病弱探偵奮闘記-江戸川コナン-

 

 

 

 

 

 今日の夜は、餃子が食いてえな

 

 朝食時、三人揃っていただきますと箸を取ってすぐ、小五郎が言った。

 

「うん、餃子いいわね」

 

 蘭は軽く頷き、味噌汁の椀に手を伸ばした。作るのは好き、苦に思った事はないが、献立を考えるのに少々手こずる事もあった。だから、こうして何が食べたいと出してもらえるのはとてもありがたかった。

 ただここしばらくは、作る事も少々苦に感じているが。

 

「じゃあ、この前と同じ――」

「……いや、今日はうちで作ったのがいいな」

 

 持ち帰りも出来る中華料理屋の餃子を買ってくると言いかける蘭を遮り、小五郎は漬物を口に放り込んだ。

 浅漬けのキュウリをぼりぼり味わいながら付け足す。

 

「あそこの店も悪くねえんだが、やっぱり、うちで作ったのが一番だからな」

「うん、ボクも!」

 

 コナンは張り切って賛同の声を上げた。

 

「だよな!」

 

 分かっているじゃないかと、小五郎は居候に大きく頷いた。

 ただ蘭だけが、笑顔になり切れない複雑な顔をしていた。

 

「……じゃあ、今日は餃子ね」

「ボク、手伝うよ!」

「うん……ありがとうコナン君」

 

 隣に座る少年へ曖昧に顔を向け、蘭は言った。

 その顔はやはりいささか曇っていた。

 はっきりしない返事になってしまうのは、彼の手伝いが煩わしいからではない。役に立たないからではない。役に立たないなどとんでもない。彼は憎たらしくなるほど優秀で、飲み込み早く、何より毎日の支度を楽しい物にしてくれる大切な相棒といえた。

 ならば何故晴れやかな気持ちになれないかといえば、全ては彼の怪我にあった。

 ギプスも外れ、一日ずつ動かせるようになってきてはいるが、まだまだ制限は多く、不自由なままだった。無理をしてもいけないし、そもそも無理が出来るほど動かないのだ。

 そう、動かない。

 左手はまだ少ししか動かない。

 握り拳を作る事はおろか、皿一枚満足に掴めないのだ。

 だから、彼が今出来る『お手伝い』は本当に単純で、ともすれば手伝いとも呼べないものになっていた。

 悔しそうに悲しそうにしていたが、生来の負けん気で払いのけ、治ったら今までの分頑張ると約束する彼に自分も気持ちを上向ける。

 それでもやはり『お休みの間』の一人は寂しくて、作る事がつまらなくなり、ついつい、出来合いの物に頼るようになってしまった。

 そんなある日の今日、リクエストされた献立。

 一人で作れないわけではないが、彼を思うと少し気持ちが引っかかる。

 そこに飛び込んだ『手伝うよ!』そのひと言は、嬉しいと同時に重たいものを感じさせた。

 懊悩する蘭のよそに、男二人は夜の餃子に楽しみだと目を輝かせていた。

 

 

 

 野菜を刻む小さな手は、以前と何ら変わりなかった。少々お休みしても、鈍ると言う事はないようだ。

 まだ物を掴む事が出来ない左手には冷や冷やさせられたが、蘭はぐっと言葉を飲み込み見守っていた。

 出来ると自信たっぷりに、心配しなくていいと強気に笑うコナンを見ては、何を言う物が出るだろう。

 ニラにネギにキャベツ…綺麗に出来上がったみじん切りを挽き肉に加え、蘭は捏ね始めた。

 

「じゃあボク、向こうで用意しておくね」

 

 その間コナンは居間で包む皮の準備に取り掛かる。

 

「……うん、ありがとう」

 

 無駄のない、スムーズな分担作業。

 楽しい時間のはずなのに、蘭にはやはり奇妙な重たさが感じられた。

 

 なんだろう…何やってるんだろうわたし

 

