ボクらの為の景色を

 

 

 

 

 

「……こいつが犯人だ」

 

 真横から聞こえてきた静かな呟き。

 言い方といい声の響きといい、昔から変わらない彼のそれ。

 蘭は正面に向けていた目を左へと動かし、ほのかに口端を緩めた。目だけ動かしたのでは呟いた本人の顔を見る事は出来ないが、どんな表情を浮かべているか見なくとも分かった。まったく、どうしようもない推理オタク…今にも声に出して笑ってしまいそうになる。

 蘭は代わりに唾を飲み込み、再び正面に意識を集中させた。

 正面のスクリーンでは、ホテルのロビーに集った数人の若い男女が、他愛ないお喋りに花を咲かせている場面が展開されていた。

 その内の一人は探偵で、一人が犯人。

 スクリーンの中の探偵はまだ犯人探しの途中で、巧妙に質問を混ぜながらお喋りを続けている。

 スクリーンのこちらにいる探偵は、早々と犯人を見つけた。

 まったく、どういう目をしているのだろう。

 頭の中はどうなっているのだろう。

 映画が始まり、第一の殺人が起こってからまだ十分も経っていないというのに。

 どんな顔で、映画を愉しんでいるのだろう。

 蘭はもう一度、今度はひじ掛けの飲み物を取るふりをして、そろりと左隣をうかがった。

 思った通り、見惚れる横顔がそこにあった。

 ああ、新一だ…これだけで、来てよかったと蘭は心から喜んだ。

 

 

 

 

 

 始まりは先週の夕刊のテレビ蘭…の下。来週末公開される映画のいくつかが紹介されていたのがきっかけだった。

 左端には彼女、蘭の見たい映画がいよいよ公開! と大きく載っており、その隣には彼、コナンの見たい映画がついに公開! と載っていた。

 二人とも、来週公開初日に見に行きたいと主張した。

 意見がぶつかった。

 お互い、個別に行動という考えは頭にない。一緒に行くというのが、大前提。

 そこで勝負は、じゃんけんでつけられる事となった。

 勝った方は来週の初日に、負けた方は次の週に…果たして勝ったのはコナンの方だった。

 勝っても負けても、一緒に映画を見に行く事に変わりはなく、蘭は負けた『チョキ』を軽く振りながら、嬉しそうに悔しがった。

 

 じゃあさっそく明日、前売り券買ってくるね

 ありがとう、じゃあチケット代渡しとくね

 

 二人が楽しく会話する横では、いつもの通りに、テレビに映る沖野ヨーコに向かってビール缶を振り上げ力いっぱい声援を送るダメ親父の小五郎が騒がしくしていた。

 そして今日の当日午前、米花駅前の映画館で、売店で買い求めたコーラとオレンジジュースとポップコーンを手に映画を愉しんでいる。

 公開初日だけあって場内は満席で、皆一様にスクリーンに釘付けになり、目当ての出演者を追ったり犯人は誰だと推理したり思い思いに楽しんでいた。

 その中で、多分恐らく一番に、犯人を見つけた名探偵、左隣に座るただならぬ小学生…生き生きと目を輝かせ画面に集中するコナンをこっそり見やり、蘭は、来てよかったと頬を緩めた。

 それから数十分。

 ついに犯人が判明した。

 開始早々コナンが言い当てた人物は、若い探偵を前に淡々と動機を語り始めた。

 それは、こういったドラマでは『ありがち』なものだったが、挿し込まれた回想シーンでの犯人と恋人との在りし日のいち場面、何でもない日常がとても優しくあたたかく描かれていた事で、蘭の涙を誘うきっかけとなった。滲む視界に慌てて瞬きを繰り返し、涙をやり過ごす。単純に恥ずかしくもあったし、探偵であるコナンへの申し訳なさも感じたからだ。

