…キッス

 

 

 

 

 

 横一列に並んだ子供たち、少年探偵団の面々――小嶋元太、円谷光彦、吉田歩美、灰原哀、そして江戸川コナンに向かって、毛利蘭はにこやかに言った。

「それじゃあみんな、楽しんできてね!」

「はーい!」

 五人、いや三人は元気に応え、すぐに踵を返すや顔中をキラキラさせながら駆け出していった。

「ほらあ、コナン君も早く!」

 一人遅れるコナンを、歩美がはしゃいだ声で引っ張る。その様子に、哀がくすりと笑いをもらした。

「おせーぞ、コナン!」

「早く行きましょう!」

「……わーったよ!」

 五人はひとかたまりになって、それぞれ笑顔で、一人だけ渋い顔で、人ごみの中へと向かう。

 元気一杯のそんな後ろ姿を、蘭は笑顔で見送った。

 

 

 

 うららかな陽気のある土曜日。五人は、東都タワーにやってきていた。

 今月一杯行われる仮面ヤイバーショーを見るのが、彼らの目的だ。

 当初は、歩美の父親が保護者として付き添うはずだったのだが、仕事の為急遽行けなくなってしまった。他の二人の親はそれぞれに予定があり、歩美の父親も、娘の願いを叶える為どうにかやりくりして日を空けたのだが、結局潰れてしまった。翌朝、半分泣き顔で教室に入ってきた歩美を見て事情を察したコナンは、言いにくそうに口ごもる彼女が本当に泣き出してしまう前に、別の付き添い役の名を口にした。

 それが蘭だ。

 いつでもニコニコと朗らかで明るい彼女を好いている彼らは、大喜びで頷いた。

 その夜、コナンが土曜日の予定を確認したところ、蘭は先約があるがこちらは別の日に変えるから構わないと言った。

 他に約束があるならいいと言うコナンに、彼女はこう返した。

「園子と一緒に買い物に行くだけだから気にしないで。いつでも行けるし。でも、子供の頃のお出掛けって一つひとつが特別なものだから、大事にしないとね。大丈夫、園子ならわかってくれるし」

 とびきりの笑顔に、少年はしばし見とれた。

 こんな時、彼女の偉大さと、心の広さを知る。

 そして土曜日。

 少々寝不足顔の一人と、あまり乗り気でなさそうな一人と、元気満々の三人と、そんな彼らを見守る一人は、揃って東都タワーを訪れた。

 全身で喜びを表し駆けて行く彼らの姿が人込みに消え、少しして蘭は小さく息をついた。

 賑やかな中に一人。

 途切れる事無く行き交う人の波を、何とはなしに見送る。

 家族連れ、中年女性のグループ、カップル…

 つい二人連れに目が行ってしまう。

 でも、以前のように寂しくない。

 自分一人ぽつんと置き去りにされてしまったけれど、寂しくはない。

 戻ってくる彼は、どんな人ごみの中でも真っ先に自分を見付けてくれる。そしてまた自分も、どんなに遠くても真っ先に彼の瞳を見付けられるから。

 だからむしろ逆に、待つのが楽しい。

 そうして考えると、こうして待つ時間は、何より貴重に思えた。

 ――新一

 今は決して口に出来ない名前を、心の中でそっと呟く。

 柵に寄りかかり人の流れをぼんやり眺めながら何度も呼びかけていると、不意に誰かに袖口を引っ張られた。

 蘭は小さく驚き、反射的にそちらを向いてしゃがみ込んだ。

「きゃっ……!」

 直後、反対側の頬に何か冷たいものを押し付けられ、思わず声を上げる。

「また引っかかった」

 いたずらっ子のように笑う声。振り向くと、コーラの缶を手に、してやったりと得意げに笑うコナンの笑い顔が目に飛び込んだ。

 青い瞳とぶつかる。

 新一の目。

「……もう!」

 一瞬の胸の高鳴りに、蘭はうっすらと頬を赤く染め、少し怒ったように笑った。

「はい、これ蘭姉ちゃんの分」

「…ありがとう」

 差し出された缶を受け取り、ふっと頬を緩める。

「他の四人は?」

 肩越しに姿を探し、蘭は尋ねた。

「ああ。行ったら丁度ショーが始まるところで、席に座るのを見届けて戻ってきたから、大丈夫だろ。終わるまで、テコでも動かねーよ。ったく、ガキのお守りは疲れるぜ」

 最後は大げさに肩を竦めて説明するコナンに、蘭は小さく吹き出した。

 何だかんだ言いながらもきちんと目を配っている彼に、ほっと胸があたたかくなる。

「……なんだよ」

 くすくすと笑う蘭に、コナンは首を傾げた。

「そんな事言ってホントは自分も見たかったりして。仮面ヤイバーショー」

「あのなぁ……」

「冗談よ。ねえ、終わるまでお茶してよっか」

 あそこで

 少し先にある休憩コーナーを指差す蘭に、顔を見上げ、わずかに俯いてコナンは頷いた。

「う…うん」

 心なしか、顔が熱い。

 

