そばにいるから

 

 

 

 

 

 もうもうと白い煙を上げ倒壊するビルを背に、安否不明だった主人公がそのシルエットを明らかにする。

 服はあちこち破れ額に頬に傷を負って血を流し、見るからに疲労困憊といった様子だが、右手で大きく口元を払いごほごほと咳き込む姿は元気そのもので、クライマックスからここまで息つく間もなく画面に食い入っていた蘭は、ようやくの事安堵し肩を落とした。

 と同時にみるみる涙が込み上げてきた。

 スクリーンの向こうのヒロインは、すでにぽろぽろと歓喜の涙を零している。命からがら生還した主人公をしっかと抱き締め、感謝の言葉を繰り返し投げかけていた。

 一人で観賞していたならば、遠慮せずつられて泣いていたところだろう。良かった、こうでなくちゃ、危機一髪に次ぐ危機一髪の末たどり着いた最高のハッピーエンドに、心から浸っていたことだろう。

 目の焦点をスクリーンから自分の周りの座席に移せば、こっそり涙を拭っている人影がちらほらと見て取れた。

 しかし蘭はぐっと我慢する。

 左隣に座る誰かの手前、気恥ずかしく感じたからだ。

 ここで泣いてしまうのが少し癪…やっぱり泣いたかと思われるのが大いに癪に障ったからだ。

 だがそんな抵抗も、ゆったりとしたチェロの響きに乗って流れるエンドロールによって脆くも崩れ去った。

 必死に瞬きしてやり過ごそうとした涙が、ひと粒、ついに頬を流れ落ちる。

 動揺を何とか飲み込み、これを気付かれずに拭うにはどうすればいいだろうと思案していると、膝に乗せた手の上に、左隣から届け物があった。

 目だけ動かして見ればそれは、彼がいつも身につけている白いハンカチだった。

 

「!…」

 

 反射的に顔を横へと向ける。

 隣の人物は正面のスクリーンをまっすぐ見つめ行儀よく座っていたが、その顔には小賢しいにやにや笑いが浮かんでいた。

 蘭は心の中でちぇっと零した。

 彼はいつだってこうして、何でもお見通しなのだ。

 

 まったく、憎たらしい探偵だこと!

 

 蘭はハンカチをひったくると、頬に零れた涙を拭い始めた。

 せっかくの行為につっけんどんな態度、それでも彼は解っているから当然として受け流し、彼女も解っているから大いに甘える。

 いつかの夜、約束した通りに。

 場内が明るくなる頃には涙も引っ込んで、またいつも通り『蘭姉ちゃん』と『コナン君』として顔を見合わせ、面白かったねと言葉を交わす。

 

「ちょうどお腹空いたね、コナン君。お昼、何食べたい?」

「そうだなあ……」

 

 問いかける蘭を見上げ、コナンは帰り支度をしながら軽く考え込んだ。

 公開二週目の映画館はほぼ満員で、外へと向かう人の波に揉まれながら通りに出たコナンは、はぐれないよう蘭と繋いだ手をしっかり握り直して見上げ、浮かんだ希望を口にした。

 

「うん、オムライスいいわね!」

 

 蘭も同じく手を握り返し、弾んだ声で頷いた。

 

 今日はあったかいねコナン君

 ホント、コート着なくてもちょうどいいくらいだね

 

 春も間近のよく晴れた週末の昼時、二人は弾む足取りで駅向こうにあるオムライス専門店を目指した。

 そこは表通りから小さな路地に入ったところにあり、周りには一風変わった雑貨を扱う店や可愛らしいアクセサリーショップが並んでいた。

 空腹もそうだがそれらの店も気になるようで、歩調は変わらないものの通り過ぎる度目線を残す蘭に小さく笑って、コナンは言った。

「帰りにお供するから、ちゃんと前見て歩かないと危ないよ蘭姉ちゃん」

 少しからかい交じりの物言いに微苦笑して、蘭は「はあい」と肩を竦めた。

 

「じゃあ、後で付き合ってねコナン君」

「もちろん」

 