 そしてエンドロールが流れ、主題歌が終わると同時に照明が降り注いだ。

 場内はにわかに騒がしくなり、蘭も思い出したように大きく伸びをした。

 隣では帰り支度を整えたコナンが椅子から降り、飲み終えたコーラのカップ片手に立っていた。

 蘭は手早くコートを羽織ると、荷物をまとめた。

 

「じゃあ行こっか」

「うん」

 

 心底満足した顔でコナンは頷いた。

 ロビーに出たところで、コナンは、昼をどこで取ろうかと蘭を振り返った。

 

「え……うーん、そうね」

 

 人の流れに沿ってゆっくり歩きながら、蘭はうーんと小首を傾げた。

 その視線の先に何か気になるものを見つけたのか、一瞬大きく見開かれた。

 蹴られないようコナンは辺りを気にしながら歩き、ふと顔を上げると、にっこり笑って見下ろす蘭と目があった。いつの時も彼女はこうして優しく微笑みかけてくれるが、今は少し違う色が混ざっていた。何か面白いものでも見たのだろうか。気にはかかったが、追求するほどのものではないだろうとコナンは飲み込んだ。

 

「いつもの、べいかデパートの九階でいいかな」

「うん、いいよ」

 

 レストラン街を見て回って決めたいという提案に、コナンは大きく頷いた。ほとんど好き嫌いのない自分、今日は付き合ってもらった分もあると、どこでもお供する気でいた。

 

 良いお天気ねコナン君

 ホント、眩しいくらいだね

 

 綺麗に晴れ渡った冬の青空を二人して見上げ、他愛ないお喋りを紡ぎながら駅へと向かう。

 たどり着いたべいかデパートの九階、一時を少し回ったフロアは混雑のピークも過ぎて、どこも並ばずに入れるようだった。

 ひととおり見てから決めようと二人は連れ立って歩き出した。当り前のように、手を繋いで。

 

 コナン君、何にする?

 蘭姉ちゃんは、何食べたい?

 

 いつもする少しむず痒い会話をにこにこ交わしながら、二人は一軒ずつ見て歩いた。

 映画館にいる間はまるで気付かなかったが、こうして美味そうなサンプルを見るにつけ腹は鳴り、力は抜け、すっかり腹ペコになった自分を自覚する。

 時間も時間だから、当然だ。

 と、二人の足が一軒の前でぴたりと止まる。

 店の入り口から、身も心もくすぐるカレーの良い匂いが漂ってきたからだ。

 どの店も食欲をそそるが後一歩違うと思っていたところに来ての誘惑に、二人はすっかり魅了されてしまった。

 蘭はコナンに、コナンは蘭に同時に目を向けた。

 何も言わずとも意見が一致したのを喜び、二人はにんまりと口端を持ち上げた。

 

「あ!」

 

 更に蘭が声を上げる。

 きらり輝く視線を追ってコナンが見やると、各種カレーの皿の横にパフェが並んでいた。なるほど、彼女の好きそうなもの。

 四角い小ぶりのグラスに盛り付けられた苺と生クリーム、チョコと生クリーム、フルーツと生クリーム、抹茶アイスと生クリーム…確かにどれも、彼女の心をくすぐるのに充分の彩りをしていた。思わず声を上げてしまっても無理はない。

 冬のさなかに冷たいパフェを選んだのは少々驚きだが、女子、特に彼女の食べたい気持ちの前では、些細な問題だろう。

 パフェには特大サイズも用意されていた。四角いグラスの一列後ろにどっしりした丸い器が並んでおり、同じ内容で山盛り一杯に詰まっているのだ。

 もちろん彼女が見ているのは前列の四角いグラスの方で、しかし迷うのは、カレーも食べたいパフェも食べたい食いしん坊の自分と戦っているからだ。

 コナンは迷う背中を押した。

 

「いいじゃない、両方食べれば」

「え! でも……」

 

 食べられない事はないけど…もごもごと蘭は言葉を濁した。

 

「おごりなのは気にしなくていいからさ。好きな物食べようよ」

「でも……うん、じゃあ甘えよう」

 ありがとう

 

