病弱探偵奮闘記-毛利小五郎-

 

 

 

 

 

 外は、しとしとと冷たい雨が降っていた。

 時刻はそろそろ十二時になるところ。

 居間の、いつもは座卓が置かれている場所に、今は布団がふた組敷かれていた。

 片方には蘭が、もう一方にはコナンが横になり、二人仲良くぼんやりと天井を見上げていた。

 金曜日の昼間近、片方は看病疲れからくる発熱、もう一方は久々の登校による疲れからくる発熱で、学校を休み大人しく療養していた。

 布団をここに敷いたのは小五郎で、別々の部屋に寝かせていては世話が面倒と、手間を省く為のものであった。

 準備の最中、熱でふらつく高校生一人と小学生一人が、元気な大人一人をはさんで右から左から『ごめんね』を浴びせる。合間に小学生が高校生へ『ゴメンね』と、熱を出すほど疲れさせてしまった事を心底詫びる。高校生の方こそ『ごめんね』と、そんな言葉を出させてしまう事を心底詫びる。あっちにこっちに行き交うひと言がいつまでも終わらない事にほとほと困り果てた大人一人が『もういい!』と終了を言い渡し、以後『ごめん』は禁止だと二人に命じた。

 そして半ば強引に布団に押し込み、一日安静を申し付けた。

「大丈夫、コナン君……?」

 蘭は顔を横に向け、隣のコナンを心配そうに見やった。頭を動かすと、下に敷いた水枕の中の氷がころころと音を立てた。

「ボクは平気だよ…蘭姉ちゃんこそ……」

 問いかけにコナンも顔を横に向け聞き返した。頭を動かすと、やはり同じく水枕の中の氷がゆっくり揺れ動いて、ころころと心地良い音を立てた。

 枕の代わりに置かれた水枕も、小五郎が用意した物だった。

 この時もまた『ゴメンね』の雨あられが始まりそうになり、もう勘弁してくれと小五郎は逃げるように二階の事務所に避難していった。間際、家族の間でゴメンもありがとうもあるかと、照れ隠しに叫んで。

「私も平気よ……頭痛いのも大分良くなったし」

 水枕のおかげね

「うん…朝は真っ白だったけど、少しほっぺた赤くなったかも」

 水枕のおかげだね

 二人はにっこり笑い合い、少し軋む身体を動かして仰向けになった。

「ちょっと退屈……」

「そうだね……」

 つい先ほどまでうとうとと浅い眠りを繰り返していたからか、発熱からくるだるさは相変わらずあるものの眠気はすっかり遠のいていた。だからといって起きて動き回れるほどでもなく、音がないからとテレビを見たいほどにも回復していない。

 眠くはないが、起き上がれない。ついつい、退屈だと零してしまう時間。

 昼までもう少し。

「でもお腹空いたなら、少し早めに食べてもいいわよ」

 朝、小五郎が張り切って腕まくりし作った特製の卵粥を指し、蘭は横を向いた。長らく父親の料理する姿を見ていなかったからか、意外と手際よく作り上げた事に受けた衝撃が、未だ抜けきらずにいた。

「うん……まだ、いいよ。まだちょっと……」

 お腹空かないから

 コナンは笑顔で首を振った。しかしその表情に痛みが隠れているのを、蘭は鋭く見抜いた。

「左手…痛い?」

「……しょうがないけどね」

 コナンは苦笑いで応えた。

 雨のせいか、熱のせいか。雨空が熱を呼んだのか、熱が痛みに繋がったのか。

 慣れないギプスの疲れもあるだろう。

「でも…こうやって水枕して寝てると、気持ちいいよ」

 言って、コナンは軽く目を閉じた。少し頭を動かすと、水がちゃぷんと波を立て、水の中に浮く氷がころころと音を立てた。優しく耳に届く二つの音が、不思議と心を落ち着かせた。

「……でしょう」

 しばしいたわるように見つめ、微笑んで、蘭は言った。

「この音ね、昔から好きなの」

 そしてコナンと同じように目を閉じて、ゆったりと響く二つの音に深呼吸する。

「熱が出来た時は、こうして必ず水枕して、治るまで寝てたわ」

 幼い頃を思い返す声でおだやかに囁き、蘭はふと頬を緩めた。

「なのにアイツってば、そんなの気休めなんだぜ…なんて言ってさ」

 不意に始まった誰かの話に、コナンはぎくりと頬を強張らせた。天井を向いたまま、目だけで蘭を見やる。視界の端に映る彼女の目は、はっきりこちらを向いていた。

「え、あ……」

 相槌を打つべきか考えあぐねている間に、蘭は続きを話し始めた。

「すっごいバカにしたくせに、その夜ちゃっかり水枕試して、……」

 そこまで言って、蘭は突然抑えた声で笑い出した。

 彼女の脳裏に何が過ぎったのか、聞かずとも分かった。続きを聞くのは非常に耐えがたかったが、コナンにとってこれは初めて聞く話。何があったのか、最後まで大人しく聞くしかない。

 蘭はひとしきり笑うと、まだおさまり切らぬくすくすを交えながら続きを口にした。

「金具がしっかり留まってなかったせいで夜中にびしょ濡れになっちゃってね、本当に風邪引いちゃったの」

 きっと、笑った罰があたったのね

「一週間くらい、寝込んだっけ」

 楽しげな蘭の声を聞きながら、コナンは『二日だ』と心の中で言い返した。声に出して言えたらどんなにすっきりする事か。舌の奥の方で絡まり詰まる不満はしかし、女が浮かべた綺麗な緩やかさに呆気なく溶けた。