 当然だと、強い笑みで見上げるコナンに蘭はにっこり頬を緩めた。

 

「ありがとう」

 

 向けられる柔らかな笑顔はコナンにとって、太陽と同じくらい眩しいものだった。見上げる彼女の向こうには青空が広がり、よく似合う陽射しにすっかり見惚れてしまったコナンは、そのせいで今しがた口にしたからかいの言葉に自分でつまずく羽目になる。

 

「……わっ!」

「あぶない……!」

 

 突然つんのめったコナンに叫び、蘭は繋いだ手で咄嗟に彼を引きとめた。石畳にでも足を取られたのだろうか。

 

「大丈夫コナン君……ちゃんと、前見て歩かないとね」

 

 苦笑いのコナンを横目でからかい、蘭はふふと肩を揺すった。

 

「……はあい」

 

 渋みの余韻引きずりながら、コナンは件のオムライス専門店に足を踏み入れた。

 昼時の店内は賑やかに混み合っていた。

 厨房をぐるり三方取り囲むカウンター席といくつかのテーブル席。

 二人は案内されたテーブル席に落ち着くと、さっそくメニューを覗き込んだ。

 黄色く輝くオムライスに真っ赤なケチャップがたっぷり乗った定番のものから、ハヤシソースをかけたもの、クリームソースをかけたもの、チーズをくるんだボリュームたっぷりのオムライスにあっさり和風仕立てのものまで、様々なオムライスがぎっしりと並んでいた。

 

「うわあ…どれも美味しそうねコナン君!」

「ホントだね」

「うーん……、どれにしようかな」

「ボク、定番のケチャップオムライスがいいな」

「コナン君はそれね。じゃあ私は、うーん……と」

 

 手にしたメニューの上から下まで、蘭は忙しく目を行ったり来たりさせた。

 しばらく行きつ戻りつして迷っていた目線をある一点で止め、同時に蘭は軽く頷いた。

 

「決めた! あ……」

 

 と、そこから不意に下方へ移し、くすぐったくなるような笑みを浮かべて蘭は目を上げた。

 

「コナン君、ホットケーキ嫌いじゃなかったよね」

「え、うん……」

「チョコレートもメープルシロップも、大丈夫よね」

「うん、食べられるよ……」

 

 明らかに何やら企んでいる蘭のにやけた顔を注意深く見守りながら、コナンはひとまず頷いた。

 

「じゃあ決まり。あ、ドリンクは何にする?」

「あの、……コーヒーで」

「ん、分かった」

 

 満面の笑みで蘭が頷く。

 また何か楽しい事を一つ見つけた女の笑顔に眼を眇め、コナンは冷たい水をひと口飲んだ。

 

「……ねえ、なーに蘭姉ちゃん」

 

 無駄と分かっていながらコナンは尋ねた。こういう時、聞いても、絶対に彼女は答えを教えない。

 

「来てからのお楽しみ。すみませーん!」

 

 案の定、いたずらっ子の笑みではぐらかされる。

 店員に注文する際も、メニューを盾のようにしてまで隠し、後のお楽しみと取っておくのだ。

 まったく呆れ果てる…愛すべきいたずらっ子。

 隠された謎を解くカギ、メニューは店員が持って行ってしまった。これでもう、実際に目の前に届けられるまでお預けとなる。

 少々の不満を頬の内側に隠し、コナンはもうひと口水を飲んだ。

 そんな心中に渦巻く不服も、彼女が愛くるしい声で「映画、楽しかったね」と言い出せばたちまち溶けていってしまう。

 つまりはその程度のものなのだ。

 なにものも、彼女には敵わないという事。

 コナンはすぐさま同じ響きで大きく頷き、映画の感想を楽しく述べ合った。

 程なくして二人分のオムライスが届けられ、食欲をそそる美味そうな色と匂いがテーブルに並んだ。

 二人は揃って相好を崩し、いただきますとスプーンを手にした。

 ひと口目の美味しさにほっぺたが落ちそうだと二人で笑っていると、一足遅れでホットケーキがテーブルにやってきた。

 コナンは目を瞬いた。

 白いプレートに乗った、何の変哲もない二枚のまんまるなホットケーキ。焼き色はちょうどよく、うっすらほかほかと湯気が立ち上っている。プレートの端にはメープルシロップの入った容器が載っており、横にはチョコレートの詰まったチューブがあった。

