だけど君と

 

 

 

 

 

 しとしと しとしと……

 灰色の空から微かな音を立てて降り注ぐ雨の向こう、折り重なる目に鮮やかな緑の葉のてっぺんに乗った、しっとりと柔らかいまん丸な薄紫、群青、白、濃紅、色とりどりの紫陽花を、蘭は静かに眺めていた。

 時折強い風が吹いて、雨宿りのために借りている軒先や、周りの木々草花に降り注いだ雫をぱらぱらと薙いでいく。

 吹き乱された髪を撫でながら、蘭は空を振り仰いだ。

 今頃、彼はどこにいるだろうか。

 

 

 

 

 

 夕暮れ時。

 心配していた雨がついに降り出し、傘のない生徒たちは小降りの内にと、校舎を出るやてんでに走って家路を急いだ。

 蘭も同じで、今日に限って折りたたみの傘を携帯してこなかった事を悔やみながら、雨の中走り出した。

 その背中に、親友である園子が入っていけばと声をかけるが、これくらいなら平気と蘭は手を振った。

 相変わらず元気だねえ

 呆れたように笑いながら、園子は後ろ姿を見送った。

 その頃事務所では、机にもたれてうたた寝する小五郎の横で、コナンが心配そうに窓から通りを見下ろしていた。

 ついさっき降り出した雨に、通りを行く人々は皆慌てた様子で小走りに駆けて行く。

 通りに並ぶ店の軒先に避難する者、家路を急ぐ者、開き直って濡れて帰る者、様々だ。

 朝の予報が外れたせいで、傘を用意している者はそう多くない。

 彼女は、傘を持っていっただろうか。

 人の群れに姿を見つけようと、コナンは、いつも帰ってくる道に目を凝らした。

 けれど、彼女は一向に現れない。

 本当は今すぐ飛び出したいのだが、行き違いになってしまってはいけないと、ぐっとこらえる。

 電話をしてこないのは、傘を持っているからだろうか。

 背後を気にしながら、コナンは伸び上がって眼下を見やった。

 その時、タイミングを計ったように電話が鳴った。

 それまで静かだったせいもあって、突如鳴り響いた電話のベルに肩が大きく跳ねる。

「ふぁ……?」

 寝ぼけ声を上げる小五郎の鼻先から受話器を掠め取り、コナンは応えた。

「あ、コナン君?」

 聞こえてきたのが待ち望んだ彼女のものと分かった途端、無意識に頬が緩んだ。

「蘭姉ちゃん、今、どこ? 傘は持ってる? 大丈夫? 濡れてない?」

 心配していた分、いくつもの言葉が口から飛び出る。

 そんなコナンにくすりと笑い、蘭は言った。

「大丈夫よ。雨のかからない所にいるから。ねえコナン君、悪いんだけど、傘を持ってきてくれる? 今日うっかり忘れちゃって」

「う、うん。すぐ行くよ」

 笑われた事に自分自身でも照れ、電話でよかったとコナンは内心胸を撫で下ろした。

「今どこにいるの?」

 心なしか熱くなった頬を撫でながら訊ねる。

「うん。雨のかからないところ」

「……え?」

 場所を言わない事に面食らい、思わずかすれた声をもらす。

「蘭、姉ちゃん?」

 何故隠すのかと、コナンは受話器から聞こえてくる音に耳を澄ませた。

「迎えに来て、コナン君」

 明るい彼女の声に、一瞬、考えうる悪い推測が頭を過ぎったが、頭のどこかでそれは違うと悟る。

 けれど、では何故、彼女は場所を言わないのだろう。

「蘭姉ちゃん…今どこにいるの?」

 恐々と、コナンは聞き返した。

「じゃあね、ヒント。紫陽花が見えるところ。すっごく綺麗だよ。ちゃんと咲いてる」

「紫陽花? あじさい公園の事? それとも米花公園……」

「じゃあコナン君、待ってるから」

 思いつく限り並べようとするコナンの声を柔らかく強引に遮り、蘭は一方的に通話を切った。

「あ、蘭姉ちゃ……!」

 止める間もなく声は途切れ、聞こえてくるのは無機質な音だけとなった。

 コナンは受話器を置くと、すぐさま事務所を飛び出した。蘭が愛用する小花柄の青い傘を手に、階段を駆け下りる。

 勢いに任せ通りに出たコナンだが、蘭がどこにいるのか、見当がついたわけではない。

 考えるより先に走り出すのは探偵としては失格だが、こと蘭に関しては、頭より先に身体が動いてしまうのだ。

 感情に任せてしまう事もままある。

 今も、雨をよけてどこかで困っているかと思うと、いてもたってもいられなくて、とにかく走り出してしまった。

 行き交う人の群れを縫って駆けながら、コナンは先刻蘭が言った言葉を思い出す。

 ヒントは、雨のかからない、紫陽花が見えるところ。

 紫陽花と聞いてすぐに思いついたのがあじさい公園だが、蘭は違うと言った。よく行く米花公園でもない。

 他に雨のかからないところで紫陽花が見える場所といえば神社や学校が思いつくが、今の時期、探せばあちこちで紫陽花は咲いている。米花ホテルの正面玄関にも、紫陽花が植えられているのを見た覚えがある。

