五百五十円

 

 

 

 

 

 両手で顔が洗えるようになった。

 服の脱ぎ着も大分もたつかなくなった。

 鼻をかむのも難儀しない。

 痒いと思ったら我慢せずすぐかける…そして何より、重くないのがいい。

 夜が明けてすぐ、まだ薄暗い部屋の天井を見上げ、コナンは布団の中大きく伸びをした。二本の腕を思い切り振り上げると、手のひら全体に空気の流れが感じられ、自然頬が緩んだ。天井に向けて伸ばし、そのままゆっくりと手首を回す。

 まだ少しばかり痛むが、かまうもんか。

 

 

 

 長らく左手を拘束していたギプスから解放され、数日が経った。

 久々に見る左手は、手のひらに刻まれた派手な傷による腫れにむくみも加わり、それはそれはひどいありさまで、何日も動きを制限されていたせいで指先をぴくりと動かすのが精一杯の状態だが、欠ける事無く残った五本の指と、強く押せば痛いというのが、たまらなく嬉しかった。

 傷が残るという事実をあらためて自分の目で確認し、少なからずショックも受けたが、嬉しさの方が勝っていた。

 だが浮かれてばかりもいられない。

 診察室の中、何枚ものレントゲン写真を前に説明する担当医の言葉を、神妙な顔で聞き入っていた小五郎と蘭の顔を思い出す。

 小五郎はしきりに、元通り動くようになるかを訊いていた。日常での過ごし方や、リハビリの進め方に熱心に耳を傾ける様は、事件の時に見せるそれとはまた違った真剣さがあった。

 対して蘭は、終始無言で説明に聞き入っていた。

 ちらりと盗み見た顔はひどく強張り、少し青ざめていたようにも感じられた。

 それでも帰り道、彼女は満面の笑みで回復おめでとうとギプスが外れた事を心から喜んだ。

 作り笑顔でなかったのに安堵する。

 たとえ夜には、泣く事になっても。

 

 

 

 それから数日。

 入浴時の我慢大会は、まだ続いていた。

 両手が揃ったとはいえ不自由なく使える状態には程遠く、身体を洗うのも髪を洗うのもひと苦労だからだ。

 そしてもう一つ。入浴時は、リハビリに最適なのだ。

 充分にあたためてから行う曲げ伸ばしに、面倒そうにしながらもじっくり付き合う小五郎に感謝は尽きない。

 一日ずつ増えていく回数、曲がる角度に、少しひねくれた仕草で小五郎が褒める。

 対するコナンも、負けん気強く言い返す。

 入浴時の我慢大会は、素直でない男二人の奇妙な言動で溢れていた。

 昨日の夜も同じく、賑やかに行った。

 風呂上がり、すっかりのぼせてふらふらになった真っ赤な男二人を呆れ果てた顔で迎えた蘭の眼差しは、いまだ忘れられない。

 もちろんその後、二人揃って謝った。

 そんな事をぼんやり思い返しながら、コナンは枕元の時計を見やった。

 そろそろ隣室の人間が活動を始める時間。

 そろそろ自分も、食事の支度の手伝いを再開させる頃だと起き上がる。

 心配性の彼女に追い出される可能性は、非常に高いが。

 案の定、手伝いらしい手伝いはさせてもらえなかった。こっちは大丈夫だから向こうで座ってて…あやすような笑顔で追い出される。

 当然といえば当然だ。握りこぶしを作るどころか皿一枚掴むのもひと苦労なのだから、彼女に限らず、大抵の人間は心配してそう言うだろう。

 渋々と申し訳なさの中間で返事をして、コナンは大人しくキッチンを出た。

「治ったら、今までの分うんとお手伝いしてもらうから、それまでは無理しないでね」

 少し混じった寂しげが、蘭にはより深刻に聞こえたのだろう。すぐにそう言い足して励まし、しょんぼりと肩を落とした風のコナンに笑いかける。

「うん、頑張るね」

「じゃあ、もうすぐ出来るから待ってて」

「はあい」

 自分でも、少し情けない返事だったと恥ずかしくもなったが、女の明るい声と眼差しに取るに足らないものになる。胸に沁み込む幸いにいくらかのむず痒さを感じながら、コナンは食卓についた。