 蘭は意気揚々とそのチューブを手にすると、ちらりとコナンに目配せし、にこにこと笑みを零しながら何やら作業を始めた。

 何を始めたのかと、コナンは食事の手を止め成り行きを見守った。

 彼女が企んだもの、隠したものは、すぐに目の前で明らかになった。

 

「あ、うーん……眼鏡、むずかしい……」

 

 真剣な顔で呟きながら、蘭は一生懸命、チョコレートの詰まったチューブでコナンの似顔絵をホットケーキに描き続けた。

 

「で……きた!」

 

 蝶ネクタイの部分までどうにか描き切り、蘭はふうとばかりに肩を落とした。

 

「出来た、ほら、コナン君!」

 

 蘭はチューブを置くと、そっとプレートを持ち上げコナンの前に置いた。

 最初は呆れていたコナンも、力作を手に得意満面といった蘭には勝てず、腹を抱えて笑い出した。

 ところどころ線が途切れ少し曲がっているが、中々よく出来た似顔絵だ。

 

「えー…似てない? だめ?」

 

 おろおろと聞いてくる蘭がまた笑いを誘う。

 コナンは必死に首を振り、何とか笑いを収めようと努めるが、自分では上々の出来だと思うのにと真剣な顔で困り果てる蘭に更なる笑いが募る。真剣になるあまり頬が火照って少し赤くなっているのが、尚堪える。どうにも止めようがなかった。

 さすが、蘭姉ちゃん。

 苦しい息の下からどうにかそう告げて、コナンは目尻に溜まった涙を拭った。

 

「……もー、せっかく頑張ったのにぃ」

 

 その言葉に大きく首を振り、大きく頷いて、コナンはありがとうと言った。ようやく息が落ち着いてきた頃に、改めてありがとうと繰り返す。

 

「よく出来てるでしょ……?」

「うん、すっごく嬉しい。ありがとう蘭姉ちゃん」

 

 再び笑いそうになるのを何とか飲み込み、コナンは輝く眼差しを向けた。

 

「じゃあどうぞ召し上がれ。わあー、コナン君がコナン君食べちゃう、キャー!」

 

 言って楽しげに笑う蘭につられて、コナンはぐっと息を詰めた。喉の奥でむせかえる。傍から見れば馬鹿馬鹿しい事この上ないが、それがかえって楽しかった。せっかくの時間、二人…三人でいるこの時間、とことんまで楽しもうと、コナンは素直に声を揃えて笑った。

 ひとしきり笑った後、二人は仲良くホットケーキを半分ずつ味わった。

 映画の感想を交えつつお喋りに花を咲かせ、心も胃袋も満腹にした二人は、腹ごなしも兼ねて約束通りウインドーショッピングへと繰り出した。

 最初に訪れた雑貨店で、好みにぴったり合う綺麗な空色のアクセサリーを見付けた蘭は、二件目への期待も高らかに意気揚々と店を後にした。

 二人が並んで歩く道のずっと先では、一人の男が、目付きも怪しく雑踏を進んでいた。

 タイミングを計り、狙っていた。

 

 

 

 消しゴム、細字のサインペン赤と黒、無地のノート…手にしたメモと照らし合わせながら、歩美は左手に持った小型のかごに一つひとつ入れていった。

 家の傍にも文房具店はあるが、米花駅前にあるこちらの方が品揃えも良く、可愛らしいキャラクター商品も豊富に置いてあるので、少々遠くても歩美はここで買い物するようにしていた。