 けれど、雨は彼女が学校を出る頃に降り出したのだから、わざわざそんな遠くまで行くとは思えない。

 つまり、学校から事務所までの間で、紫陽花が咲いていて、雨のかからない場所に蘭はいる。

 ……はずだ。

 纏わりつく湿った空気の中、息を切らせて尚もコナンは走った。

 背中がじっとりと汗ばむ。

 身体が元のままなら、こんなくらいで息が上がったりしないのにと、思うより弱い身体に悪態をつきながら先を急ぐ。

 信号を渡り、歩道橋を越えて、コナンは米花図書館にたどり着いた。

 入口傍の花壇の前で足を止め、まだ荒い息に肩を上下させながら辺りを見回す。

 図書館の周りをぐるりと取り囲む花壇には、毎年紫陽花が植えられる。そしてここは、探偵事務所と学校の丁度中間点でもある。

 見渡す限りには、蘭の姿を見つける事は出来なかった。ならばと、図書館の中へと入る。

 しかし、一階から三階のどこにも、蘭はいなかった。

 ばたばたと忙しなく走り回る子供に、近くの人間が迷惑そうに見やる。しかし今のコナンには、気ばかり急いて構う余裕もなかった。

 もう一度図書館の周りを探すが、人影はない。

 走り通しで胸がずきずきと痛んだが、それ以上に、蘭の事が心配だった。

 空を振り仰ぐ。

 雨は止みそうもなく、辺りはすっかり暗くなってきている。

 人の通りも少なくなって、一人、自分が来るのを待っているだろう蘭は、どんなに心細い思いをしていることだろう。

 いてもたってもいられなくなり、また闇雲に走り出してしまいそうになるのを、コナンは辛うじて思いとどまった。

 痛む胸を押さえ、蘭の言葉を思い浮かべる。

 

 紫陽花が見えるところ。すっごく綺麗だよ。ちゃんと咲いてる――

 

 蘭……

 

 

 