 困ったように眉を寄せ、すぐににっこりと頬を緩めて、蘭は小さく頷いた。

 まだどこか遠慮がちで、恐る恐るといった様子だが、甘えを見せる彼女をコナンは内心喜んでいた。

 たとえ二人きりでもどんな場でも、自分たちは『コナン君』『蘭姉ちゃん』としか呼べないが、あの日公園で交わした約束――うんと甘えていいといった言葉はこういう時果たされる。矛盾があっても軽く飲み込んで、二人…三人を確実にする。

 それがしようもなく嬉しくて、コナンはつい調子に乗る。

 

「決まった? じゃあ蘭姉ちゃんはカレーセットと特大パフェね」

「ちょっと、違うわよ!」

 

 蘭は笑いながら、繋いだ手を軽く振った。真剣な顔でわざと間違えて、可愛らしい意地悪をしてくるコナンにもうと頬を膨らませる。

 

「え、ゴメンなさい。えっと蘭姉ちゃんは、カレーセットと、特大パフェ!」

「もーう、どうしても特大食べさせたいのね」

 

 他愛のないやり取りがしようもなく嬉しくて、蘭は食べてみせようかと奮い立った。とはいえもちろん、選ぶのは普通サイズだ。いくら食べたくても、冬のさなかに特大パフェは入らない。それにもうすでに半分、嬉しさで埋まってしまっているからだ。

 ひとしきり笑い合った後、コナンは欧風チキンカレーのセットを、蘭は野菜たっぷりカレーのセットと抹茶パフェを決定した。

 案内された明るい窓際の席に向かい合って座り、二人は改めて映画の感想を言い合った。

 ところどころで意見の食い違いから言葉がぶつかる事もあったが、お互いその議論も含めて鑑賞後の楽しさを味わった。合間に、運ばれてきたセットメニューのスープとサラダをつつく。

 店内を満たすうっとりするようなカレーの匂いは空腹を更に刺激し、今まさに交わすやり取りの心地良さを更に膨らませ、二人にたとえようもない満足感をもたらした。

 ほどなく待ちかねたカレーが運ばれ、蘭とコナンは揃っていただきますとスプーンを手に取った。白い湯気立つカレーをふうふうと少し苦労しながら口に運び、時々同じタイミングで目を見合わせながら、家で食べるのとは一味違ったカレーに笑顔を零す。

 まず蘭が食べ終わり、続いてコナンも最後のひと匙を口に運んだ。

 

「ああ、美味しかった」

「美味しかったね」

 

 何度も繰り返したが、何度もこの言葉が出るほど美味しく、そして楽しい食事だった。

 皿が下げられ、コナンにはコーヒー、そして蘭にはお待ちかねの抹茶パフェがそれぞれ運ばれた。

 カレーがやって来た時とはまた違った目の輝きでテーブルの上の四角いグラスを見つめ、蘭は丁寧にいただきますと頭を下げた。

 律義に礼を言う様と、眩いばかりの笑顔とがどうにも可愛くておかしくて、思わず吹き出しそうになる。コナンはぐっとこらえ、どうぞとすすめた。

 ほっそりと長いスプーンを手に、蘭は右から左からパフェを見やった。

 どこから食べようか悩んでいるのだろうか。スプーンを近付けてはためらい、小首を傾げ、蘭はそっとうなった。

 真正面にある嬉しさに満ちた顔その仕草を、コナンはしみじみと見つめた。

 ようやく決心がついたのか、蘭はえいとばかりにスプーンを突き立てた。決めた後は、結構大胆だ。抹茶ソースと生クリームを半分ずつたっぷり乗せ、口に運ぶ。

 何でも、ひと口目の美味さというのは格別なものだ。

 この時も蘭は、涙を流さんばかりに喜び顔中輝かせた。

 嬉しさが伝わってくる喜びようは、コナンの心も満たした。

 砂糖の一杯も入れていないのにコーヒーはとろけるように甘く極上の味がして、気付けばすっかり頬が緩んでいた。

 コナンの笑みに気付いた蘭は、恥ずかしそうに肩を竦めた。

 調子に乗ってぱくぱくと食べていたのを笑われたのだと、勘違いしたのだ。

 