 今クラスではやっているキャラクター商品、もらっているお小遣いの範囲内で買えるものはそう多くはないが、どれにしようか一つだけ、吟味するのも楽しかった。

 今日の一つだけは、選びに選んでメモ帳に決めた。

 何に使おうかわくわくと考えを巡らせながらレジで会計を済ませ、弾む足取りで歩美は文房具店を後にした。店名のロゴが入った白い袋を大事に胸に抱え、数軒先の書店へと少し寄り道する。特にこれといった目当てのものはないが、面白そうな本に出会えたらいいなと思っての事だ。

 文房具店の隣の洋品店を通り過ぎ、美容院を通り過ぎ、もう一つ先の書店まであとわずかとなった時、背後でいくつもの悲鳴が連続して沸き起こった。

 尋常でない声に歩美は全身をびくっと竦ませ、反射的に振り返った。

 目に飛び込んできたのは、自分の方に駆けてくる若い女性だった。その後ろからも、人々がこぞって逃げるように走ってきていた。

 危ないと思った時にはすでに遅く、歩美の小さな身体はいともたやすく弾き飛ばされてしまった。

 どしんという衝撃。

 

「きゃっ……!」

 

 ただぎゅっと目を閉じて縮こまるしかなかった。

 と、誰かがしっかりと抱きとめ、一緒になって歩道を転がった。

 顔か頭か怪我をすると抱いた恐怖はその誰かによって拭われ、倒れ込んだ際の衝撃もほとんど感じる事無く済んだ。

 一体どうなったのだろうかと、歩美は恐る恐る目を開いた。

 

「大丈夫か、歩美」

「……コナン君!」

 

 歩美は目をまん丸に素っ頓狂な声を上げた。信じられないとばかりにまじまじと見つめる。穴があくほど見つめなくとも、コナンに間違いはなかった。大きな黒縁の眼鏡越しに見える瑠璃色が、小さく笑っている。

 自分の代わりにどこかぶつけたのか、コナンは右手で額の辺りを押さえていた。思い出せば倒れた時、間近でゴツと鈍い音を聞いた気がする。

 歩美が尋ねようとするより先に手を離しコナンは立ち上がると、ちらりとよそへ目配せしてから歩美に手を差し伸べた。

 

「ありがとう……あ!」

 荷物が

 

 両手に抱えるようにして持っていた文房具を入れた袋がないと、歩美は辺りを見回した。

 

「これだろ」

 

 コナンは、傍の看板の足元にすべり込んでいた白い袋を拾うと、歩美に差し出した。

 

「あとこれも」

 

 そして一緒に、倒れた拍子に外れて転がった彼女のカチューシャを手渡す。

 

「え、あ……!」

 

 歩美は慌てて恥ずかしそうに髪を押さえると、済まなそうにコナンの手からカチューシャを受け取った。

 

「ありがとうコナンくん……」

 

 はにかむ歩美の眼差しが、一瞬ぎくりと凍り付く。

 カチューシャを渡す手、コナンの左手に刻まれた傷その跡を、ついに目にしたからだ。

 怪我のせいで少し曲がったままになった人差し指、手のひらに縦横に走る傷跡。

 見ているだけで痛みを感じるような、ひどい傷だった。学校ではごく普通に過ごしていて、左手を使う際も特におかしいと目につくものは何もなかったが、実際にはこれほどまでに傷を負っていたのだと初めて目にして、歩美は少なからずショックを受けた。

 何と言ってよいやら分からず、目を奪われたまま途方に暮れていると、背後から若い女性が声をかけてきた。

 

「ゴメンねお嬢ちゃん、怪我はなかった?」

 

 それは先程歩美にぶつかってきた女性だった。腰をかがめ、申し訳なさそうに繰り返し歩美に謝罪した。

 

「あ…はい、だいじょうぶです」

 

 応えて目を上げると、女性の向こうでは何かを囲むようにして人だかりが出来ていた。

 

「多分、ひったくり犯だと思う。蘭姉ちゃんが足止めして、今警察の人が来てる」

 

 コナンは説明した。

 歩美は顔を戻した。その時にはもう、彼の左手はいつものようにポケットに収まっていた。

 何かを言おうとした矢先、今度は聞きなれた蘭の声が耳に飛び込んだ。

 

