甘ったれな君とボク

 

 

 

 

 

「……もーう」

 

 どうせそんな事だと思った…寝室のベッドに寝転がり、赤い顔して気持ちよさそうに寝息を立てる小五郎に含む響きで零した蘭の背中へ、コナンは苦笑いを浮かべてみせた。

 厳しく酒量管理する蘭の目をかすめ、欺き、隙をついて、夕飯前に缶ビールを一本、食事中も一本、食休みを終えて風呂に入り、風呂上がりのひと口がまた美味いんだと極上の顔でもう一本。その後、ちょっと、五分、横になるだけとベッドに入れば、そのまま眠ってしまうのは当然の結果と言えよう。

 蘭は扉を閉めると、コナンを振り返った。はたと目が合う。大きな眼帯で左目を塞がれた顔には、どこかおっかなびっくりといった表情が浮かんでいた。

 それを見て、蘭はすぐさま軽い笑顔で首を振った。

 

「やだ、コナン君はそんな顔しなくていいのよ」

「うん、でも……」

 

 コナンは口の中でもごもごと呟き、うかがうように上目遣いに見やった。

 

「だって、その怪我はコナン君が悪いわけじゃないでしょ。お父さんも」

 

 でも、と蘭は続けた。

 今夜は自分が責任もってコナンの面倒をみる…そう宣言しておいて、いつものように酔い潰れ布団に入ってしまった小五郎には困りもの。

 扉越しに微かに聞こえてくる元気の過ぎるいびきが、何とも憎らしい。

 

「まったく、調子いい事言っちゃって」

 

 ふうと肩を落とし、蘭は台所へと向かった。氷嚢を用意する為だ。

 打撲はまず冷やす事が第一。

 厚めのビニール袋にひと掴みほど氷を入れ、水を入れ、口を縛った簡易の氷嚢を作り、コナンの待つリビングに戻る。

 

「じゃあ、冷やそうね」

「……うん」

 

 隣に座った蘭を見て、タオルに包まれた氷嚢を見て、コナンは少々歯切れ悪く頷いた。理由はもちろん、眼帯を外すのが躊躇われての事。ぶつけて、腫れて、青あざが出来たと言葉では伝えたが、どのように変化したのか、どんな面相がそこにあるかはまだ見せていない。実際目にしては彼女のこと、きっとひどい驚きと衝撃を受けるに違いない。

 帰宅後一連の出来事を話した際は、眼帯で隠されていたお陰かそれほどショックを受けた様子はなかった。

 おとうさん、気を付けてよね…たしなめる言葉にもそう棘はなく、小五郎から伝授された切り札は次回に持ち越し、持ちかえった土産のあんみつも一緒に楽しく食べる事が出来た。

 が、そんな時間があるほどにこの瞬間を迎えるのが怖かった。

 

「……大丈夫よ」

 

 コナンの表情と愚図つきで察したのか、蘭はいささかむすっとした顔で言った。

 コナンは、向かい合う瞳をじっと見つめた。

 蘭も負けじと見つめ返し、待った。

 

「うん」

 

 一つ頷き、コナンは眼帯を外した。

 恐れていた反応は、やってはこなかった。

 ただいたわる眼差しが優しく降り注ぐ。

 

「……ひどい顔になっちゃって」

 

 そう言って蘭は額の辺りをそっと撫でた。

 

「そんなにひどい?」

「うん、ひどい。そうね……夜道で会ったら、飛んで逃げるくらい」

「ええ、蘭姉ちゃんこそひどいや」

 

 そう返しながら、コナンは無性に嬉しくなるのを感じていた。からかわれて嬉しいというのもおかしな話だが、冗談を言えるくらいは冷静な彼女の心が、嬉しかった…感謝と安堵を繰り返す。

 

「だって、こんなに腫れて、紫色になって……」

 

 言いながら、蘭は眉根を寄せた。しかしすぐに振り払い、しっかと目を見開いてコナンを見やる。夜ごと彼と学んでいるというのに、いつまでも不甲斐ないままは申し訳ない、情けない。教わって、身につけたものがきちんと実になっていると証明しなくては。蘭姉ちゃんと一緒だと、何にも心配ないからね…その言葉に報いなくては。それには、いちいちビクビクしたりおどおどしたり、しない。これなら安心して任せられると言ってもらえるよう、頑張らねば。

 蘭は居住まいを正すと、タオルに包んだ氷嚢を手に手招きした。

 

「じゃあ横になって」

「……へ?」

 