 

 

 

 学校での生活もまだまだ制限が多く、いくつかの教科では一人だけ別の内容で過ごす事が多いが、体育の授業にほんの少しだけとはいえ参加出来るようになったのは大きな喜びだ。

 サッカーの試合に参加させてもらえず、隅で一人延々リフティングを繰り返すだけでも、充分嬉しい。

 誰に止められる事無く没頭出来るというのはこんなにもありがたいものかと、しみじみ噛みしめる。

 クラスのみんなが楽しそうにボールを追いかけている様を横目に見ながらというのは、少々寂しい…実に切ないが、教室に一人残ってプリントをこなしているよりはずっといい。

 しかしここで調子に乗って無茶をして、無駄に怪我を増やして誰かに心配させるなんて事は、無いように心がけねば。

 午後になって、少し強くなった正面の風を何とかやり過ごしながら事務所に帰り付くと、入れ替わりに小五郎が出かけるところだった。

 数日前に受けた依頼の調査結果を、依頼人に報告に行くのだという。そしてそれとは別に、新たな素行調査の依頼も受けたようで、今日は帰りが遅くなると、小五郎は言った。

「もうちょっとしたら蘭も帰ってくるだろうから、三階で待ってろ。事務所は閉めとくから」

 分かったと振り返って見上げ、渡されていた合い鍵をランドセルから取り出す。

「俺がいないからって、リハビリサボるんじゃねーぞ……」

 横目に顔を覗き込み、少々意地悪く小五郎は言った。

「わかってるよ……」

 コナンも同じく半眼で睨み返し、不満げに唇を尖らせた。何かと理由を付けて怠ける人間のような言い草に苦笑いが込み上げる。早く元通りになりたいと思っているのは他でもない自分、サボるとは心外だ。

 今日は久々に一人静かに入浴出来る。のんびりと。ゆったりと。そして自分の好きな時間に上がれる。上等じゃないか。そう思う反面、騒がしくて落ち着きのない我慢大会の休止が、少々つまらなくも感じられた。

「じゃあな……」

 ふてぶてしく鼻を鳴らし、小五郎は片手を上げた。それですぐに出かけると思いきや、重いものを持つ時は気を付けろ、無理に動かす事はするなと、あれこれ細かく言い付けた。それらはみな、ギプスの取れた日に医師から言われたもので、当然コナンも隣で一緒に聞いていたのだから『今更言われなくても分かっている』事ばかり。だが、心配している、心配かけているという事を今一度噛みしめ、コナンは一つひとつ真剣に頷いた。

「晩飯は食って帰るって蘭に言っといてくれ。じゃあな……」

 夜更かしすんじゃねーぞ

 今度こそ、小五郎は出かけていった。

 心根の優しいひねくれ者を見送り、コナンは三階へと上がっていった。

 

 

 

 学校帰り、夕飯の買い物を済ませて蘭が帰宅すると、居間では小さな人影が小五郎の代わりよろしく仰向けになってうたた寝していた。

 座卓の上には、汚い字で綺麗に済ませた宿題のドリルと、推理小説一冊が乗っていた。本の中ほど辺りには、ピンクのリボンが挿み込まれていた。見覚えのある色と切り口…いつか贈ったしおりだと蘭はすぐに気付いた。愛用してくれている事に、つい目尻が下がる。