「大丈夫だった、歩美ちゃん」

「蘭お姉さん!」

 

 歩美は、人垣の向こうからやってきた蘭に思わず縋り付いた。複雑に絡み合ってしまった感情が、蘭の顔を見た途端せきを切って流れ出す。彼女の声と眼差しは本当に優しく安心出来るもので、今になってどっとやってきた恐怖に歩美は膝が震えるのを感じた。しかしそれも、蘭に肩を抱かれた途端不思議と消え去った。

 

「どこも怪我はない?」

「はい、大丈夫です」

 

 歩美はしっかり頷いてみせた。

 

「よかった。コナン君は?」

「ちょこっとぶつけただけで、ボクも平気だよ。蘭姉ちゃんこそ大丈夫だった?」

「ええ」

 

 にっこり笑うコナンの顔を、蘭はしっかり一秒間見据えた。それからおもむろに両手を頭へと伸ばし、おっかなびっくり指を当てる。

 

「もうちょっと強めに触っても大丈夫だよ」

 

 びくびくと不慣れな手付きにそう告げ、コナンは誘導した。

 

「うん……」

 

 蘭は強張った顔で頷いた。

 

「でも本当に、大丈夫だから心配しないで。そうだ歩美ちゃん、お母さんに電話して迎えにきてもらおうか?」

「ううん、歩美一人で帰れるよ」

「でも……」

「……心配だから、送っていくわ」

 

 コナンの言葉を引き継いで、蘭はそう提案した。

 本当は少し強がっていた歩美は、二人の言葉にほっと頷いた。

 マンションの出入り口まで歩美を送り届けたコナンと蘭は、また今度と手を振って別れた。

 

 

 

 夜。

 毛利探偵事務所の上の居住階は、騒々しい居間と静かな私室の二対一に分かれていた。

 居間を騒々しくしているのはもちろん小五郎で、今しがた始まったばかりの沖野ヨーコ主演ドラマを、テレビに釘付けになって観賞していた。ひっきりなしとまではいかないが、彼女が何かする度「いいぞ!」「さすがヨーコちゃん!」と聞き苦しい声を上げ、一人で十人分声援を送っていた。

 扉一枚隔てた蘭の私室では、彼女の机に蘭とコナンが並んで座り今日の『授業』をしていた。

 昼間、コナンが歩美をかばって一緒に歩道を転がった際、近くにあった看板の支柱に額をぶつけてしまっていた。派手に音を立てたが実際は軽い打撲で、よくよく目を凝らせば見える程度の赤味と腫れがあるだけだった。些細なたんこぶ程度。友達と公園で遊んでいて、うっかりこしらえるくらいのものだ。

 コナンはそのたんこぶともいえないたんこぶを『よりひどい打撲』に見立て、その際はどのように処置すればいいか、確認すべき事は何か、いくつか例を挙げて蘭に教えていた。

 扉一枚だが充分遮音効果はあり、また二人とも慣れてしまった事もあって、小五郎のしゃがれ声はほとんど妨げにはならなかった。

 しかし蘭はどこか上の空で、コナンの大丈夫かという問いに大丈夫と答えるものの、何度も手が止まる言葉が途切れる瞬間があった。

 

「ううん、本当に大丈夫。どこも具合悪くないしおかしなところもないから」

 

 蘭がにこやかに言う。

 コナンはその表情を二秒ほど見つめ、ついで机に広げたコピーの束を三秒ほど見つめると、再び蘭に目を戻した。

 

「少し休憩にしようか。ボクちょっとトイレ!」

 

 言うが早いかコナンは椅子から飛び降り、小走りで部屋を出ていった。

 引きとめる間もなく扉の向こうに消えてしまったコナンを、蘭は呆然とした眼差しで見つめていた。

 不意に涙がこみ上げる。

 今にも零れそうになった涙をすぐさま拭い、蘭はぐっと奥歯を噛みしめた。

 と、扉越しに、玄関のドアが開いて閉まる音が聞こえてきた。

 まさかと腰を浮かせ、座り、思い直して立ち上がると、蘭はそろそろと扉を開けた。居間では小五郎がさっき見たのとほぼ同じ姿勢で、テレビに向かって声を張り上げていた。では、今外へ出ていったのは彼なのか。

