っていた。

 今日もそうだ。

 新聞の番組欄に見つけた時から、嫌な予感がしていた。

 昼を過ぎたところで、今夜いつものメンバーで飲み会どうでしょうと小五郎に誘いが入り、二つ返事で小五郎が電話を切った時、更に予感は深まった。

 コナンは再び、ひっそりとため息をついた。

 今しがた終わった苦行の時間にため息をつく。

 それは蘭に向けてではない。

 彼女が怖がりながらも怖い物に惹かれてしまうのはもう随分前から知っている事、それについては今更呆れるも嫌うもへったくれもない。

 ありもしない物、作り物に過剰に悲鳴を上げる点にはいささか辟易しているが、それにしたって単に高い音が耳に辛いというだけで、一切遮断したいほど毛嫌いしているわけではない。

 まだ何も起きていない場面で、その後の展開を予想し怖い怖いとひっきりなしに呟く点についても同じだ。

 うるさいとは思わない、むしろ、よく息が続くものだと感心する。

 辛いのは一点だけ。

 苦行だと思うのは、彼女の行為。

 目を釘づけにする映像に竦み上がる時、ひとのぬくもりを得られると安心するからと抱き付かれるのが、何より辛い。

 悩ましい。

 思考はかき乱される、夜眠れなくなる、まったくもって悩ましい。

 

 分かってねーだろなー…

 

 恨めしくさえ思って、コナンはまた息を吐いた。

 それでも、頭上から心底申し訳なさそうなか細い声が「ゴメンね」と降り注いでは、それ以上責める事など出来なくなる。

 恐らく彼女が謝っているのは、怖がりの癖に見た事、うるさくした事に対してで、自分が何について困っているか、落ち込んでいるかなど考えも及ばないだろう…コナンは出来るだけ何ともない風に見上げ、首を振った。

 的確に見抜かれ、謝られても、それはそれで大いに困るが。

 

「……ありがとね」

 

 手間取らせる事を詫びて、蘭は一心に礼を言った。

 

「いいよ、蘭姉ちゃんがすっごく怖がりなのは知ってるし」

「まったく…やんなっちゃうね」

「でも、蘭姉ちゃんからそれなくなったら、蘭姉ちゃんじゃないもんね」

 

 コナンはいひひと横目に笑って蘭を見やった。

 蘭はほんのり頬を染めると、むくれた目付きでコナンを見やった。自分をよく知っている誰かのからかいが嬉しい、悔しい、また嬉しい。

 

「でもだって…だって、ホントに怖かったんだもん」

 

 少し甘える声音で、口の中ぶつぶつと呟く。言っている最中は何ともなかったが、言い終わった途端急に寒気と共に恐怖の映像が脳裏にくっきりと蘇り、蘭はえもいわれぬ表情で震え上がった。

 もう駄目だとばかりにコナンに縋り付く。

 何をするでもなくコナンと一緒にキッチンに立ったのは、一人リビングで待っているのが嫌だったからだ。離れた途端何か来ると、事細かに想像してしまう。背後にいる、隅の方にいる、天井に貼り付いている…かもしれないと想像してしまい、すぐ傍に誰かいないと隙間に入り込まれそうでそれが嫌で、手持無沙汰ながらコナンにくっついているのだ。

 

「蘭ねえちゃ…くるしい」

 

 コナンがひしゃげた声を上げる。

 蘭は慌てて掴み直した。よく見もせずがむしゃらにしがみ付いたせいで、彼の襟元を的確に締め上げてしまっていたのだ。

 

「ごめん…ゴメン!」

 

 皺になってしまった襟を直しながら、蘭は半ば混乱したようにそわそわと立ったりしゃがんだりを繰り返した。

 

「落ち着いて蘭姉ちゃん。今はボクがいるから大丈夫」

「うん、うん……」

「用意出来たから、お湯入れて」

 

 蘭はまたこくこくと頷いたが、彼女だけが見える何かが彼女の行動を妨害していた。たった数歩離れたコンロに向かうのさえ躊躇する蘭にこそっと苦笑いを浮かべ、コナンは左手を掴んだ。