「そんなにじっと…見ないでよ」

「あ…ごめんなさい。あんまり美味しそうに食べてるから、良かったなあって思ったら、つい」

 

 コナンは慌てて謝った。食べている最中にやにやと見つめられては、美味しいものも美味しくなくなってしまう。悪い事をした。

 

「あ…うん。すっごく美味しい。ありがとう」

 

 照れ笑いを交えて蘭は感謝した。

 そのはにかむ表情が、またコナンの目を釘付けにした。

 

「だから見ないでってば」

「え、あ、うん」

 

 すっかり無意識だったのか、コナンはあたふたとコーヒーのカップを手に取った。

 と、蘭がふふふと小さく肩を揺らした。

 コナンは反射的に顔を赤くした。さすがに今の行動は、笑われてもおかしくないだろう。迂闊な自分が情けないやら腹立たしいやら。

 

「あ、違うの。ゴメンね」

 

 蘭はすぐさま謝り、改めて口を開いた。

 

「さっき行った映画館で、始まる前に飲み物とポップコーン買ったでしょ」

「うん」

「その時ね、ちょっと離れたところで、口げんかしてるカップルがいたの」

「へえ……」

「言ってる内容までは分からなかったんだけど、どっちも全然譲らなくて…でも映画を観終わったらその時にはもうすっかり仲直りしたのか、二人とも楽しそうに笑いながら映画の感想言い合ってたの……」

 

 説明しながら、蘭はくすくすと声を零した。

 

「でね、今それを思い出したら、私もアイツとしょっちゅうケンカして、いつの間にか仲直りしてたなって……何だかおかしくなっちゃって」

 

 静かに語る蘭の表情を、コナンは穏やかに見つめていた。

 いつもいつもいつの間にか、ケンカしていた事を忘れてしまっていた。きっかけなんて本当に些細なもので、今となっては思い出すのも難しい。

 蘭が映画館のロビーで見かけた二人も、きっと、ケンカの始まりは些細なものだっただろう。

 

 そうか…だからさっきロビーで

 

 半分ほどになったパフェから目を上げ、蘭はふと口にした。

 

「コナン君とは、そういえばケンカした事ってないね」

「だってボク居候だし」

 

 ふと口にした蘭の言葉にそう答え、コナンはほんの少し視線を落とした。

 

「……家族だよ」

 

 蘭は手を止め、じっとコナンを見つめた。

 数秒視線を合わせた後、コナンは迷いながらも首を振った。

 そこに浮かぶどこか困った表情にぐっと唇を引き結び、蘭は言った。

 

「ゴメンね…気を使わせちゃって」

「そんな事言わせちゃうボクの方こそ――」

 

 コナンが謝ろうとするより先に、蘭はこつんとおでこにげんこつをくれた。

 

「もー、子供がそんな事言わなくていいの」

 

 たしなめるお姉さんの貌になった女を愛しく見上げ、コナンはにやりと笑った。

 

「蘭姉ちゃんはさ、いずれ新一兄ちゃんと家族になるでしょ」

「!…もー、ホントにコナン君はおませさんなんだから!」

 

 そう言い返す蘭の声は、どことなく震えていた。顔はすでに真っ赤だ。

 

「あれれ、蘭姉ちゃん顔赤いよ」

「べ、べつに! そんな事ないもん!」

 

 いひひと意地悪く付け足すコナンにひと睨みくれ、蘭はごまかすようにパフェを口に運んだ。

 みるみる減っていくグラスの中身をしばし見送った後、コナンは静かに口を開いた。

 

「その時にはボクはいないけど…いないけど、ずっと傍で見守ってるから」

 