 部屋から一歩踏み出して玄関の方をうかがい、蘭はどうしたものかと立ち尽くした。テレビに釘付けになっている小五郎は、まだ、背後の自分に気付いていない。訊こうかとしばし迷い、部屋に引っ込む。行きつ戻りつ戸惑いながら再び椅子に座り、机に広げた分厚いコピーの束を前に長いため息を一つ。

 

「ダメだな…わたし……」

 

 悔しげに震える唇から呟きを零し、蘭はコピーの束を手に取った。

 それは一週間ほど前コナンと共に図書館を訪れた際作成したもので、今日の『授業』にはもってこいの事柄がたくさん載っていた。

 

「………」

 

 蘭は再度ため息をつきながら、ぱらぱらと無造作に束をめくった。

 基礎的な知識はおおむね頭に入ったと思っていた。

 毎晩コナン相手に実習もしていたし、いざという時の心得もしっかり刻み込めたと思っていた。

 しかし。

 今日の昼間のように、巡ってきたいざという時肝心な時に発揮出来ないのでは、まるで意味がない。

 何の役にも立たないではないか。

 自らの不甲斐なさに蘭は拳を握りしめた。

 彼の役に立ちたいと心から願うのに、未だに場面に遭遇するとどうしても頭を過ぎってしまうのだ。

 あの秋の一日、真っ赤に染まった彼の左手、滴り落ちる赤い血が思い出されてしまうのだ。

 そして動けなくなってしまう。

 また、何も出来ずただおろおろするだけなのではないかと、怖くなるのだ。

 彼の教えは的確だった。

 厳しくはないが、甘やかす事もない。

 人命に係わるもの、当然だ。

 その彼に教わり、その彼が出来ていると曖昧でなく認めるのだから全く役に立たない事はないのだが、いざという時を迎えると、簡単な対処さえ怖くなって尻ごみしてしまう。

 今日の昼間のように。

 

「ああ…そっか……」

 

 余りに飲み込みが悪いから、呆れて行ってしまったのだ。

 すぐにめそめそ泣き出すから、呆れて行ってしまったのだ。

 それとも…蘭はすぐさま首を振って考えを打ち消した。彼はそんな事をする人間では決してないのに、なんてひどい侮辱を、自分は。

 そしてまた涙が盛り上がってくる。

 

「……ダメだってば」

 

 焦れたように呟き、蘭は両手でぴしゃりと頬を叩いた。

 痛さにびっくりして涙が引っ込む。

 もう一度ぱしんと打って、蘭は眦を決した。

 そこで、玄関先からかちゃんと鍵をかける音が聞こえてきた。

 聞き間違いか気のせいかと耳を澄ませていると、ノックの後扉が開かれた。

 

「蘭姉ちゃん、夜食だよ」

 

 可愛らしい声と共にコナンが入ってきた。背中で扉を押して閉めながら、両の手に一つずつ持った袋を差し出しにっこり笑う。

 

「角のコンビニで買って来たんだ。甘いのとしょっぱいのとどっちがいい?」

 

 右手がつぶのあんまん、左手が肉まん。説明しながらコナンは自分の椅子に戻った。

 ぽかんと見つめていた蘭は、差し出された袋を前にようやく我に返った。

 

「……買ってくるならくるで言ってくれればいいのに」

 

 置いてけぼりにされたのかと一人不安に悶々といた分が、口からぼそりと零れ出る。

 

「え、だからさっき、少し休憩にしようって言ったじゃない」

「あ……」

 