 

 

 厚いガラスで仕切られた一角、適当な席に落ち着いた二人は、オレンジジュースとコーヒーを前に、無言のまま向かい合っていた。

 迷わずオレンジジュースを手に取る蘭に、ややぎこちない動作でコナンはコーヒーカップに口をつけた。

 一言も言葉を交わさない事に、何も喋る事はないけれども落ち着かない気分を味わうコナンと、ただ一緒にいるだけで満ち足りた気分になる、蘭。

 傍目には歳の離れた姉弟に見えて、けれど互いには、言葉にしなくても通じる見えない姿形を見ている。

 二人…三人だけの秘密。

 やがて蘭が口を開いた。

「ねえ、皆が戻ってきたら、何か食べに行かない?」

「あ…うん」

 どこかでほっとして、ちらりと時計を見やる。昼を少し過ぎた時間。

「そうだね」

「コナン君は、何が食べたい?」

 少し身を乗り出して聞いてくる蘭に、思わずどきりとする。

「え、ボクは……」

 ほんの少し近付く顔、ただそれだけで言葉に詰まってしまう。まっすぐに向けられた視線や、屈託のない笑顔、心地好く鼓膜を震わす声…それらすべて、自分だけのものだと思わせてくれる、幸せな瞬間。

 と、笑顔のまま蘭は目線を逸らすと、コーヒーカップを自分の方に引き寄せて持ち上げた。

「あ……」

 瞬きも忘れて、コナンはじっと見つめた。

 綺麗な指が取っ手を摘み、何のためらいもなく、カップを口に運ぶ。

 突然の行動に、言葉も出ない。

 そのくせ、彼女は砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーが好みなのに、とか、そんな余計な事ばかりがぐるぐると頭を過ぎる。

「!…」

 たった今まで自分が口をつけていた箇所に、彼女の形良い唇が…触れる。

 次々と切り抜きを見せられているかのような、わずかずつ進むひとコマひとコマが、鮮やかに目に映る。

 何が起こっているのだろう。

 頭の芯が甘く痺れて、物がうまく考えられない。

 その時。

「あー、ずりーぞコナン!」

 入口の方から、聞き覚えのある声が耳に飛び込んだ。

 びくっと肩を震わせ、コナンは振り返った。

 背後で、かちゃりとカップを置く音がする。

 落ち着き払った、静かな物音。

 それをきっかけに思考が突如動き出し、凄まじい勢いですべての物事を繋げていく。

 入口に背を向けて座っている自分。

 人の出入りを見渡せる位置に座っている蘭。

 ずるいずるいと騒ぐ元太。

 続いてやってくる三人。

 

 ああ、そうか……

 