「でもその寝込んだ時に、ちゃんと水枕の良さは分かったみたい。それからはいちいちバカにしてこなくなったし、私が熱を出して休んだ後は、時々聞いてきたりもしたし」

 ホント、アイツってば

 微かにため息をついて、蘭はおだやかな微笑を浮かべた。

 幼稚な二人が、共に過ごす時間の中学び合ってきた道程を思い返し、コナンもふと頬を緩めた。

 と、蘭が何やらごそごそと動き始めた。

 まず水枕をコナンの方にぴったりと寄せ、ついで毛布ごと身体をぴったり寄せる。

 何をするのかと見守っていたコナンは、蘭の意図するところを汲むや苦笑いで頬を染めた。

「……寒いの?」

 違うのは分かっていて、あえて聞く。

 蘭はすぐに首を振ると、少々ぶっきらぼうに視線を送った。

「……甘ったれてんの。悪い?」

 自分の毛布をコナンの上に半分乗せると、蘭はコナンの横にぴったり身体を寄せた。

 熱を帯びた身体が二つ、一つの布団に収まる。

「……べつに」

 コナンはうなるように答えた。うんと甘えていいと、全部受け止めるといったのは嘘ではないし、どんな状況だろうと受け止める自信はある。

 たとえ今日のように、冴えない状況だろうとも。

 とはいえ少し熱が上がった気がする。

 更に汗まで噴き出してきた。

「それにこうしないと、手が届かないし」

 言って蘭が、その小さな右手をしっかと握る。

「うわ…コナン君の手熱いね」

 大丈夫?

 驚き、蘭は間近の目を覗き込んだ。

「……蘭姉ちゃんの手が、熱いんじゃないの?」

 さりげなく後ろに下がりコナンは返した。

「うん…まだちょっと熱あるみたいだし。はかってみようか」

 手を握ったままもう片方の手で自分の額を確かめ、蘭は顔を寄せようとした。

「蘭姉ちゃん……遊んでない?」

 もう少しさりげなく下がり、コナンは半眼になって蘭を見やった。

「えー、ひどいなあコナン君。具合悪いのに、遊んだりなんかしないわよ」

 困ったように笑っているが、目が、楽しんでいるのをコナンは見逃さなかった。

「ほら、大人しくして」

 くすくす笑いながらも頭をしっかり押さえ込まれ、仕方なくコナンは身を委ねた。彼女の匂いがすぐ間近に迫り、また少し熱が上がる。

「うーん……やっぱりコナン君の方が熱いかも」

 直前まで楽しそうに笑っていた蘭だが、額で確かめた後は神妙な顔になり、心配そうにコナンを見やった。発熱からか目が潤み、頬も少し腫れている。

「またすぐそういう顔する……大丈夫だよ」

 今にも泣きそうになった蘭に大げさだよと笑いかけ、コナンは繋いだ手を握り返した。

「蘭姉ちゃんがこうしててくれたら、すぐに治っちゃうから」

「……そうね」

「うん」

 明るく頷くコナンにそっと笑み、蘭は自分の水枕に頭を乗せた。

 コナンは蘭の向こうに視線を移すと、ガス台に乗っている片手鍋を見やった。

「おじさんが作ってくれた卵粥もあるし」

「うん、あれね、朝味見したけど、結構美味しく出来てたから期待していいわよ」

 蘭も同じ方を振り返ると、少し驚きの混じった声音で言った。

「ホント、おじさんすごいね」

「ね、私もびっくりしちゃった」

 今頃、二階の事務所でくしゃみしているかもしれない…そんな事を言い合いながら、二人は声を潜めて笑った。

 最後にコナンは付け足した。

「それから……蘭姉ちゃんの好きな水枕もね」

 白いタオルにくるまれた水枕をちらりと見やり、これで万全だとコナンは微笑んだ。

「すぐに元気になるよ」

「……そうね、すぐ元気になるわよ」

 励ますコナンの言葉にむず痒そうに笑い、蘭は一つ大きく頷いた。

「そろそろお昼にしよっか」

「うん、お腹空いてきたよ」

 時計はちょうど昼時をさしていた。
 二人、ほぼ同時によっこらしょと少しだるい身体を起こす。

「じゃあ私あたためてくるから、コナン君は待ってて。あ、起きるなら私のカーディガン、ちゃんと着るのよ」

 蘭はキッチンへ行きかけて振り返り、いつもあと少し言う事を聞かないやんちゃ坊主にそう念を押した。

「……はあい」

 渋い笑みで応え、コナンは毛布の上に乗せられた空色のカーディガンに手を伸ばした。ギプスのせいで袖を通せず、羽織るだけだが、いつもと同じくぬくぬくとあたたかい。

 ふと、目の端に水枕が映った。

 何気なく見やり、何気なく、右手で押してみる。

 ちゃぷん…ころころ

 手のひらに伝わる水音が優しく全身を包んだ。ぶやんぶよんと押し返す感触が何とも愉快で、繰り返す内自然と頬が緩んだ。

 そんな自分がおかしくて、コナンはまた笑った。

 

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