 蘭は息を飲んだ。

 表現の違い、受け取り方の違いにあっとなるも、まだ気持ちは収まらない。勘違いだと分かっても、尖った唇が元に戻らない。

 それを見て、コナンは困った顔で笑った。

 困った顔で笑う少年をやや俯いたままじいっと見つめ、蘭はまたぼそぼそと言った。

 

「ご飯食べたじゃない」

「うん……」

「もう九時近いし」

「うん……じゃあ、やめようか」

 

 力なく手を引っ込めるコナンに慌てて手を伸ばし、蘭は両方とも奪い取った。

 

「……でも食べたい」

「……両方とも?」

 

 笑いをこらえながらコナンは聞いた。

 やや置いて頷き、蘭は遠慮がちに言った。

 

「半分ずつ食べてもいい……?」

「うん、もちろん。そうだと思って、一つずつ買ってきたんだ」

 

 分かってくれている彼についつい、頬が緩みそうになる。慌てて引き締めるが、本当は怒っているわけではないのだ、いつまでも仏頂面でいる理由がない事に気付き、蘭はぎくしゃくと笑ってみた。

 すると、どっと涙が押し寄せてきた。

 

「手で割っちゃうね」

 

 潰さないよう慎重に、コナンは二つの中華まんを手で半分に分け始めた。

 その様子を、蘭は潤んだ瞳で見つめていた。

 

「あ、あ、あ……ちょっと失敗、まいっか……。今日は蘭姉ちゃん大活躍だったから、あんまん大きい方どうぞ」

 

 コナンは袋の上に半分にしたあんまんを置いた。不埒なひったくり犯を見事撃退した蘭に感謝といたわりを込めて、大きい方を彼女に渡す。ついで肉まんを手に取った。

 そちらも丁寧に半分に割る小さな手を、蘭は零れる涙越しに見ていた。

 また甘い物で太らせようとして…いつもなら軽く口に出来るそんな言葉も、今は胸が詰まって声にならなかった。

 食べる前から胸がいっぱいだった。

 安心して、嬉しくて、不必要に怖がった分、胸がいっぱいになっていた。

 

「い、いただきます……」

 

 でも食べるんだとしゃくり上げながら、蘭は半分に割ってもらった中華まんに手を伸ばした。

 見ずとも蘭の変化に気付いていたコナンは、そこでようやく顔を上げ、やれやれとばかりに笑ってハンカチを取り出した。

 頬に伸びてくる手に大人しく身を委ね、蘭はひと口かぶりついた。

 

「食べるか泣くか、どっちかにしないの?」

 

 コナンはふと肩を竦めた。鼻も鼻の周りもほっぺたも真っ赤にして、うぐうぐと飲み込みづらそうにしながらも、もくもくと食べ続ける蘭につい笑いが零れる。

 

「だ、だって…うく…せっかく買ってきてくれた…から……、熱々の内に食べたいん…だもん」

 

 しゃくり上げる合間に説明し、蘭は尚も中華まんを口に運んだ。

 

「アツアツをふうふうしながら食べるのが、一番美味しいもんね」

 

 言ってコナンは自分の中華まんを手に取ってかぶりついた。
 美味しいねとにこやかに目配せするコナンに頷き、蘭はありがとうと顔を伏せた。

 美味しい、本当に美味しい。

 ハンカチを受け取り、ほろりほろり零れる涙を拭いながらありがたく味わう。

 

 

 

 二つに割った二個の中華まんを食べ終わる頃には、蘭の涙もすっかり止まっていた。

 

「おいしかった…ごちそうさま」

「よかった。どういたしまして」

「本当に美味しかった…ほんとうに」

「ちょこっと食べると、ホント美味しいよね」

 

 中華まんの乗っていた跡だけ蒸気でしわくちゃになった袋を、コナンは手早くまとめてゴミ箱に放った。

 彼の左手からぽんと離れた紙くずを何気なく目で追い、彼の顔へと目線を引き上げると、蘭は口を開いた。

 

「ねえ……どうして分かるの?」

 

 全て含んだ疑問を、思い切ってぶつけてみる。

 恐る恐るといった風に見つめてくる少し濡れたスミレ色の瞳をしっかり見つめ返し、コナンはにっと笑った。

 