「ごめんね。皆にも冷たいものご馳走するから、それで許してね」

「やったー!」

 済まなそうに告げる蘭に、子供たちがはしゃいだ声を上げる。

 ベンチチェアに、少々窮屈ながら六人は詰めて座り、それぞれに飲み物を注文した。

「コナン君はオレンジジュースなの? じゃあ歩美もオレンジジュース!」

 コナンの横に座った歩美が、彼の前に置かれたオレンジジュースを見て声を上げる。

「オレ、チョコレートパフェにソフトクリームにプリンアラモード!」

 歩美の横には元太が座り、うきうきと声を張り上げた。

「元太君、どれか一つにした方がいいんじゃないですか?」

 歩美の前に座った光彦が、一度に三つの注文に驚きすかさず挟んだ。

「いいじゃねーかよ…」

 そんな様子に、光彦の右隣に座った蘭がくすりと笑った。

「哀ちゃんは、何にする?」

「私は…私もオレンジジュースで」

 尋ねられ、光彦の左隣に座った哀は少し戸惑い気味にこたえた。

 注文の品が運ばれてくるまでの間、子供たちは今見てきたショーの感想を目をキラキラ輝かせながら口々に言い合い、身体中で喜びを表現した。

 そんな彼らに蘭は真剣に、同じだけ表情をくるくる変えて驚き、感心し、笑った。

 目まぐるしく変わる表情の一つひとつはとても魅力的で、だからこそ子供たちに好かれるのだろうと、少年は思った。

「お待たせしました」

 やがて目の前に揃ったそれぞれの希望の品に、子供たちは一斉に手を伸ばした。

「いただきまーす!」

「どうぞ召し上がれ」

 幸せそうな彼らにつられ、蘭が微笑む。そのままごく自然に、コーヒーを口に運ぶ。

 そちらをはっきり向けず、視界の端でちらちらとかすめ見ながら、コナンは自分の前に置かれたオレンジジュースのグラスに息を詰めた。

 何の変哲もないすらりとしたグラスに注がれた、絞り立てのオレンジジュース。

 四角い氷が二つ、三つ。

 少し折れ曲がった白いストロー。

 

 白いストロー

 

 手も出せない。

 甘く清々しい香り、目にも鮮やかな果実の色、そしてストローが自分を誘惑する。

 けれど……嗚呼

「お、コナン、それいらねーのか? じゃあオレが…」

 全く手をつけようとしないコナンに気付いた元太が、いただきとばかりににゅうと手を伸ばした。

「あ……」突然の事に身体がついていかない。

「駄目よ、元太君!」

 代わりに、歩美が元太の手をはたいた。

「食べ物の恨みは、恐ろしいんだから!」

「そうですよ。それにコナン君が相手の場合、完全犯罪で消される可能性もありますからね」

「あ、あのなあ!」

 好き勝手喋る彼らに、コナンは呆れ気味に抗議の声を上げた。

 気付けばいつのまにか、両手でしっかりとグラスを握っていた。そんな自分自身に内心驚きながら、出来るだけ自然に口を近付ける。

「密室殺人かしら。それとも、自殺に見せかけて…あるいは、自然死を装って殺すって手もあるわね」

「おまえまで……」

 物騒な事をさらりと言ってのける哀に、乾いた笑いをもらす。

「じゃあ、うちのお父さん真っ先に狙われるわね。コナン君のおかず、いつも横取りしてるから。気を付けるよう言っとかなくちゃ」

 彼らに合わせ、蘭までも真剣な顔でうなった。

 子供たちが一斉に笑い出す。

「蘭…ねえちゃん……」

 一緒になって屈託なく笑い、残りのコーヒーを飲み干す蘭を、コナンは複雑な顔で見上げた。

 耳の奥で、心臓の鼓動がどきどきと響いている。

 思い切って窓の外に目を向け、今だけこの空間から自分だけを切り離しストローを掴む。

 この動悸はいったい何が原因なのか、まったく解けないままコナンは口をつけた。

 

 嗚呼、もうどうにでもなれ――

 

 

 

 夕刻、大喜びの子供たちをそれぞれ家に送り届け、二人も帰宅した。

 夕飯後、いつものようにコナンが先に風呂に入り、蘭に告げに行く。

 ノックに応える声を聞いてからドアを開け、どうぞとすすめる。

「あ、ありがと」

 食事時も今も、いつもと変わらない彼女の様子に、コナンはかえって落ち着きを無くした。

 蘭は用意しておいたタオルと下着を手に椅子を立つと、思い出したように口を開いた。

「そうだ、昼間のコーラ、冷蔵庫に入れてあるから」

 ありがとね

「あ、うん…」

 戸口で、コナンはどもりながら頷いた。

 そのまま蘭は、横をすり抜けて風呂場へと向かう。

 と、もう一つ思い出したと、足を止め振り返った。

「それと……」

 リビングで、ビール片手に野球を観戦している小五郎に気付かれぬよう顔を寄せ、小声で付け加える。

 思いがけず間近に迫った顔に、胸が高鳴る。

「今日の事は、新一には内緒ね」

 いたずらっ子のようにくすくす笑って、蘭は人差し指を口に当てた。

「あいつ、結構嫉妬深いから」

「え……」

 しばし呆気に取られるコナンにご機嫌な様子で手を振り、蘭は風呂場に向かった。

 後には、複雑な表情で真っ赤になった、コナンだけが残った。

 彼女の言った言葉と、その意味を頭の中で懸命に組み立てようとするが、どう頑張っても適わなかった。

 

 嗚呼、彼女は無敵だ……

 

 ようやく掴めたのは、それだけだった。

 

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