 愚図つく胸に苛立ちながら、蘭はぎゅうぎゅうとボウルの中のタネを捏ね続けた。

 じきにすっかりよく混ざり、今日も上出来と自賛したくなるツヤに仕上がった。綺麗に丁寧に刻まれた野菜のお陰だ。それ以上捏ねる必要はなく、蘭は手を止めたが、その先の動きにどうしても移れなかった。

 次は、このボウルを居間に運んで、彼と分担しながら餃子を包む。

 自分が皮にタネを乗せ、それを彼が包む。

 その作業で下ごしらえは終わる。

 終わるのだが、蘭は動き出せずにいた。

 

「蘭姉ちゃん、用意出来たよ」

 

 耳に飛び込んだ陽気な声が、蘭の肩を震わせる。

 

「……はーい、こっちも出来たよ」

 

 説明のつかない、どこから湧いてくるかも分からないもやもやを胸の内に隠し、蘭はボウルを居間へと運んだ。

 腹の奥底が妙に重たい。

 嫌だな、嫌だ。何が嫌なのか分からないが、とにかく嫌だ。

 

「じゃあ……いつも通り、私が皮に乗せるから、コナン君包むのお願いね」

 

 やけに喉につかえる言葉を何とか紡ぎ出し、蘭は向かいに座った。

 

「分かった」

 

 こくりとコナンが頷く。

 座卓の上には、包んだ餃子を乗せる為のラップが綺麗に敷いてあり、用意された皮はすぐに取れるよう一度一枚ずつにはがして重ね直した跡が見られた。

 いつも通りだ。

 以前と変わらない準備万端、細やかでさりげない彼の気配り。怪我をする前と今と全く変わらない。

 ただ、彼の左手だけが違う。

 蘭は思い切ってスプーンを手に取った。ひと匙分ずつ皮に乗せ、後を彼に任せる。

 五回ほど繰り返したところで手を止める。

 止まってしまったと言うべきか。

 どうしても、彼の動きが気になってしまう。

 動かせない彼の手の動きが気になって、目がそちらへ行ってしまう。

 じっと、瞬きも忘れて蘭は見守った。

 無駄のない動きで器用に手早く縁を折りたたんでいた手と同じ手とは、とても思なかった。

 憎たらしくなるほどの美しさも優雅さも、そこにはなかった。

 

「……それでもさ」

 

 不意にコナンが口を開いた。

 コナンの手元に視線を集中させていた蘭は、はっとなって顔へと目を上げた。

 少しやけ気味な笑みに混じる確かな強さが、そこにあった。

 何をか言うのかと耳を澄ますが、コナンはそれ以上口を開く事はなかった。

 代わりに出来上がった一つを蘭に差し出す。

 

 まあまあだろ

 

 目だけでそう語りかけるコナン…新一を見つめ、彼の手にある一つを見つめ、蘭は顔を伏せた。頭の中、さまざまな言葉が凄まじい勢いで沸き起こる。

 いいじゃない、上出来よ、大丈夫ね…どれも違うと、蘭は開きかけた口を一旦閉じた。

 次に口を開いた時、出てきたのはこのひと言だった。

 

「……まあまあね」

 

 自分でも少しぎょっとする、素っ気ない声。しまったと息を飲むが、その一方でこれでいいと納得もする。

 

「じゃあ次、見てて」

 

 たっぷりの負けん気で、少年が次の一つに手を伸ばす。

 

「ええ、見ててあげるわ」

 

 すっかり力の抜けた態で、蘭は視線を注いだ。

 さっきと今とで、気分がまるで違う。どんなにぎこちなくても、動かしづらそうでも、時々手からすべり落ちそうになっても、もう息が詰まる事はなかった。

 だって、彼の目が生き生きとしている。

 痛そうに歪む事もあるが、すぐに楽しさに取って代わり、嬉しさを光らせる。

 思うように動かない指に手こずってもつまずいても、きりと唇を引き結んで、ゆっくり丁寧に作業を続けていく。

 

 なあんだ…わたし

 

 何を愚図ついていたのだろうと、蘭は内心笑った。

 この時間は楽しいものなのに、彼は楽しみにしていたのに、何を余計な心配していたのだろう。

 そうだ、この時間はとても楽しくてとても大切なもの。

 