 しかし。

 微笑ましいと同時に腹立たしくもあった。すっかり肌寒くなり、夕暮れ時は特に冷え込むこの季節にこんなところでうたた寝するなど、もってのほかだ。

 蘭は自室から空色のカーディガンを持ち出すと、夢見心地のコナンにかけてやり、それからおでこに一つげんこつをくれた。

 けっこうな音がした。

「……いて!」

 突然の衝撃に目を白黒させながら、コナンは飛び起きた。気持ちよく寝ていたのに何をするんだと非難の目付きも、それ以上に怒っている蘭を見ては萎むしかない。

「もー、ダメでしょコナン君!」

「……はい、ゴメンなさい」

 額を押さえたまま、コナンは済まなそうにもごもごと呟いた。

「せっかく順調に良くなってきてるのに、風邪なんか引いたらつまらないでしょ」

 言いながら蘭は、有無を言わさずカーディガンを着せた。

 ごもっともだと、コナンは大人しく従った。

「はい、これでよし」

「ありがとう」

「……まったく」

 誰より頼りになる保護者の癖に誰より手のかかる弟に微笑み、蘭は買い物袋を手にキッチンへと向かった。

「そうだ蘭姉ちゃん、今日はおじさん、帰りが遅くなるから晩ご飯いらないって」

 伝言を思い出し、コナンも後に続く。

「そう、じゃあ今日は、一人でゆっくりお風呂入れるね。あ、一人だからって気を抜いて、リハビリサボっちゃダメよ」

 まさかないとは思うけど…わざと付け加え、蘭はいたずらっ子の顔でコナンを見やった。

「……しないって」

 親子で同じ事を言うとは。コナンは乾いた笑いで応えた。

「今日はね、いつも行くお肉屋さんで鳥カラが出来たてだったから、それにしたわ。すぐご飯にするね」

「うん!」

 袋から取り出されたごちそうの香ばしい匂いに顔を輝かせ、コナンは元気よく頷いた。

 程なく夕飯が並び、二人は揃って食卓についた。

 ビール缶片手に場を賑やかに…やかましくする一人が欠けた分はテレビで補うが、いればいたで耐えがたい騒音もなければないで物足りなく感じるもので、コナンと蘭は会話の合間に二度三度、変な感じだと口にしては笑い合った。

「だってこうだもんね……『蘭ちゃん、ビールもう一本もってきてくれるかなぁ〜』って」

 調子付いて、コナンは身振りまで完璧に真似て小五郎を演じてみせた。途端に蘭は吹き出し、涙を流すほどに笑い転げた。

「ちょっと……コナン君すごすぎ!」

「似てたでしょ」

「うん……もうダメ…お腹いたい」

 ふうふうと喘ぐように笑い、蘭は涙を拭った。

「もういっこあるよ。おじさんには内緒ね」

「ダメダメ…息が出来なくなっちゃうから!」

「結構自信あるんだから、聞いてよ」

「ダメだってば……もー!」

 二人分の軽やかな笑い声が居間に溢れる。

 三人とはまた違った賑やかさで、夕餉の時間は楽しく過ぎていった。

 

 

 

「もー、喉がいたーい」

 夕食後、洗い物をしながら背後のコナンにそう零し、蘭は大袈裟にため息をついてみせた。

「どーしたの蘭姉ちゃん、カゼ?」

 空っとぼけて深刻な声を出すコナンにひと睨みくれ、蘭は片頬を膨らませた。

「まあ憎たらしい。意地悪言ってないで、早くお風呂入ってきなさい」

 ふんとばかりに向き直り、刺々しく言う。

「はぁい」

 笑って肩を竦め、コナンはキッチンを出た。

「じゃあお先いってきます」

「いってらっしゃい、リハビリ頑張ってね」

 ありがとうと返すが、あと少しのところで目が合わなかった。

 そんな事もあるかと気にせずに、コナンは風呂場へと向かった。

 無責任に脱ぎ散らかしたりせずに、行儀よく湯船へ。

 肩までつかると、ちゃぷんという音を最後に静まり返る。何か物足りないと思ってしまうほどなじんだ自分に小さく笑い、コナンは左手を軽く持ち上げた。

 何箇所か縫った腕の傷は、大分薄れてきてはいるものの皮膚になじんで消えるにはまだしばらくかかりそうだった。肩口から手首に向かって、右手の指先でそっと跡をなぞってみる。

