雨のち団子 |
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米花駅の駅前にある、CDやDVDや書籍を扱う五階建ての一階で、半月前から今日を楽しみにしていた蘭は、お目当てのシングルCDを棚に見つけた途端更に頬を紅潮させた。興奮するあまりごくりと喉が鳴る。 半月前にテレビのCMで偶然見かけてからずっと、このCDが発売されるのを心待ちにしていた。 会計を済ませ、ついに自分の物となった一枚のCDを大事そうに鞄に収めると、蘭は二階へ上がるエスカレーターへと向かった。高揚と落ち着きとが入り混じった不思議な気分に少しおかしくなる。今にも駆け出しそうになるのをぐっと飲み込み、書籍コーナーのある三階を目指す。 これと決めた買い物があるわけではないが、少し寄り道をしたい。 今日はまだ時間も早いし、何といっても天気がいい。 そんな些細な色々が嬉しくて、蘭はたどり着いた三階の入り口から、ゆっくり散策を始めた。 朝からの晴天が嘘のようにかき曇り霧めいた雨が降り始めたのは、彼女が三階にたどり着いたまさに時だった。 一日晴れの良い天気は、気まぐれな雨によって塗り替えられてしまった。 しかし、窓を全面覆う背の高い書棚によって外の様子の分からない蘭は、それに気付かずにいた。 霧雨はすぐに粒の揃った雨に変わり、道行く人々を軒下へと急き立てた。 |
事務所の応接ソファーで、帰宅後いつもと同じように漫画雑誌を読んでいたコナンは、読む合間何度も顔を上げては窓越しの空を確認していた。 帰宅直前、ほんの微かに、雨の匂いが感じ取れたからだ。 気のせいだとも思ったが、見上げる度空の様子は変化していた。 良く晴れていた空はいつの間にか白い雲に覆われ、いつの間にか、雨が降り出してきていた。
「おー……結構降り出してきたな」
窓から下を見やり、小五郎が一人呟いた。しばらく眺めた後、また元のようにテレビに目を戻す。今は興味を惹く番組がやっていないのか、いささか退屈そうだ。 コナンは正面のテレビ画面をちらりと見た後雑誌を脇に置くと、ソファーから降りた。 扉のドアノブに手をかけたところで小五郎が気付く。
「んー? どっか行くのか」 「うん。ちょっと、買い物に」 「オメー小さくてよく見えねーからな…車に轢かれねぇようにしろよ」
テレビを見たまま、少し面倒そうに小五郎が言う。
「分かった」
その実しっかりと身を案じているのが聞き取れたので、コナンはしっかり一つ頷いた。ひねくれ者に対抗すべく、礼は心の中だけに留めるが。 事務所を出るとコナンはまず三階に向かった。玄関先に置いてある傘立てから自分のを一本、彼女…蘭のを一本それぞれ手に持ち、小走りに階段を駆け下りる。 通りに出る頃にはすでに行先ははっきりしていた。降り出して間もない雨空を見上げ、自分の傘を開く。 左手に持った蘭の傘をしっかり抱えると、コナンは学校ではなく米花駅へと向かった。 通りには、折りたたみの傘を広げている者もいるが大半は傘を持たない走りゆく人々が行き交っていた。彼らを目にする程にコナンの足は速まり、一秒でも早く駅前へと急いた。 |
蘭は手にした学生鞄を握り直すと、すぐ傍にある一本三百円のビニール傘をじっとり見やった。それから空を見上げ、はあとため息に交えて自分の迂闊さを吐き出す。 寄り道などしていなければ、買う物買ってすぐに帰路についていれば、こんな事にはならなかった。 今更悔やんでも仕方ない事をぐるぐるとかき混ぜながら、蘭は一階入り口に佇んでいた。 今日に限って鞄に折り畳み傘を入れ忘れてしまった…傘はないが傘は売っている…しかしたとえ三百円といえども無駄遣いは大嫌い…こんな事で電話を入れるのはもっと嫌い…でも甘えて良いと言われたけれど、でも甘えてばかりも気が許さない…だけど、でも…渦を巻く頑固な思考に途方に暮れ、蘭はただ雨雲を見ていた。 周りには同じように思い悩んでいるらしい数人が同じように空を見上げ立っていたが、ある者は潔く傘を買い求め、ある者は連絡を入れ迎えの誰かを待っていた。 こんなに融通が利かないのは、どうやら自分だけらしい。蘭は、一人また一人と帰ってゆく彼らの背中を見る度ちらりちらりとビニール傘に目を向けた。
電話…しちゃおっかな
素直に傾きかける気持ちに素直に寄りかかると、途端に頬がだらしなく緩み出した。 慌てて引き締め、心の中だけでにやつく。 連絡を入れれば、彼はすぐにすっ飛んできてくれるだろう。 こんな雨の中でも構わずに、傘を一本抱えてすぐに駆け付けて「お待たせ、蘭姉ちゃん」なんて…そこまで考え、蘭はすぐさま追い払った。こんな風に都合のよい想像をしてしまうのは自分の悪い癖だ。だらしないうっかり者の為に彼の手を煩わせるなんてとんでもない事、呆れ果てる。
ごめん……
蘭は口の中でよしと呟くと、今度こそ心を決めた。 幸い降りはそれほど強くもない、走って帰れば少し濡れるくらいで済むだろう。 そう決めて、つま先に力を込めたまさにその時。