 渡された言葉に蘭の手が一瞬止まる。がすぐにまた動き出し、今度は落ち着いた行き来になってグラスの中身をすくっていった。

 

「……ふーん。ちょっと目を離すとすーぐどっか行っちゃうくせに」

 ねえ

 

 言い含んだ上目遣いで見やり、蘭は問いただすようにじっとぶつけた。

 それを持ち出されると弱いんだ…コナンは渋い顔で笑い、ごまかし交じりにコーヒーを口に運んだ。

 コナンの反応に蘭は満足げにふふんと笑い、ひと口、もうひと口とスプーンを動かした。

 と、不意にその手がぴたりと止まる。

 

「……いないんだよね」

 

 吐息にも似た囁きがコナンの耳をかすめた。コーヒーカップの中に避難させていた視線を蘭へと向け、何か云いたげに唇を引き結ぶ。

 言葉を拒否するかのように、蘭は繰り返しスプーンを口に運んだ。

 店に入る時、あんなに目を輝かせて選んだパフェだが、今はちっとも嬉しそうに見えなかった。美味しそうに見えなかった。

 コナンはカップを置くと、ぎこちなく俯いた。

 彼女にそんな顔をさせてしまう自分が、たまらなく情けなかった。

 店内を満たす食事時の楽しげなざわめきが急に寒々しいものに感じられてきて、何と言ってよいやら分からずコナンは口を噤んだままでいた。

 

「なんか……すごく難しい」

 

 少し間を置いて、蘭がぽつりと呟いた。

 

「コナン君と思い出作れば作るほど……」

 

 そこまで言って、蘭はぐっと息を詰めた。喉につかえる何かが出てしまわないよう堪えているのか、じっとテーブルを見つめ黙したままでいた。手は半ば無意識にだろう、器の中の残りを小さくつついていた。

 しばし待つが、続きの言葉が出る事はついになかった。

 声は途切れてしまったが、彼女が何を言いたかったのか…コナンには分かっていた。

 よく分かっていた。

 何度も繰り返される瞬きと、震えるまつ毛を見れば、分かる。

 ずっと、いつもいつも傍で彼女を見てきたのだ。

 寂しい、悲しい…決して彼女が口にしない言葉。

 どちらにしろ、自分のせいで与えてしまうもの。

 それでも自分はこの道を選んだ。

 コナンは一旦目を落とし、持ち上げて蘭を見つめると、控えめに口を開いた。

 

「あ…あのさ、蘭姉ちゃん」

 

 蘭は遊んでいた手を止めると、ぎこちなくコナンを見やった。

 そこには、いつの時も優しく見守ってくれるあたたかな眼差しがあった。それはたとえこんな風に姿形が変わっても、変わらないもので、大好きな光をしっかりと湛えていた。

 真実が嬉しくて、ほんの少し涙が滲んだ。

 

「ケンカ出来ない代わりに、蘭姉ちゃんにだけ、ボクの一番の秘密話してあげる」

 

 一番の秘密というところで、どきりと胸が高鳴った。身体の芯が一気にかっと熱くなり、ただコナンの声だけに耳が研ぎ澄まされる。

 

「絶対、誰にも内緒だよ。蘭姉ちゃんだから喋るんだからね」

 

 人差し指を口に当て、どこか楽しげにコナンは続けた。

 蘭は居住まいを正すと、神妙な顔でうんうんと頷いた。少し息苦しささえ感じる。懸命に飲み込んで、一番の秘密をじっと待つ。

 コナンは少々身を乗り出した。

 蘭もそれに倣って前屈みになり、近くなった眼鏡越しの美しい瑠璃色をまっすぐ見つめた。

「ボクね、ちょっと前まで、江戸川コナン大嫌いだったんだ」
 これがボクの一番の秘密

 蘭は、目の前の少年をまじまじと見つめた。言われた言葉は、すぐには理解出来なかった。誰を嫌いと言ったのだろうと、頭の中で繰り返す。

 

「え…コナン君……それは、どうして……?」

 