 ついで左の手のひらを見る。

 いつもはここで、小五郎の手首に付き合ってもらうのだが、今日は代わりに棚のボトルを握る。

 ゆっくりと握り、開き、また握る。

 静けさの中二十繰り返し、誰にともなく終えたぞと報告してコナンは風呂を出た。

 リビングの時計をふと見ると、いつもよりずっと早い時刻に思わず笑みが零れた。

 明日はまたきっと、長い入浴時間になるだろう。

 そんな事を取りとめなく考えながら蘭の部屋へと向かい、いつもするようにノックの後呼びかける。

「はあい」

 ドア越しの声は、やけに低い位置から聞こえてきた。

「お風呂どうぞ」

 開けると案の定、床に横になっている蘭が目に入った。頭を扉に向け、ばったりと大の字に寝転がっている。

 いつも居間で見る光景がそっくりこちらに移ったようだった。

 酔い潰れたダメオヤジと十代の女子を一緒くたにするなど甚だ失礼ではあるが、親子なのだなと思わせる微笑ましさがあった。

「どうしたの蘭姉ちゃん、疲れちゃった?」

 ふと笑み交じりに問いかけると、蘭はこくりと頷き思い切り伸びをした。

「細かい文字ばっかりなんだもん」

 机の上何冊も積み重なった専門書を示しふうと息をつく。

 コナンはそれらに軽く目をやった。少しでも自分の役に立ちたいと願い蘭が始めたもの。微力ながら、手伝っている。うっかり目を離すと、一人でどんどん先に進んでしまい挙句迷子になるからだ。彼女の一念は素晴らしい…凄まじいものがあった。それだけあの件が深く根を張り、同じ事は繰り返すまいと強く心にあるからだろう。

「続きはお風呂出てからにするわ」

 言いながら起き、蘭は傍らに用意していた着替えを手に立ちあがった。

「そうだね。お風呂入って、のんびりしてくるといいよ」

 合わせて視線を上向け、コナンは机に歩み寄った。

「ところで蘭姉ちゃん……何か忘れてない?」

 机の上、元湯のみのペン立て横に置かれた小さな貯金箱を見やり、蘭へと目を移す。

 途端に蘭はぎくりと頬を強張らせ、すぐにむっつりと半眼になった。

「……別に、忘れてないわよ」

 何の事だか分からないとしらを切る。切りとおす。

「あっそう。めそめそしたら……なんだっけ?」

 退院の日、蘭と約束した言葉を半分口にし、コナンは続きを促した。

「罰金…一回百円でしょ。でも、今は別にめそめそなんてしてないもん」

 強気に笑って、蘭は真っ向からコナンを見つめた。

「ギプスも取れたし、リハビリだって順調に進んでるし……そりゃ確かに、ギプスが外れた日はめそめそしちゃったけど…でも今は嬉しい事だらけなのに、なんでめそめそしなきゃいけないのよ」