 

「ほら、これでばっちりだよ」

 

 どうすれば彼女を安心させられるか模索しながら、コナンは手を繋ぐ。

 

「うん、うん……」

 

 蘭は泣きそうになってこくこくと頷いた。

 散々ごたついた末ようやく一杯のコーヒーが出来上がる。

 蘭の分だけなのは蘭の希望だ。

 そして始めは、もっとうんと濃いのを希望していた。

 怖くて今日は眠れそうにないから、ならいっそ起きていると無茶を言ってコナンを困らせ、コーヒーで目を覚ましておくと一杯のコーヒーを望んだ。

 うんと濃いのを入れてねと言われたが、好ましくない事までほいほい聞くほどいい加減に思ってはいない。

 気付かれぬようこっそりと調整し、出来上がったと嘘をつく。繊細な舌を持つ彼女だが、この雰囲気と濃いコーヒーを入れたという暗示で、多少は騙されてくれるだろう。

 コナンは座卓に落ち着くと、つきっぱなしのテレビの音量を下げた。キッチンまで届かせ音で気を紛らわそうと、大きめにしていたのだ。

 今は、賑やかで馬鹿馬鹿しいバラエティが流れていた。

 これを見て気持ちを切り替えればよかったろうに、それだけ怖かったという事かと、コナンは隣の蘭を見やった。

 

「いただきます」

「どうぞ」

 

 蘭がカップを手にする。

 ふうふうと湯気を散らし、ひと口、ふた口、ゆっくりすする。

 

「あ、薄い、でも美味しい…ほんのり甘くて、ちょうどいい」

 おいしい!

 

 忙しない感想にコナンは小さく吹き出した。

 

「ちょうどいいでしょ」

「うん、ちょうどいい。でもうすーい」

 

 やはり騙されてはくれないか。ならばとコナンは口を開いた。

 

「それくらいでいいの。それに蘭姉ちゃん、ブラック飲めないでしょ。前にボクのちょっと飲んだ時『うわあ、にがーい!』って泣きそうになってたじゃない」

 

 苦いと言う部分で、コナンは大げさに顔を歪めてみせた。

 

「やだ、そんな顔してないわよ」

「してたもん、わぁにがあーい!」

 うえーって

 

 そして更に舌まで出しておどける。もちろん、実際にはこうまでひどい顔になってはいなかった。形良い眉を寄せ、少し泣きそうになった顔は実に可愛らしかった。思い浮かべると、愛くるしさに頬がゆるんでくる。が、先刻悩ませてくれたお返しだと、こっそり混ぜて大げさに滑稽さを強調する。

 

「もお、コナン君!」

「コーヒー美味しいでしょ」

「……美味しくないもん」

 あーおいしくない、薄いなあ

 

 わざと声高に美味しくない、美味しくないと繰り返しながら、蘭は美味そうにひと口ふた口とすすった。

 

「もー、美味しいくせに」

「あったりまえでしょ、コナン君がいれてくれたんだもの」

 美味しいに決まってるじゃない

 

 晴れやかなひと言がコナンの胸を打つ。

 見事な一撃。

 やっぱりこの女が好きだと思う瞬間。

 

「ありがとね、コナン君」

「……どういたしまして」

 

 打たれた胸から広がる幸いをしみじみと味わいながら、コナンは微笑んだ。

 

「はあ、やっとちょっと怖いのなくなったかな」

 

 ひと息ついたと蘭は肩を落とした。

 

「ねえ、どれが一番怖かった?」

「え、……言ってもどうせ、バカにするでしょ」

 

 アイツといっしょよ…分かってるんだから

 尋ねるコナンに小さく唇を尖らせ、蘭はよそに目をやった。

 

「バカになんかしないよ」

 

 真面目な顔でコナンが答える。

 蘭はそれを疑わしげに横目で見やった。ややおいてもごもごと口を開く。

 