 しとしと しとしとしと……

 白く丸い石をいくつも並べて囲った大きな花壇は、主がいなくなって随分経つせいか、それまでの整然とした草花の並びは崩れて、雑草も大分目立っていた。

 時折、主に代わってお人よしな者たちが訪れては花壇を整えていくお陰で、思うより荒れていないのは幸いといえるだろう。

 また彼らは、季節ごとの花を植えたりもした。

 雨の多い今の時期に合わせて植えた紫陽花の苗は、時々しか手を加えられない心配をよそに立派に育ち、色とりどりの花を咲かせて花壇を賑わせていた。

 人は雨に、時に憂鬱な気分になる事もあるが、紫陽花はそんな雨の中でも変わらずに、雫を光らせまっすぐ天を向いて咲いていた。

 そんな紫陽花を眺める、一人の少女…蘭。

 しゃがみ込んで目の高さより上に紫陽花を置き、雨の向こうの薄紫に視線を注ぐ。

 ふと、顔を上げる。

 大きくせり出した半円形のバルコニーは、ちょうど良い雨よけとなった。

 また視線を戻し、雨の雫を纏った群青に目を細める。

 ブツブツと文句を零しながらも手伝ってくれた親友と、小さな身体で一生懸命手伝ってくれた少年の顔が、胸に過ぎる。

 彼は今、どこにいるだろう。

 はっきり場所を告げず、ヒントだけで、ここに来てくれるだろうか。

 来てくれるかな……

 少し不安そうに、蘭は空を見上げた。

 始めは、ちょっとしたいたずらのつもりだった。

 そして、ささいな仕返し。

 いつもいつも、気付けば姿が見えなくなって、散々探してようやく見つけたと思っても、またふらふらっといなくなってしまう。

 そんな彼に対する、他愛もない仕返し…

 こっちがいつも、どんな思いで探しているか、少しは気にしなさいよ――

 けれどそんな意地悪な気持ちは、電話を切ってすぐに後悔に変わった。

 彼は、決して、困らせようと思ってやっているわけではないのだ。

 出来る事が少なくなってしまった制限された世界で、それでも懸命になって立っている。

 そんな彼の気持ちも考えず、下らない思い付きで困らせてしまうなんて。

 空から落ちる雨に合わせて、蘭は俯いた。

 辺りはすっかり暗くなって、一人、自分を探して走り回っているだろう彼は、どんなに心細い思いをしていることだろう。

 いや、きっとものすごく怒っているに違いない。

 雨の降る音だけが聞こえる大きな庭の隅で、蘭はしゃがみ込んだまま、小さく息をついた。

 と、降る雨に混じって、ごくかすかに足音が迫ってくるのが耳に届いた。

 大人のそれではない。そう、身体の小さな子供の、走る足音。

 蘭は顔を上げた。段々近付いてくる足音に、胸の鼓動が次第に早まる。

 石畳の水溜りをぱしゃぱしゃと踏んで、足音の主は蘭の前に姿を現した。

 小花柄の青い傘を小脇に、コナンは足を止めた。

「あ……」

 どれだけ走ったのか、肩で息をつき大きく喘ぐ姿に、蘭は言葉を失った。

 名前を呼ぼうにも、うまく声に出せない。

 何を言っていいのか、分からない。

 風に逆らって走ったせいで膝から下は濡れており、泥跳ねがいくつも出来て靴下を汚していた。

 大人用の傘を抱えて走るのは、さぞ大変だっただろう。

 強張った表情のまま何も言えずにいる蘭と対照的に、コナンはにこりと笑顔を浮かべた。

 自分の推測が当たっていたのと、彼女が無事な事にほっとしたのと、両方に。

 蘭が口にしたヒントは、最後の一言こそが重要だったのだ。

 紫陽花にばかり気を取られ、すっかり頭から抜けてしまっていた。

『ちゃんと咲いてる』

 冷静に考えれば、すぐに思い出せた。

 五月の始め頃、蘭と園子の三人で、この庭…自分の家の庭に紫陽花の苗を植えた事を。そして、あまり世話が出来ない事を蘭が気にしていた事も。

 そう、冷静であったなら、こんなに彼女を待たせずに済んだのだ。

 コナンはすぐに笑みを消すと、一歩ずつゆっくりと蘭に近付いていった。

 すぐに思い出せなかった自分を、きっと彼女は怒っている事だろう。

 いつもいつも、待たせてしまう自分を。

 ようやくいつもの距離まで近付いた時、二人の間を一際強い風がびょうと吹き抜けた。

 まっすぐに落ちる雨の雫はざわっと乱れ、紫陽花の葉がばさばさと音を立てる。

「きゃっ……」

 髪をないでいく風に、蘭は思わず目を閉じた。その合間に、足音が近付いてくる。

 気配にはっと目を開けると、すぐ間近にコナンの顔が迫っていた。まっすぐ向かってくる強い眼差しに、心が後悔で一杯になる。

「!…」

 何かを伝うよりも早く、抱きしめられる。

 動けずにいると、彼の手が、風で乱れた髪を優しく梳いてくれた。

 何度も、何度も。

 小さな手で、少し雨に濡れた髪を優しく丁寧に梳いてくれた。

「待たせてごめんね、蘭姉ちゃん」

 手の中に髪を束ね、コナンは言った。

「ごめんね」

 どこか切ない響きで新一が繰り返す。

「コナン……君」

 いくつの思いを込めて紡がれるのかよくわかっているから、蘭はそれ以上何も言わず、自然浮かぶ微笑を顔にのぼらせて抱き返した。

 大丈夫、大丈夫。

 傍で待っていられるから、私は大丈夫。

 私こそ。

 ばかな事してごめんね。

 こんなに走らせて。

 心配かけて。

 意地悪して。

 ごめんね。

「……見つけてくれてありがとう」

 腕の中のぬくもりに頬を寄せ、蘭は安心しきった声で言った。

 意味合いの変わった抱擁に動揺し、コナンは慌てて身体を離した。

「は、早く帰らないと、おじさんきっと心配してるよ」

 赤くなった顔をごまかしてそっぽを向き、早口でまくし立てる。

「そうね。紫陽花も確認できたし、帰ろうか」

 蘭はすっくと立ち上がり受け取った傘を開くと、手を差し出した。

 目の前に近付いた綺麗な手に、コナンは何かを伝いかけ口を噤んだ

「……うん」

 戸惑いながら手を繋ぎ、歩き出す。

「あ、あのさ…蘭姉ちゃん」

 ぱしゃり、ぱしゃりと一歩ずつ踏みしめながら、コナンはゆっくりと顔を上げた。

「なあに?」

 向けられる眼差しを受け止めてから紫陽花を振り返り、穏やかに告げる。

「紫陽花…綺麗に咲いて、よかったね」

 その言葉に蘭は、ふっと笑みを顔に浮かべた。

「コナン君が手伝ってくれたお陰よ。園子にも、お礼を言わなくちゃね」

 慈しむように微笑む蘭に、コナンは瞬きを忘れて見入った。胸がほっと熱くなる。

 もう、怒っていないんだろうか。

 小さく安心する。

 

 待たせてしまったり、がっかりさせてしまったり、泣かせてしまう事が時にある。

 過ぎた好奇心のせいで心配かけてばかりだけど、いつでも傍にいると誓うから、ずっと君と過ごしていきたい。

 代わりになるなら、どんなに困らせても構わない。

 そして時々でいいから、笑顔を見せてくれたらと思う。

 

 紫陽花の咲く時期に紫陽花が咲いて、そんな当たり前の事にも喜ぶ君と、ずっと生きていきたい。

 

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