「じゃあ全部言うけど……いい?」

 コナンも同じくまっすぐ見つめ返し、少し困った笑みを浮かべる。

 勝敗は明らかだった。

「……やーな目」

 上手い具合に隠したはずの真意を見抜いた探偵の目に一つ零し、蘭は学生鞄に入れた財布に手を伸ばした。

 この貯金箱は、先日なくしたストラップを買う為立ち寄った雑貨店で、一緒に購入したものだ。

 めそめそしたら罰金、一回百円。

 それを収めておく為のもの。

 言い出したのはコナンで、蘭は当然不満を顔にあらわした。だが不安が渦巻いていたのも確かで、それを優しく笑みで許すコナンに感謝して、蘭は小さな貯金箱を買い求めた。

 絶対にめそめそしないと誓ったからとて、別人のように変われるはずもない。

 人一倍お人よしで涙もろく、人の痛みを自分の痛みと涙を落とし、人の苦しみを自分の苦しみとして祈りを捧げる優しい女。

 無理に押し殺して飲み込むくらいなら、狭くとも用意した逃げ道に避難し自分を容赦してほしい。

 その願いも込めて、コナンは貯金箱をすすめた。

 自発だったり今日のように嘘を暴かれてだったり…今日までに何枚か百円玉が中に落とされたが、まさか責めるなんて事はしない。

 理由を聞く事もしない。

 怪我の事でめそめそしてしまったら罰金…一回百円。

 それだけ。

 しかし今日はどうしてかやけに気になって仕方なかった。

 蘭のこうした『悪あがき』は以前にも見た事があるが、それとは明らかに違うのだ。

 どこがどうとうまく説明は出来ないが、見えなくも感じ取った違いにコナンは口を引き結んだ。

 直後はたと悟る。

 蘭は財布から一枚取り出すと、ごまかし切れなかった悔しさに苦々しく笑いながら貯金箱に手を伸ばした。

 それより早く、コナンは上部を手で覆った。

「どうしたの、蘭姉ちゃん」

 今にも一枚入れようとしていた手をびくりと震わせ、蘭は動きを止めた。

「どうって、だから……めそめそしたから罰金」

 さりげなく目を逸らし蘭は言った。

 コナンはただじっと見つめた。

「い、いつもは聞かないのに」

 恐らく探偵の目はすでに芯まで見抜いているのだろう。蘭はおどおどと瞳を揺らし、迷いながら手を引っ込めた。

「うん。いつもは聞かない……でも今日は、聞かなきゃいけないと思ったんだ」

 机の上開いたまま置かれた一冊の本を見やり、コナンは確信を深めた。

「百円は一旦しまって」

 優しく促す声に小さく頷き、蘭はひとまず収めた。

「……蘭姉ちゃん」

 少年の愛くるしい声が名を呼ぶ。蘭は微かにコナン君と返し、その場に座り込んだ。わずかに顔を伏せる。

 手を伸ばせば届くが、あまり近過ぎない位置に立ち、コナンは彼女が口を開くまで静かに待った。

 何度かためらいを繰り返し、蘭はついにひと言零した。

「……痛い」

 弱々しい呟き。

「どこがどんな風に痛いの?」

 耳にするや、コナンはすぐさま蘭の全身をくまなく見まわした。そうしながら、恐らく身体的なものではないだろうという予感も抱く。

「違う……」

 案の定、自分ではないと、蘭は小さく首を振った。

「コナン君が…痛い……」

 伏せた顔を上げてコナンの双眸をじっと見つめ、蘭はぐっと息を詰めた。それから左手に目を向け、また痛いと呟く。

「ああ……」

 やはりそうかと、コナンは自分の左手に目をやった。

 人差し指と親指の付け根から手のひらに向かって伸び、交差し、横切る皮膚の引き攣れ。傷口は盛り上がり、手のひら全体がうっすら赤紫に染まり腫れている。引き攣れは人差し指の中ほどまで続いており、そのせいでまっすぐ伸ばし切る事が出来なくなっていた。確かに今の段階では、見た目のひどさから痛々しいものに映るだろうが、強く押さない限りは痛みを感じる事はない。