「えっとね……三番目のメモの話」

「ああ、あの道聞いてくる女の人、気持ち悪かったね」

「そうでしょ! あの動き方とか、ああ……!」

 

 思い出すだけで身の毛もよだつと、蘭は両手でカップをぎゅっと握りしめ震え上がった。

 

「そんなに怖かった?」

「うん、ダメ…やっぱり今日は起きてる」

 

 とても眠れないと心なしか青白い顔で、蘭は低く呟いた。

 それは身体に毒だ、睡眠は何より重要な物。

 何としても安眠を約束しなくては。

 たとえ自分を削ろうとも。

 コナンは口を開いた。

 

「ねえ蘭姉ちゃん、じゃああの話に出てきた『俺』って誰なんだろうね」

「え……?」

 

 はっと胸を突かれたように、蘭は目を瞬いた。

 コナンは説明を始めた。蘭が一番怖いと挙げた話は、一番矛盾を含んでいる典型的な『作り話』だ。

 

「あの女の人に道を聞かれたら、皆、いなくなっちゃうんでしょ。じゃあ誰も、この話出来ないじゃない。だから『俺』って誰なんだろうね、って」

「……ああ!」

 

 蘭は大きく目を見開き頷いた。

 

「それから、二つ目のビデオの話」

「うんうん!」

 

 蘭はぐっと身を寄せた。

 乗ってきた事にほっとして、コナンは一つひとつの話から何故怖いと思ってしまうのかという部分を抜き取っていった。

 そして丁度コーヒーが尽きる頃、コナンの説明も終わりを迎えた。

 

「そっかあ!」

 

 全て聞き終えた蘭は、身も心も軽くなったと言わんばかりに目を輝かせ、コナンに何度も礼を言った。

 

「これで今日、ぐっすり眠れるね」

「うん!」

 

 しかし言う方も頷く方も、微かに予感を抱いていた。

 

 やはり今日は、一人で眠るのは無理なのではないか

 

 予感とも呼べぬ予感は、蘭が寝る前の用足しを済ませた後はっきりとする。

 行く前はまったく何でもない風だったのに、戻ってきた後もじもじと落ち着かぬ蘭の様子に、コナンは仕方ないなと軽く笑んだ。

 言い出しにくいものを言い出す前に相手に悟られてしまった事にかっと赤面し、蘭は半ばやけになって言った。

 怖がりなんだからしょうがないでしょ、と。

 

「はいはい、怖がり蘭姉ちゃんはもう寝る時間だよ」

 

 わざと呆れ顔になって、コナンはぶっきらぼうに言った。

 蘭はリビングの戸口から早足でコナンに近付くと、有無を言わさず手を握った。

 

「さあ寝ましょ」

 

 すると何か言いたげにコナンが見上げてきた。

 何も言わずただニヤニヤと見上げてくるのが憎たらしい。

 二人分の視線で、いたずらっ子のように見つめてくる。

 蘭は思い切り唇を尖らせた。

 

「な、なによ……甘えていいって、言ってくれたじゃない」

「言ったよ」

「じゃあ、いいじゃない」

「いいよ」

 

 落ち着き払った微笑、子供を諭すような物言いが癪に障る。

 しかし蘭は知らない。

 笑顔の裏で、やはり今夜も眠れないと新一が嘆いているのを知らない。朝の予感は大当たりだと、眠れぬ夜に涙しているのを知らない。

 余裕綽々なのが悔しい、何か仕返ししてやりたいと蘭が思うまでも無く、仕返しは成立していた。

 少し噛み合わないからこそ愛情が深まる。

 蘭はにこにこと、コナンは泣き顔を隠して、一つのベッドに仲良くもぐり込んだ。

 

「……ね、コナン君」

「なあに」

「コーヒー、ありがとね」

「うん、どういたしまして」

「ホントにね、美味しかったよ」

「そう言ってもらえるのが一番嬉しい」

「……私も嬉しい。お休みコナン君」

 

 お休みなさいと朝へ続く。

 

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