 膝を叩いてここへと手招きする蘭に、コナンは素っ頓狂な声を上げた。

 膝を叩いてここへ…つまり彼女の膝枕。

 

「手で押さえてたら疲れちゃうでしょ、乗せてる方が楽じゃない」

 だから早く

 

 いらっしゃいと手招きする蘭に息が詰まる。

 

「……うん」

 

 たっぷり十秒経ってから頷いて、コナンはぎくしゃくと仰向けに頭を預けた。しかしどこを見てよいやら、テレビに壁に忙しなく目線を向ける。今まで大して痛みなど無かったのに、どういう訳か急にぶつけたこめかみがずきずきと痛み出した。

 

「高さは丁度いい?」

「……うん」

 

 喉に詰まる声を何とか押し出す。

 ややあって、そっと氷嚢が乗せられた。さらりとしたタオルを通して、少しずつ冷たさが伝わってくる。

 

「冷たい? ぬるい?」

「気持ちいい」

 

 ほっとするひんやりとした感触に安堵の声で答え、コナンはようやく身体の力を抜いた。

 

「良かった、じゃあしばらくこのままね」

 

 膝にかかる重みににっこり笑んで、蘭は言った。

 

「……お願いします」

 

 そろそろと目を上げると、見つめてくる優しいスミレ色とぶつかった。また、こめかみにずきりと痛みが走った。

 申し訳ない、気恥ずかしい、情けない、でも嬉しい、でもみっともない…次から次へと対立が浮かびぐるぐると渦を巻く。

 布越しのひんやりとした感触が腫れを鎮めようと頑張るが、痛みもしぶとく抗ってコナンを悩ませた。何故、ぶつけた箇所だけでなく顔全体が熱くなっているのだろうか。まったく、どこまでも未熟な自分。

 と、頭上から蘭の楽しげな笑い声が聞こえてきた。軽やかに転がるそれは、テレビから溢れる賑やかなお喋りを受けてのものだろう。

 聞いた途端、気持ちが一気に膨れ上がる。

 

「あ、あ…蘭姉ちゃん、ボクもテレビ見たい」

 

 楽しそうな笑い声がどうにも我慢出来ず、コナンは声を上げた

 

「目が疲れるからだぁめ」

 

 素気無く一蹴され、やはり駄目かとため息をもらすと同時に、またもころころと可愛らしい笑い声が頭上で弾けた。

 また、気持ちが熱く膨れる。

 どんな面白い番組がやっているのか、彼女の声は本当に楽しげで、聞いているだけで幸せになる。

 一緒に並んで見たら、笑ったら、もっと幸せになるだろう。

 

「ねー蘭姉ちゃん……どうしてもダメ?」

 

 氷嚢を押さえる蘭の手を掴んで軽く揺すり、コナンは再度挑んだ。

 

「もー、ダメだってば。今日くらい、我慢しなさい」

 

 もぞもぞと落ち着かないコナンを叱り付け、蘭は見上げてくる片目をきつく睨み付けた。そしてすぐに顔をテレビに戻し、わざとらしく「わあ、何これおもしろーい」と笑い声を零す。

 

「……蘭姉ちゃんの意地悪」

 

 唇を尖らせ、コナンはぼそりともらした。右目に精一杯の不満を浮かべて突き付けるが、彼女はそれも見ずにひと言。

 

「コナン君の方が意地悪じゃない」

 

 さらりと軽く受け流す。

 すぐさまコナンは抗議の声を上げた。

 

「えー? ボク、意地悪なんて――」

「してるしてる、コナン君いっつもあれとかこれとかすっごい意地悪してるー」

 

 どこか楽しむ声音が、コナンの頬をいたずらっ子のようにつつく。

 コナンはますますふくれっ面になって、低く宣言した。

「……もー、あんまり言ってるとホントに意地悪するよ」

 しかし今夜は、どうあっても彼女が一枚上手のようだった。

 

「へえー、たとえばどんな?」

「え? え、えと、えーと…あ、蘭姉ちゃんの晩のおかず先に食べちゃうとか…えーと、お弁当のおかずこっそり食べちゃうとか……」

 

 膝の上に寝転がり、しどろもどろで答える少年を見つめ蘭はくすくすと笑みを零した。

 

「わあ、コナン君いじわるうー」

 

 からかう女に頬がかっと赤くなる。あわせてこめかみもずきりと痛んだ。

 圧し掛かる鈍痛に少し顔をしかめ、コナンは続きを口にした。

 

「だ、だから、あんまり言ってるとホントにイジワルするよ!」

 

 迫力がないのがいけないのか、蘭は相変わらずくすくすと笑っていた。

 もっと何か言うべき事はないかと頭の中を探るより先に、とどめをさされる。

 

「コナン君ったら、食べるのばっかり」

 

 指摘され、コナンははっと息を飲んだ。

 

「あ! あ……うん」

「私のご飯美味しい?」

「うん美味しい!――じゃなくて!」

「ふふ、嬉しい! じゃあ明日も、とびっきり美味しいご飯作るね」

 何がいい?