 曲げ伸ばしはまだまだ不完全だが、折れた…潰された状態から、よくぞここまで回復したものだと頑丈さに驚いてもいる。

「もう全然、痛くないよ。それにほら、手の甲から見たら、怪我してるようには思えないでしょ」

 爪だって元通りになったし

 顔の高さに左手を掲げ、コナンは明るく笑ってみせた。

 見ているようでわずかに視線をずらし、蘭はぎこちなく頷いた。

「……でも、痛いし……それに…怖い」

 蘭は睨み付けるようにして、机の上に置かれた本を見やった。

 開かれたページには、骨折についての症状、合併症、治療方法、そういったものが詳細に書かれていた。

 彼女がそれに怯え、痛みと恐怖に苛まれているのだろうとコナンは推測していた。果たしてその通り彼女は脅かされ、しかし心配をかけまいと隠そうとしたのだ。

「怖くないよ。大丈夫」

 コナンは力強くそう言い切ると、いまだ暗く沈む蘭の頭を胸に抱き寄せてやった。

「蘭姉ちゃんやおじさんが応援してくれてるから、すぐ治っちゃうよ。今は少ししか曲がらないけど、もうちょっとしたら、蘭姉ちゃんのお腹のぜい肉も摘まめるようになっちゃうから、覚悟しといた方がいいよ」

 そう言っておどけるコナンに、蘭は肩を震わせ笑った。

「もう…コナン君は……」

 いたずらっ子なんだから……そう言い切る前に、涙がぼろぼろと溢れた。

 小さくしゃくり上げ、蘭は抱きしめてくれる腕の中何度も首を振った。

 だめ、だめ。

 何とかして涙を止めようとするが、うんと甘えていいと優しく抱きしめる腕のあたたかさがしようもなく胸に沁みて、止まらなかった。

「我慢してるものがあったら、全部出しちゃおうよ、蘭姉ちゃん」

 顔を隠す手にハンカチを握らせてやり、コナンはゆっくり頭を撫でた。

「今はボクたちだけだから、大丈夫だよ」

「うん……でもやっぱりダメ!」

 一度頷いてから自分にきっぱり首を振り、蘭はぐいっと涙を拭った。済まなそうにコナンから身体を離し、乱れた呼吸を懸命に整える。

「が…我慢はしないけど、あんまり甘え過ぎるのもダメ」

 そしてそう自分に言い聞かせ、頷き、きっと眦を決する。その勢いのまま蘭は机の貯金箱を掴むと、床に置き、一旦しまった百円玉を取り出し素早く中に落とした。

 コナンは小さく息を飲み込んだ。

 止める間は全くなかったが、止める気も全くなかった。これが誤りならばいくらでも身体は動いただろうが、この百円はお互い納得しての事。彼女は認め、自分は見守った。

 少し苦しくはあったが。

「……蘭姉ちゃん、カッコいい」

 彼女の選択を手放しで称賛する。

「……コナン…君が、いてくれるからよ」

 かちゃんと鳴る音を聞き届け、ようやく蘭は目を上げた。

「あのね……!」

 向けられた気迫溢れる眼差しにコナンはわずかばかりたじろいだ。

「……うん」

 どうにかこうにか受け取り頷く。

「どうせ、もう全部お見通しだと思うけど……――」

 蘭は一旦言葉を切った。はっきり伝えたいと思うあまり、声がやけに刺々しくなってしまっているのに気付いたからだ。怒っているような、責めているような…そんな気は微塵もない。