 勝手に勘違いして…何見てたんだろ、まったく

 

 蘭は再び手を動かした。いつまでも止まっていては、彼に追い付かれてしまう。

 

「今度はどう?」

 

 せっせと自分の作業を進めていると、二つ目が差し出された。

 蘭はそれを右から左から眺め、言った。

 

「うん、ちょっとまあまあ」

「じゃあ次ね」

 

 次こそは上出来と言わせてみせようと、少年が三つ目に挑む。

 そこにはやはり痛そうな色が傍らにあったが、蘭はあえて触れずにいた。

 必要ない。余分な事。今は、二人…三人の時間をゆっくり噛みしめればいいのだ。自分に出来る事をしっかり掴み、彼の奮闘をしっかり見守る。

 しばらくしたところで、蘭はおずおずと口を開いた。

 

「ねえ……」

「なあに?」

「今日は……百五十円くらいかな」

「そうだなあ、三百円くらいかな」

「えー!」

「えーじゃないの、めそめそしたら罰金、一回百円て約束したでしょ。今日は三百円くらい、めそめそしてたよ」

「うーん…コナン君きびしい……」

「厳しくないもん。今日は三百円!」

 

 絶対譲らぬとばかりにぴしゃりと、コナンは言った。

 

「はあい、分かりました!」

 あとで入れときます

 

 渋々承諾した後、蘭はにっこり頬をゆるめた。

 

「そ…そんな顔したって、まけないんだからね」

「別に、まけてくれなくていいもん」

 

 蘭はにこにこと返した。自分でもおかしくなるほど、嬉しさで頬がゆるむ。嬉しくて嬉しくて、込み上げてくるものにほっぺたが痛くなる。それくらい嬉しい。

 

「ねえコナン君」

「……な、なあに?」

「今日のご飯も、きっとすっごく美味しいね」

 

 その言葉にコナンは、幾分複雑な顔で自分の包んだ餃子を見やった。

 蘭も同じく目を向ける。

 初めて作った時に比べれば整っているが、完全には程遠い。少しいびつで、不揃いで、どこかぎこちない。

 一番の違いは、包み方の変化。以前両手が問題なく動かせた時は、両端から中央へひだを寄せる包み方をしていたが、今は端からもう一方の端へ順繰りにたどる包み方になっていた。

 両端から中央へ寄せる包み方が一番手の癖に合っていた彼にすればそれは少々もたつくらしく、また片手の補佐が上手く出来ない今はよりぎこちなくなって、どうにか縁を合わせる事が出来ただけの、少々不格好なものに仕上がっていた。

 

「でも、絶対すっごく美味しいよ」

 自分が作ったものが一番美味しいんだから

 

 降り注ぐ手放しの称賛にコナンは開きかけた口を閉じた。

 何か言う代わりに晴れやかな顔で頷き、ありがとうと語りかける。

 正しく受け取って、蘭もまた頷いた。

 

「コナン君、今日はいくつ食べる?」

「そうだなあ…蘭姉ちゃんは?」

「そうねえ、今日は久しぶりにコナン君と作ったから、たっくさん食べたいな」

「たくさん? うわあ大変だ、おじさんも山ほど食べるって言ってたし、どんどん包まなきゃ。これで足りるかなあ」

「やあだ、そこまでたくさんじゃないわよ」

「でも蘭姉ちゃんでしょ? わあ、大変だ大変だ」

「こら、もう、コナン君は」

「えへへ、ゴメンなさい」

「いいわよ、そこまで言うならうんとたくさん食べるから。コナン君が作ってくれるんだもの、うんとたくさん食べるわ」

 

 蘭は声を弾ませ宣言した。

 途端にコナンはむず痒そうな顔になって口を噤み、もごもごと、何やら呟いた。

 よく聞き取れなかったが、最後のひと言、ありがとうが耳に沁みた。

 蘭は心地良さに微笑むと、さあ始めようと促した。

 

「……うん。ボクも、たくさん食べる」

「食べようね」

 

 待ち遠しい夕餉に向けて、二人は笑い合った。

 

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