 

 穏やかな声音と共に頭をそっと撫でられる。途端に恥ずかしさも対抗心も消え失せて、笑いたくなる愛しさが胸を一杯に満たした。

 コナンは込み上げるまま静かに笑んで、口を開いた。

 

「……何でもいい」

「えー、張り合いないなあ。何でも作るから、リクエストして」

「ホントに、何でもいい。蘭姉ちゃんのご飯は何でも全部、美味しいもん」

 

 片目でしっかり見据えてにっこり笑う。

 蘭も同じくにっこりと、少しむず痒そうに頬を緩めた。

 

「……もう、コナン君は、言う事が上手いんだから」

 

 まっすぐ見上げてくる綺麗な瑠璃色に目の奥がじわりと熱くなる。

 蘭はそっと氷嚢を退かすと、腫れた左の目蓋をまじまじと見つめた。それからそっと…文字通り腫れものにさわる手つきで眉の辺りに指を当てた。

 

「冷え過ぎてないかな」

「うん、丁度いいよ」

 

 蘭の表情を注意深く見守りながら、コナンは答えた。帰宅後洗面所でこっそり確認した際には、目蓋どころか目の周り一帯が黒ずんだ紫に染まり、大げさな特殊メイクのごとくぷくっと膨れていた。たんこぶや小さな青あざくらいなら額にこしらえた事はあったが、こうまで見事に、人相が変わるほどの怪我を負ったのは初めてで、彼女を驚かせてしまうのが申し訳ないと思う一方、劇的な変化を面白いとも思った。

 もちろん、今は、ひたすら済まなく思っている。

 

「じゃあもう少し冷やしてようね」

「うん」

 

 再び氷嚢が乗せられる。またじんわりと冷たい感触がやってきて、痛めた箇所を優しく鎮めてくれた。

 

「……痛かったでしょ」

 

 いたわる声にコナンは小さく首を振った。

 

「おじさんにも言ったんだけどね、おじさんのゲンコツの方が五倍は痛いかな」

「まあ」

 

 二人は声を合わせてくすくすと笑った。

 と、聞こえたのかはたまた偶然か、寝室からごおんとひと際大きな小五郎のいびきが聞こえてきた。

 コナンと蘭は揃って寝室の扉を見やり、顔を見合わせ、それから「しぃ」と人差し指を立てて声無く笑い合った。

 ひとしきり肩を震わせて、ふっと、コナンの眼差しが慈しむそれに変わる。

 目にして蘭は小さく息を飲んだ。

 

「……また、心配かけてゴメン」

「ううん」

 

 小さく首を振り、言葉の代わりに熱心に眼下の少年を見つめる。

 今度はコナンが小さく息を飲む番だった。

 

「ね…おまじない……してもいい?」

 

 肩から零れた髪を耳にかけ、蘭が恐る恐る尋ねる。

 

「……届いたらね」

「あら、私結構身体柔らかいのよ」

「知ってる」

 

 知ってて言ったとコナンは目で告げた。

 

「……珍しい」

 

 蘭が小さく呟く。そんな事を言うなんて、珍しい。無性に嬉しくなる。

 蘭は一旦背を伸ばすと、おまじないに相応しく神妙な顔付きになった。

 

「じゃあ……痛いの痛いの、とんでけ」

 

 それからぐっと背を丸め、コナンの額目指して屈む。が、あとほんの少し足りない。

 

「んん、もうちょっと」

「がんばれー、蘭姉ちゃん」

 

 やっぱり届かないと小憎らしく笑う彼に一矢報いようと、蘭はむきになって首を伸ばした。早くしないと、唱えた効果が消えてしまう。

 

 躍起になったその時。

 

「もーらい」

 いたずらっ子の声と共にコナンが頭を持ち上げ、唇にちょんと触れる。

 

「!…」

 

 一瞬のキスに驚き、笑い、蘭は嬉しげに肩を揺すって「やられた」と悔しそうに告げた。

 

「これで、すぐ治っちゃうね」

 とコナン

 

「そうね」

 と蘭。

 

 また二人で声を揃え、くすくすと笑い合う。

 