 ただ、知ってもらいたい、伝えたい。

 蘭はひと呼吸つくと、あらためて口を開いた。

「今開いてるページのね、ところ……何回も読もうとしたんだけど、どうしても怖くなって読めなかったの。でも今日こそはと思って、本を開いたんだけど……」

 やっぱり、怖くなって読めなかったの

 少しつかえるようにして、蘭は百円玉一枚を説明した。

「私のせいでコナン君がこんな目にあったのに、その私がちゃんと見ないなんて駄目だって分かってるけど……」

 コナンはうろたえたように息を飲んだ。違うと打ち消す言葉が喉元まで出かかる。すぐにでも渡したいのをぐっと飲み込み、別の言葉を選んだ。

「蘭姉ちゃんは自分のせいだと思ってて……ボクはボクで、自分が悪いと思ってる」

「コナン君は――!……うん…そうだね」

 蘭もまた打ち消そうとして思いとどまり、唇を引き結んだ。

 少し重く、空気が淀む。

 コナンは奥歯を噛みしめた。

 嗚呼、どうしたらこの女の中から自責の念を取り払う事が出来るだろう。

 たとえ全ては無理だとしても、区切りの一つを渡したい。

 コナンは左手をちらと見やった。

 半分負いたいという女の申し出を、自分は承諾した。確かに半分を渡した。しかしそれ以上は負う必要などないのだ。彼女はそれ以上負いたがるけれども。

 見えない何かが肩に降り積もるのを感じながら、コナンはおずおずと口を開いた。

「あ、あのさ……蘭姉ちゃん」

「……なあに?」

「握手しよう!」

 言うが早いかコナンはさっと左手を差し出した。

 あまりに唐突な申し出に蘭はぽかんと口を開いた。

「握手して、お互いにごめんなさいするの。それで、お互いにはい許しましたって言って……自分が悪いって責めるのはおしまいにするの」

 簡単でしょうと、コナンは明るく笑った。

 伸ばされた左手をじっと見つめ、蘭は長い事考え込んだ。

「……うん、分かった」

 そしてついに自分の気持ちに踏ん切りがついたと、強く頷く。

「でも…左手……い、痛くない?」

 おっかなびっくり自分の左手を差し出し、蘭は目を覗き込んだ。

「平気だよ。毎日おじさんや蘭姉ちゃんがリハビリに付き合ってくれるお陰で、もう握手だって出来るようになったし」

 証明してあげるよ

 あっけらかんとコナンが言う。

「う、うん……」

 ならばと、蘭はそろりと手を合わせた。触れた手のひらは幾分熱く、それは単に入浴後だからなのか、治り切っていない怪我からくるものなのかは分かりかねたが、生きている証のぬくもりは胸に強く迫り、少しばかり喉が詰まった。

「………」

 口では何とでも言えたコナンだが、実際は軽い痺れやこわばりが残っており、たとえ十七歳の手だろうと握る…掴むのは容易ではなかった。

 それでも懸命に動かして握りしめ、勝ち気な笑みを浮かべてみせる。

 が、固唾をのんで見守っていた蘭と目が合った瞬間カッコつけは脆くも崩れ、吹き出した蘭に続けて気まずそうに苦笑いを一つ。

「じゃあ、ボクからね」

 気を取り直して言葉を継ぐ。

「間抜けな事して怪我して、蘭姉ちゃんに心配かけてごめんなさい」

 頭を下げるコナンに合わせ、蘭は応えた。

「はい……許します」

 直後、小さく息を飲む。

 実際に言うまでまだ疑い半分だったが、言葉を受け取り『許す』と渡した瞬間、拭っても拭っても消せずに残っていたひとかけらが綺麗になくなったのを、蘭は感じ取った。

 見開いた目でまじまじとコナンを見つめる。

「次、蘭姉ちゃんの……」

 そこで蘭の表情に気付き、コナンは恐る恐る尋ねた。

「ダメ……だった?」

「ううん、大丈夫。次は私ね」

 すぐに蘭は強い顔で笑い、居住まいを正した。

「私のせいでコナン君に怪我させてごめんなさい」

 同じように蘭が頭を下げ、コナンが応える。

「はい、許します」

「ウソ!」

「ら、蘭姉ちゃん……もー」

 あの日…退院の日に蘭が口にしたものと同じ『ウソ!』にコナンは笑って眦を下げた。

 その反応に蘭はくすくすと笑った。小さな子供の駄々を見守るようなコナンの目が嬉しくて小憎らしくて、ますますおかしくなる。

「だってさ、だってコナン君、魔法使いみたいなんだもの!」

 突然妙な事を言い出した蘭に目を瞬かせ、コナンは首を傾げた。

「握手一つでこんなに気持ちが切り替わるなんて……嬉しい」

 穏やかな表情で微笑む女にふと頬を緩め、自分の方こそ嬉しいとコナンはゆるやかに首を振った。咄嗟の思い付きに過ぎない一つの握手が、言葉に出しても目を見合わせても振り払えなかったものを消してくれるなんて、自分の直感も捨てたものではないなと自賛する。