 聞き返しながらも、まだ半分理解出来ていない。

 

「うん……だってね、何にも出来ないんだもん。一番好きな人が寂しくて悲しくて泣いてるのに、何にも出来ない……嫌で嫌でたまらなかった」

 

 コナンは淡々と言葉を綴った。それは独白のようでもあり、自分自身に言い聞かせ今一度確認しているようでもあった。

 

「……でも蘭姉ちゃんが、三人で行こうって手を握ってくれたでしょ。あの時から変わったんだ。ボクにも出来る事があるんだって、分かったから」

 

 コナンはにっこりと頬を緩め、じっと耳を傾ける蘭に微笑みかけた。

 

「たくさん思い出を残していこうって、思うようになったんだ。ボクも蘭姉ちゃんも一生忘れられないくらい、楽しい思い出をたくさんね」

 

 蘭は軽く目を閉じ、心の中に溢れ返るほどたくさんの思い出というものを想像してみる。思い浮かべたそれはとても色鮮やかで賑やかで、一つずつが大きな幸せで満たされていた。

 ゆっくり目を開けてコナンを見やり、蘭は何事か云うように口を開きそして噤んだ。

 

「そっか……でも……、ますます難しくなるね」

 

 しかし不思議な事に、一度目よりも胸を苦しくさせなかった。気持ちは残っているけれども、堪えようもない寒さは感じなかった。

 

「うん……」

 

 ささやかな違いを受け取り、コナンは泣きそうに微笑んだ。

 束の間俯き、顔を上げて「でも」と続ける。

 

「ずっと経ってから今を振り返った時、胸を張って言いたいからね。江戸川コナンは幸せだった……てさ」

 

 聞いて、蘭は小さく目を見開いた。まず浮かんできたのは、きつく胸を締め付ける寒々しい虚ろ。いつか訪れる時がもたらすものだ。けれどすぐにそれを覆い尽くすように言葉に出来ない感情が後から後から込み上げて、気付けば笑みが浮かんでいた。

 苦しくなるような寂しさはまだはっきりあるのに、何故か頬が緩んでしまう。

 

「……ほーんと、コナン君てばどこまでもわがままなんだから」

 誰かさんそっくり

 

 そして言葉が紡がれる。ついさっきまで喉の奥に居座っていた凍えそうなものではなく、軽やかで弾む声が、口から飛び出す。

 

「ホントに、一生忘れられないくらいのものくれるの?」

「うん、もちろん。蘭姉ちゃんがどんなに欲張りでも、もういらないわーってくらい、たくさんね」

 

 コナンは自信たっぷりに答えた。言葉に嘘偽りはない。自分に出来る事など限られているが、彼女が望むならば何でもしてみせる。

 

「……そうよ、私、すっごい欲張りなんだから」

 

 普段なら癪に障るからかいの言葉も、今ははちきれんばかりの喜びの一つに数えられた。そのせいで顔がにやけてしまって仕方ない。たまらなく恥かしいが、嬉しいものは嬉しいままにしよう。

 蘭は膝に乗せていた手をテーブルの上に持ち上げると、コナンの小さな手にそっと伸ばした。コーヒーカップに添えるようにして置かれていた左手を両手に包み、上向きにして、静かに開かせる。

 コナンは力を抜き、されるがまま任せた。女の指が、手のひらに刻まれた傷跡をそっとなぞり出した。もう痛みはない。感覚も大分戻った。まだ少し不自由ではあるが、日常生活で不便を感じないほどには動かせるようになった左手。彼女に半分渡したもの。少し曲がったままの人差し指も、縦横に走る傷跡も、二人で半分ずつ負う事にした。

 

「ちょっとくすぐったい」

 

 傷そのものの部分は鈍くなっており感じにくいが、それ以外のところはむず痒い。コナンは小さく笑って言った。

 

「ごめんね」

 

 蘭は包み込んでいた手をそっと…まるで壊れ物を扱うようにそっと離しテーブルに置いた。

 