「いつもありがとう、蘭姉ちゃん」

「コナン君の為なら何でも」

 

 降り注ぐ愛くるしい声、愛くるしい笑顔。これ以上のものはないと、全身を満たす幸いにコナンはうっとり浸った。きっと、今、だらしなく顔がゆるんでいるに違いない。カッコ悪ぃ…けなす声が頭の中で起こるが、たまにはこんな夜もあっていいと一大決心が言い返す。コナンはそちらの味方に立って、素直に蘭に寄りかかった。

 たまにはこんな夜も、いい。

 

「じゃあ、新一兄ちゃんは?」

「アイツ? そうねえ、十回に一回…うーん、百回に一回くらいなら、してもいいかな」

 

 わざとつれない言葉を選び、蘭は斜めに見下ろしにやりと笑ってみせた。

 けれど探偵の目はごまかせない。

 言葉はつれないが、誇らしげな輝きが瞳に宿るのに充分心が満たされる。嬉しさでいっぱいになる。

 コナンはしみじみ噛みしめる。

 ここには間違いなく、二人…三人がいるのだ。

 たとえどんなに変わろうと変わらないものが、彼女によって証明される。

 嗚呼、だから自分はこの女を。

 

「あれれぇ、蘭姉ちゃん顔赤いよ」

 

 そう言うコナンもまた間抜けなほど真っ赤な顔をしていた。

 

「こ、コナン君だって……もー、そういう事言わないの」

 やっぱりコナン君、意地悪ね

 

 蘭は畳に落ちた氷嚢を手にすると、少々乱暴に左目に乗せちゃぷちゃぷと袋を揺すった。少しくらい痛かろうと、知った事か。

 

「だってさっき、意地悪するよって言ったもん」

「内容が違うじゃない」

「今思い付いた」

「もーう」

 

 蘭は唇を尖らせきつく睨んでみせるが、まっすぐ熱心に見つめてくる眼差しには勝てない。折れるしかない。

 何せ目にした途端、むくれてひねくれた気持ちが一瞬で溶けてなくなってしまったのだから。

 大好きと、気持ちがどこまでも膨れ上がる。

 けれど言葉に出すのは少し癪…代わりに蘭は斜めに見やって、微笑んだ。

 

「さ、もう少し冷やして、それから寝ましょ」

「うん。ありがとね、蘭姉ちゃん」

「コナン君の為なら」

「ホントに……サンキュ」

 

 そっと零れた声が、眼差しが、照れくさそうに感謝を告げる。

 テレビの音に紛れるほどささやかな声だったが、蘭の胸に強く鮮やかに刻み込まれる。

 コナンからの、新一からの…蘭にとって特別で大切な存在からの大切なひと言。

 

「……どういたしまして」

 

 蘭はそんな二人に向けて静かに返した。

 本当に、珍しい夜。

 素直に寄りかかられるのを嬉しいと思い、もっと甘えてほしいと思う一方で、しようもなく恥かしくなって、上手く受け止めきれず、蘭は何度も目を瞬きながらテレビへと向けた。

 そして流れてくるお喋りに合わせて無理やり笑う。

 それを聞いては、コナンはもう我慢ならなかった。

 

 ねー…蘭姉ちゃん、ね、ねーえ、ちょっとだけでいいから、ボクもテレビ見たい

 ダメったらダメ

 

 蘭は震える声でねじ伏せた。

 頬が熱い…きっと赤くなっているだろう顔を彼から隠そうと、蘭は片目だけに当てていた氷嚢で目隠しをする。

 

「ちょ、もー蘭姉ちゃん…意地悪しないで見せてよぉ」

 いいでしょ

 

 諦め悪く、コナンは阻む蘭の手と格闘を始めた。じたばたと足を踏み鳴らし、何とか振りほどこうと精一杯もがく。

 

「意地悪なんかしてないわよ」

 我がまま言わないの

 

 蘭も負けじと押さえ込み、暴れるコナンとの攻防を続けた。

 そこへまた、ぐお、と小五郎のいびきが割って入った。

 

「ほらぁ、お父さんも今日はダメって言ってるわ」

 

 上手い具合にこじつけて、蘭はとどめとばかりにコナンに言った、

 

「……ちぇ」

 

 ありったけの不満をひと言に込めて、コナンは渋々従った。そして、扉の向こうで眠る小五郎にぼやく。蘭がやってくれるからって甘えて、とっとと寝ちまった癖に…そう心の中で零す本人も、今宵は女に甘えていた。

 けれどたまには、こんな夜もあっていい。

 

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