 何より、彼女の中から拭い取る事が出来たのが、たまらなく嬉しい。

「ずっとね……」

 言って、蘭は喉元の辺りをさすった。

「うん」

「ずっと、この辺がもやもやしてたの。こんな怪我させて、……戻ってきてくれるかなあって」

 コナンの奥をじっと見つめ、蘭は苦しげに顔を歪めた。

「……」

 コナンは口を噤んだ。途切れた声の合間に誰の名が入るのか、考えるまでもない。

 呼ばれなくとも分かる。

「大丈夫だよ、蘭姉ちゃん。これで区切りはついたから大丈夫」

 今一つ言う事を聞かない左手に代わって右手を添え、コナンは静かに続けた。

「もう心配はないよ」

「……うん。ありがとう、コナン君」

 蘭も同じく右手を添えた。心からの感謝を熱に込めて微笑む。

「やっぱりコナン君は魔法使いね」

「ボクはただの探偵だよ」

「推理オタクでサッカーバカのね」

「また、もう蘭姉ちゃんは……」

 嬉しそうに照れ臭そうに視線をぶつけ、声を出して笑い合う。

「……どーせ蘭姉ちゃんの事だから、またちょっとしたらめそめそするだろうけど」

 正確に見通すコナンの言葉に唇を引き結び、蘭は探るように見つめた。

「……しないもん」

「したっていいよ、全然……大丈夫。そうだ、貯金箱が一杯になったら、何か美味しいものでもご馳走してもらおうかな」

 にこにこと、屈託のない笑顔で容赦するコナンに小さく頷く。

 コナンは静かに続けた。

「したっていいよ、でも……心配は一つ消えたよね」

 一旦自分の左手に目を向け、蘭を見上げる。

「戻れる時が来たら、すっ飛んで帰ってくるよ。絶対帰ってくる。戻りたくてしょうがないんだもの……蘭姉ちゃんの隣に」

 あえて誰と言わないコナンにぐっと息を詰め、蘭は何度も瞬きを繰り返した。

「うん……」

「ごめん…また百円追加になりそう?」

 からかう口ぶりのコナンにふんとばかりに鼻を鳴らし、蘭はおあいにくさまと返した。

「そう簡単にはご馳走しないんだから」

 少し目を潤ませて、それでも蘭は勝ち気に笑った。

「さすが、蘭姉ちゃん」

 冬の日の太陽を見るように眩く目を細め、コナンもあわせて笑った。

「じゃあ、すっきりしたところでお風呂いってくるね」

 ひとしきり声を重ねて笑い、蘭は着替え片手に立ち上がった。

「うん、いってらっしゃい」

 晴れ晴れとした顔の蘭を見上げ、コナンは緩やかに笑んだ。

「あ……そうだコナン君」

 と、蘭はくるりと振り返り床の貯金箱に手を伸ばした。掴んだそれをコナンの眼前に突きつけ、きっぱりひと言『五十円!』と口にする。

「……え?」

 思わず一歩退き、コナンはおっかなびっくり聞き返した。

「だから、めそめそしたら罰金、一回百円…ちょっとだったから、半分の五十円で許してあげるわ」

「い、いや、ボ…クは別に、めそめそなんて……」

「あー、自分だけごまかそうったってそうはいかないわよ!」

 蘭は手にした貯金箱を振り、しゃりんと音を鳴らして詰め寄った。

 冷や汗がひと筋背を伝う。

「はい……ゴメンなさい」

 きりきりと睨む蘭にあっさり白旗を振り、コナンはすぐに入れますと約束した。

 途端蘭は満足げに笑み、貯金箱を机に置いた。

「よし、じゃあ今度こそ、お風呂いってきます!」

「……いってらっしゃい」

 軽やかに立ち去る蘭の背中を見送り、コナンは力なく肩を落とした。

 けれどすぐに笑みが込み上げてきたのは、どうしてだろう。

 

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