「お待たせ、蘭姉ちゃん」
思い浮かべたままの甘い声、聞こえるはずのない声が耳に届いた。
「へ……?」
少し眩み少し焦点の合わない目で声のした方を見やれば、今まさに想像した通りの姿がそこにあった。 赤色の傘をさし、小花柄の青い傘を小脇に抱えて立つコナンを、蘭はポカンとした顔で見つめていた。
「え、あれ…えと、なんで? なんでここにいるの?」
驚くあまり素っ頓狂な声が口から飛び出す。
「発売日でしょ、今日」 蘭姉ちゃんが欲しがってたCDの
コナンは傘をたたむと、蘭の隣に立った。 彼の口から答えを聞いても、蘭は驚きから抜け出せないでいた。どころか逆に混乱が深まる。自分はそこまで、彼の記憶にこびりつくほどまでに騒ぎ立てていたのだろうか。CMに合わせて口ずさんだり何かの折に鼻歌を披露した事は数えきれないほどあるが、来週発売なの、明日発売なのと付き合わせた事はなかったように思う。それとも自分が覚えていないだけで、記憶に刻み込まれるほどうるさく騒ぎ立てていたのかもしれない。
「ううん、そうじゃなくて…あのね――」
簡単に読み取れるほど複雑極まりない面持ちになった蘭に小さく笑い、コナンは自分の推理を言って聞かせた。
「……あ、そ、そう……あはは」 さすがコナン君ね
目当ての物を買うだけでなく、寄り道の分まで正確に見抜かれていた事に蘭は肩を竦めた。恥ずかしさに笑うしかない。 まったく、憎たらしい探偵め。
「だってボク、蘭姉ちゃんのストーカーだしぃ」
自信たっぷりに推理を言って聞かせたコナンは、今度は茶目っ気たっぷりに言って横目に蘭を見やった。 わざと意地悪そうな顔でいひひと笑うコナンに合わせ、蘭も少し笑ってみせた。
「!…」
そこではたと思い至る。 彼と誓い合った言葉、絶対に傍を離れないという言葉。 うんと幼い頃に約束し、今また繰り返された誓いの言葉。 その意味を理解する。 ただ隣にいるというだけの事ではないのだ。 絶対傍を離れないというのは。
「……こんな風に」
蘭は奥歯を噛みしめ、喉の奥でうなった。
「なんか悔しい……」
少しむくれたほっぺたで零す蘭を愛しげに見上げ、コナンは目尻を下げた。彼女の見せる表情はどうしていつもこうも心をくすぐるのだろう。 穏やかな表情は、続く蘭のひと言できょとんとしたものに変わる。
「……なんか悔しいから、コナン君おごって」 「……え、え?」
したたかな女の突飛な欲求にぎゅっと瞬きして、コナンはポカンと口を開けた。
「そうだ、あそこのあんみつやさんがいい。コナン君おごって!」 一回食べてみたかったのよ
さあ行こうと、蘭は言いざまコナンの手を掴んだ。 強気で押し切る蘭の輝く瞳に気圧され、コナンは素直にはいと頷いた。頷いてから、今度は彼女がおごる番ではなかったかと渋く眉根を寄せる。もちろん、口に出す勇気はないが。
「やったあ! 私、そうねえ…クリームあんみつがいいな」 「いいけど……太ってもしらないよ」 「んー? 何か言った、コナン君」 「ううん、べっつにー」 「ふーん、ちゃんと聞こえてますよーだ」 「……あはは」 「ふーんだ」
わざと憎たらしい顔をしてみせる蘭。 でも目がにこやかにしているから、コナンも晴れやかな笑顔になる。
「やっぱり、蘭姉ちゃんには敵わないや」 「あら、それちょっとイヤミっぽいんじゃない」
追及する蘭にコナンは小さく首を振る。彼女の言葉は少し刺々しいが、どうしてかそれが愛しかった。たまらなく心を震わせて、甘やかな気持ちにさせてくれた。 泣きたくなるほどに。
「本当に、まだまだ敵わないよ」
繋いだ手をぎゅっと握って、どうか伝われと気持ちを渡す。
「……私の方こそ」
蘭も同じだけ強く握りしめ、気持ちを受け取る。つれない雨が降る日も変わらずあたたかい手が嬉しくて、素直ににっこりと微笑む。 コナンは眩しさに目を細めた。向けられる柔和な笑みは雨雲の向こうに確かにある陽射しと同じくあたたかく、これが見たいから言葉を重ねたのだと、これがあるから言葉を重ねられるのだと、あらためて心に刻む、
「じゃあ行こうか」 「うん。うーん、やっぱりお汁粉にしようかな……あ、たまにはみたらし団子もいいかも」 「もー、全部食べれば」 「やあだ、太っちゃうじゃない」 「大丈夫だよ、蘭姉ちゃんなら」 「えー、なんでよ」
笑って聞き返しながら、蘭は傘を開いた。
「だって蘭姉ちゃん、天下無敵だもん」
コナンも後に続く。
「あー! まーた意地悪コナン君が出た」 「ボク、意地悪なんかしてないってば」 「してるもん」 「してないもん」
ちぇ、せっかく傘持ってきてあげたのに あ、ごめんなさあい もうー、蘭姉ちゃんこそ意地悪ばっかり コナン君ごめんなさい ……しょうがないから、許してあげる ありがとうコナン君
二人は手を繋ぎ、雨の中笑いながら並んで歩き出した。 |