「ああ…だってボク、おはようからお休みまで蘭姉ちゃんの事見てるもん」

 

 少し茶目っ気を含んだ声音が、蘭の心にじわりと沁み込む。

 

「なにそれ……ストーカーみたい」

 

 言葉は優しくないが、声は限りなく優しかった。

 心のこもった、大好きな声。

 だから言葉には惑わされず、コナンはいたずらっ子の貌で返した。

 

「だって、そうでもしないと蘭姉ちゃん、すーぐ迷子になっちゃうし」

 

 その言葉に蘭は片頬を膨らませ横目にコナンを見やった。悔しいと、何か言い返してやりたいが彼の言う通りだ。自分はしょっちゅう迷子になっては心配をかけてしまっている。

 

「……ごめんなさい」

 

 情けなくて申し訳なくて…たまらなく悔しい――それでも自分は彼と一緒にいたい。

 今にも消え入りそうな声にコナンは強くしっかりと首を振った。

 

「だからずーっと見てるんだ。絶対傍を離れないって約束したじゃない。それに…蘭姉ちゃんと一緒だと、何にも心配ないからね」

 どんな大変な事が起きても

 

 誇らしげな笑顔、絶対の信頼を寄せるコナンのまっすぐな瞳を目にした途端、蘭は全身がかっと勢い付くのを感じた。

 

「私だって!」

 

 思うと同時に言葉が飛び出す。

 

「私だって何も不安なんかない!」

 

 これだけは嘘ではないと強くコナンを見つめる。

 

「じゃあ大丈夫だね」

 

 にっこりと目尻を下げて、コナンは言った。

 

「うん…うん、大丈夫。大丈夫!」

 

 自分に言い聞かせるように蘭は繰り返した。

 そこにコナンが復唱よろしく大丈夫と続け、それを受けて蘭はもう一度大丈夫と強気の笑みを浮かべてみせた。

 

「元気出たね、よかったね」

 

 それでこそ蘭姉ちゃんだと、コナンは嬉しげに頬を緩めた。

 

「だってコナン君が傍にいてくれるんだもの、元気出るわ」

 もりもり元気出てきちゃう

 

 大きく頷き、蘭はふふと笑みを零した。しみじみと噛みしめる。昼間、彼がつまずいた時に自分が助けたように、自分がつまずいた時は彼が助けてくれるものなんだと、しっかり心に刻み込む。

 不安に思う事など、はじめから何もなかったのだ。

 

「もしもっと大変な事が起こっても、ボクが絶対傍にいるから」

 蘭姉ちゃんは心配しなくて大丈夫だよ

 

 自信たっぷりにコナンは告げた。

 ほら、また。

 彼は何だってお見通しだ。

 無性に悔しい…たまらなく嬉しい。

 

「うん…ありがとうコナン君、お願いします!」

「まかせて。蘭姉ちゃんはちょっと手がかかって大変だけど、頑張るね」

「……あー、また。コナン君はもうー!」

「だってホントのコトだもん! そうだ蘭姉ちゃん、今のめそめそ分、まだ貯金箱に入れてないでしょ!」

「あ…い、今入れるわ、今すぐ」

「それから、今食べた肉まんとあんまんは貸しだからね。今度は蘭姉ちゃんがおごる番だからね」

「えー……分かったわよ、食べたいのあったら、いつでもどうぞ」

「やった! じゃあね、じゃあね……」

「はいはい、何でも言ってくださいな」

 

 二人はわいわいと賑やかに言葉を交わし、扉の向こうから聞こえる応援の声に負けじと、驚いたり笑ったり沢山の花を咲かせた。

 今日はこれ以上、勉強になりそうにない。

 二人ともすっかり頭から抜けてしまっていた。

 けれど先は長く、時間はある。焦る事もないと分かっているし、二人…三人でいるのだから大丈夫だと、お互い言葉以外で確認しあって、コナンと蘭は楽しい言い合いを尽きる事無く重ねていった。

 

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