「秘密…教えてくれてありがとね」

 絶対誰にも言わないよ

 

 厳かに誓い、でも、と蘭は続けた。

 

「私ばっかり欲しがるんじゃ不公平だから、私からもたくさん上げるわ」

「ありがとう、蘭姉ちゃん。今でも、たくさんもらってる……本当にありがとう」

 

 まだほんのりとぬくもり残る左手を見やり、蘭を見上げ、コナンは嬉しげに言った。

 

「もっともっとたくさんよ。私だって、コナン君がもういらないよーって言うとこ見たいもの」

 

 にこにこしながらそんな事を言ってくれる女にコナンは幸せそうに微笑んだ。自分は本当に贅沢だと思う瞬間。しみじみと噛みしめる。

 その、まっすぐで優しい表情が蘭の胸をあたたかく包み込む。自分の渡した言葉がそういう形で返ってくる事がたまらなく嬉しくて、蘭は込み上げる気持ちのままに「大好きよ」と告げた。

 

「へっ……?」

 

 鳩が豆鉄砲を食らったような…それはまさに、彼の今の貌を言うのだろう。おかしくて愛しくて、もっと言いたくなった。

「コナン君の事、好きよ、だーい好き。私は、江戸川コナン君大好きよ」

 少しむず痒くもあったが、言えば言うほど、もっともっと口に出したくなった。蘭は満面の笑みで繰り返した。

 対してコナンは、一つ渡されるごとに顔を赤くし、真っ赤になって、居心地悪そうにもごもごと何やら呟いた。

 

「も……もういいよ蘭姉ちゃん!……恥ずかしいよ」

 勘弁してよ……

 

 ついには泣きそうな顔でストップをかける。困り果て、コナンは俯いた。

 

「あ……ごめんね」

 

 蘭は慌てて口を押さえた。つい調子に乗って、鬱陶しい事をしてしまったと後悔する。

 

「いや、ううん……そうじゃなくて!」

 

 済まなそうに俯く蘭に大急ぎで首を振る。困る事など何もない。嫌いだったと自分が言ったから、好きだと気持ちを重ねてくれたというのに、気の利いた言葉の一つも返せないとは。嗚呼…やはり自分は、どこまでいっても未熟者だ。

 

 なっさけねー……しっかりしろよ!

 

 叱り飛ばし、コナンは思い切って目を上げた。顔どころか首まで熱い無様な姿がひどく恥かしいが、嫌だと思って言ったのでは決してない。

 

「あの……すごく、嬉しい」

「……ホント?」

「ほ、ホントだよ……す、好きな人に…そう言ってもらえて、すごく嬉しい。ありがとう」 

「よかった……!」

「……うん」

 

 双方同じ姿勢でちらちらと、恥ずかしそうに相手を見やりふふと笑う。

 

「絶対に後悔は残したくないもの」

「……うん、ボクも同じ気持ちだよ」

「よおし、コナン君がどこに行っても、絶対忘れられない思い出作ろうね」

 うんとたくさん

 

 愛らしい顔に浮かぶ晴れやかな微笑は、今日の陽射しにも似て眩くそしてあたたかい。コナンは降り注ぐそれに感謝の眼差しを向けた。

 

「じゃあさ蘭姉ちゃん、ボクの為に、特大パフェいってみない?」

 

 コナンはにやにやと、残り少なくなった四角いグラスのパフェを見やった。蘭の視線もほぼ同時にそこに向けられる。

 溶けかけたバニラアイスと抹茶のソース、すらりとしたスプーン。

 蘭はすぐさまコナンへと目を向け、げんこつを落とす振りをした。

 

「……もう、コナン君はすぐ調子に乗るんだから」

「ごめんなさぁい」

 

 頭の少し上で止まったげんこつにコナンは大げさに肩を竦めた。

 それから目を見合わせ、二人揃ってくすくすと笑う。

 こんなやり取りもきっと残ると、二人…三人は心にしっかり刻み込んだ。

 

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